過去の投稿2008年2月22日

2月17日

★  先週の 兄の奨励について家内から聞きました。祈祷会でも申しましたが、幸いな奨励でした。そう申しますと自画自賛で愚かかもしれません。教会の説教とは、説教者個人が作り出すものではなく、会員との共同作業です。先の説教で申しましたように語る者、聞く者がそこで真剣に「神に向き合う」、そのようにして互いにぶつかり合うようなときです。説教は、その教会の作品なのです。奨励もまた同じです。特に、 兄がわたしの説教をどのように聴かれているのか、それが現れるのです。最初に提出された草稿と、最後に提出されたものとでは、まったく違ったものとなりました。牧師との共同作業としての奨励ではありますが、しかし、兄弟の説教聴聞の力が、奨励に良く現れたのです。いよいよ送り出したくない思いが募りますが、名古屋岩の上伝道所での研鑽が、今後の教会奉仕の大きな力となりますようにと、祈ります。

☆  先週は、浜松伝道所の礼拝式、総会を祝福のうちに終えました。浜松の群れは、金起泰先生の熱心な奉仕によって、活気が溢れてまいりました。開拓伝道開始40周年の記念誌も総会に間に合って発行されました。わたしは何も、奉仕できませんが、しかし説教で、また総会開会の説教で、また伝道所委員会でも、「金先生からの訓練を積極的に受けてください」とお勧めを重ねました。教会そして教師は、信徒を御言葉によって訓練する責任が与えられています。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」ことが、私ども御言葉の教師の務めです。反対に申しますと、信徒はこう要求してよいのです。「わたしを神の奉仕や、教会の奉仕者として訓練してください。」このようにお互いに各々の務めを弁え、励めば、教会の成長は確実です。

★  わたしは神学生3年生のとき、仲間たちに求められて、「個人伝道法」という、「お話」をしたことがあります。また、奉仕教会以外の教会でも、教会伝道部主催の集会で、役員、信徒の方々のために「個人伝道」の実際についての「お話」をさせていただいたことがあります。当時、私は、個人伝道は、説教と共に、伝道者としての生命線であると自覚しておりました。しかし、名古屋岩の上伝道所の歩みの中で、このような「伝道の訓練」を皆様に施したことは、ほとんどありません。隣人、お友達を教会に誘い、牧師のところへ連れてくることで十分としておりました。しかし今、皆様の成長を見ています。自分自身で御言葉を語って、信仰へと励まし、救いへとお導きすることができれば、まさに筆舌では言い表せない喜びを味わわせていただくことができます。私自身の怠慢もありますが、そろそろ、私どもの教会の力も備わってきているのではないでしょうか。(・・・私どものこれまでの伝道のあり方を、変えることではまったくありません。一歩踏み出すことなのです。)地域伝道は急務です。

☆  先週の信教の自由を守る集会には82名の出席(西部は152名!)で、講師の石丸新引退教師のよき講演、又三名の発題を受けて、深く学び考えることができました。当伝道所から8名が出席されました。出席を呼びかけなかったからか、少なかったと思います。しかし、嬉しかったのは、若い兄弟姉妹方が集われたことです。しかも洗礼入会志願者の兄弟も出席され、「事柄」をよく受け止めておられました。高齢化が進む中部中会ですが、彼らが当伝道所を支え、さらに中部中会を支える若い力となる事を信じ、期待する者です。

★  戦前、60年余りに渡り、「讃美歌」(日本基督教団出版局)のなかに、「君が代」が掲載されていました。恐ろしい事実です。しかし、戦後、新しい憲法と民主主義の時代へと激変する過程のなかで、現行の「讃美歌」には削除されます。しかし、そこになお天皇をたたえる国家神道用語は残存しました。例えば、「おおみかみ」「御殿(みとの)」「宮居」「大御名」「稜威(みいつ)」・・・です。奏楽者でもあられる一人の発題者が、 知らないで歌ったことへの呵責や無念を、涙ながらに語られました。又、指導者の責任をも問われました。私はかつて、10年ほど前、「讃美歌21」が刊行された年、ルーテル神学大学で開かれた講習会に一泊して出席しました。そして、「讃美歌」から「讃美歌21」へと切り替えた歴史があります。(先日、一人の先輩教師から「讃美歌21」への移行検討のために、私見を求められ、文書で送らせて頂きました。)すでに「讃美歌21」所収の詩編歌になじんだ私どもですが、昨年からは、「ジュネーブ詩編歌」を毎週、新しく挑戦しています。何よりも、私どもの教会は、これまでのように、これからも「知らなかった・・・」と言わないように、むしろ、日本の教会の戦争責任を自らの責任として担いうる教会の形成のために、励んでまいりたく願います。

☆  明日からの中部中会教師会で、「平和論」の構築に向けての共同の学びが行われます。多くの教師方が短い発題をします。わたしも、「教会の悪魔化」を巡って、発題をと考えています。このような議論がなされることは、中部中会のすばらしい点であると考えています。