過去の投稿2008年6月22日

6月22日

★  本日は、金起泰先生ご夫妻をお迎えすることができました。講壇交換の恵みを、心から感謝いたします。韓国高神派の教師と中部中会との始めての宣教協力として、2004年から浜松伝道所に赴任されました。現在、韓国はアメリカに次いで、多くの宣教師を派遣しているかと思います。もはや韓国の宣教師は、珍しくありません。しかし、金先生のなかに、韓国のよきキリスト者の典型を見る思いが致します。中部中会の教師たちは、どれほどよい影響を受けている(受けるべきです!)ことでしょうか。久しぶりの御奉仕です。しかも本日は、読書会において、先生から伝道について学びます。伝道への熱い思いを、私どもも与えられています。しかしなお、私どもに課題があることも事実かと思います。よき学びと懇談の時として下さい。  

☆  浜松伝道所の40周年記念誌に掲載した文章を、ここにご紹介いたします。
    「新たな出発」 です。
【浜松伝道は、困難な伝道でした。しかし今、金起泰協力宣教師の御言葉の権威にもとづく熱心な指導によって、浜松伝道所は大きく動き始めています。それは、会員が自ら認めるだけではなく、地域の人々にも知られ始めています。伝道する教会、奉仕する信徒として整えられ始めているのです。
私どもはあらためてこのとき、40年にわたって、浜松伝道のために捧げられた中部中会、宣教教師たち、会員の皆様の尊いご奉仕と献金を振り返りその重みを覚えています。心からの感謝が湧き上がります。
しかし、金先生は、こうも仰います。「これまでの40年間は感謝でした。けれども、神さまの御前にもっと応答できたのではないか・・・」この言葉は、先生の存在をかけた問いです。誰よりも真摯に聞き、自らを問わなければならないのは、同じ伝道者である私自身です。
会員方は、御言葉の権威に生きておられる先生の信仰と生活に説得され、感化されて、新しくされ始めています。牧師の霊性が、信徒教育の最大の力となることを、身をもって見せていてくださいます。もしも、「韓国式」などと簡単に片付けて、自らの宣教の責任を割り引くような思いを持つなら、自分たちこそ、「改革派」とはかけ離れてしまったところにいると知るべきでしょう。
神は、浜松伝道所に、「新しい出発」を与えていて下さいます。この「新しさ」は、「福音」によってつくられる新しさです。主イエス・キリストの福音(神の御言葉=説教と聖餐)が、教会を支配し生かすとき、教会は真の教会となります。古びて行く世界の中で、常に新しい存在(共同体)として形成されます。そのような教会こそ、世界へと差し出されたまことの希望であり、唯一の救いの機関です。また教会は、この世界への神からの愛の手紙です。記されている文字は、神の言葉、福音に他なりません。しかし、文字が記されている場所は、会員一人ひとりの存在であり、何よりもその交わりなのです。その交わりこそ、神の御言葉が作り出す実りなのです。まさに、「新しい交わり」なのです。
皆様が、いよいよ、新しい存在であり続けられますように。そのために、福音(御言葉)を中心にした、キリストの権威に服する群れとなりますように。そのために、立てられた金先生のご奉仕がいよいよ祝福されますように。会員の皆様の伝道奉仕と日本キリスト改革派教会としての形成の戦いが豊かに実りますように。聖霊なる御神のいよいよ豊かな励ましを心から祈ります。  Soli Deo Gloria!(ただ神の栄光のために)】

★   先週の大会役員修養会は、伝道を主題にしました。最初の晩の講演は、後藤公子先生のインドネシア報告でした。単なる報告ではなく、先生の熱いメッセージを心深く聴きました。「献身」が訴えられました。キリスト者は一人残らず、主のものです。生きるのも死ぬのも主のもの、主のためです。キリスト者即、献身者です。当然、すべてのキリスト者に「使命」が与えられています。個々に異なりますが、共通の使命があります。キリストの証人として生きることです。ですから「伝道」と無関係に生きる人は、誰一人いません。先生は、とりわけ牧師の献身を問われました。「サラリーマン牧師」とはっきり仰いました。そうなる危険性を、私自身のうちに見ます。実に、率直でストレートな問いかけです。しかし質疑応答の折、この根本的な問いかけにどれほど、聴衆が、真剣に応答しうるのか・・・、疑わしい思いを抱いたのは、私だけでしょうか。

☆  二晩目の講演は、日本キリスト教団立の東京神学大学の近藤勝彦教授。その主張は、我々と同じでした。私どもは、近藤先生の講演の主旨を体現するために、60年も前に、創立宣言を公にしました。日本基督教団については、「この全面的不成功は求むるに道をもってせざるによると言うほかなかるべし」と言いました。今日の教団の状況はまさに、それです。しかし、60年後の私どもは、「果敢なる進軍をな」したのか・・・。教団にはるかにまさって、主と同胞の前に責任を問われていると、私は、真剣に考えています。