過去の投稿2008年6月29日

6月29日

★  先週は、講壇交換として、金起泰先生ご夫妻をお迎えすることが許され、心から感謝いたしました。朝夕の祈祷会にて、あらためて受けた恵みを分かち合いました。お一人ひとりが、一種の衝撃を受けてくださったように思います。御言葉に生き、従う存在は、まさに「衝撃」をもたらすのではないでしょうか。使徒パウロこそは、フェストゥスから「お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」と言われています。狂人であるという批判、さげすみです。それは、パウロの振る舞いについての指摘ではありません。語った内容についてです。それは、23節「メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになる」というものです。他ならない、私どもの福音の中核、主イエス・キリストの十字架と復活のメッセージであります。神の民にも異邦人にも告げられるべき知らせは、この福音です。しかし、これは、人間理性では、何よりも罪によって死んでいる理性では、理解不能の言葉なのです。聖霊を注がれ、新しくされてはじめて「理解」しうるのが聖書の御言葉です。私どもは、聖霊なしで理解されるかのように福音を語りうると考えるところがあるのではないでしょうか。つまり、お祈りしなくても、福音を正しく語れば、誰にも理解、分かってもらえるかのように考えている節がないでしょうか。福音宣教を「愚か」と言ったのは、使徒パウロでした。(コリントの信徒への手紙一 第1章18節以下)彼は、何度も「お前は頭がおかしい」と叱責されたのではないでしょうか。わたしは、そう言われたことがありません・・・。しかしそれは、 パウロのように語っていないからに過ぎないと思います。

☆   福音とは、わたしの言葉、わたしの知らせではありません。神の言葉、キリストの知らせです。神がこの福音によって私を救ってくださったのは、私どもが福音を宣教し、キリストを証しするためなのです。キリスト者の存在は、使命に生きる存在です。全キリスト者共通の使命は、「証し」です。キリストを証しすることです。それには、言葉が伴います。もとより、行いは、福音を飾ります。そして何より、証拠立てます。ディアコニアに生きる教会でなければ、福音の力と真実を証拠立てることは難しいと思います。しかし、そこで間違ってはなりません。福音を伝道するためには、自分が立派なキリスト者として自他共に認められるまで待つ・・・ということではありません。あるがままで、キリストの証人とされました。つまり、キリスト者、神の子として救われ、洗礼を受けたのです。少なくともこの教会で洗礼を受け、信仰を告白した私どもは、伝道の資格を付与されています。聖霊を注がれています。私ども自身がすでに福音に豊かにあずかっているのです。もとより、捉えきってしまっているわけではありません。(フィリピの信徒への手紙第3章12節以下)地上にある限りは、目標を目指してひたすら走る以外にありません。しかし、すでに目標にあずかっているお互いです。人生の究極のゴール、意味、目的を知り、これに、毎日、あずかっているのですから。

★  伝道とは、あのカメがウサギを、「あなたがたが眠りから覚めるべきときが既に来ている!」(ローマの信徒への手紙第13章11節)と、隣人を揺り動かして、起こす働きでもあります。(浜松伝道所では、前回の伝道説教が、会員のなかでなお語り合われている由)私どもの責任です。そこには、労苦、苦難が伴います。しかし、眠りから覚ます、働きを担い続けてまいりましょう。肉体的な意味で、寝ている人を起こしたときの反応はすでに皆さんが、経験済みのことでしょう。自分自身も経験しているでしょう。
 ?「何故、起こすのか!!今、気持ちよく寝ていたところなのに!」
 ?「助かった、起こしてくれてありがとう!」  
?「なぜ、こんな時間になるまで、起こしてくれなかったのぉ!!」  
日本伝道では、?の反応が多数です。皆様、経験済みです。しかし、?も経験しています。洗礼入会者の声です。 そして、?もまた、少なくないのではないでしょうか。実は私自身、そのような思いを持った人間の一人なのです。だからこそ、伝道に専心するのです。

☆   高蔵寺教会には、学生たちが14名、予想以上に出席されました。通常の講壇交換ではなく、勝手な企画で、伝道礼拝(説教)をさせて頂きました。JRから徒歩0分という紹介が、効いたのかと思います。講義も伝道説教も、ただ一つのことを目指しています。アグリッパは、パウロに「キリスト信者にしてしまうつもりか」と言いました。わたしも同じです。ただし、キリスト者にすることは人間には不可能です。ですから、祈ります。キリスト者になって欲しい!私も、自分に与えられた場所で最善をと祈ります。しかし、伝道の「前線」に立つのは、信徒です。ちなみに、牧師は、監督であり、トレーナーです。(時に、監督兼選手になる必要もありますが。金先生は、まさに、現在、それをなさっておられます)     

★   金先生ご夫妻と午後は、夕食までしばしの交わりを楽しみ、キリスト者、伝道者の基本を確認させて頂き、心から感謝致しました。