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「神のために働く誇り」

「神のために働く誇り」
2008年8月17日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章14-17節

「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。
それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。」

先週に引き続いて、この箇所を読んで礼拝を捧げます。先週も申しましたが、ローマの信徒への手紙の主要部分は、すでに、13節までで終わったと読むことができます。ここから最後までは、手紙の結びの部分となります。読者に心の内を覗かせるような言葉もありました。「思い切って書いたものだ」です。ここまできて、筆記者のテルティオに改めて読み直してもらったとき、「ああ、書ききった、これで大きな仕事は終わった」と満足感に浸ったかもしれません。 彼は、ローマの教会員に心を込め、全精力を傾けて書き続けました。どうして、そのように書くことができたのでしょうか。執筆理由もここにきちんと記されていますが、しかし何よりこれほどまでの手紙を書かせたその力の源は、どこにあるのでしょうか。何にあるのでしょうか。パウロがここで語った小さな言葉にそれを発見できます。「わたしが神から恵みをいただいて」神から恵みを受けたから書いている、単純ですが、決定的な理由であります。

彼が手紙を書いたのは、「神の福音」を、ただ単に知っているということでも、あるいは人に教えることができるほどよく知っている専門家であるという理由からでもありません。その理由は、使徒パウロ自身、自分の語った福音の恵みに自分も深く生かされているからなのです。実際にこれを深く味わっているからです。ここに福音の力、福音の持つユニークな特質があります。福音を真実に知っている人間とは、それに巻き込まれている人間です。その福音にあずかっている人間となるということです。

使徒パウロは、福音の恵みを受けた自分の使命をここに丁寧に書きます。福音の恵みを受けたからこそ、自分の生きる目的、責任、使命を明らかにします。それは、他ならないこの手紙を書いた目的そのものでもあります。そして、そこで私ども読者が、深くわきまえていなければならないことがあります。当たり前すぎることかもしれませんが、しかし、決して忘れてならないことでありますが、それは、私どもも同じ神から、同じ恵みを受けているということであります。使徒パウロは、この恵みを分かち合おう、そのようにしてお互いに励まし合おうと願って、書いたのです。ところどころ思い切って書いたわけです。

ですから、私どもは、間違ってはなりません。この手紙で書かれたパウロの言葉は、それは、使徒パウロだけに当てはまるもの、事柄ではないということです。もとより、明らかにここでの言葉は、使徒パウロが書いたものであることは明らかです。しかし、書かれた内容、事柄、その本質については、まさに時代を越え、場所を越え、キリスト者にとって普遍の真理なのです。

さて彼は、第1章の5節で、自分の使徒としての特別の使命を明らかに示して、こう言いました。「主イエス・キリストの御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」そして第15章16節でも改めて申します。「異邦人のために」彼らを神に従わせるのが自分の務め、使命であると明らかにします。この点は、まさに他の使徒たちとの違いであり、彼独自の使命となります。しかし、それは、具体的にはどのようなあり方になるのでしょうか。それを明らかにするのは、16節「キリスト・イエスに仕える者」です。

教会に生きる私どもの生活は、具体的なものです。教会に生きるとき、ただちに、私どもの教会の会員の顔、お互いの顔が先ず浮かびます。それ以外には、教会に生きることはないわけです。そして多くの方々が、それぞれ教会の奉仕を担っておられます。教会に仕えることが、教会員、キリスト者の生活をつくっているといってもよいでしょう。もとより、さまざまな状況の中で、自分の願い、思うように時間をとり、捧げて、奉仕に励むことができないときもあります。主の日のこの礼拝式を中心にすることで、精一杯のような状況もあるわけであります。

しかしうっかりすると、このように教会に生きる生活の中で、もっとも深刻な過ちを犯すこともないわけではありません。それは、私どもが、主キリスト・イエスに仕える者として、教会の生活を作っているというごく当たり前のことを忘れるということです。もしかすると私どもは、教会員に仕えること、教会に仕えることが、ただちに生けるキリスト・イエスにお仕えしていることであるということをリアルに、現実感をもってわきまえる、その感覚を見失うことも少なくないのではないでしょうか。

使徒パウロは、まさに命をかけ、いのちを削るようにして地の果てまで、異邦人の救い、異邦人への宣教のために励んでいます。具体的な顔、名前を持つ異邦人のために、彼らを信仰の従順に至らせるために励んでいるのです。しかし、パウロは、ここで、単に「異邦人に仕えている」と表現していません。きちんと「キリスト・イエスに仕えている」と表現するのです。これは、わたしどもはやはり簡単に読み過ごすことはできません。ここでのこだわり、あるいは、パウロにとって、こだわる思いもなく、まったく当たり前のこととして、自分が異邦人に仕えることは、キリスト・イエスに仕えることと考えているのです。

次に、「異邦人のために」「キリスト・イエスに仕える者となり」の後に続く御言葉に注目しましょう。「神の福音のために」です。最初に示された具体的な奉仕の相手は、異邦人です。その次に、パウロはこう言います。「神の福音のために」です。この言葉は、使徒パウロという人のすべてを言い表すことができるような言葉であります。パウロとは、福音のために、神の福音のために生きている人です。これは、彼自身の確かな、揺るぎない自覚です。そして読者である私どもも、パウロの人生を知って、心の底から同意できるはずだと思います。第1章1節での自己紹介で、パウロは強烈なまでにそれを明らかにしました。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」自分で使徒となったのではなく、神の福音のために、永遠の初めから神に選び出されたのです。そして、時至ってあのダマスコの村にいるキリスト者たちを迫害するために馬を走らせていたとき、復活のイエスさまに呼び出され、使徒となったのです。そのようにして、キリスト・イエスの僕となったのが、パウロです。

そして、私どもがこの手紙を読み終えようとする今、わたしが心から願うこと、皆様に願うことの一つは、私どもの教会員が、このような自分に対する自覚、信仰の自覚を鮮明にさせていただくことです。誰でも、自分の意志で、自分の選択で、自分の願いでキリスト者になったものはおりません。そのように最初は考えられるかもしれませんが、聖書を読んでゆくうちに、その考えは否定され、克服され、自分が神を、イエス・キリストの福音を選び取ったのでは全くなくて、神が自分を福音の恵みの内に選び、呼び出し、洗礼を授け、今日まで守り、キリスト者、教会員としてあらしめてくださったのだと納得するのです。そうなりますと、私どもは確かに使徒という役職に就いていません。これは、誰も継承できない、イエスさまから直接に指名された人であり、この新約聖書が記される前の神の働き人のことです。しかし、この役職、務めではなくとも、この務めが目指す使命は、実は、今、教会全体に与えられているのです。その教会の一部分、一枝とされているのがお互いです。そのようにして、私どもの存在は、神からの使命、責任、職務を与えられているのです。

さて、それなら、その職務、役務とはいかなるものなのでしょうか。新共同訳聖書のこの箇所の小見出しには、「宣教者パウロの使命」とあります。誰でも、使徒パウロは世界宣教の第一人者であることは異論がないと思います。皆様のお手元の聖書には付録として、地図が収められているかと思います。パウロ関連の地図として三つもつけられていると思います。後で、あらためてご確認くださればと思います。パウロは、世界伝道旅行を少なくとも二回敢行しました。まさにキリストの福音を宣べ伝える人のチャンピョンです。当時も今も、これほどの困難を乗り越えた宣教師はいないのではないでしょうか。しかし、わたしは、この御言葉を見逃すことはできないと思います。彼は、こう言いました。「神の福音のために祭司の役を務めているからです。」

祭司の役、祭司の役務です。これは、旧約聖書以来のレビ人たちが担った務めです。イスラエルの中でも特別に神殿での礼拝を司る人たちの系譜です。しかも明らかに、パウロは、エルサレム神殿での礼拝をしているのではありません。エルサレム神殿から、距離的に離れに離れ、はるかかなたを目指すのです。しかし自分がしていることは祭司の務めなのだと自覚します。

 旧約聖書の時代には、神殿の祭司は、動物を神へのいけにえとして屠りました。動物をいけにえとして捧げることによって、罪を悔い改め、その罪の赦しを願い求めたのです。それなら、新約の祭司は、パウロはここでどのような祭司の務めを担うのでしょうか。

それは、動物を捧げるのではありません。異邦人を神にお捧げするというのです。ここでも、私どもが旧約聖書に慣れ親しんでいるなら、このような表現がどれほど過激な、驚くべきことであるかが分かるのです。神に捧げることができる動物それは、神が定められました。牛、羊、山羊これらは、神に定められていましたが、さらに祭司は、チェックします。病気や、怪我などがあるかないかです。無傷であるということは、神に最善のものを捧げるという礼拝の心を問うわけです。

しかもユダヤ人は、自分で屠ることはできません。レビ人の中から選ばれ、立てられた祭司がそれを司るのです。そうであれば、使徒パウロが、神への献げ物として異邦人を捧げるということは、旧約聖書しか知らない人であれば、ありえないことです。考えられないことです。異邦人は、そもそも、神の神殿、エルサレム神殿の中には入れない存在です。異邦人がそのままで神に近づくことなど、聖所の中でももっとも聖なる場所へ入るなど、決してかなわないことです。しかし、今、パウロは、言います。「そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。」異邦人は、神の聖霊を注がれた。だから、聖なる者とされた。だから、神に喜ばれる聖なる供え物だ。

私どもは、この御言葉を毎週、聴いています。今朝も説教の後で、聴きます。献金の祈りを捧げる前に、ローマの信徒への手紙第12章1節を読むのです。「こういうわけで兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

ローマの教会員たちの多数は、異邦人キリスト者です。つまりパウロは、自分が神の祭司であるので、彼らに自分を捧げなさいと招くのです。しかも、ローマの異邦人キリスト者たちは、祭司であるパウロにお願いしなくても、自分たちで、自分たちを自ら神にお献げできるのです。なんとすばらしいことでしょうか。それならどうして祭司がいなくても、そのような真の礼拝を捧げられるのでしょうか。

それは、第一に、主イエス・キリストが大祭司であられるからです。この大祭司は、今も生きて、私どもの存在を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてくださったからです。傷が一つでもあるなら、動物のいけにえは、献げ物としては、はねのけられるのが、旧約聖書に記されています。人間で言えば、まさに罪人であるということでしょう。罪深い人間が、神を礼拝する資格も、いわんや自分を神に受け入れられるような存在ではありません。聖い神、まったくしみもしわもない純白な神の御国に、泥だらけで、しわだらけのような私どもが受け入れられるはずがないのです。

しかし、そこにこそ、大祭司イエスさまの御業がありました。十字架です。十字架にかかって、私どもの罪を贖い、罪を赦し、そればかりか神の御前に、まるで神の独り子イエスさまであるかのように私どもを装ってくださったのです。それは、主イエスさまを信じて、洗礼を授けられたことによってイエスさまを着るということでした。それは、言葉を換えれば、神の霊、聖霊を注がれたことです。神の霊を心に宿したことによって、私どもはあるがままで、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとされてしまったのです。ですから、実に、大胆なことです。人間の世界のなかでこれ以上、大胆なふるまいは決してありません。私どもは、私ども自身のあるがままの存在を、神に捧げることができるのです。献身することが赦されているのです。

使徒パウロは、この福音の恵みを知りました。自分もまた、この恵みにあずかって、罪人であるけれども、自分の全存在が神に受け入れられ、神のために、神の福音のために、選ばれ、異邦人のために、主イエス・キリストに仕える者とされたので、思い切って、まさに大胆かつ思い切って自分を捧げたのです。

パウロは、ここで「誇り」という言葉を用います。この言葉もまた、ローマの信徒への手紙のなかで実に重要な言葉として用いられてまいりました。一つは、ユダヤ人が、律法を誇りにしているというあり方を、鋭く糾弾しました。それは、ユダヤ人がただ律法を与えられているということだけを誇りとし、つまり、人間的な誇りに摩り替えて、正しく神を誇りにしていなかったからです。ユダヤ人のうぬぼれ、誇りを、ユダヤ人である使徒パウロは、まさに容赦なく糾弾、批判して止みませんでした。

もう一つの使用方法は、5章11節です。「わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」神さまを誇る、これこそ、人間の持つべきただしい誇り、人間のプライドなのだと言いました。ユダヤ人は、自分たちが神に選ばれた民族、その証拠となる律法が与えられていることを、誇りにして生きています。およそ人間が人間として生きる上で、プライド、誇りを持って生きることは当然のことであります。誇りなくして、人間は、強く生きれません。そこで、我々は、その誇りを何に置くのかということが問われるのです。そして、我々は、しばしば、その誇りを自分自身におくのです。ユダヤ人のように、民族の誇りである場合もあります。自分の家柄かもしれません。自分の学歴かもしれません。自分の収入かもしれません。自分の能力かもしれません。自分の家族や、何かかもしれません。結局、それは、比較した中で、優れた部分を確保して、それを自慢にする、誇りにするのです。しかし、パウロは、この過ち、この危うさ、頼りなさ、何よりその罪を指摘したのでした。そして、主イエス・キリストによって神を誇ること、神を誇りにして生きることが救われた者、キリスト者の特権であると言いました。

さて、そのパウロが、この箇所では、よく読んでみますと、自分を誇っていることに気づきます。これは、キリスト・イエスによって神を誇ることと矛盾するのでしょうか。そうではありません。キリスト・イエスによって神を誇りとして生きるキリスト者は、神の為に働くこと、働いている自分自身を誇りにするのです。

先週の全国規模の高校生キャンプの最後の証しの集会で、一人の高校三年生が、こう言いました。彼のお父さまは牧師です。「今まで、自分は牧師はかっこ悪いと思っていた。けれども、このキャンプで、先生たちを見ていて、牧師ってかっこいいんだと初めて思った。牧師になんて絶対ならないと思っていたけれど、ちょっと違うかも」若い教師たちの奉仕の姿を見たとき、そう思った。それは、キャンプの奉仕者、からのお父さんだけではなく、教師たちみんな誇らしく思ったのではないかと思います。牧師が、もしも自分に与えられたその務めを生き生きと、誇りをもって生きていなければ、そのような印象や憧れを高校生に与えることはできなかったかと思います。私どももまた、キリスト者として生きる、それをどれほど誇らしい思いをもって生きているか、それを問われます。

今日も午後から定例の日曜学校教師会があります。いつも、できれば午後3時頃までには、閉会できればと考えますが、いつもはるかに回ってしまいます。月一度の会議です。学びのとき、祈りのときでもあります。教師方は、土曜日には集中して準備をなさるのでしょう。しかし、日曜学校の教師の務めもまた、まさに、子どもたちを、神に喜ばれる聖なるいけにえとして神にささげる務めに他なりません。まさに使徒パウロが異邦人のための祭司の務めを受けたように、彼らは子どもたちのための祭司の務めを受けているのであります。そうであれば、神の福音のためのその務め、子どもたち、中高生たちのためのその務めを、いやいやで、仕方なく、そのように後ろ向きな思いで担うのか、あるいは、こんな自分でも神に選ばれ、使命を与えられ、教会のなかで立てられた務めであるのだと受け止めて、奉仕するのか、そこにも、子どもたちへの説得力が違ってくるのではないでしょうか。まさに、神のために働くことのできるフィールドのど真ん中のような務めであります。私どもは、彼らを、一人でも多く、主イエス・キリストによって神にお捧げしたいのです。洗礼が一つのゴールです。聖餐にあずからせることがゴールです。そのために、私どもの全存在が用いられます。使徒パウロは、神のために働くことができることを誇りとしたのです。

これを読んだローマの教会員たちはどのような思いで読んだのでしょうか。もしかすると、教会生活に疲れを覚えていた仲間もいたかもしれません。帝国の首都ローマの町の真ん中で、生まれたばかりの小さな、あらゆる面で弱い、政治力、経済力、あらゆる力をもってしてもローマ帝国のなかで、吹けば飛んでしまうかのような小さな群れに、それでも希望に溢れ、こつこつと証し、伝道し、一人の異邦人でも主イエスによって神へと捧げるために、志を新たにして、福音に奉仕しようと、それを誇りに思ったと信じます。自分たちもまた、神に受け入れられ、喜ばれ、聖なる存在とされていることをどんなに喜びとし、誇りとしたことでしょうか。しかも、自分たちもまた、パウロ先生と同じように、神に奉仕できる存在であると自覚したはずです。

使徒パウロは、そのように自分と同じように誇り高く、神の福音の為に、神のために働くキリスト者を増やしてゆくのです。

高校生キャンプの奉仕者のなかで、おそらく食堂担当者は、どれほど大変なことであったかと思います。僅かの人数で担っておられました。70名近くの参加者の三泊四日の食事、夜食、それは、子どもたちの目には、かっこよいと映らないかもしれません。しかし、神の御眼には、どうでしょうか。

神から恵みをいただいたので、パウロは手紙を書きます。私どもは、何をしたらよいのでしょうか。それが、私どもに与えられた誇らしい責任です。中学生も高校生も、大学生もいます。すでに職業をもった方たちもおられます。年齢を重ねて現役の仕事を退いた方もおられます。しかし、その一人ひとりが、他でもない、神の福音のために奉仕できる器とされているのです。今朝、ここに礼拝を捧げるだけで精一杯だと、そのように嘆く方も、その精一杯の礼拝を、精一杯捧げたらよいでしょう。そのとき、まさに神に喜ばれる聖なる礼拝を捧げることができます。

先週、一人の兄弟から質問を受けました。イエスさまが十字架の上で叫ばれた御言葉の意味を巡ってであります。「エリ、エリ、レマサバクタニ」「神よ、神よ、なぜ、わたしをお見捨てになられるのですか」についてです。今、詳しく説く暇はありません。しかし、あの最後のとき、主イエスは、まさに父なる神への賛美と信仰を貫かれたのです。しかし同時に私どもは、御子が神に捨てられてしまったという恐るべき事実についても思います。真に、罪人として神の怒りを受け、つまり神の刑罰を受けられ、見捨てられたのです。神がその独り子を見捨てるのです。見離すのです。それが刑罰、裁きとしてのキリスト・イエスの十字架の上での死であります。

パウロは、第7章で、「わたしは何と言う惨めな人間なのでしょう」と、叫びました。しかし、あの恐るべき人間の心の深淵からの叫びは、「エリ、エリ、レマサバクタニ」の主イエスの叫びによって、吸い取られてしまいます。そうです、イエスさまの十字架の惨めさを視れば、もはや罪深い自分の惨めさにしがみついて、立ち止まり、しゃがみこんではいられなくなります。そこから立ち上がって、罪人、神の敵でしかない自分が、そこまで大切にされ、宝にされ、神のために奉仕する者とされていること、それだけを真実の誇りにして、生きる以外にありません。それが、パウロに連なるキリスト者の奉仕の伝統です。それが、私どもの教会の奉仕の伝統です。その奉仕へと、示されるところを働いてまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、パウロの言葉を読み続けながら、私どもは使徒ではありませんが、しかし、同じあなたの、同じ恵みを受け、あなたの大いなる福音のために奉仕する務めを与えられています。その光栄を心から感謝致します。人に仕える道、それがかっこよいと思われなくとも、しかし、あなたの御眼を誇らしく意識して、そこで生きるキリスト者とならせてください。