過去の投稿2008年3月2日

3月2日

★  3月に入りました。今年の冬は、例年になく冬らしい冬であったように思います。雪が積もり、舞いました。教会暦とは無縁の私どもですが、受難節を覚える歩みは、私どもの力の源泉です。復活祭によく備える日々と致しましょう。

☆  先週の読書会は、ディアコニア委員会もかねて行われました。内容は豊かで、また長時間にもなりました。閉会は4時でした。「ディアコニア・その思想と実践」の学びも、第4章、中世を終わりました。私どもが目指す「教会のディアコニア」と、中世のキリスト教会におけるディアコニアとは、重なる部分もありますがしかし、克服すべき諸点を見出します。しかしなかでも光るのは、「修道院」の働きです。学問や霊性の宝庫、泉のよう共同体が修道院であって、世俗化に流され、御言葉から派なれる危うさのなかで、修道院を通して刷新されたわけです。私どもは、教会の礼拝式や祈祷会、個人の祈りの生活のなかで、常に聖霊に燃やされ、主に仕えるべく促されています。

★  ディアコニアとしての日曜学校については、家内が話をしましたが、時間があれば、そこに集中して皆さんと懇談したかったと思います。当伝道所として、特に地域ディアコニアとして、私どもの課題があると信じております。

☆   ディアコニアは、具体的なことですから、備えもまた必要です。聖書が明らかにする牧師の務めとは何でしょうか。「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、」(エフェソの信徒への手紙第4章12節)とあります。新改訳と口語訳聖書は、「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、」としました。教会の教師は、聖徒である会員を整えること、整頓すること、つまり訓練して、奉仕=「ディアコニア」の働きをさせることであると言明しています。ですから、わたしが会員を訓練することは、してもしなくてもよいことではなく、それをこそすべき「神から命じられた務め」教会の務めなのです。
そして、そのディアコニアは、必ず!キリストの体を造り上げる、すなわち教会形成へと結実させられてゆくものなのです。その意味では、使徒パウロは、教会形成とかかわりのないディアコニアを知らない、と言い切ってよいと思います。つまり、「教会のディアコニア」です。「教会形成に不可欠なディアコニア」です。いよいよ、この理解をお互いに深めて参りましょう。

★  小塩長老の講演で、教会が社会に楔(くさび)を打ち込むとのお話に、一人の兄弟が、「途方に暮れる・・・」「鉄の壁に爪楊枝で・・・」と感想を述べられました。わたしは、社会に楔を打ち込むディアコニアは、私どもがいよいよキリストの教会、ますます神の教会になって行く、形成されてゆくことによって、神が教会の存在をもって楔として用いてくださるのだと、申しました。それが、私どもの「教会のディアコニア」なのです。教会は、社会改良の働きのために存在するのではありません。それが私どもの第一の目標ではありません。しかし、結果としてそうならざるを得ないような教会として整えられるべきと信じています。教会は、「内向き」ではありません。「神と隣人へ」と向かうのです。そのようにして私どもの関心は、現代社会にある、地域社会にあるのです。多くの人々は、キリスト教のことを、心の宗教、つまり心の安らぎ、拠り所を得る手段として考えるかと思います。誰しも教会の門を叩くのは、自分になんらかの課題を抱えているからです。自分のことが主題になっているということです。しかし、主イエス・キリストによって、主イエスのディアコニアによって救われた人は、もはや自分のために生きることから解放されたのです。 「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマの信徒への手紙第14章7-9節)

★ 私どもはあの講演で、三つの英語を覚えました。Responsibility(責任)・Conscience(良心)・Common senseです。これらは、ディアコニアを担う教会が御言葉に生きようとするとき、鍵となる言葉でした。私自身、うっかり、コモンセンスが出てきませんでした。一般では「常識」と訳されますが、私どもが学んだのは、センス(感覚)をコモン(共有)することでした。つまり、隣人の感覚を自分のものとする道です。誰のセンスなのでしょうか。弱い人です。私自身、講演録をあらためて読み直してみる必要があると思います。