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「キリストの復活、神の愛の勝利」

「キリストの復活、神の愛の勝利」
2008年3月23日 復活祭
テキスト ローマの信徒への手紙 第13章8節-10節 
「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

私どもキリスト者は今朝も、ここに集うことができています。当たり前のように集っています。その理由は、キリストがご復活なさったからです。もし、キリストのお甦りがなかったなら、ここにキリストの教会もなく、礼拝式もまったく無意味、空虚なものになっていたはずです。実に、キリストは私どものために十字架について私どもの罪を贖って死んでくださり、三日目にご復活されました。キリストは復活され、今も、生きておられます。復活されたキリストは天に凱旋されました。そこから御自身の霊を地上にお注ぎくださり、そのようにしてキリストは今、聖霊によってこの礼拝式のただ中に、私どもと共にいてくださいます。今朝、お一人ひとりが、キリストの復活の恵みをご自分のものとして受け入れ、この命の祝福、永遠の命の祝福にあずかって下さいますように。この場所は、復活されたイエス・キリストが聖霊によって御臨在くださる場所です。天におられるイエスさまが、その聖霊によって、私どもと今、共にいてくださるのです。この驚くべき祝福の事実に、一人も漏れなく、あずかってくださいますように。父なる神が、お一人ひとりに、復活されたキリストと信仰によって出会わせ、キリストの救い、恵みを豊かに溢れるほど与えてくださいますように。そして、今、罪の赦しと永遠の命、キリストと共に地上を生きる幸せ、救いの喜び、命の感謝を共にしたいと願います。

さて、復活を祝うこの朝も、私どもは続けて、ローマの信徒への手紙第13章を学んで礼拝を捧げます。キリスト者である私どもにとって、今、読みました御言葉は、初めて聴く内容ではありません。「隣人を自分のように愛しなさい。」これは、旧約聖書に記された最大級の掟です。そして主イエスがあらためて、新しい掟として示してくださった掟です。つまり、私どもの聖書の信仰の最も大切な課題、信仰の本質が示されているのです。

ただし、ここでのパウロの語りかけは、もしかするとこの御言葉に、慣れてしまっている、あるいは慣れが生じ始めている読者に、激しく注意を呼びかける語りかけとなっています。もとの言葉では、順序が逆になっておりましてこう語られるのです。「誰に対しても借りがあってはならない。」「誰に対しても、何の借りもつくるな。」そのような鋭い要求です。ここで「借り」という言葉は、負債とも訳せます。言わば、借金です。好き好んで借金する人はいないはずです。できれば、避けたいことです。

実は私どもは、この「借り、負債」という言葉を先週も学んだのです。それは、「義務」という言葉です。納税の義務についてでした。税金は、滞納したら大変です。できたらしなさいというのではなく、必ず納めなければならないのです。

私どもの用いております新共同訳聖書では、ここから段落を区切って、さらに小見出しとして、「隣人愛」という題がつけられています。もとより、もともとの聖書には、このような見出しはありませんし、区切りもありません。ですから、「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」という御言葉の後に、もともとの文章は、直ちに、「誰に対しても借りがあってはならない。」と続くわけです。「借りをつくっては、負債をつくってはなりません。」と厳しく命じるのです。釘を刺しているとすら思えます。ですから読者は、いささかくどいと思うくらいであったかもしれません。「はいはいパウロ先生、分かりました。税金は、きちんと納めます。自分の責任、自分の義務もちゃんと果たします。」

ところがパウロは、そう言った直後に、こう言うのです。「しかし唯一例外がある!」それならその唯一の例外とは何でしょうか。それが、「互いに愛し合う」ということです。

ここでは、ただ「隣人を愛しなさい」ということではなく、「互いに」です。パウロがここで「互いに」と言ったとき、何よりも念頭にあったことは、教会員お互いのことであることは明らかであると思います。それは、第12章の9節以下、「愛には偽りがあってはなりません。」から、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」までの愛の教え、愛の生活を、ここでもう一度、総括したと見ることができるからです。第12章の箇所でも、「愛」とは、何よりも先ず「兄弟愛」を指していました。キリスト者相互の愛、つまり、教会員同士の兄弟愛です。キリストにある教会員どうしが、互いに愛すこと、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思うことが、命じられました。

いったいどうして互いに愛することを求めるのでしょうか。何故、教会員同士の愛について、パウロは語るのでしょうか。それこそ、私どもがお互いに、お互いに対して負債を負っている者だからです。借りがある者どうしだからです。

考えて見ますと、この互いに愛し合うことの掟、要求は、何も使徒パウロの専売特許ではありません。これもまた、イエスさまご自身の要求でした。イエスさまが、新しく語りなおしてくださった掟です。ヨハネによる福音書第13章34節でこう仰せになられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

実は、互いに愛し合いなさいという戒めは、まったく新しいものではないのです。既に触れましたが、ユダヤ人であれば、だれでもそらんじることのできる掟です。旧約聖書に何度もでてくる掟であると申してよいのです。その中核にあるのは、「十戒」です。この十戒、神の律法において古より命じられてきた、言わば、古典的戒めなのです。戒めの本質と言ってよいのです。ですから、むしろ最も古い戒め、根本的戒めなのです。しかし、主イエスはあえて、新しい掟を与えると仰せになられます。ヨハネによる福音書は、この主イエスの御言葉を繰り返し記すのです。第15章も読みます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 ~互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」主イエスは、あなたがたも互いに愛し合わなければならない理由として、必ずこう仰せになられるのです。「わたしがあなたがたを愛したように」です。

もとより旧約聖書においても、神は、どれほど御自身の民に愛を与え続けてくださったことでしょうか。それは、明らか過ぎるほどに示されています。その愛で十分過ぎるほどです。神が愛の神であられることは、旧約聖書を読めばよく分かります。ところがしかし、神ご自身において、その神の愛がまだ足らないかのように、神は、ご自身の愛の極致、最高の愛の現われをもって、私どもに見せてくださいました。それが、他ならないイエスさまでした。主イエス・キリストの御業でした。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」ヨハネによる福音書第3章16節です。神は、その独り子を十字架にはりつけられることを自らよしとされました。神は、それほどまでにこの世界を、この神に従うどころが反抗し、光ではなく闇を愛し、神に敵対するこの世を愛してくださったのです。それは口先の愛ではありません。行動をともなった愛です。ローマの信徒への手紙第5章でパウロはこう言いました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」

この世、ご自身に敵対する者たちすら愛し抜く神、そのために、実に、御子を十字架ではりつけにして犠牲を払い、私どもの罪の償いの代価とさへされたのです。神は、御子のお命という代価、高価なあまりにも高価な代価、代償を支払ってくださって、私どもの罪を赦し、死と滅びの中に閉じ込められていた私どもを、御子と共に命の世界へ、光の世界へ、赦しの世界へ、神と共に生きる永遠の命の世界、愛の世界へと招き入れてくださいました。
私どもは、まさに一方的に愛されたのです。しかも徹底的で、限りがなく、無条件の愛、愛す価値のないものをただご自身の愛の自由、純粋な愛の御心によって、条件をつけずに愛されたのです。そこに私どもの負債の理由があります。一方的に与えていただきましたから、そこに、返さなければならない借りができたのです。

日本の文化は、贈り物文化という面があるかと思います。しかしそれは、窮屈なものでもあります。頂き物をすれば、お返しを考えるのが常識とされるでしょう。結婚式でもお葬式でも、本当は、お祝いやお悔やみを出すのであれば、それを返してもらう必要などないのです。しかし、それがなかなか止められない。ですから、頂きものをしても、なんだかかえって大変、わずらわしいということも、起こることもあるわけでしょう。

それなら、神の愛はどうでしょうか。神の愛は、一方的です。しかも報いを強制しません。神は、実に、ありえないほどまでに押し付けがましくないお方なのです。これほどまでに、大きな愛を与えてくださったのにも関わらず、しかし、この愛を受け入れない者には、要求なさらない。こんなに愛してあげたのに、よくも無視したな。よくも恩を仇で返したな、何倍も憎み返すなどという人間的にはしばしば起こるような、かわいさ余って憎さ百倍のような、ところがないのです。まったくないのです。

しかし、この愛を受け入れ、愛を受けた者には、神は、お求めになられるのです。私を愛し、そして隣人を、お互いを愛しなさいとお求めになられるのです。それは、私どもにとって当然過ぎることのはずです。そして何よりもまた、私どもにとって最高に光栄なことに他なりません。

「十戒」とはなんでしょうか。それは、端的に申しますと、神の愛の言葉です。愛の手紙です。愛の告白です。愛の告白に基づく、愛の戒めです。愛の要求です。「私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した者である。」これは、まえがき、序文です。この序文が決定的に大切です。要するに神は、あなたがたをどれほど愛されたのか、エジプトの国で奴隷の生活で虐げられていたのに、モーセを指導者として立て、彼によって、紅海を真っ二つに分けてその中を通らせられたのです。救いの御業です。

そしてこのモーセにはるかにまさる指導者がイエスさま、主イエスの十字架の愛に裏打ちして、十の要求が記される。主イエスは、この十戒を要約してお示しくださったことがあります。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい」と「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい。」つまり、神を愛し、人を愛する、二つで一つの愛に生きることです。

確かにここで神は、愛を要求します。それは、しばしば専制君主が、自分を敬い、自分への愛、忠誠を命じるようなものでは全くありません。そもそも、愛とは、そのように命じられるものでは全くありません。愛は、強制されてできるものではないからです。愛こそは、そこにもっとも自由が求められるものです。「あなたは私を愛しなさい」と、人間は人間に命令できません。不可能です。そこに愛や恋愛の喜びと悲しみもあるわけです。それなら、神さまだけは例外でしょうか。違います。創造者であり主権者であられる神さま御自身が全く、完全なる愛のお方なので、ご自身への愛を、決して強制なさらないのです。神を愛することこそ全く自由な行為なのです。心からの自由をもって、愛する以外に、愛は成り立たないのです。私ども人間が誰かを、また神を愛するというのは、強制的にではなく、強いられていやいやではなく、純粋に愛したくてしかたがないから愛するのです。そうでなければ、真の愛、本物の愛にならないのです。

それならいったい、愛の借金、愛の負債とは何なのでしょうか。何よりも最初に神さまのことを考えなければなりません。神は、愛すべき価値の全くない私どもを愛してくださいました。そこに神の自由があります。神の自由な愛、真の愛、純粋な愛、完全な愛があります。私どもは、この一方的な愛を今、喜びと感謝とをもって受けることができたのです。ヨハネの手紙第4章にこうあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」これが、順序です。神のイニシアティブ、主権があります。初めは神です。神が最初に愛してくださったから、私どももこの愛によって、とても不思議なことですが、神を愛する愛が呼び覚まされたのです。神を愛する愛が神によって植えつけられたのです。それはまるで、神への愛、が自分自身の本心、本性、もともとのものであるかのようになってしまったのです。つまり、私どもは、神を愛する新しい人間に造りかえられてしまったのです。

負債を負う、借りをつくる、借金する。愛の負債を負っているのが私どもです。神に愛されているというところに、私どもの借りがある、負債が生じるのです。私どもは神に愛されている者、厳密に申しますと神の愛を受け入れている者には、誰一人の例外なく、神を愛する責任、義務、負債、借りが発生しているのです。

それなら、この負債を返すこと、返済することはできるでしょうか。できません。返しきることなど不可能です。いったいどこまで愛したら返したことになるのでしょうか。私どもは、独り子の命を犠牲にするまで、命がけで愛され、今もその愛で愛されているのです。いったいどれくらい愛を返せば、五分五分、ヒフティヒフティになるというのでしょうか。ありえないことです。
そもそも、私どもには、愛に生きることができるような愛の人、愛に満ちた人間なのでしょうか。主は仰せになられました「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」主イエスがお教えくださったような、友のために命を捨てる愛を、私どもは持っているのでしょうか。それほどに愛に富んでいるのでしょうか。

むしろ、その正反対ではないでしょうか。私どもは、使徒パウロのローマの信徒への手紙を通して、我々人間の罪がどれほどのものであるのかを学びました。パウロは、それを決して他人事として語ったのではありません。彼は、自分の生身の姿を引っさげて、この手紙を書いたのです。自分自身がどれほど罪深い人間であるのか、パウロはそれを惨めな人間、悲惨な人間と自分自身のこととして言いました。死ぬべき人間、神に滅ぼされるべき人間という意味です。愛することの出来ない人間、愛に生きることの出来ない人間、罪にひかれ、自分を第一にして、自分を犠牲にするより他人を犠牲にすることを選び取る、それが人間のあるがままの姿だと見抜いたのです。悲惨な人間です。それなら、いったいそのような人間がどうして愛の負債を返せるのでしょうか。

しかし、そのような罪深いパウロ、愛の欠落したパウロは、神の愛が他ならないそのような自分に注ぎ続けられていることを知っているのです。信じて、体験しているのです。その時彼は言いました。いへ、叫んだと言ってよいでしょう。歌い始めたのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

神の愛から引き離すものは何もない。ですから、パウロはそこでこそ、自分の神への愛もまた確かなものであるというのです。それほどの愛の絆で結ばれたのです。神への愛は、神が始めてくださったものであり、神が離したまわないのですから、私どももまた神を愛する可能性が、開かれたのです。

さて、それなら、愛の借金は、誰にあるのでしょうか。言うまでもなく、神にあることは明らかのはずであります。ところが、ここでパウロは、「お互いに」あるというのです。これは、不思議なことです。考えて見ますと、お互い教会員同士でも、何故、愛さなければならないのでしょうか。お互いには、どのような愛の借りがあるのでしょうか。こんなことを考えてしまう方はおられるでしょうか。「わたしはあの兄弟、あの姉妹から、どれほど愛されてきたのか。まだ関係が与えられてわずかしか経っていないではないか。」まったくその通りかもしれません。会員のあの兄弟から、先に愛してもらったのではないと断言できることもあるでしょう。

しかし、神には、先に愛されています。神さまには借りがある事は、誰も認めることができるはずです。借りのある神から、命じられるのです。わたしを愛することは、兄弟姉妹を愛することと別ではないというのです。ヨハネの手紙一第4章にこうあります。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」それなら、神への愛とは、神が愛された兄弟、神の子である教会員を、共に生きる仲間を愛さないでは成り立たないと言うことです。兄弟を愛さなければ、神を愛していると言えないのです。見えない神を愛するとは、見える仲間たち、お互いを愛することなしになりたたないのです。

愛の人、アシジのフランシスの言葉として有名な祈りがあります。「平和の祈り」と申します。
「慰められるよりは慰めることを
 理解されるよりは理解することを
  愛されるよりは愛することをわたしが求めますように。」

神に豊かに愛されているから、フランシスもまたこの借りを返したくなったのだと思います。愛の人フランシスは、神の愛を溢れるほど受けた人なのです。だから愛の人となったのです。先ず最初に神の愛、御子イエス・キリストを十字架につけてまでも、私どもを永遠の滅びから、救い出したいと思ってくださる神の愛があるのです。フランシスは、このイエスさまの無限の愛を注がれ、生きた人なのです。キリスト者の与えられている負債、借りとは、この愛の借り、一方的な愛で愛された愛を神に返す歩みとならざるを得ないのです。フランシスの周りには、キリストにある深い絆で結ばれた信仰の仲間たちが集りました。それは、私どもの教会のモデルともなるものです。

キリストは、十字架の死と何よりもその復活によって、罪と死、争いと憎しみに勝利してくださいました。復活の勝利、神の愛の勝利によって、教をこの地上に誕生させてくださったのです。その意味で、教会こそ、復活の証拠です。私どもは第12章、第13章で、教会の形成についてみ言葉を学んでまいりました。私どもには責任があるのであります。私どもが、主イエス・キリストの御救いにあずかり、神の愛を一方的に受けたからには、使命、目的があります。ここにキリストの教会を、神の教会を形成することです。そのためには、私どもは何よりも伝道します。伝道に心を用います。しかし、もしも、教会のなかに愛がなければ、相互の愛が沸騰していなければ、教会に招けるでしょうか。白々しいような関係、ぎすぎすした関係であれば、伝道どころではないでしょう。私どもの課題は、互いに愛しあい、この地上にそのような場所、つまりキリストの支配する家、キリストの臨在する共同体が確かにあることを証しするのです。その教会が真の教会であるかどうかを、地上に映し出すリトマス試験紙となるのが、お互いが愛し合っているどうかに求められるのです。

最後に、使徒パウロは言います。「人を愛する者は律法を全うしているのです。」「愛は律法を全うするものです。」律法と福音との関係がローマの信徒への手紙の主題の一つであった。愛とは、それほどまでに神の正義にかなうものなのです。愛は隣人に悪を行いません。「善をもって悪に打ち勝ちなさい」と命じました。パウロにとって、そこでの善もまた、愛に他ならないのです。何よりも、主イエス・キリストこそ、あの十字架で、神の敵となった人間、罪人からおそろしい仕打ちを受けられたにもかかわらず、この悪に対して、復活をもって勝利されました。復活こそ、愛の勝利なのです。キリストの復活こそ、人間の罪に対する神の愛の大勝利なのです。そして、これこそ神の善なのです。

私どもキリスト者は、この神の愛の勝利中で生かされています。この神の愛の絆で神は、一方的に私どもを結んでくださいました。そして、神は、そのような私どもを、キリストにある兄弟姉妹の交わりの中に、招き入れてくださいました。今、私どももまた、キリストの愛の絆で結ばれています。ですから、私どもはお互いを愛し合う生活へと、愛の返せない借りをしかし、喜んで、真実に返す責任を担って行くのであります。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、復活の記念の朝を、全聖書の中心、あなたの御心の中心である愛に生きる掟を学びました。敵であった私どもを愛してくださり、十字架の処刑に対して、ご復活をもって勝利し、愛が、神の愛が勝ち得て余りあることを、自ら証ししてくださいましたことを心から感謝申し上げます。どうぞ、この復活の勝利、愛の勝利の下に、打ち立てられている私どもの教会が、キリストの教会として、お互いに愛しあうことにおいて、励む共同体、神の家族として整えられますように。それを先ず、私から初めさせてください。アーメン。