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「立ち上がらせてくださる主」

「立ち上がらせてくださる主」
2008年4月20日 
テキスト ローマの信徒への手紙 第14章1節-4節
「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」

私どもの教会は、1994年に開拓伝道を開始して、その最初から、一つの標語、祈りの言葉を掲げてまいりました。週報に3年余り記し続けました。こういう言葉です。「ここに神の教会を、ここに聖餐を囲み、キリストだけを主と告白し合う、慰めの共同体を形成させてください。」これは、私どもの教会の進むべき方向性を示した言葉です。私どもは今年改めて、名古屋岩の上教会の原点を学び直し、これを正しく継承し、さらに深めて行くことを目標に、新しい年度をスタートいたしました。

4月の第一主日は、私どもの開拓伝道開始の記念の礼拝式を捧げました。そこで、「岩の上に立つキリストの教会」という主題説教を行いました。私どもの教会が何を特別に重んじて教会の形成、キリストの教会を建て挙げて来たのか、そのことを改めて確認したのです。主題説教でしたから、与えられた聖書のテキストの文脈、御言葉の流れに従って語りませんでした。三つのポイントを語りました。

今朝のテキストは、最後の三番目に直に関わる事柄が語られています。その三番目のことは、実は、あまり強く語ることはなかったかと思います。しかし、実際には、この三番目のことこそ、第一、第ニの点が本当に実ってくるか、実らないかの試金石となる事柄でした。結局、信仰の姿や、教会の姿とは、どこで明らかにされるのか、それを示したのが三番目で語ったことでした。それは、項です。「決して裁き合わない教会を形成しよう」。会員同士が、お互いを裁く、批判する。こんなに悲しく、惨めな事はないからです。実は、かつて、赴任した教会で、その数ヶ月後であったと思いますが、そのときまだ洗礼を受けていなかった方から、忠告されたのです。「この教会は、愛のない教会です。あの人、この人との関係は、どうのこうの・・・」わたしに訴えてこられたのです。とても、驚かされました。それ以上、申し上げることはできません。

昔、「教会生活の処方箋」という書物を教会でも読みました。一人の牧師が長い経験から教会生活の勘所を書かれました。うろ覚えですが、こういうことが記されていました。教会を混乱させる方法というものです。それは、一言で十分というのです。「この教会には愛がない」教会は、愛の共同体、神の愛の共同体であることは、キリスト者には、前提とされていることだからです。ですから、そのような声がキリスト者、会員の中から公然と出るならば、やはり、うろたえるのではないかと思います。そこでうっかりすると、愛がないと指摘される原因、言わば犯人探しが始まるかもしれないのです。そのような教会は、まさに惨め、悲惨としか言いようがないと思います。

私自身の深い祈りと戦いは、そもそも、そのような発言が出ないような教会を形成したいということでした。そしてそれを先ほどの標語の祈りのなかでは、どこで現れているかと申しますと、それは、「慰めの共同体」でした。

この「慰め」という言葉は、私ども改革教会に生きるキリスト者であれば、おそらくすぐに思い出すのは、ハイデルベルク信仰問答の問い一であるかと思います。岩の上教会では、まだ正面から、ハイデルベルクカテキズムを学んでいませんが、しかし、わたし自身は、このハイデルベルク信仰問答によって、改革派の教えの扉を開いたのであって、慣れ親しんだ、信仰問答です。さて、この問い一、「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一つの慰めは、何ですか。」このカテキズムは、聖書の教え、その福音の内容を、この一つの言葉に凝縮して、提示します。それが慰めです。私どもの開拓の祈りの慰めとは、まさにこのハイデルベルクから取ったものなのです。さて、それなら、答えは何でしょうか。「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」要するに、わたしは、主イエス・キリストのものとされている、これこそ、唯一の慰めであるということです。この福音の現実がはっきり現れているところに、慰めが与えられ、生きる力、救いが与えられ、そして、そこには、主イエス・キリストの共同体、主イエス・キリストの慰めの豊かに与る交わりが築かれるのです。私どもはそれを、祈り求めて、今日まで進んでまいりました。

さて、前置きが長くなりましたが、今朝の御言葉はまさに、このどのようにしたら「互いに裁きあわない」教会を形成できるのか、しなければならないのかという問題を、まさにその正面から取り上げている箇所であります。使徒パウロは、ローマの教会に行ったことはありません。その意味では、多くの会員とはまだ面識がありません。しかし、漏れ聞いている問題があったのです。これは、驚くべきことですが、直接見ていない、しかもまだ面識のないキリストの教会に向かって、具体的な課題に向かって第三者が、語り始めるのです。これは、今日の私どもの教会からすれば、考えられないようなことかもしれません。しかし、パウロは使徒です。福音の真理をすべての民、教会に証しする務めが与えられています。

しかしもしそれだけなら、使徒がいない私どもの時代では、このような仕方は、非常識かと言えば、そうではありません。福音の真理は、どの教会であっても、共通のことですから、普遍的な真理として、語りえるのです。そしてまさにここで記された事柄は、単に1世紀のローマの教会の固有の特別の問題ではありません。21世紀の日本の教会、私どもの教会にとってもまったくそのまま当てはまる、普遍的な問題なのであります。

教会は、キリストの教会でありますが、その教会を構成しているのは、キリスト者です。つまり、人間です。その人間は、完成された人間ではもちろんありません。罪人なのです。イエスさまに赦していただいたのですが、罪人です。そして、男性と女性、子どもと大人という違いがあります。当たり前のことですが、教会員は、ひとり一人がお互いにまったく別の人格を持っているということです。どのような家庭に生まれ育ったのか。教育のこと、職業のこと、性格のこと、一つひとつが違います。同じ家族、兄弟であっても、一人ひとり異なっていて、お互いを理解することは、並大抵のことではありません。そうであれば、神の家族、キリストにある兄弟姉妹であっても、一人の人間として、お互いを理解しあうことは、最初から申すなら、ほとんど不可能なことであると言わねばなりません。神のみが、自分自身を本当に理解していてくださる。自分自身でも自分を理解できないのですから、誰か、人間を、親や尊敬できる人であっても、そこには当然限界があり、基本的には、繰り返しますが、不可能なことです。だからこそ、私どもは、神を御父として持つことの喜びと恵みを深く知ることができるのです。主イエス・キリストを信じて救われることによって、つまり、私ども人間は、主イエス・キリストにおいてのみ、本当に自分の完全な理解者を得ることができるのです。

さて、使徒パウロは、ここで「信仰の弱い人を受け入れなさい。」と勧めます。それなら、信仰の弱い人とは誰のことなのでしょうか。おそらく、ユダヤ人からキリスト教信仰へと導かれた人たちのことかと思います。反対に、信仰の強い人とは、これまで真の神を信じることなく過ごしていた異邦人のことなのかと思います。私どもは、信仰の弱い人がユダヤ人であると言うと、何か意外な気がいたします。なぜなら、彼らこそ、生まれたときから、徹底して聖書を学び、教えられて育った人たちだからです。むしろ、福音を聴いてはじめて、天地の創造者なる神、そして御子なる神イエス・キリストを知って、イエスさまの十字架と復活を信じた私どもの方が、信仰が弱いように思えてしまいます。

ここで問題にされていることは、食事の問題です。どうでもよい事のように思われるなら、それは違います。信仰の問題とは、心の中の問題だけではなく、生活のすべての事柄に関わることだからです。日曜日だけのことではなく、一週間の全生活にかかわり、生活を形作るものなのです。そして人間の生活の基本は、やはり、食べることだと思います。今、ローマの教会の中でもまさにこの生活のことを巡って、教会員の間に、誤解や批判が生じていたことが分かります。使徒パウロは、当然、このことを知っていました。しかし、手紙の最後の部分で、ついに、この問題に触れるのです。逆から申しますと、これまでずっと語ってきたことこそ、この問題を解決させる糸口であり、解決の方法であるのだということが、今ここではっきりすると思います。つまり、福音こそ、この具体的な問題を根本から解決する最短距離であり、解決の筋道なのです。お互いを裁きあわない。批判しあわない。むしろ互いに愛し合う。いったいどうしたらよいのか、それは、すでに第1章からずっと語られた福音を、正しく信じ、弁えることにこそあるのです。教会の中で起こる人間関係の具体的な問題の解決の道とは、福音の真理が鮮やかにされ、それに生きることによってもたらされるものなのです。

パウロは、「信仰の弱い人を受け入れなさい。」と申します。「受け入れる」と訳されていますが、このニュアンスは、しぶしぶ、パウロ先生に言われたから、そうするというものではありません。ある英語の翻訳では、「ウェルカム」と訳していますが、まさにそのようなニュアンスなのです。信仰の弱い人を歓迎してあげるということです。もししぶしぶ受け入れるとなると、おそらくその後でこういうことが起こるのではないでしょうか。その人の隣に行って「実はね、あなたの信仰は、弱いですよ。しかたなく受け入れはしますが、早く、我々のようになってもらわないと困りますよ。」しかし、使徒パウロは、先回りをするように、「その考えを批判してはならない」と申します。つまり、そのように言ってはならないということです。

ユダヤ人にとって何を食べるのか、食べてはならないのか、それは、まさに子どもの頃から染み付いたことでした。旧約聖書によって教えられてきたのです。その一つの典型的な例は、あの大使徒のペトロの物語でも分かります。使徒言行録第10章です。少し長いですが朗読します。「昼の十二時ごろである。 彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」 すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」 こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。」

旧約聖書、特にレビ記には、食事の規定が細かく記されています。しかし、主イエス・キリストによって、世界は新しい時代に切り替わりました。新しい時代を生きる人間には、そのような食物の規定は、無効になりました。この規定を示してくださった神ご自身が、今は、食べなさい、食べて宜しいと宣言されたからです。しかし、ペトロでさへ、生まれた時からの生活の習慣を一気に克服することは難しかったわけです。ペトロもまた、「信仰の弱い人」の中に入れられるかもしれません。ところが異邦人から信仰に導かれた人には、これが理解できません。主イエス・キリストの福音によって、十字架と復活の出来事によって、ただ信じるだけで救われるというメッセージを聴いて信じた者たちにとっては、まったく愚かしいこととさへ映ったかもしれません。しかしパウロは言うのです。家族として、兄弟として大歓迎しなさい。歓迎とは、その人を真ん中に迎え入れることです。その理由は、第15章の7節においてはっきり示されています。「キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」キリストが受け入れてくださっている人だから、ウェルカムなのです。

3節には、こうあります。「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。」軽蔑を、軽んじる、侮るとの訳もあります。食べない人を軽く見る、これは、軽く見られた側からは耐え難いことです。軽んじるとは、無視すること、周辺に追いやることです。一種の、殺人なのです。反対に、しかも、神に仕え、教会に仕え、信仰に励むその姿から判断されるのではなく、豚は食べない、動物は食べないという、食事の問題で、軽んじるということが、信仰の強い人から出る。そこに私どもが真剣に考えなければならない問題があります。

反対に、食べない人は、裁いてはならないのです。ユダヤ人キリスト者が、異邦人キリスト者に向かって、あなたがたは、本当に信仰が不徹底だ、信仰が身についていないと裁いているのです。その信仰は頭や心だけで、自分たちは全生活の中で信仰者としてはっきりした違いを際立たせている。それが、できない信仰者、しようとしない信仰者は、信仰が弱い、劣っている、不徹底だ、不熱心だと裁いているのです。

そうなりますと、どちらも自分の方が、信仰が強い、信仰が熱心であると考えているわけです。しかし使徒パウロは、ここでユダヤ人キリスト者に肩を持つのでもなく、かと言って異邦人キリスト者の肩を持つのでもないのです。どちらも福音の真理に立っていないと判定しているのです。そもそも、信仰が強いとか弱いとかの議論など、ここではまったく議論されていないのです。

4節にこうあります。「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。」召使いは立ちます。と言う事は、倒れているということではないでしょうか。そして、倒れている召使いとはどちらの側かと申しますと、「食べる人」のことなのであります。つまり、信仰の強い異邦人キリスト者の方です。しかし、「主は、その人を立たせることがおできになるからです。」主は、異邦人キリスト者を立たせることがおできになるのです。

しかしこれは、話が複雑になりますが、反対に、そのように裁いているユダヤ人キリスト者もまた、倒れていることになるのではないでしょうか。そして、そのような倒れているユダヤ人キリスト者もまた、主なる神によって、立たせていただくことができるのです。

要するに、ここでは、どちらが本当の意味で信仰が弱いのか強いのかを、議論しているのではないのです。確かに、これまでローマの信徒への手紙で語られた福音の真理に照らしてみれば、明らかに、ユダヤ人キリスト者の方が、信仰が弱いということになるでしょう。新しい時代の始まりに、いささかうろたえているわけです。ですから、彼らは、きっぱりと食べ物への古いこだわりは捨てた方がよいでしょう。しかし、今、使徒パウロは、そのことを問題にしているのではないのです。パウロがここでしていることとは、教会員が、お互いをどのように見るのか。これに問題を集中させるのです。このテキストの急所になること、つまり、キリストの教会を形成する上で、急所になること、それは、教会員、キリスト者の目が開かれることです。

そこで、パウロは言うのです。あなたが軽んじている人、あなたが裁いている人、それは、他人の召使いであるということです。召使いという言葉が、突然のように出てきて、戸惑うかもしれません。教会員は、自らを召使い、僕として自覚しているからです。自覚すべきだからです。それなら、仕える相手はどなたかです。言うまでもなく、神です。先週の言葉で申しますと、主イエス・キリストです。キリスト者はすべてこの主イエス・キリストのものなのです。主イエス・キリストの僕なのです。主人は、イエス・キリストなのです。ですから、他人の召使いと言ったのです。イエスさまの召使いなのです。

ハイデルベルク信仰問答の問い一が明らかにする福音の真理であります。唯一の慰めとは、救い主イエス・キリストのものとされていることです。キリストの所有とされていることです。私どもはキリストのものなのです。私どもが罪の奴隷、死の召使いであったにも関わらず、キリストがご自身の命をかけて、その血を流してくださって、今や、買い戻されたのです。そのようにして、私どもは今、罪と死、神の怒りと裁きから解放されたのです。もはや、私どもは、自分の不信仰、自分の罪の行いによって神の怒りと呪いを受ける必要がなくなったのです。イエスさまが、身代わりに受けてくださったからです。そのようにして、私どもは、イエスさまのもの、イエスさまによって救い出されたのです。今や、主イエスの僕なのです。もはや、神のものなのです。しかも、中途半端ではなく、キリストを身につけている、キリストを着せられている、キリストに被われている者とされたのです。ですから、美しい場所、聖なる場所、永遠の神の国、天国に堂々と入場することができるものとされたのです。その美しさは、キリストの美しさそのものなのです。満開の桜の花でさへ、その足元にも及ばない、美しさで装われているのです。私どもは、先ず自分自身を、そのように見ることが必要です。

このテキストでは、自分自身だけではなく、それをお互いにまで広げるべきことが言われるわけです。あなたの兄弟姉妹たちは、あなたと確かに考え方も行いも、何から何までぴったり同じというわけには行かない。しかし、そこで忘れてはならないこと、見誤ってはならないことがある、それは、その人もまた、自分がキリストをまとう者とされ、キリストに贖われ、キリストに救われ、キリストに属するもの、キリストの所有とされた者、慰められた者であるということです。結局、裁きの問題、教会員の交わりの問題とは、福音を正しく信じるということによってかかっているのです。その人の深い人格、親しみやすく謙遜な性格、人柄の問題ではなく、もとより、そのような事がどうでもよいということではありませんが、しかし、本質は、福音をどう理解するのかということなのです。福音を正しく理解し、これに生きるところでは、信仰が強い、弱いということが、教会の交わりを損なうことはないということです。

わたしは、ここで洗礼を受けられた方々、この教会に転入された方々に、必ず、申し上げてきたことがあります。それは、お互いをキリストにあって見ようということでした。先ず、牧師は、あなたを神がこの教会に与えてくださった会員、一つのキリストの体を構成する方と受け入れます。それだけに、あなたも私をそう見てください。つまり、あなたのために与えられた牧師ということです。そして、教会員お互いをも、偶然にここに集った人ではなく、神のご計画に基づいて、兄弟姉妹とされた人として見るようにです。キリストを通して見るということです。相手をキリストのものとして見るということです。キリストを着せられている人です。キリストに贖われたキリストのものです。その時に、ここにまさに慰めの家、慰めに生きる共同体が形成される土台が整えられるのです。

あのペトロが、若き弟子ヨハネを見て、心が動揺したように、洗礼を受けたばかりのときには、その眼差しは、キリストに集中しています。しかし、やがて教会員の信仰の姿、人柄、生活態度を見て、自分の信仰が左右されることが起こるのです。そこに危機があります。そして、裁いたり、軽んじることが起こる、互いに愛がないとなじりあう。それは、福音の理解に問題があるのです。私どもは、慰めの家を形成したいのです。それは、徹底的に、教会がキリストのものであり、キリスト者がキリストのものであり、キリストの恵みによってのみ、教会もキリスト者も立つことができるという福音の原点、その土台に堅く立つことです。

しかし振り返って見ますと、すでに私どもは、何度も倒れてきたのではないでしょうか。言うまでも泣く、会員の誰それさんのことではありません。自分自身のことです。しかしそこで同時に、私どもは知っているはずです。そのような倒れやすい私どもが、その度に、わたしの主に、わたしの唯一の真の主に、主イエス・キリストによって立ち上がらせていただいて来たということをです。
確かに、私どもは今日まで、祝福された教会の交わりを築いてまいりました。そのことをどれほど感謝しても足りません。しかし、パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ第10章でこう警告した言葉を真剣に聴きたいのです。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」私どもは、これまでのように、いへ、これまで以上に、熱心に、福音の真理に立つ教会として励んでまいりたいのです。そして、この慰めを、豊かに証ししたいのです。

祈祷
父なる御神、私どもは自分と異なる者の存在に、生理的に反応してしまうようなまことに弱い人間であることを改めて思います。共に一つの教会に生きる兄弟姉妹についてさへ、そのような罪と過ちからなお自由になりきれていません。こびりつくこの罪と弱さをどうぞ赦してください。御神、どうぞ、私どもがまさにそのような弱さを抱える罪人であることを忘れず、まさに赦された罪人であり、お互いを欠け多き人間でしかないことを認める、健やかさに立たせてください。そして何よりも、そのような私どもを救い出し、あなたのもの、あなたの召使いとしてくださった事実、キリストをまとわせて、美しくされている霊的な現実に、私どもの眼をいよいよ開かせてください。そのようにして、ここに神の教会を、ここにキリストだけを主と告白する、慰めの共同体を形成させてください。そして、この慰めが、私どもだけにでではなく、ここにきていない多くの人を立ち上がらせる力、交わりとなることができますように。
アーメン。