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「主キリストをまとう幸い」

「主キリストをまとう幸い」
2008年4月13日 
テキスト ローマの信徒への手紙 第13章11節-14節? 
「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」

先週は主題説教をしました。そこで、ウサギとカメのお話を申しました。カメがウサギに勝ったのは、カメがウサギを見ないで、ただゴールだけを見つめていたからだと申しました。最初から、再びこのようなお話で恐縮ですが、先週一週間、このお話をずっと考えておりましので、なお、この例話を用いたいと思います。先々週に続いて、このテキストから二回目の説教となります。

パウロは、申します。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」「眠りから覚めるべき時が既に来ています。」と言うことは、まさにあのウサギの問題でした。ウサギは、眠ったのです。眠りこけたのです。このテキストの光で改めてあのお話を解釈したいと思います。あのウサギは、言わば、古い時代の生き方をしていたということでありましょう。ウサギは、カメを見て、安心したのです。これは、勝負にならない、自分の価値だ。ゆっくり眠ろう。しかし、新しい時代がすでに到来しています。主イエス・キリストが罪を贖い、死者たちの中から、ご復活されたのです。そのような新しい時代が始まっているので、カメは起きている。目覚めているのです。そして、ウサギが自分より足が速いことをもちろん知っていても、自分の人生を喜んで生きることができるのです。自分という存在を、神さまによって受け入れられ、愛され、美しくされていると理解しているからです。自分を愛しているので、のろまでも走るのです。ウサギから見れば、歩いているのか、眠っているのかわからないようなのろまな動きでも、カメにすれば、喜んで走っているのです。そしてそれはただ自分を愛して生きるだけではなく、ウサギを愛して生きることです。ですから、カメは、ウサギに追いついたとき、ウサギを愛するはずでしょう。つまり、ウサギを揺り動かして、置きなさい。今がどんなときであるのかを、説いた。福音を語るのです。

カメは、ゴールを知っています。ゴールとは神に他ならないのです。カメは、御神を知って生きるのですから、ゴールのテープを切るまでは、つまり、人生を終えてみないと決着がつかないというような間違った理解は持ちません。一瞬一瞬が、一歩一歩が、すでに勝利であり完成であることを知っているのです。そのような生き方のことを、教理の言葉で申しますと、「終末論的な生き方」と申します。イエスさまという永遠の神を、今ここで信じ、今ここでイエスさまと信仰によって一つとされているのですから、今、私どもはまさに永遠の今を生きている、永遠を生きているわけです。このような驚くべき喜びの時代が始まったのです。

さて、私どもは確かに、この新しい時代が始まったおかげで勝利者とされました。まったくその通りで、なんら訂正の必要がない福音の真理です。ただそこで、なお問題が起こってくるのではないでしょうか。それは、私どもの実際生活において、どうなのかということです。私どもは、それこそ、連戦連勝のような、相撲の全勝優勝のようなそのような戦いぶりをみせているのでしょうか。残念ながら、答えは直ちに出るのではないでしょうか。実は、私どもは、なお相変わらず、自分の弱さや欠点、自分の足らなさや未熟さによって、困難な、苦しい、悲しい出来事に遭遇してしまいます。人のせいではなく、まさに自分自身が原因になっているのです。そのせいで隣人を悲しい目、苦しい目に会わせてしまうことも、しばしばあるのではないでしょうか。キリスト者である私どももまた、自分の人間としての足らなさ、愛の欠乏を隠すことはできないのです。いへむしろ、キリスト者だからこそ、それがあらわにされるのです。これは、今まで知らなかったことです。信じているからこそ味わうのです。それを、信仰の戦いと呼んでもかまいません。自分自身の信仰が眠っている時代、死んでいるときには、そのような戦いがあることさへ、知りませんでした。その厳しさを知ることなどまた全くありませんでした。死んでいたのですから、当然です。昔は、悪いのは自分ではなく、あなたの方だと言って、済ませていられたのかもしれないのです。しかし、今はそう言えなくなっているのです。信仰によって、霊的に神の御前で生きるからこそ、自分の欠点や、未熟さについて、よく気づけるようになったのではないでしょうか。

パウロは、12章の2節で、「あなたがたはこの世と倣ってはならない。」と申しました。倣うとは、この世の「型」に合わせる、「タイプ」にはまるという意味ですが、この世と調子を合わせ、型にはまってはならない、妥協してはならないとパウロは命じたのです。パウロは今、ここでも同じ内容を語っているのです。それがこの御言葉です。「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」闇とは、この世のことです。古い時代のなかに留まって出てこないあり方、神の光を浴びようとしない、閉ざしている世界のことです。この闇のなかで生きることが、闇の行いです。闇の生活です。

「闇の行いを脱ぎ捨てなさい!」この命令、この招きは、先ず、誰に向かって呼びかけられているのでしょうか。それは、すでに洗礼を受けたローマの信徒たち、教会員への招きなのです。もとより、そこには、求道中の方もおられたでしょうから、求道者への招きでもあるかと思います。その意味では、すべての人への招きでもあると言えるでしょう。しかし、繰り返しますが、直接には、キリスト者に向かって語られているのです。

もしかすると、「闇の行い」ということを、キリスト者とは無関係なものと簡単に、言い切ることはできるでしょうか。パウロは、ここで極めて具体的な振る舞いを例に挙げました。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」酒宴と酩酊、淫乱と好色、これは特別キリスト者でなくとも、なお多くの人々にとっては、良心が働くなら良くないことであることは、分かるのではないかと思います。しかしパウロがここでこのように記しているという事実に、キリスト者にとっても、これらの誘惑と無縁に生きている者もまたいないのだと言うことを、改めて気づかされる思いが致します。

何よりも最後に指摘された、「争いと妬み」のことを思います。人と人とが、相争う、人の幸せや優秀さなどを妬む、これは、人と競争することが原因です。人と比べることが原因です。ここでも先週のウサギとカメのお話そのものを思い出します。主イエスに愛しぬかれた使徒ペトロですら、主イエスから愛されている若き弟子のヨハネと自分とを見比べて、気になってしまったのです。これこそ、私どものまさに急所となる問題です。実に、信仰生活という神さまだけを見つめるべき生活の中で、人と比べることによって自分の位置を測ろうとするのです。それこそ、不信仰です。しかし、私どももまた同じではないでしょうか。ここにこそ、私どもの罪のしぶとさを認めざるを得ないのです。それは、まさに使徒パウロ自身が第7章で、「わたしはなんと惨めな人間でしょうか」と唸った、叫んだ現実の問題に他なりません。

パウロは、言います。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」品位を持ってと申しました。これは、12章3節の「慎み深く」と近い言葉です。そこでも品格ということを申しました。品格のある生き方をしよう。品位をもって歩もうという呼びかけです。キリスト者の品性の問題です。いったい私どもの品性、品格とは、何によって身につけられるものでしょうか。一般の常識では、しばしば教養を身につけることであると言われます。幅広い一般教養を見につけること、多くの大学で、人格の完成に向けて、リベラルアーツと呼ばれるような基本的な学問を修得することだと言われます。あるいは、さらに幼少の躾であると言われます。このようなことは、キリスト者にも共通することです。

しかし、言うまでもなく、ここでパウロが指摘した品位とは、そのようなことではありません。それは特別なものなのです。キリスト者として特別に身につけるべきものなのです。いへ、正しく申し上げねばなりません。キリスト者であるということは、すでにこの品位、この品格を身につけているということなのです。そうでなければ、キリスト者ではないのです。

それならいったいその品位とは何か、どのように身につけられるものなのかということです。それこそ、「闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につける」ということであります。この光の武具を身につけないと、この罪のしぶとさと戦うことができないからです。武具、それは、戦う道具です。ただし光の武具とは、攻撃の道具ではなく、むしろ防御の道具、防具であるというイメージでしょう。エフェソの信徒への手紙第6章には、武具について集中的に語られています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」信じて生きる、信仰の生活では、神の武具を身につけるのでなければ、前進できないのです。信仰の戦いを戦えないのです。そのためには先ず、闇の行いを脱ぎ捨てることが求められるのです。

私どもは今朝、じっくり考えたいのです。私どもキリスト者は、闇の行いを脱ぎ捨てているのか、脱ぎ捨てた自覚を明確にしているのかということです。それならいったいどうすれば、闇の行いを脱ぎ捨てられるのでしょうか。その方法は何なのでしょうか。

おかしなイメージになりますが、ここでパウロ先生が、脱ぎ捨てると言うのですから、その脱ぎ捨てられた「服」はあるのでしょうか。もしかすると、わたしは、どっさりと服を脱ぎ捨てましたと考える方がおられるかもしれません。しかし、このイメージはここで終わりにしないといけません。ここでパウロが語った事は、闇の行いという、いわば「服」は、一度脱ぎ捨てたら、もう二度と着ることのないものではないということです。我々は、自分の体型に合わなくなったり、古くなってしまった服は、捨ててしまったり、古着屋さんに出したりします。しかし、事は単なる外側の何かではない。内側の問題です。信仰の問題です。我々の行いとは、確かに外側の問題です。体でするのです。しかしそれは、自分の考えとか思想、価値観とか欲望、そのような「肉」につける思いが、つまり自分の生まれながらの自己中心的な考えや欲望が、溢れて行動に出るのです。つまり人の行いとは、その人の内に秘めたものの現われなのです。ですから、一度脱ぎ捨てても、又新たな欲望が噴出します。何度も何度も、闇の行いに手を染めてしまうのです。

それならいったい、闇の行いを脱ぎ捨てるために、私どもは何を、どうしたら良いのでしょうか。光の武具を身に着けるためにはどうしたらよいのでしょうか。しかし、そのことを問う前に、根本的に問い、いつも確認すべき基本中の基本があると思います。それは、自分が、既に闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身につけているという事実です。とても単純なことです。つまり、私どもは、主イエス・キリストを信じているということです。もっとはっきり、具体的に、目に見える形で申しますと、私どもはすでに洗礼を受けているということです。この毎週の、主の日の礼拝式で、光よりの光であられるキリストの光を浴びているのです。天からの、御言葉からの、この命の光が私どもと照らしたとき、私どもは光となったのです。先回も引用したエフェソの信徒への手紙
 第5章の13節にこうあります。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」復活されたキリストが、今ここに聖霊によって御臨在していてくださいます。礼拝式とは、この光を浴びる場所です。天からの光に打たれる場所です。そのとき、すべては光となる。光に変化する。光を浴びたら、光るのです。それ以外にないのです。ですから、私どもは繰り返し、ここで主の日のたびごとに光を受けるのです。

信仰のない方々は、「あなたは、毎週、毎週、どうして教会に行くのですか」と不思議に思われるでしょう。しかし、私どもには、毎週なのです。主日礼拝式には、決してお休みがありません。月に二度行けば、まあまあとか、三回行ければ、上出来だなどということはないのです。私どもは、こびりつく闇の行い、内側から出てくる肉の思い、自己中心的な心を、私どもはここで何度でも脱ぎ捨てるのです。皆で、脱ぎ捨てるのです。これには、終わりがありません。主イエス・キリストがもう一度、この地上に来てくださるか、私どもが死ぬまでは、終わりません。洗礼を受けることは一生に一回限りです。しかし、主イエス・キリストを信じることは毎日、毎時間、一瞬一瞬のことです。そのようにして主イエス・キリストを着るのです。

ですから、私どもは、ただ肉体をここに運べば、それで済む、それでよいとは考えません。外側のことではないからです。しかし、信じてここで礼拝式をささげている者に、事実、天からの、神からの光が注がれているのです。死者の中から立ち上がらせられる、そのような経験を、毎週、重ねるのです。どうぞ、毎週、重ねて下さい。それは、説教の力です。聖餐の力です。祈りの力です。賛美の力でもあるでしょう。神が与えてくださる恵みの手段を、用いれば、間違いなく、私どもは主イエス・キリストを身にまとうことができているのです。主イエス・キリストに覆われている、包み込まれているのです。

実に使徒パウロは、ここでまさにこれまでのローマの信徒への手紙の信仰によって義とされるのか、律法の行いによって義とされるのかと問題を、新しい言葉で、新しいメタファーを用い、新しいたとえを用いて総括します。光の武具を身につけるとは、主イエス・キリストを身にまとう。それは、光なるキリストを信じ、浴びることです。ただそれだけで、直ちに身につけられてしまうのです。それこそが、「主イエス・キリストを身にまとう」ことなのです。主イエス・キリストを着なさいという翻訳もあります。主イエス・キリストを仰ぎ見る者は、光を注がれ、光の武具をかぶせられ、よろわれるのです。

そしてそれは、キリストご自身を着ることなのです。キリストをかぶる、キリストで囲まれ、よろわれる。そうなると、わたしどもは小さなキリストのようになるのです。父なる神が、私どもを主イエス・キリストによって、義としてくださるとは、父なる神が、私どもを主イエス・キリストでくるんで、包み込んでくださるということなのです。主イエスの義、主イエスの力でくるまれた私どもですから、神の御前で、義とされ、立つことができるのです。わたしではなく、キリストのおかげで、立てるのです。

さて、キリストを着るということに集中しましょう。着るという表現は、丁寧に考えないと危険な表現でもあるように思います。それは、我々が、服を買い求める時、基本的に何をするか、考えるのかというと、先ず、サイズのことではないでしょうか。男物、女物、ときにはどちらでも身につけられる服もあります。お金の問題も、もちろんあります。しかしやはり、基本は、自分にあったサイズやデザインを自分で選択するということでしょう。服は、着る人に合わせられるのです。
そこが危険なのです。キリストを着るということが、もしも、自分に合うようにということであれば、とんでもない間違いを犯します。ですから、使徒パウロは丁寧に語ります。主イエス・キリストを着る。主イエス・キリストを身にまとうと言うのです。何が大切であるかお気づきになられたでしょうか。それは、主という言葉です。この着物は、着る側が自分で選んだり、自分に合わせて加工することができません。許されません。主なのです。着る人が主ではなく、主イエスを着るのです。つまりイエスさまによって規定される。言わば、この着物に自分が合わせられるということです。

新共同訳聖書は、まとうと表現しました。これは、優れたことと思います。つまり、当時の服とは、私どもの洋服ではなく、いわば、マントのようなもの、和服のような羽織うものなのです。ですから、サイズフリーという感じです。しかし、それでもサイズがあるでしょう。しかしパウロは、主イエス・キリストをまといなさいと言って、主人がどちらであるのかをはっきりさせるのです。

ある人は、キリストを着るということであっても、何か、自分が主人のようになって、自分がキリストを着る、あるいはキリスト教を自分の信じるべき宗教として選択する、そのようなことを重んじます。確かに、本来、宗教ほど本人の自由と決断によって選択してしかるべきはないでしょう。しかし、私どもはその人間的な分かりやすい知恵を拒否します。私どもは幼子に、生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を施すのです。その洗礼を、子どもたちは選ぶことはできません。まさに着せられるのです。

遠藤周作さんは、生涯、自分がカトリックの幼児洗礼を受けたことを問い続けました。キリスト教、ローマ・カトリックがなんだか自分にしっくりこないと、葛藤を続けられました。その結果、自分になじむキリスト教、イエスさまを作ってしまったのではないかと、個人的にはそう理解しています。

使徒パウロは、ここでイエス・キリストをではなく、主イエス・キリストを身にまといなさいと申しました。とても注意深く語っているのです。イエスさまは、主であると言うのです。つまり、私どもが主なのではないということです。キリストを着るとは、まさにそのような転換が起こることです。これが、新しい時代のしるしなのです。誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者となるのです。古いもの、古い時代は過ぎ去り、すべてが新しくなるのです。そして、そのような新しい時代に生きることができるのは、ただ、キリストを主として迎え入れるというこの一点に根ざしているのです。

しかも驚くべきことに、この主イエス・キリスト御自身は、一人ひとりにぴったりと合うのです。幼子にも、高齢者にもぴったりと主なるキリストが合ってくださるのです。男でも女でも、教養があってもなくても、どの人種であっても、誰にでも、ぴったり、しっくりくるのです。そのようにして、キリストの命が私のなかで生きて下さるのです。主なるキリストご自身が、そうなってくださるのです。なぜなら、このイエスさまが主であり、救い主だからです。主イエス・キリストを着るとは、そういうことです。そのようにあなたの主、救い主となってくださるのです。ですから、使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう言いました。「もはや我生きるにあらず、キリストわがうちにありて生きる。」これが信仰に生きることです。言葉を変えれば、キリストに生きていただくことです。これが信じて生きることです。主なるイエスさまに、わたしの中で生きていただくのです。そのように、イエスさまを主、救い主とする、これが信じること、信仰なのです。パウロは、そのことを、主イエス・キリストを身にまとうと表現したのです。信じている自分の頑張りではない、このキリストが私どもを包む、覆う、そのようにして上からの力を着せられるのです。自分の力で生きるのではない。むしろ、それをやめるのです。イエスさまの力、死を打ち破る命の力、罪人をほっておかない愛の力、救い出す恵みの力にお任せするのです。それが、信じること。それが洗礼を受けた意味。その効力なのです。

そのとき、キリスト御自身の品位が、本当は、品位のかけらもない罪深い私どもを包み込んでくださいます。キリスト御自身のあの愛の振る舞いが、私を通して始められて行くのです。どんなに闇の過去があっても、今現在、闇の只中にいても、私どもがただこのイエスさまを信じるなら、信じてまとうなら、それらは一切、キリストに覆い隠されてしまいます。服を着ていれば、裸の自分をさらすことはありえません。それ以上に確かに、キリストを信じている人は、神の御前に、神の御顔の前では、罪人として見られることは決してないのです。むしろ、キリストのふるまい、キリストの品位が、自分のものとして認められるのです。それを、義とされると申します。私どもは中途半端ではなく、完全に義とされているのです。

それはどんなに美しい姿でしょうか。いかなる地上の美しさにも負けないほど、満開に美しく咲き誇る桜の美しさにも負けません。神の眼差しには、比べられない美しさで、見られているのです。それが、キリスト者なのです。こうして、私どもの義は揺ぎ無いものとなるのです。わたしの義ではありません。ただ信仰によるキリストの義が転嫁されるのです。キリストの美しさがかぶせられるのです。キリストの美しさが自分の闇や汚れをくるんでしまうのです。

だから父なる神は、私どもをまるで神の実子であるかのように愛してくださり、受け入れてくださるのです。どんなに泥だらけの、傷だらけの人生、罪深い人生、歩みであっても、神の御前に立つにふさわしい装いを授けられるのです。天国に入れる人間になってしまうのです。

だからこそ私どもは、何度も何度も、繰り返して、闇の行いを脱ぎ捨てます。神へと悔い改めるのです。方向転換するのです。どうぞ、それを一人で行いましょう。毎日、行いましょう。しかし、何よりもすばらしいことで、神に喜ばれることは、それを皆ですることです。つまり、主の日のたびごとに、ここで光を浴びることです。教会に来るということは、方向を転換しに来ることなのです。あなたは今、光の方を見ているのです。光に向かっているのです。神は、今、そのように導いてくださいます。心から感謝しましょう。それだけに、この美しさを、何にもまさって大切にしてまいりましょう。今週も、肉に心を用いることのないように、毎日の祈りの生活に、そして祈祷会に、そして何よりも来週の礼拝式を目指して励みましょう。いつも光を浴びていましょう。いつも、イエスさまと一緒に歩みましょう。それが私どものゴールとなるからです。その歩みこそ日中の歩みです。それは、どんな春の暖かな光にもまさる、イエスさまの暖かな愛の光を浴びて、主イエスと共に歩む歩みのことであります。

祈祷
私どもを、罪あるままで愛し、受け入れて下さいました主イエス・キリストの父なる御神。あなたが、御子イエスさまの美しさで私どもを包み、キリストを身にまとわせて下さったからです。どうぞ、自分の罪深さ、自分の弱さや足らなさに目を注いで、もうだめだと立ち止まったり、あるいは、誰でもそうだと開き直ったりすることなく、闇の行いを脱ぎ捨て、自分の罪を心から悔い改め、しかし同時に何度でも主イエスの恵みと義を信じる確かな信仰を与えて下さい。自分自身を、美しく見る眼を開いて下さい。主キリストを身にまとう者とされていることを確信させ、日々、信仰を富ましめてください。アーメン。