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「聖霊に燃やされて生きる」

「聖霊に燃やされて生きる」
2008年1月27日
テキスト ローマの信徒への手紙 第12章10節~11節 
「怠らず励み、
霊に燃えて、主に仕えなさい。
希望をもって喜び、
苦難を耐え忍び、
たゆまず祈りなさい。」

本日は、一年に一度開催する教会員総会を午後に行います。この総会で取り扱う事項は、私どもの教会の政治規準によりますと、何よりも前年度の歩みです。教勢と会計を振り返ることです。そして私どもはただそれだけではなく、来年度の事業計画、わたしが記しました年報の回顧と展望、つまり、新しい年度の目標を皆様と確認し、またお互いの奉仕についてもそこで確認します。また、そこで新しいビジョンを分かち合うこともあるかもしれません。

伝道所委員方をはじめ、私自身前年度を改めて振り返るときが与えられました。そこで一つ、はっきりと思わされたことがあります。前年度、私どもはお一人お一人、それぞれに熱心に神と教会に仕えたということです。私どもは、定例の諸集会はもとより、さまざまな集会をなしてきました、そこで精一杯に主と教会に仕えてまいったということです。

そしてそれは、何よりも、私どもの教会の中に、聖霊なる神が著しく働き続けてくださったのだと言うことであります。会員総会とは、そのような教会の頭なる主イエス・キリストと父なる神への感謝を捧げることこそが、目的であると思います。

さて、本日も11節、12節と短い箇所を学んでまいります。しかし聖書朗読としては、第12章の最初から読みました。ここには、主イエス・キリストによって救われたキリスト者の生活、その生き方、つまり倫理が記されてまいります。つまり、ここには言わば人間一般の倫理道徳が記されているわけではありません。そもそも聖書全体がそうです。そこに記されているのは、単なる倫理道徳ではありません。聖書に記されている人間の生きる道とは、一般論とか世間の常識が示されているのではないのです。そこに記されているのは、神の恵みによって、選びによって、契約によって神の民とされた者、私どもで申しますとキリスト者としていただいた、救っていただいた者が、その感謝の応答を表す道、道しるべが記されているのです。その意味では、当然のことながら、信仰がなければ、この倫理に生きることはできません。何より正しく理解することもできないはずです。ここでの倫理は、神からの愛を注がれて初めて生きることができるし、生きなければならないし、生きて行きたいと心の底から願うことができるのです。

先週のおさらいになりますが、愛して生きること、愛に生きること、その愛を井戸にたとえました。この愛の井戸は、自分の中にはまったくないことを確認しました。この愛は、自分の外から注がれるのです。神の井戸から豊かに、無限に注がれるのです。そして、この愛に生かされるとき、この愛に挟み込まれ、サンドイッチされて生きるとき、そのときには、まるで自分のもっとも深い部分に神と隣人への愛が備わっているかのようにすら思えるのです。それほどまでに、私どもは自分を変えられてしまうのです。新しい生き方が始まるのです。神の憐れみによって自分の全存在を神にささげ、礼拝し、自分の全存在を常に新しくされて生きて行けるようになるのです。

そして先週は、私どもは、私どもの罪を償うために罪の身代わりになって死んでくださったあの十字架に示された主イエスの愛、神の愛の御業によって救われ、新しい神の民、教会、キリストの体の一部分とされたことを学びました。神のはかりしれない、底知れぬ愛で愛された人間は、人から愛されるより愛することを求めるようになるとも学びました。つまり、兄弟愛をもってお互いを愛し、率先して相手を優れた者と思うべきことを学んだのです。つまり、それは、キリストの教会に生きる、教会を形成するように召されたキリスト者の倫理、共同体に生きる者の道が説かれました。

さて、本日の御言葉は、むしろ、自分自身のこと、つまり一人のキリスト者として、どのように生きることが善い事で、神に喜ばれ、完全なことであるかを、丁寧にパウロは説明して見せてゆきます。
最初に「怠らず励み」です。他の翻訳では、励んでのところを、「熱心で、勤勉で」と訳しました。「怠らず」は、どの翻訳でも共通でした。原文では、「励み」が最初に出てまいります。これは、おそらく私どもは皆、心当たりがないわけではないと思うことがあります。キリスト者として生き始めるその最初は熱心であるのは簡単だけれども、それを長続きさせることは難しいということです。悲しく厳しいことですが、ある人は、わずかの内に、熱が冷めてしまい、ついに教会の生活すら怠って、信仰から離れて行ってしまうということが起こります。ですから教会の生活を何十年もこつこつ忠実に怠らず励む仲間がいれば、教会の宝であり力です。

「いっとき熱心である」、しかしそれは、信仰の世界に限らず、どの世界でも同じではないでしょうか。たとえば、恋愛感情などもまたそうではないでしょうか。あのときはあれほど熱くなったのに、しかし、今や、まったくなくなってしまう、そのようなことは我々の世界にたくさんあります。

忘れることができないのですが、わたしが信仰を与えられて、まさに熱心に伝道していたときのことであります。母に何度このようにからかわれたかしれません。「お前は空気が抜けた風船のようだ」何のことかと思われるでしょう。「シューシュー」言うからだそうです。さらに追い討ちをかけてきて、こう言い放つのです。「お前は、飽きっぽいから、長続きはしない」これには、返す言葉がありませんでした。

信仰の世界において、もしもこの世と同じように、いっときは熱心であっても続かないものだとすれば、「いったいそれは、本当の信仰なのか」パウロはそこを問うているのだと思います。もとより人間は、誰でも怠惰です。これは断定できるくらい、残念ながら確かなことだと思うのです。ところが、信仰はこの常識に抗うのです。抗わなければならないのです。事実、抗えるのです。そこにキリスト教信仰の不思議さがあります。そうです、これはとても不思議です。私自身、母に揶揄されながらも、神学校に進み、牧師として20年、キリスト者として28年の歩みを数えています。もしも、励むことを怠ったのであれば、名古屋岩の上伝道所は、今日のこのようにありうるでしょうか。

確かに、私は、教会とは、長く歴史を重ねることによって、一方で財産や貯金のような力をつけることがあることを信じています。ただし信仰そのものは、あくまでも貯金ができません。昔の信仰で生きる、昔の遺産で信仰を食いつなぐ、そのようなことはできないのです。怠らずに励むこと、これが信仰なのです。何故、そうなのでしょうか、それは、神が貯金の神ではないからです。つまり、死んだ神ではないからです。神は常に、生きて働かれる。動かれるからです。神ご自身が激しく動いておられるのにもかかわらず、働いておられるのにもかかわらず、この神を仰ぎ見、信じて従う者が、立ち止まることは、矛盾です。信仰は、常に信じる、従うという動きのなかに存在するものなのです。

しかし、「そうは言っても」と言いましょうか、疲れやすい私ども、怠惰になりやすい私ども人間にとって、「怠らず励む」言い換えれば、熱心を継続することは、およそ不可能ではないかといぶかられるかもしれません。

そのときに、次のこの御言葉こそが決定的に、まさに決定的に大切になります。それが「霊に燃えて」です。この霊とは、何でしょうか。実は、先週の祈祷会で、学びました。ローマの信徒への手紙第8章を読み直しました。そこでは、「神の霊」、「神の子とする霊」とパウロは言いました。つまり、聖霊、聖霊なる神のことを指しています。このイエスさまの霊、神の霊、神の子とする霊、聖霊を受けたとき、私どもは、神を「アッバ、父よ」「お父さま」と大胆に呼ぶことが出来るものとされると学びました。そして次ぎに、自分が神の子とされている事を、聖霊と一緒に自分の霊もまた一緒になって証するのだと使徒パウロは言いました。

そうしますとここでの霊とは、霊に燃えるとは何でしょうか。パウロはただ霊としか言いません。しかし、私どもはこれまでの手紙、議論から、何よりも先ず、この霊とは、聖霊のことを指すと理解します。神からの愛、溢れる愛、無限の愛、その愛が私どもに注がれるということは、どういうことなのでしょうか。それは、第5章5節にこうあります。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

神の愛、私たちがまだ罪人であったとき、敵であったとき、神が先ず私どもを愛し、御子を十字架で私どもの贖いの代価として与えてくださったのです。そのような愛が今、聖霊によって注がれて、私どもは信仰を与えられ、キリスト者になったのです。この霊とは聖霊です。聖霊が注がれるときだけ、私どもは神の愛を受け、神の愛に生きる、神を愛するようになるのです。先手は神です。

聖霊の注ぎ、つまり神の愛が豊かに注ぎ込まれ、そして私どもにあふれるのです。そのとき、私どもは燃えます。私ども自身がかっかと燃え上がります。私どもの死んでいた霊が生き返り、聖霊を受けて、燃え立つのです。聖霊を水、井戸にたとえましたが、パウロは、ここで聖霊の火、御霊の炎のイメージを用います。木であれば燃やすのです。水であれば沸騰するのです。聖霊、神のご愛は熱いのです。私どもに注がれるとき、人の心を熱くさせる、燃え上がらせるのです。神の愛が、私どもを熱くする、生かすのです。まさに、キリストにおける新しい生活を作り出す力そのものなのです。自分という井戸の中をまっすぐに、徹底して覗いて見るなら、すぐに分かるはずです。自分の中には、真の愛がないということです。すっかり枯渇しているのです。言わば、死んだ井戸です。だからこそ、外にある井戸、汲めども尽きずに溢れ出る神の井戸を掘れば、愛の泉が湧きあがります。そこから聖霊が注がれて、私どもの全存在は、燃え上がります。ここで言われた「怠らずに励む」キリスト者の人生、奉仕の生活とは、ただ聖霊を注がれ、ただ聖霊によって神の愛を受けた者の結果なのです。

聖霊が注がれたとき、キリスト者は主なる神に仕える者となります。すでに第12章1節で、自分を捧げること、礼拝することが命じられていました。これがキリスト者の新しい生活の根本なのでした。今、改めて、使徒パウロは命じます。「主に仕えなさい。」主に仕えることこそ、私どもの目標なのです。ここから始まり、ここへと至る。最初も最後もその真ん中も主に仕えること、これこそ、私どもの生涯に他なりません。それは、聖霊に燃やされることです。

さて、このようにすばらしい力、祝福を神から与えられていながら、それでもなお私どもは、へこたれるときがあります。へばってしまうこともないわけではありません。いったいどうしてなのでしょうか。
そこでパウロは、ただちにこう言います。「希望をもって喜び」希望の問題です。ここに真因、まことの原因があるのだと見なす、見破る、喝破するのです。
希望とは、今ここには、ないものです。ですからそれを待つこと、待たなければなりません。それに比べて、喜びとは、今ここに現実にあるものです。それを既に持っているのです。味わうことがでるのです。この希望と喜びの関係は、深く結びついています。希望によって喜びがもたらされるのです。今ないものがしかし、始まっている、始まらせていただくのです。つまり、希望がないと、希望がはっきりしていないと、ここでの喜びもまた味わえないわけです。

私どもは昨年、大勢の仲間たちが転勤で転出しました。ずっと一緒に礼拝生活を共にすることができたらどんなに嬉しかったでしょうか。私自身、どれほどそれを願ったことでしょうか。しかし、かないませんでした。そうなると、人間的にはがっかりするわけです。それは、否めません。しばしば、言われるのですが、地方の教会は都会に送り出すので、どれほど困難な伝道を強いられるか。その通りだと思います。その意味で、もしも地方伝道に仕えるキリスト者たちは、若い人が去って行く、出て行くだけであれば、がっかりしてしまって、熱が冷める、愛が冷めるのでしょうか。しかしもしそうなれば、おそらく教会はそこで立ち止まってしまわざるを得ないでしょう。まさに、そこで教会は、へばる、へこたれることになっていまいます。それなら、私どももまた、そのようにへこたれるのでしょうか。もしも私どもの希望の中身、その真髄、その根本を誤ってしまえば、確かに、そのようになる危険性があります。

それなら、改めて問いましょう。キリスト者がそれによって喜んで生きる原動力となる希望とは、いったい何でしょうか。それは、神の国の到来です。あるいは私どもの側から申しますと天国に入ることです。この世のことではありません。もしもこの世の何かが私どもの評価基準になるのであれば、教会はへばる、教会は生きることはできなかったはずです。教会に数値的なことで、どれほど大きくなったのか、ならなかったのか、そのことを希望にはしないのです。教会が実に、2000年間この地上で生き続けることができたのは、真の希望を抱いたからです。希望をもって喜んだからです。希望によって喜びに溢れたからです。それは、神の国です。神の国の喜びなのです。パウロは、14章17節でこう言います。「神の国は飲食ではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」まさにこの聖霊によって与えられる喜びが、神の国には満ち溢れています。私どもは、この神の国を希望する、待ち望む、そのとき、希望がここで生き生きと働き出す、それが喜びになるのです。

わたしは、第8章を思い出さずにおれません。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」信仰によって義とされ、神との間に平和を得、そして希望を誇りにする。これが、キリスト者なのだと言っています。ここでは誇ると訳されていますが、それは、喜びと同じ言葉が用いられています。「希望を喜びにしている」のです。

私どもの喜び、誇りはこの希望にあります。神の国にあるのです。今将に来たらんとする神の国です。それ以外に望みを持ち、それ以外を喜びの対象、目標にするとき、私どもはたちまち火を消されてしまいます。励めなくなります。怠惰になるのです。だから、希望をしっかりと抱くことがどうしても必要です。それは目に見えない神ご自身に目を向けることです。神を見ることです。そこにこそ、私どもの喜びは溢れるのです。キリスト者の新しい生活の土台、それは、この希望です。不思議なことですが、これは、すでにキリスト者の倫理になっているのです。希望が倫理なのです。キリスト者とは希望に生きる人なのです。

次に「苦難を耐え忍び」です。苦難を積極的に求める人は誰もいません。しかし、現実には、どの人の人生にも苦難はつきものです。本当にそう思います。人生の基本は、苦しみである、年齢を重ねた方であれば、実感されるかと思います。だからこそ喜びは、かけがえのない宝であり、大切です。しかし、キリスト者には、キリスト者固有の苦難がある、ついてきます。

逆に申しますと、これまでの苦難からは解放されます。苦難と思っていたものが、実は、決定的な苦しみ、悩みではなくなったからです。私どもの地上の生涯を越えた、来るべき生命、終わりの命、神の国の希望を見つめて、喜んでいる私どもは、地上の苦難をどんどん小さくしてしまうからです。希望を抱いて喜ぶ私どもであれば、それに比例してどんどん、苦難が軽くなってしまうのです。それは、どんなに感謝しても仕切れません。なんと私どもの恵み、祝福は大きいかと驚くばかりです。
しかし、この祝福の大きさを与えられからこそ、この希望に生きるからこそ、実は、新しく避け得ない苦難があるのです。それは、次の次のときに集中的に学ぶことになるかと思いますが、迫害の問題です。これは、私どもにとって、避け得ないのです。

わたしはそこで、あらためてパウロの信仰の熱い思いがほとばしり出る言葉、第5章を思い出さずにいれません。「そればかりでなく、苦難をも誇り(喜び)とします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」神の愛によって必ず、神の愛が勝利する希望を持つとき、私どもは主のゆえに受ける苦難、迫害をも耐え忍ぶ、忍耐することができます。そのとき忍耐は、私どもキリスト者にとって特別の倫理になるのです。
耐え忍ぶことのなかで、キリスト者としての全存在が練達する、訓練され、整えられるのです。その品性もキリスト者として磨き上げられ、何よりその信仰が成長するのです。そしてその結果、いよいよ希望を生む、希望を抱く、そして喜びを味わう。だからこそ、苦難をも喜ぶとパウロが言ったわけです。このすばらしい祝福のサイクルが、キリスト者一人ひとりに回り始めることを第5章で証ししました。そして今おさらいするようにパウロは、ここで祝福の回転をどんどんまわして行きなさいと呼びかけるのです。

さて、本日の最後の箇所になります。「たゆまず祈りなさい。」祈り、これこそ一切の鍵になるものです。ここでの「たゆまず」は、「常に」とか「絶えず」とも訳されています。これは既に、多くの方が暗唱するほどに慣れ親しんでいる御言葉の一つではないかと思いますが、テサロニケの信徒への手紙一第5章にこうあります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」実は、ここでの絶えず祈りなさいの「絶えず」と、今私どもが学んでいる「絶えず」とは、もともとの言葉では違う言葉が用いられています。ローマの信徒への手紙で言われる、「弛まず祈れ」ということのニュアンスは、むしろ、時間とか回数のことではなく、祈りに専心する、祈りから離れないという態度の意味なのです。その意味では、新共同訳聖書聖書が、「弛まず」祈りなさいと訳したことは評価できるでしょう。

私どもは、それぞれ、毎日せわしなく与えられた務めに励んでおります。そうであれば24時間、ずっとお祈りしているわけにはまいりません。一方で、時にそのように祈りに集中することも大切な霊的な訓練だと思います。しかし、パウロはここで、キリスト者にとって、聖霊の火をともされ、燃やされるためには、祈りの時間や回数のことを問題にしているのではありません。ここでは、私どもの心、私どもの霊が、常に神に向かって開放しているのか、心の扉が24時間ずっと神にむかって開いているのかが問われているのです。それこそ、キリスト者が生きる上に決定的に、根本的に必要であると言っているのです。

教会堂の扉は、私がいるときには、いつでも開いています。教会とは、地域のどなたにでも開かれていることを、そこで示しています。それなら私どもの心はどうでしょうか。私どもは、神に向かっていつも、まさに24時間開いているのでしょうか。おかしな言い方ですが、キリスト者であるということは24時間全部のことです。会社から家に戻ったら、仕事のことは一切忘れるというように、スイッチを切り替えるようなことはできません。

使徒パウロは、テサロニケの教会には、時間をつくってお祈りを捧げるということ、それを止めてはならないのだと強調しました。さらに、その言葉の直後にこう続きます。「“霊”の火を消してはいけません。」霊に燃えなさいと同じ意味です。聖霊の火を燃やし続けること、消してはならないということです。次に、こう続きます。「預言を軽んじてはいけません。」聖霊に燃やされて生きるためには、預言を重んじることが必要だと言うのです。神の言葉の説教を教会の生活の中心にすえるべきことがここでも確認されています。そのことは、すでに先週、また先々週も出てまいりました。教会は、キリスト者は、徹底して御言葉の説教を重んじて生きるのです。

そうなれば、キリスト者として生きる、聖霊に燃やされて生きるためには、まさにこの主日礼拝式に集中すべきであることは言うまでもないことでしょう。そして、私どもは今まさに、私どもの心を神さまに向けて全開にしています。そうであれば、教会から遣わされて行く家庭でも会社でも学校でも、このように心を開き続けたままで、一週間を過ごすことが大切でしょう。何が起こっても起こらなくても、私どもの心を神に向けること、神さまに向けて心の扉を大きく開き続けていること、それがここでの祈りなのです。

聖霊なる神は、この祈りのなかで、私どもにたゆまず注がれてまいります。父と御子イエスさまは、神の子らにたゆまず御霊の交わりを与え続けてくださるからです。私どもはいよいよ、霊に燃え、主に仕え、新しい年度もさらに深く教会に生きて参りましょう。教会の形成のために、自分という楽器を最大限にカンタービレ、歌歌うように鳴らしてまいりましょう。

祈祷
私どもに神の愛そのものであられる聖霊を注ぎ続け、私どもの全存在を燃やし、主に仕え、愛に生きるように、希望をもって喜び、苦難を忍耐させてくださる主イエス・キリストの父なる御神よ。新しくされたからこそ、新しい倫理が命じられています。どうぞ、これを自分の力で担うような不信仰から守ってください。自分の力ではまったくできません。だからこそ、私どもはあなたに、ただあなただけに祈ります。どうぞ、私どもの祈りの生活、礼拝の生活を豊かに祝福し続けてください。今年もまた、この礼拝式を中心に歩ませてください。アーメン。