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「信じられるのは自分だけ?」

「信じられるのは自分だけ?」
2008年8月10日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章14-15節a

「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。
それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」

先週は、後藤公子先生の説教によって、礼拝を捧げました。2週間ぶりに説教卓に着きます。本日は、8月の第二主日でありますが、先週祝うことのできなかった聖餐の礼典を祝います。この礼典に招かれている今朝の礼拝式を心から感謝致します。

ローマの信徒への手紙は、ついに最終の局面に入りました。もうはっきりと終わりが見えました。今朝、お読みしました箇所は、著者である使徒パウロが自分のこの長い手紙を、振り返ってみているところです。この手紙を執筆するために、どれほどの長い時間を用いたのか、今となっては、誰も分かりません。テルティオという兄弟がパウロ先生の語った言葉を、羊皮紙かパピルスかに丁寧に書き写したのです。書くテルティオは大変だったと思います。間違ってはならないからです。そして、今日の我々が用いる紙や鉛筆、消しゴムはありません。今では、多くの方が、紙も筆も用いません。キーボードを叩きます。修正は容易にできます。しかし、この手紙の口述筆記は違います。使徒パウロは、今、改めて、全体をテルティオに読み直させたのかもしれません。この手紙を読んだローマの信徒たち、教会員もおそらく最初は、一気に読んだことと思います。そしてそれは、1時間や2時間では及ばなかったかと思います。午前、そして午後にも及んで読んでいったことでしょう。そのような長い手紙を書いて、使徒パウロ自身がそこで言わば、自分自身の手紙を読み返してみての感想がここで述べられています。

「この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。」「かなり思い切って書いた。」それは、どの箇所なのでしょうか。皆様は、これまでの文章を振り返って、どの部分が思い切って書いた箇所で、目も覚めるような部分であるとお考えでしょうか。挑戦的な文章という意味です。

先週、一人の説教聴聞者、礼拝出席者として説教を聴く恵みにあずかりました。神学生の説教です。夏期伝道として二ヶ月間でしょうか、教会に住み込みながら奉仕と訓練を受ける神学生です。その方の説教の冒頭で、今朝の説教には、「自分自身戸惑いがある」とそう仰ったのです。「今から語ることは、献身についてであって、皆さんにとっては、かなり厳しいことを語る、聴くことになると思う。それは、教会員の皆さんが、たるんでいる信仰生活を送っているので、なんとかしないとという考えからではするのではないのだ」そう前もって断られて説教を始められました。弟子のペトロをお召になられたテキストを語れば、当然のことなのだと申しました。

これは、神学生として説教を語るときの一つの典型的な姿ではないかと思わされました。教会員との交わり、コミュニケーションがまだまだ取れないところで、説教するという固有の状況です。説教の免許は取得して、公に説教することが許されるかもしれませんけれど、なお、牧師ではないことから来るものかもしれません。しかし、一方で、聖書のテキストをその通りに語れば、厳しい説教になることは、避けられない。そこで、神の御言葉を正しく語ることを回避する、逃げてしまえば、もはや説教ではなくなってしまうことも、神学生としてよくわきまえられているわけであります。

さてそれなら、使徒パウロはどうして、「思い切って書けた」のでしょうか。一つは、第14節で明らかにされています。「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。」

兄弟たちを丁寧に訳せば、「わたしの兄弟たち」です。ローマの信徒たちの多くとは、面識がありません。しかし、使徒パウロは、福音によって、この福音とは、御子イエス・キリストに関することでした。この福音にあずかった者は、罪を赦され、主イエス・キリストによって御自身と結ばれて神の子とされた者に他なりません。つまり、キリストの兄弟とされたのです。キリストの弟、妹とされ、そのようにして、神の家族の一員とされました。ですからローマのキリスト者たち、教会員は、主イエス・キリストの福音を信じ、神に従順になることによって、神の民とされ、自分の兄弟、神の家族の一員として認めているのです。

パウロは、このローマの教会員、兄弟姉妹たちを言わば、絶賛、激賞します。第一に、「善意に満ち」たキリスト者と申します。善意とは、聖霊の結ぶ9つの実のなかに数えられています。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」です。

さらに、「あらゆる知識で満たされ」たキリスト者と申します。ローマ帝国のまさに首都のあるローマは、文明の中心です。日本で言えば、東京であり、そのど真ん中、政治、経済、文化の中心地です。ローマの人々は、自分たちこそ、世界の中心であり、文明の中心であり、教養の中心と自覚しています。ですから、ローマの人々がユダヤの田舎の哲学や宗教の教師から教えを請うことは、基本的には、考えられないことでありました。ある聖書の注解者は、パウロはここで謙っている、そのようにして彼らとよい関係を確認しようとすると申します。しかし、あまり説得力がないように思います。手紙の最後に言われても、それでは遅すぎるのです。思い切って書いた文章、つまり、それを読むと、難解で、しばしば拒絶されたり、反発されたり、そっぽをむかれるような内容なのです。

ここでわたしは、使徒ペトロの手紙の中の文言を思い起こします。「また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。それは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、神から授かった知恵に基づいて、あなたがたに書き送ったことでもあります。彼は、どの手紙の中でもこのことについて述べています。その手紙には難しく理解しにくい個所があって、無学な人や心の定まらない人は、それを聖書のほかの部分と同様に曲解し、自分の滅びを招いています。」

ここでの「無学な人」とは、決して教養や学問のない人という意味ではありません。心の定まらない人と、説明が重ねられますが、まさにそれは、神から授かった知恵に基づいて記した言葉である限り、読者においてもまったく同じように、神から授かった知恵に基づいて読む以外に、読めないのです。理解して読めないのです。神から授かった知恵とは、神との交わりです。信仰です。信仰基づいて読む、信じて理解する、それなしには、聖書は、難しく理解しにくい箇所だらけなのです。これは、例えば、大学一年生が初めて、専門科目について学びますときの感覚と似ているかもしれません。最近読みました、ある学生の書いた文章にこのようなものがありました。「専門用語で語られる講義は、最初のうちは宇宙語のように聞こえて、まったく分からなかった。」なるほどと思いました。日本語なのだけれど、初めのうちは、分からないので、外国語どころか宇宙語であるというわけです。それは、聖書を読むことにおいてこそ味わう体験ではないかと思います。専門科目であれば、きちんと意欲的に、前向きに数ヶ月でも集中的に学び、取り組めば、その後は、どんどん分かってくるでしょう。聖書の場合も基本は同じかと思います。前向きに、集中的に、熱心に御言葉を読み、聴いて行けば、劇的に理解が深まることが多いと思います。しかし、それも限界があります。そのようなこの世の経験では太刀打ちできない壁があるわけです。それが、神の知恵に基づいて読むということです。そうなると、神の知恵を授けていただく以外に読みようがないということになります。そうです。まさにそこです。聖書を読むとは、祈って読む以外にありません。それ以外に分かりようがない。100歩ゆずりましょう。理解はできます。おそらく教理をきちんと学べば、「ああ、キリスト教の教えの要点は、これこれこういうものだ。キリストの救い、十字架と復活の意味とはこのようなものだと、しっかり答案用紙に書いてみせることもできます。しかし、理解したままに、信じることはできません。信じてそのように生きることは決してできません。しかし、神の知恵を受ければ、神の知恵を祈り求め、心を聖霊なる神さまへと向きなおせば、目からうろこが落ちるのです。まさに、使徒パウロが復活のイエスさまと出会ったときの体験が、すべての信仰者の体験となるのです。もとより、それは、一回限りで終わるものではありません。毎週の経験、毎日の経験となりたいのです。毎週の説教で、目からうろこのようなものが落ちる。そして、神の知恵を受けて、知恵のある人間となり、心が神さまに集中する、向くことができるできやすい信仰者へと育つのです。

さて、遠回りをしましたが、パウロは、ローマの教会員を知識で満たされていると言います。それは、一般社会、学問の知識のことではありません。神の知識です。知識の基のことです。あらゆる知識を一つに纏め上げることができる究極の知識です。つまり、神を畏れ敬う知識。神を信じ、従うことによって与えられる知識、知識の意味と目標です。

三番目に、互いに戒めあうことができることです。今まさに、それが求められているわけです。食物を巡って、お互いに批判し合うことの愚かさを使徒パウロは、心を込めて説きました。パウロは言うのです。わたしのこの命令、勧めをあなたがたは必ず理解できるし、してくれたはずだ。もともと、互いに戒めあう信仰の成長、成熟があるからと言うのです。

これは横道にそれますが、「レッテルはり」と言う言葉があります。悪いほうに使う場合が多いのかもしれません。「あの人は、不良だ、あの人は、陰で悪いことを平気でしている」人を、その服装や雰囲気から色眼鏡で見て、レッテルを貼ることです。しかし、もう一つ実は、とてもすばらしい用法があります。それは、面と向かって誰かにこう言うのです。「あなたはとっても良い人だ」これは、一つのレッテルです。とても良い人と評価されたとき、その人は、たいてい、その人の前では、良い人になりたいと願うのです。そうすると、そこに張られたレッテルのように努力が始まります。これは心理学の世界のことかもしれません。しかし、使徒パウロは、ローマのキリスト者に言わば、そのようなよい意味でのレッテルはりを行って、彼らを育てるのかもしれません。
しかし、わたしは、この人間の心理学的次元のことをパウロがやって見せたとは、考えません。そんなことであれば、やはり、わたしも神の知恵で聖書を理解しているのではないということになるのではないでしょうか。

それなら、ここで使徒パウロは何をしているのでしょうか。それを明解に現すことばがあります。「このわたしは確信しています。」確信している。大変に強い言葉です。きわめて重い言葉です。ローマの信徒への手紙の中で、この「確信する」という言葉は、何度か用いられます。最初に出てまいりますのは、アブラハムの信仰についての場面です。第4章21節「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」

この手紙の救いの教えを明らかにするまさに中心的部分です。神さまが、御言葉の約束を必ず実現させることがおできになると確信したアブラハムであれば、その信仰、その確信が義と認められるということでした。

そして、第8章では使徒パウロ本人の確信を語ります。何度読んでも心躍る御言葉です。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」この手紙の頂上、頂点の言葉です。

さらに、第14章をすぐに思い起こします。「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。」何を食べることができるのかという、論争を解決させる議論での言葉です。信仰によって行動することを求める御言葉です。

いずれにしろ、「確信」「信じる」とは、この手紙の鍵の言葉なのです。その信じる対象を今、他ならないキリスト者同士に向けているのです。人間関係を良好にする便宜上の手段や優れた心理学上のテクニックでもないのです。本心から、信じるのです。

使徒パウロという人はどのような生涯を送った人でしょうか。それは、彼自身が聖書の中で告白しています。恐ろしいまでにイエスさまのために苦しみを味わった人です。主イエスが予告されたとおりです。使徒たちの中でも際立つほど、壮絶な苦しみを体験するのです。コリントの信徒への手紙Ⅱに記されています。その中の言葉として、第11章にこうあります。「川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い」この中でどの難が最も苦しく、厳しかったのか、本人しか分かりませんが、想像するに、「にせ兄弟の難」ではなかったかと思います。キリスト者から裏切られるという意味です。パウロは、最初、同じ兄弟と信じていたはずです。コリントの教会の現実を、今、丁寧に語る暇はありません。しかし、コリント教会は、これでもキリストの教会なのかと唖然とするいくつもの問題で混乱していました。その教会の只中から、ローマ教会の信徒たちに書き送るのです。「あなたがたは善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒めあうことができる」いったい何を根拠に信じるのでしょうか。

また余談になりますが、私自身、好きな歌なのですが、若い女性の歌手が書いた詞にこうあります。「アイ、ビリーブ」「わたしは信じる」という曲です。気のせいなのかもしれませんが、最近、「自分を信じる」という類のフレーズが多いのではないかと思います。

「この胸の中に隠れてる 不安のうず 目の前にある 自分の進むべき道はどれか 人に流されてた日々 そんな自分に「さよなら」 I believe myself 信じることで 全てが始まる気がするの I believe myself あたたかい光は まちがっちゃいない 歩いて行こう I believe」
また、ジュピターというクラシックの曲に詞をつけてうたった歌、これも好きなのですが、その中の詞にこうあります。

「夢を失うよりも 悲しいことは 自分を信じてあげられないこと」いずれの歌も、基本的には、共感を持つことができるのです。確かに、自分との折り合いが悪い、自分との関係が悪いとき、つまり自分を信じられないとき、人間は上手く生きて行けません。聖書の救い、神の救いとは、まさにそこに利益、益をもたらします。神の前に罪を赦され、神との関係において正しい者、義と認められた結果、それは、ただ神さまとの間だけに平和が訪れるだけではなく、自分との間にも自己理解、自己受容、ジュピターの歌詞の中にも、実は、「ありのままでずっと愛されている」とあります。ここでは、神さまを、人格のない被造物でしかない宇宙に代えて、歌います。宇宙の御胸に抱かれていると歌います。それは、聖書の神、生ける人格を持つ存在者なる神の御胸を、言い換えたのでしょう。

いずれにしろ、信じることの大切さを歌います。しかしそれが、結局、自分を信じることになるわけです。それは、もしかすると自分しか信じられない、現代の究極の危機的状況を反映しているのかもしれません。そして、最後の砦であるべきはずの「自分も信じられない」ことになれば、まさに、拠って立つ土台、足場のすべてが崩壊し、なくなり、人間は生きて行けない、歩いてゆけないのです。

しかし、使徒パウロは、この手紙でまさに「かなり思い切って書きました」とあるように書きました。私自身の救い、信仰への導きとなった御言葉もその一つと思います。第7章の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょうか。」です。そこには、徹底的に罪に支配されて、滅びるばかり、神の怒りを受けるばかりの自分の真実の姿を、正直に見つめ、絶叫するように叫ぶ使徒パウロがいます。あの使徒パウロの心の底からの、魂の奥の奥からの叫び、悲鳴です。しかし、その惨めな罪人を、拒絶せず、捨てられずに、その罪人を愛して、罪人の友となりきって、そしてその友のために、尊い罪のない命を投げ出して、十字架についてくださった御子なる神、人間になられらたイエスさまをパウロは信じているのです。信じているから、自分の正直な姿を凝視できたのです。ごまかさず、見つめることができたのです。

どれだけ、きれいなメロディーで、素敵に歌っても、そして多くの人、若い人たちを励ます歌であっても、それは、このパウロの福音の前には、まったく色を失います。本当の人間の姿は、自分すら信じることもできないほどのものなのです。そこまで見た、見せられたのが使徒パウロです。しかし、パウロは、そんな自分が、神に愛されていることを知らされたのです。赦されていることを知ったのです。その驚くべき神の愛に出会って、まさに彼は驚いたのです。そして、世界を見る目が変わります。異邦人を見る目まで変わります。彼らもまた、神に愛されている。主イエス・キリストの十字架によって、ユダヤ人だけではなく、異邦人までも神に愛されていることを確信できたのです。

そこから、ローマにいる異邦人キリスト者への手紙が編み出されます。そればかりか、ローマを拠点にしてはるかイスパニア、イベリア半島、現在のスペイン、ポルトガルまで福音を伝えようと計画し、願っているのです。異邦人キリスト者たちを心から信頼し、愛しているのです。

彼は、あなたがたは、すばらしい兄弟であると確信すると言うのです。ここでも確信するとは、丁寧に読むと確信させられると言う表現なのです。つまり、受身なのです。自分で能動的に信じるのだと、人間はお互いに信じることが大切だから、そうでないとよい社会、よい関係をつくることができないから、あえて信じるというのとは、違うのです。信じさせられるのです。ギリシャ語では、「説得される」と記されています。誰によってでしょうか。ローマの信徒たち自身によってでしょうか。違います。まだ直接、会っていない人たちなのです。こたえは、神です。神によって、説得させられるのです。

使徒パウロは、神の愛を、神に説得されて信じさせられたのです。パウロを直に説得なさったのは、十字架のイエスさまです。十字架にイエスさまをお与えになられた神の愛、父なる神のご愛です。墓に葬られてご復活されたお方イエスさまの愛であす。この復活の主イエスとの出会いが、キリストの迫害の急先鋒のサウロをして、キリストの福音の使徒の頂点の働きをするパウロへと転換させました。

「パウロよ、わたしは、あなたを信じる、信じている。あなたこそは、わたしの民を、わたしのもとに立ち戻らせる預言者、伝道者となる者となるのだ。わたしがあなたを選んだ。そして今、使徒として立てたのだ。」この主イエスの命がけの説得、愛の説得が、パウロを生まれさせたのです。信じる者として生まれさせたのです。

確かにそれまでも神を信じる人でした。しかし、正しく信じる人ではなく、自分勝手に信じていただけなのです。つまり、神の正しい知恵に基づかなかったのです。しかし、そのパウロが、十字架のイエスさまを救い主として仰いだとき、そのときから、信じたときから変えられたのです。聖霊を注がれたのです。

そしてそれだけではなく、パウロは、自分自身をも信じます。イエス・キリストにあって自分自身を信じるのです。そのことは、このテキストの後半に、鮮やかに示されています。パウロが、どんなに自分の存在を、自分の務めを、使命を神から、託されてものとして受け止め、理解しているのか、自負と言う杜間違いですが、その確信は、強烈です。これほどまでに、自分の務め、召命を確信し、それに生き抜いた信仰者は、珍しいと思うほどです。
そればかりではありません。まさにそこから、パウロは、共に生きるキリスト者仲間を信頼します。家族として、兄弟として信じるのです。だから思い切って書くのです。そしてそれを理解してくれると信じて書くのです。確かに「難しく理解しにくい個所があっ」たのです。しかし、彼はそれでも神に迫られ、説得されて、書き送ったのです。この手紙全体がそうです。そうであれば、この手紙全体が、ローマの信徒たちへの信頼に貫かれた手紙であると言えます。そして、その手紙を21世紀の名古屋の小さな私どもの教会も読んだのです。それは、不思議なことです。しかし、神が使徒を通し、説教者である拙い、貧しい者を通して語られるのです。

今、聖餐を祝います。確かに福音の言葉は難解です。そのような部分があるのは聖書自ら語るとおりです。しかし、主イエスは、この聖餐の礼典によって私どもを説得されます。それは、先ず、わたしはあなたを信じているという信頼です。だから、信じることができたのですし、洗礼を受けて、教会員へと招きいれられたのです。それを改めて、主イエスが手ずから説得してくださいます。ここでは、まさに、食べるだけ、飲むだけ、主の食卓は、主イエスだけが準備されたのです。もとより、パンとぶどうジュースは奉仕者が準備してくださいました。しかし、この聖餐の食卓を本当に整えてくださったのは、十字架について罪のない聖なる肉を裂き、聖なる御血を流された主イエスさまであります。

祈祷
私どもに信仰を与えてくださり、あなたを信じ、自分を信じ、共に生きる仲間たちを信じることができるようになりました。この信仰に生きる神の民の祈りの家を豊か祝福し続けてください。一人ひとりその信仰がなえるときがあります。試練において、悲しみにおいて、つらさにおいて、あなたから目を離すことがあります。しかし、あなたは今朝、ここに招いてくださったのです。この厳かな恵みの事実を心から感謝致します。今、聖餐を祝います。洗礼を受けておられない方がいます。一日も早く、あなたの説得に負けて、信仰を言い表し、共に、罪の赦し、神の家族の交わりに入れてください。アーメン。