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「自分を生きる道」

「自分を生きる道」
2007年12月30日
テキスト ローマの信徒への手紙 第12章3節 
「 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

私どもの教会堂の正面には、Soli Deo Gloria!というラテン語が記されています。その言葉は、私どもの教会がどこを向いているのか、何を目指しているのかを、神と人との前に公にするためのものです。その意味は、「ただ神の栄光のために!」です。ローマの信徒への手紙で申しますと、本日の御言葉の直前、第11章36節にあります。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。」栄光が神に永遠にありますように。これが、私どもキリストの教会の祈りであり、賛美であります。私どもの人生の第一の、根本的な目標なのです。私どもは、この地上にあって、この日本、この名古屋の地にあって、徹底してSoli Deo Gloria!ただひたすら神を賛美し、神の栄光をあらわすことへと集中した人生を生きることを志しています。結局、「ただ神の栄光のために」ということに帰ってくるのです。ここに収斂するのです。ここに帰一するのです。

さてしかし、そこで信仰のない方からすれば、誤解や批判が生じる可能性があります。「なんだか、凝り固まって危ない。視野が狭くなる。人間としていびつになるのではないか」いへ、うっかりするとキリスト者ですら、神の栄光のためにというのは、「建前ではあるけれど」などと恐るべきこと、ありえないことを仰る方もおられるかもしれません。そもそも、私どもの信仰に建前だとか本音だとかの区別があるわけがありません。しかしなお、もしかすると心のどこかに、「神さまだけにあまりに集中すると現実的な、人間的な責任がおろそかになるのではないか。」このような心配が沸くことはあるかと思います。いへ、正直に申しますと、そこでそのような失敗することもあるわけです。

私どもは今朝、改めて、信仰のごく基本を確認したいと思います。あわせてまた、私どもの教会の一つの特徴をもそこで再確認したいと思います。それは、徹底して神中心である故に、、政治、経済、文化、娯楽、スポーツなど、ありとあらゆる人間の営みを信仰の領域の外に置かないというあり方です。改革教会とは、人間がなすすべての言わば人間的な行為を、信仰の行為として受け止めなおすのです。私どもの生活の全領域が、信仰の領域となるという事実です。どうしてそうなるのでしょうか。そのことを、今朝、あらためて確認することができるテキストが今朝与えられています。

さて、使徒パウロは、第1節では、「神の憐れみによってあなた方に勧めます」と始めました。とても荘重な、神の権威を前面に押し出して勧告しました。しかしこの第3節では、言わば、語調を変えるかのようにして語り始めます。「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。」「わたしは言う」、これは、ごくごく普通の言い方です。

しかし同時に、人間なら誰しもが使う当たり前の言い方であると片付けるわけにはまいりません。なぜなら、パウロは、こう付け加えているからです。「わたしに与えられた恵みによって、言う」この一句は、極めて重いものです。一人の説教者として、この言葉の重みに注目させられます。「わたしに与えられた恵みによって」皆さん、一人ひとりに説教しているのです。この確信がなければ、説教者である事ができませんし、説教できません。そして皆様もまた、わたしの説教を、説教として聞くことができるのは、この説教者の上に、神の恵みが注がれ、与えられていることを知っておられるからです。そうでなければ、皆様は、説教を聴いても事件が起こりません。出来事が起こりません。心を新たにし、作り変えられない、古いままです。しかし、神の言葉が語られていることが分かれば、たちまち新しくされるのです。

さて、しかし、私どもは、なお丁寧にわきまえましょう。この重い祝福の事実を、何も説教者、牧師にだけ限定する必要はないのです。信徒のみなさまひとり一人にもまた恵みが与えられているからです。そのことは、来週、来年集中的に、触れることとなりますが、第6節にきちんと記されています。改革された教会は、その意味では、聖職者だけに、この恵みを限ってはいないのです。これは、実に大胆な信仰です。そしてそこに私どもの教会が、これからいよいよ成長するための秘訣が隠されていると思います。新年度、皆さんは、どのような奉仕に就かれるのでしょうか。どのように教会形成に仕えて行かれるのでしょうか。たとえば、日曜学校の教師にも、あるいは伝道所委員にも、いへ、いかなる奉仕と奉仕者の上にも、この「わたしに与えられた恵み」があるはずです。それを、皆で分かち合うこと、これこそ、私どもに求められていることです。信徒ひとり一人がどれだけ、自分に与えられた恵みの大きさに驚き、これに応えて生きることができるのか。それが、今まさに、私どもの教会に求められていることです。

さて、第一節と第二節が、神についての集中であるとすれば、この第三節以下は、語り初めにおいても、「わたしが言う」という、言わば、人間的な勧告であって、人間に集中するということであります。神を信じる人間とその現実が、ここで集中して取り上げられるのです。神の栄光を求めるキリスト者、信仰者が、同時に、どのように人間として生きるのかが問われるのです。実に、神を問うことは、即、人間を問うことなのです。神を知ることは、同時に自分自身を知ることなのです。教会の改革者カルバンは、「人生の目的とは、神を知ることである」と言いました。子どもカテキズムの問い一もまた、「人生の目的とは何ですか」と尋ねて、第一番目に、「神を知ることです」と答えます。神を知ることなしに、自分を知ることはできないからです。自分を知る道、自分を自分らしく生かす道、人間が人間として生きる道は、先ず、第一に、そして徹底的に、神を知ることにあり、そこから始まるものなのです。そのように、神を知ることと自分を知ることとを一つに結ぶことこそ、まさに神に喜ばれることであり、完全なことなのです。聖書を正しく深く読んで分かってくることは、聖書には、神さまについて書いてあるだけではなく、まさに自分自身の今のこと、自分の現実が書いてあるということです。そのように聖書を読める人が、心を新たにされた人であって、いわば、新しい聖書の読み方です。正しい聖書の読み方です。それを求めてまいりましょう。

さて、パウロが言う、人間を知る道、自分を正しく知る道を尋ねてまいりましょう。使徒はこう言います。「自分を過大に評価してはなりません。」それなら、過大な自己評価とは何でしょうか。いったい、自己評価、自分で自分を正しく評価、判定することは、とても難しいことではないでしょうか。わたしが学生の頃は、考えられませんでしたが、今の大学は、授業の評価を学生がします。いくつもの評価の項目があって、それぞれ5段階で評価するのです。いささか抵抗感があります。しかし、一方で、これは、ありがたいことでもあります。自分を客観的に見ることができるからです。そしてそう評価する相手を客観的に知ることができるからです。ですから、他人の評価、他人の自分を見る目は、とても貴重です。しかも、自分をよく知っていてくれる人、自分のことを、好意をもって知っていてくれる人に、アドバイスを受け、求めることは極めて重要なことです。パウロは今、会員ひとり一人にそのようにアドバイスをしたいと思っているのかもしれません。牧会するということです。そうなると、牧会というのは、一対一でなければできないことではなく、このように手紙を書くこと、説教をすることによっても牧会することができるわけです。

他人のアドバイスが貴重であるということは、逆に言えば、自分を正しく評価するということが極めて難しいことであるということの裏返しです。「自分を過大に評価するな。」言葉を換えれば、「うぬぼれるな。」「思い上がるな。」ということでしょう。口語訳聖書は、このように訳しました。「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。」「思うべき限度を越える」ということを、新共同訳聖書では「過大」と訳しているのです。「思う」とは「評価」ということです。測ることです。計算することです。

何故、うぬぼれてはならないのでしょうか。私ども信仰者は、神の憐れみによってのみ支えられているからです。私どもキリスト者は、神の一方的な、無代価、無償の恵みと憐れみなしには、存在しえないからです。私どもがもっている宝は、すべて神からの賜物だからです。万一、自分で獲得したとうぬぼれる人は、神の恵みを知らない人だからです。主イエス・キリストを知らないなら、自分の命も能力、健康も財産も、あらゆるものは自分が努力した報酬であるとうぬぼれるかもしれません。しかし、私どもはできません。まさに、自分の体、自分の全存在を主イエス・キリストの贖いの恵みによって買い取られ、もはや自分のものと自分の所有を神に主張することはできないことを、喜びのなかでわきまえているからです。自分が自分のものではなく、自分のために死んでくださったイエスさま、自分のためにお甦りくださったイエスさまのものであることを知らされたのです。そこに私どもは唯一の慰め、唯一の誇りを持つのです。
過大な自己評価をすること、思い上がることは、まるで神さまなしで生きているかのような、神の憐れみによらずに生きているかのようなまさに不信仰な自己理解になるのです。ですから、パウロは、当然、それを戒めるのです。

作家の五木寛之さんが、新しい書物を出されたことを、新聞の広告で知りました。宣伝文に、「人間とは関係である」と記されていました。まったくその通りです。人間とは関係によって存在するのです。しかしそこで牧師として、キリスト者として、すぐに主張しなければならないことがあるのです。人間は、人と人との関係において生きるのですが、そのときまさにそれを本当に正し、本当に健やかにする道は、「Soli Deo Gloria!神の栄光のために」という神との正しい関係こそ、第一であるということです。この垂直次元のない人間、「神と自分とは関係ない、関係ない」などと切り捨てたときは、結局、希望や喜び、いきいきとした明るい光を失うのです。

人間関係の基本中の基本は、親との関係です。親との関係が、自分の存在に決定的な影響を与えます。そしてまた、その根本にある問題は何でしょうか。それは、自分との関係です。親との関係、隣人との関係が崩壊しているなら、自分との関係もまた良好であるはずはありません。しかし、自分自身との関係が良好であれば、やがてそれらも良好になるでしょう。少なくとも、その方向性、生きようとする希望を持つでしょう。

しかし、我々現代人の多くが持つ課題は、自分喪失です。巷には、「自分探しの旅」とか、「自分探し」とか「自分らしく生きる」とかそのような言葉があふれています。しかし、いったいそこで探している自分なるものに出会えるのでしょうか。自分が自分であるということは、まさに関係において、つながりにおいてこそ知ることができるのです。このつながり、この根本的な関係を失っているとき、人間は、自分のうまれてきた目的、人生の目的を見出せるはずはないのです。だから、聖書は言います。神を知ること。神との正しい関係を持つことです。神を知ること即、自分を知る道となるのです。

たとえば、太平洋のど真ん中で、いっそうの船があるとしましょう。ぜったいに沈まないような巨大な船があるとしましょう。しかし、もしも、海図やコンパス、現代でいえば、ナビゲーションの機械を搭載していなかったら、それは、恐ろしい状況におかれているということです。我々現代人のおかれている状況とは、海図やコンパスなしで巨大な沈まない船を建造すること、それに乗り込むことに必死になっているというものです。太平洋の真ん中で、目じるしになる星、あの北極星を見つけられなければ、自分を、自分が今どこにいるのかを見失うのです。

それなら、私どもにとってその北極星とは何でしょうか。言うまでもなく、神です。主イエス・キリスト御自身です。ヘブライ人の手紙第13章はこう語ります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」キリストだけが、私ども有限な人間をしっかりと捕まえ、支えてくださるお方なのです。このキリストとの関係においてこそ、初めて私どもは自分を知り、世界を知り、人生とその目標を知ることができるのです。

私どもにとって信仰とは何でしょうか。この神を正しく知る方法です。神を正しく知る道、筋道です。信仰によってだけ、生きておられるイエス・キリストを正しくキャッチできるのです。つながることができるのです。信仰こそ、太平洋のど真ん中のような広大な世界において、自分自身を認識する「座標軸」なのです。そしてこの信仰によってのみ、私どもは正しく自分を知る道を発見するのです。自分をわきまえ知ることができるのです。自分を正しく生かす道を発見させていただけるのです。

また、自分が生きる世界、使命を与えられている世界を認識することもできるのです。これを人生観とか世界観と申します。つまり、信仰とは、決して、視野を狭くするようなものではありません。生きる世界を狭めるものではありません。私どもは信仰によって、神と自分と世界とを正しく知ることへと解き放たれているのです。

そして繰り返しますが、この神を正しく知る信仰こそ、私どもは神から賜ったのです。神の賜物なのです。神が、みなさん、一人ひとりに分け与えてくださったのです。

さて、しかしそこでこそ、わたしどもは罠に陥ってはならないのです。何故、そう申すかと言えば、私どもは、うっかりすると、失敗するからです。いへ、この失敗は、私どもはおそらく誰でもすでに、経験しているのではないかと思うほどです。それが、実は、21世紀の恐怖の元凶、源ともなっていることです。それは、何でしょうか。それは、原理主義です。イスラム原理主義、キリスト教原理主義です。原理主義とは何でしょうか。それは、その宗教を信じている自分を絶対化することです。その宗教を絶対化することではありません。私どもは、キリスト教こそ、唯一の、絶対的な真理であると確信しています。この確信を、この時代だからこそ、緩めるわけにはまいりません。キリスト教の内部からの誘惑と攻撃にさらされています。しかし、私どもは、聖書の信仰に堅く立つのです。そうなれば、聖書自身の信仰に堅く立つはずです。

しかし、そこで、この聖書の信仰を信じている自分が、神さまの絶対性と同列にしてしまうことが起こるのです。この誘惑を知らないキリスト者は、うぬぼれることはできません。むしろ聖書の純粋な、熱心な信仰から離れているのではないかとすら自己批判を求めたいほどです。

私どもは、実にしばしば、神の絶対的な真理を、自分自身の正しさへと取り込むのです。厳しく言えば盗むのです。しかしそもそも私どもは、罪人であるはずです。神の憐れみにすがらなければ、聖書の信仰、正しい神信仰に生きることも決してできないのです。そのような私どもが、信じるのです。そこにこそ、私どもの慎みが求められるのです。神の御心をわきまえなさい。そのために絶えず、繰り返して新しくなりなさい。自分を変えていただきなさいと命じられました。そうでなければ、私どもは、思い上がるからです。まるで「自分の信仰」というようなものがあって、この自分の信仰は間違いないのだなどというおかしな確信に立つなら、そのときには、その人は、教会において生きることはできません。それは、教会の信仰、教会の仲間たちと生きる信仰にはならないからです。それを言うのが、第4節以下です。

私どもの信仰こそ、実は、原理主義から遠いはずなのです。評価という言葉は、もともとは、「思う」です。「考える」とも訳せます。私どもの信仰は、考える信仰とでも呼べるのだと思います。深く物事を考える、これが、信仰の働きなのです。思慮深く考え、行動することが求められるのです。それが、「自分を過大に評価する」行き方の反対なのです。信仰は、主イエス・キリストを信じることであって、きわめて明白、単純です。しかし、信仰は徹底して人間を思慮深く導きます。それは、人間をして自分を絶対化させないからです。自分を単純に正義の場におかせないからです。自分の判断には、あやまりがあるかもしれない。それをわきまえるのです。それは、決して確信をそぐ生き方ではありません。救いの確信、信仰の確信と、自分の信仰的判断は、なお有限であること、限界があること、いつでも間違いを犯すことを、わきまえることです。そこに慎み深い評価が、自己評価が与えられるのです。

最後に、「信仰の度合いに応じて」という御言葉に注目します。この翻訳には、わたし個人の思いでは、違和感があります。先ほどの口語訳聖書も新改訳聖書も「信仰の量り」と訳しました。軽量カップの「量」という漢字です。重さをはかる量りです。「信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」
主イエスは、マタイによる福音書第7章において、「人を裁くな」と命じられました。「あなたがたも裁かれないようにするためである。」と仰いました。「あなたがたは自分で量る秤で量り与えられる。あなたは自分の兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、何故自分の目の中にある丸太に気づかないのか。」

目のさめるような叱責です。そこでも量るという言葉、メトロンというギリシャ語が用いられています。この言葉から、英語のメジャーとかメーターが生まれました。長さや量、スピードなど、ものを量る道具です。信仰の度合いなどと言いますと、なんだか、あの人は信仰の度合いが低いとか高いとか、なんとなく熱心な人、ほどほどの人、不熱心な人とか、キリスト者をランク付けするようなニュアンスを持ってしまいます。しかしまさにそのようなところでこそ、主イエスが戒められる自分を中心にして相手を裁く罪を犯すこと、信仰のおいても同じこと、いへ、もっとも罪深いことをそこで犯してしまうことになりかねません。その意味では、信仰の量り、あるいは信仰の尺度の方がふさわしいように思います。あるいは、信仰的なものの考え方、信仰の尺度での評価方法とか、信仰の基準で考えるとか、読み替えることも出来るかと思います。これは、ひとり一人に分け与えられた信仰であり、その信仰の量り、信仰の判断力、冷静に、熟考することが、求められているのです。その熟考を自分に当てはめるのです。そのとき、キリスト者は、謙虚、謙遜にならざるを得ないはずです。品性、人格が高くなるから謙虚、謙遜になるということより、信仰の量りで自分を顧みるから、謙虚にならざるを得ないのです。謙虚でなければ、信仰を裏切ることにすらなるからです。

これが、自分を生きる道です。絶対的な神、絶対者なる神を信仰によって知るとき、自分の生きる道が定まります。そして自分の生きる場所が定まります。関係が正しくされます。そしてこの自分を神の下に置けるのです。神のもとにおかれた自分は、神に重んじられ、神に愛され、神の子どもなのです。これほどすばらしく高い、栄誉ある自己評価はありません。そして同時に、自分は、神の憐れみによってこのようなありえないほど高価で尊いものとされていることを感謝するのです。されているのです。自分でなったのではないのです。だから慎みが生じます。神は絶対者であり、唯一の真理です。しかし、その御心を正しく知ることは、決して簡単であるわけではありません。自分がいよいよ新しく作りかえられるのでなければ、わきまえられないそのような動的な、生き生きとしたものなのです。ですから自分の信仰は、こうなのだ。自分の信仰の判断はこうなのだと、自分の信仰を絶対化することは間違いなのです。しかしその間違いを私どもは犯しやすいのです。だからこそ、今日も、そして来週も、新しく御言葉を聴いて行くのです。そして御言葉を聴きながら、自分が今与えられている業、仕事や勉強、自分の置かれた場所で神と共に働くことです。そして地上の知識や技術を身につけながら、いよいよ自分に与えられた恵みと使命をわきまえさせていただくのです。若い仲間たちは、どうぞ、あせらずしかし、今、信仰の量りをできるかぎり大きくさせていただきつつ、将来への準備に励むことです。信仰の年齢を重ねた仲間たちもまた、いよいよ神から与えられた恵みによって、慎み深く、しかし、いよいよ大きな信仰の量り、尺度を与えられ、御言葉の広さ、深さを知り、終わりまで主に仕える歩みを深めることです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたの恵みによって私どもはキリスト者として今を生きること、自分を生きることが許されました。どうぞ、自分じしんを正しくわきまえ、自分を生かす道を、ひとり一人が信仰によってよく考え、その道をまっすぐに歩ませてください。アーメン。