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「神の憐れみと良心の故に」

「神の憐れみと良心の故に」
2008年3月9日
テキスト ローマの信徒への手紙 第13章1節-5節 
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。」

先週から第13章に入りました。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」先週、これは、衝撃的な御言葉であると申しました。この時代に、この人が、このように命じる、これが衝撃でなくて何が衝撃であろうかと思うのです。そもそも聖書に記されている神の御言葉は、常に、私どもを驚かせます。びっくりさせます。それは、何故でしょうか。それは、まさに神の御言葉であるからです。神の御言葉は、私どもの身の回りに反乱しているさまざまな言葉、文字、新聞でも書物でも、そこに記されている人間の言葉とは、違います。神の言葉は、天からの言葉、永遠からの言葉だからです。私どもの言わば人間的な常識、当たり前の感覚を、神の言葉はいつも揺さぶります。言わば、揺さぶりをかけてくるのです。ですから神の言葉を本当に聴いた人は、その存在の根本が揺さぶられます。そして、今までの生き方、あり方を根本から問い直され、そこに激しい悔い改めが生じるのです。キリストによって新しくされる、新しい創造が自分自身に起こるのです。それほどまでに、力ある言葉が聖書の言葉、神の言葉なのです。その記された神の御言葉から、今朝、小さな説教者、預言者が御言葉を語ります。この人間が語る言葉も、聖書の説き明かしである限り、まさに神の言葉の力を発揮します。私どもを揺さぶるのです。常識を深く問うからです。

前置きが長いですが、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」この御言葉もまた、まさに私どもを深く揺さぶらずにおかないはずです。いつ、いかなる状況のなかでこの言葉が語られたのでしょうか。それは、2000年前のローマという場所においてです。そこは、自らを神であると公言し、そのように崇拝することを要求してはばからなかった皇帝が住む都です。皇帝の王座がある世界の中心です。そして、この皇帝とその帝国は、まったくわずかの人数でしかないキリスト者とキリストの教会を、しかし激しく憎悪していたのです。そんな小さな宗教団体など、無視していても良かったのかもしれません。政治的な力など皆無の団体です。帝国に反逆し、テロを起こすような武力のひとかけらも持っていないのです。しかし、彼らは、キリストの教会をその意味では、異様に敏感に反応しました。なぜか、彼らは自分を神として礼拝しないからです。他の事では、取り立てて目くじらを立てることはないし、むしろ、税金をごまかすわけでもなく、きちんと納めている団体なのです。しかし、皇帝は自分こそ世界を支配する王の王、神であると認めないという一点において、自分への反逆として、怒りをキリスト者に、そしてまたユダヤ人たちに向けたのです。それが、当時の状況でした。

先週も、触れましたが、その後、紀元70年ごろ、ユダヤ人たちは独立戦争を起こし、武力で自由を獲得しようとしたのです。しかしその企ては無残な結末を迎えました。そのすべての領地を奪われ、ユダヤ人は流浪する民となったのです。そのような反抗するユダヤ人の一グループとして見られていたキリスト者たちですから、二重の意味で、キリスト者たちは、ローマ帝国の中で生きることがどれほどストレスの多い、生きにくい状況、時代におかれていたのかは、明らか過ぎるほどです。

次に、この手紙を書いたのは誰でしょうか。パウロです。パウロは、ローマ市民です。その意味で、ローマ帝国の富や力を、享受して生きることができる特権階級にあった人です。しかしながら、キリストの故にその特権を行使するより、神の民キリスト者と共に迫害を受けたのです。鞭打ちの刑を受けました。そして最後の最後には、他ならないこのローマ帝国の権威の下に、権力のもとに殺されたのです。

それは明らかに不正です。キリストの使徒パウロを、ローマ帝国が踏み潰し、ねじ伏せたのです。そしてそれを考える時、直ちに思うのは、他ならない主イエス・キリストもまた、十字架の上で死刑を執行したのは、ニカヤ信条や使徒信条にもその名前が明記されているローマ総督ポンテオ・ピラトの判決によるのです。

このことが踏まえられたうえで、この第13章1節の御言葉を聴く。そこに衝撃が走るのは当然のことではないでしょうか。いったいパウロは、このとき、ローマ皇帝や帝国の悪を見抜けなかったのでしょうか。政治状況を読み間違えていたのでしょうか。そうではないことは、明らかです。実際に、苦しめられている時に、この手紙が書き送られているのです。

さて、私どもは第12章をずっと学んでまいりました。特に、9節以下を学んだばかりです。この箇所の新共同訳聖書の小見出しには、「キリスト教的生活の規範」とあります。確かにキリスト者の生活の規範、しかも具体的なマニュアルのような丁寧さで、一つひとつの具体的対応まで記されています。丁度今、学び終えたところで、改めて9節から21節には、何が書いてあったのかということを振り返ってみたいと思います。まとめたいと思います。それは、21節の結論、結語を読めば、簡単であると思います。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」つまり、キリスト者は「この世」に働く悪の存在にどのように対応すべきかということです。それはこうでした。「迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」

パウロは、この箇所で、キリスト者とは徹底的に悪に悪を返さず、善をもって悪に打ち勝つことへと呼び出された存在であることを告げるのです。何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになることへと呼び出します。それは、神の憐れみによって救い出された人間として生きることなのです。神の憐れみを受けた人間、これが、キリスト者の土台です。これがキリスト者お互いの共通項、お互いを結び合わせる絆なのです。神の憐れみを受けたなら、献身することができるのです。自分を明け渡すこと、自分の主権を、まことの主権者に明け渡すことです。

ちょうど昨日、毎月送ってくださるある教会の月報を拝見しました。日本キリスト改革派教会ではありません。わたしの母や兄たちが属している教会です。毎月、見事な月報を送り続けて下さっています。今月の特集は、「我、神に降伏す」でした。何人もの会員が、この主題で証しの言葉を綴っておられました。中でも、一人の教会役員の方の証しに目が留まりました。その方は、まさにその月報の編集も担当しておられる大変優秀な芸術家でありクリエイターの方です。このように書かれていました。「たとえどんな困難なことと思えるようなことでも、それを解決するための新しい知識や身につけるべき技術を持てば、たいがいのことはなんとかなるものだ。いつもそう思っていたし、実際にそのように生きてきた。これまで自分には神さまがついていてくださるのだから、なんにも恐れることはないと思って歩んで来た。そう思うように歩んで来たけれど、実際のところは神ではなく自分の力を必要以上に過信して歩んで来たことに気づいたのだ。」実は、この方は、病を得て、入院なさいました。そして退院後、自分が文案を考えたり、デザインを考えて作成した教会のチラシ、その一枚を、自分で折ることができないという現実にぶちあたったのです。ちいさなトラクト、伝道新聞一枚を自分の手で、折ることができないその事実の前で、こう思われたそうです。「教会とは、小さな小さな一人ひとりの奉仕の積み重ねによって建っていると、つくづく思わされた」優秀で、能力や才能に溢れたキリスト者だからこそ、これまで自分の努力で道を切り開いたという自負が強かったのかもしれません。さらにこう書き記されます。「御心がなりますようにと口では言いながら、自分の願いだけを神に押し付けて生きてきた。求めているものが的外れだと分かっていても、ドアを叩き続ければ根負けしたイエスさまがキリストって開けてくれるだろうと信じて生きてきた。病を得るまでは。」

私どもの教会もまた、聖化の恵みを大切にするはずです。祈祷会でウエストミンスター信仰告白から学んだばかりです。生活のすべての領域で、神の御前に生きる、神の御顔の面前で生きる、これが改革派教会の特徴のひとつなのです。伝統的にはそのはずなのです。

しかしその聖化とは、だんだんと、自動的に進み行くのではありません。神が一人ひとりに深いお取り扱いを与えてくださり、神と格闘する、神と相撲をとるような仕方で祈るときに、自分の主張、自分の考えを砕かれ、崩され、自分の願いや計画が神に勝ってしまうのではなく、神にこそ、自分に勝っていただく、神に降伏することが、私どもの霊的な勝利に他ならないことを思います。この経験を何度もする、これが私どもの聖化の歩みに他なりません。人生に一度このような神との取り扱いをするのではないのです。繰り返すのです。しかし、その都度、神に勝って頂くのです。私どもは負けるのです。それが私どもの信仰の勝利なのです。しかし、それを最初に経験するときまでは、キリスト者は実に、困難な道のりを進むのです。そのように神に降参して、神に主権を明け渡して、神に従うことを始めるとき、私どもは、第二節の御言葉へと解放され、ここへと進むことができるのです。どんどん心を新しくされ、変えていただけるのです。
そして、このような聖化の恵みもまた、徹底的に神の御業です。徹底的に、神の憐れみ、神の愛のお働き、主導による恵み、賜物なのです。

さて、神によって新しくされた、変えられたキリスト者は、この世に抗います。抵抗します。その時のこの世とは、キリストに反抗する世界と言う意味です。キリスト者とは、キリストに反抗する世界に反抗するのです。その意味で、第12章2節は、キリスト者のこの世において生きる規範そのものです。キリスト者とは、この世に倣わないで生きる、これが御言葉の規範です。規準です。
さて、その上で、改めて問うのです。問わねばならないのです。この第13章2節は、なんと言っているのでしょうか。上に立つ権威に従うことが、キリスト者の規範とされているのです。これは、矛盾ではないでしょうか。12章では、この世に倣ってはならない、あわせてはならないと禁じられているのですが、13章では、この世の権威者に従うことが求められるのです。

さてそうなると、この第13章を、私どもはただ文字通り読んではならないと言うことが分かると思います。ただ文字通り読むとは、この御言葉を権力者たちが自分たちの政策、自分たちの法律を、どんなことがあっても神に由来するものだから、一切反抗せず服従しなさいと、自分たちのやりたい放題を支える根拠にするように用いることは許されないのです。キリスト者は、ここで、地上のありとあらゆる権威を自動的に神に由来するものであり、自動的につまり盲目的に服従しなさいと命じているわけではありません。すべての政治的権力の行使が直ちに神に由来するという、そのような原理を提供しているのではまったくありません。これは、ローマの信徒への手紙の中の一部分なのです。つまり、文脈から読むべきです。ここでパウロは、自分たちにとっての権威であるローマ帝国を、即、善であるとは決して考えていません。そのようなことは、新約聖書全体から見れば、ただちに分かるはずです。イエスさまを見殺しにした権威が、そのままで善であるはずがないのです。

しかし、それでもなお、この権威が神に由来すること、つまり、神の支配の中にある、その下にあることを見るのです。それは、したたかな信仰の目、眼差し、眼力です。ローマ帝国が、皇帝が、自分たちこそ、世界に平和と繁栄をもたらす支配者、まさに神のごとき存在であるとうぬぼれても、私どもキリスト者は、キリストこそが真の平和と繁栄をもたらすお方であると信じて、生きるのです。だからこそ、この抵抗や皇帝すら、キリストの膝元に屈すべきであるし、事実、キリストの支配の外で、その力を思うがままに発揮することはできないと信じているのです。彼らに従うこと、それは、彼らにおもねることとは違います。「彼らは支配者で恐ろしいから、一つひとつ意に沿わないことがあっても、いちいち逆らっていては、後が大変だ。ここは目をつぶって、口を閉ざす方が楽である。」つまり、権威者に逆らえば彼らの剣によって裁かれ、それが恐ろしいので、その怒りを逃れる意味で、恐怖にかられて従うわけでもないのです。

それなら何の故に、でしょうか。信仰の故です。信仰の心、信仰の良心の故であります。神のみ、キリストのみが主の主、王の王であると信じるから、権威者を認めるのです。彼らに従うのです。それ以上でもそれ以下でもありません。それがキリスト者の良心の故に従うということの意味です。信仰の良心です。ですから、神に由来している権威である権威者が、信仰の主なる神、信仰の対象であられる神に反抗するなら、そのときには、キリスト者はその良心に基づいて、抵抗してよいのですし、抵抗しなければならないのです。

ただし、ローマの信徒への手紙第13章ではしかし、この抵抗については一切触れられておりません。それなら、やはり抵抗は悪いことなのでしょか。違い明日。使徒パウロが教会の指導者、使徒として、ここで徹底的に、訴えたいことは、他ならないローマの膝元に生きている彼らに、出来る限り、平和に生きる道を見出させ、そして愛に生きること、悪に善をもって勝利すべき証しに生きるべきことです。牧会者の祈りと願いがこの御言葉に裏打ちされていると思います。

いささかくどいかもしれませんが、間違ってならないのは、このローマの信徒への手紙第13章を、権力者が自分たちの政策を自己正当化させるために利用することは許されません。又逆に、キリストの教会が、この世の権力に迎合し、ときにはまさに教会がこの世の権威そのものとなってしまことを許す御言葉でもありません。

さて、ここに「」の問題が出てまいります。剣とは、人を傷つけたり、殺したりする道具、つまり武器のことです。教会は、このところから、国家には、剣の権能が与えられていると理解して、これが私どもの教会の基本的な立場となりました。国家権力には、悪を押し留める手段としての武器の所有が神によって認められているというわけです。そこで大切な事、鍵になることは、悪を行う者を威嚇し、実際行動を制御する手段であるということです。つまり、自分たちの政策を、武力をもって威嚇し、制圧する手段にしてはならないわけです。しかし、まさに今日の世界の状況に目を配るなら、圧倒的戦力をもって、世界を支配するあり方を、聖書から真剣に省みることが必要でしょう。

たとえば古い資料で申し訳ありませんが、2001年のアメリカの軍事支出費は、世界の軍事費の39パーセント、およそ4割だということです。第二位のロシアから11位の韓国をあわせてもなお多い、3224億ドルだそうです。もしも世界の軍事費の1割、いへアメリカや日本の軍事費の1割だけでも削減し、世界の貧困層に援助すれば、ご飯が食べられないで死んで行く幼子は、一人もいなくなるのだそうです。夢かもしれませんが、世界中の軍事費をすべて、教育、産業、道路、水道、電気の整備、環境問題などに当てれば、世界の様相は、一変するはずです。

横道にそれたついでになお余談ですが、剣の権能が国家に与えられているということは、それは悪を阻止するということであって、今日のような他国との戦争のための武器、武力を認めているわけではありません。私どもの国は、憲法9条で、まさに世界の夢、理想の先頭を生きているはずです。しかし現実は、世界有数の自衛隊、軍隊を持ち、防衛庁は、教育基本法の改悪と共に防衛省になりました。9条は、戦争のための一切の軍備を放棄しています。しかし、もとより国内における治安の維持、拳銃を、警察官は所持しているわけです。ここでの剣とは、今日の警官の拳銃に相当するものと、わたしは考えます。

さて、泥棒は、おまわりさんが近づくとドキドキするそうです。これは、よく分かることです。ですから、逮捕に至る理由の中でもっとも多いのが、実は、職務質問なのだそうです。確かに泥棒は、剣つまり刑罰、怒りをもって裁かれ、報いられるのを恐れるので、泥棒することを押し留まらせることもあるでしょう。しかし、パウロは、そのような恐怖のためではなく、キリスト者は、その良心のために彼らを重んじ、従うべきだというのです。そして、善を行うなら、彼らを恐れる必要がないはずだと言います。それがもともとの権威者の務めだからです。神が、善を率先してなさしめるために、置かれたもの、それこそが、政治権力、国家である、これがパウロの、聖書の国家理解の基本なのです。そうでない国家になれば、それは、神に由来する権威を、権力者が横取りしたことになるわけです。

ですから、私どもは恐怖のためではなく、善をなして神に喜ばれるために、つまり、信仰の良心のために、権威に従うことを基本的態度にすべきなのです。ペトロもまた、その手紙において、こう言いました。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」言うまでもなく、ペトロもまた皇帝の権威によって殺されたその人に他なりません。神を畏れる故に、神に由来する権威にある者を敬うこと、これが、基本なのです。敬えるような皇帝であるからではなく、ここでも、善をもって悪に勝つためなのです。

最後に、このように考えますと、いったいキリスト者とはどういう人たちなのか、と、自分自身キリスト者であるのに、衝撃が走る、驚かされるのです。あらためて、問いたくなります。私とは誰でしょうか。あなたは、一体誰なのでしょう。私どもは、どのような人間なのでしょうか。

それを明らかにしてみせたのは、第1章から第11章まで、特に、第8章まででした。そしてそれを一言で要約したのが、第12章の1節冒頭の御言葉になるでしょう。私どもが献金をささげる時に、読み上げている御言葉であります。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなた方に勧めます。」つまり、キリスト者とは神の憐れみを受けた者ということです。神の憐れみを受けて、キリストの兄弟とされた者だということです。神の憐れみ、神の絶大な、計り知れないほどの犠牲の愛を受け、注がれ、あずかっている人間であるということです。

当時のキリスト者たちが苦しめられていたのは、他ならない皇帝でした。その権力でした。それは、端的に申してキリストの教会の敵であったはずです。しかし、パウロたち初代のキリスト者たちは、自分たちとは誰なのかということを見失わないのです。見失っていないのです。そこにどこまでも踏み留まるのです。パウロに尋ねてみましょう。あなたは誰ですか。使徒はこう言うでしょう。「私どもは、神の憐れみを受けた者です。」

そこで、私どもは、ローマの信徒への手紙第5章を何度でも読み返しましょう。読み返したいのです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」

私どもが罪人、つまり神に反抗する者、つまり、神の敵であったときに、父なる神は、私どもを救い出すために、御子を十字架につけてしまわれたのです。そのようにして私どもは神の御前に義とされたのです。神の怒りから救い出されたのです。今や、父なる神と私どもの間には、和解があるのみです。言葉を換えると平和があるのみです。神との和解とは、神との平和のことです。これこそ、究極の、最高最大の幸福です。そして、すべての平和の根源です。

神の愛、神の憐れみを受けた者、それがキリスト者です。そこに立つ、立ち続けるとき、キリスト者独自の倫理が求められるのです。キリスト者だからこその特別の倫理なのです。信仰の良心をもって、権威に従うのです。それは、善をもって悪に勝つ道を生きることです。

これは、今の政府と私どもとの対応のことだけではありません。私どもがこの地上を旅する上で、生活のなかで、どれほど理不尽なことがあるでしょうか。どれほど割に合わないことがあるでしょうか。しかし、私どもは神の憐れみを受けているのです。こんなに祝福されている人間はおりません。だったら、この世の人々のように、この世界だけで完結し、この世界だけで勝った負けたと比べる生き方から、解放されて、神の子の自由をもって生きることができます。勝利者だからこそ、彼らに従い、彼らとの平和を作る道を進めるのです。敗北の思いから、従うのではない。神の憐れみと信仰の良心の勝利の中で、地上を旅するのです。

祈祷
教会の頭にしてすべての国々の主の主、王の王としてご支配くださる主イエス・キリストの父なる御神。ただあなただけが、そして屠られた十字架のイエスさまだけが、私どもの唯一の主でいらっしゃいます。この主に反抗し、この主の主権を損なって歩んで来たのが、私どもに他なりません。あなたの敵であったのです。しかし、御子イエスさまは、そのような私どものために御苦しみを受けてくださいました。私どもに下されるべき神の怒りを、身代わりに受けて、苦しんでくださいました。そのような計り知れない御子の犠牲の愛、父なる御神の犠牲の愛の故に、私どもは赦されて今、あります。キリストの兄弟とされ、そのようにして神の子とされています。どうぞ、この計り知れない恵みから離れないようにしてください。自分が誰であるのか、自分があなたからどれほどの愛と憐れみを受けているのか、どうぞ、毎日、教えて下さい。特に、もう我慢できない、もう許せないと怒りが心にわきあがるときに、福音の事実に立ち返らせてくださいませ。アーメン。