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「私たちは、神の鉛筆」

「私たちは、神の鉛筆」
2008年8月24日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章14-21節

「兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。 記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。
それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。 このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。
「彼のことを告げられていなかった人々が見、/聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。」

使徒パウロのローマの信徒への手紙を読み続けて、4年目を迎えようとしています。そして、いよいよ、その終わりのときを間近に迎えています。使徒パウロは、コリントの教会の会員であろう口述筆記者テルティロを通して、まだ見ぬローマの教会の兄弟姉妹たちに向けて、キリストにある手紙を書き送りました。長い手紙であります。著者のパウロはもとより、筆記者テルティロもまた、力を込めて書き記し、そして、その終わりを迎え、感慨もひとしおなのではないかと思います。おそらくは、自分の手紙を筆記してもらっているテルティオにこれまでのものを読み直してもらったことでしょう。それだけでも1時間以上は、かかったはずです。そして、自分の手紙を読み返し、状況に即して言えば、聞きなおしてみて、改めて、感慨をもったのです。その気持ちが、手紙の文章そのものにも表されたわけです。それが、「記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。」という言葉です。

私どもは、すでに4年に渡ってこの手紙を読んで礼拝を献げ、教会の形成に励んでまいりました。つまり、このローマの信徒への手紙を、他ならない私ども名古屋岩の上教会への手紙として読んでまいりました。書き手、著者は、言うまでもなく、使徒パウロです。しかし、いかがでしょうか。私どもは、この手紙を読みながら、いつも思わされることは、私どもはただ単にこの手紙をパウロの思いのたけを聴き取ろうとして、聴き取るために読んだわけではありません。あるいはパウロの思想、あるいは、パウロの神学と言い換えてもよいかもしれませんが、そのようなパウロの考えを、読み取ったということには、決して留まりませんでした。むしろ、読めば読むほど、あるいは説教を聴けば聴くほど、この手紙の真の著者は、パウロではなく、神さまだ。聖霊なる神さまであられると思わせられてまいりました。

もとより、私ども世々の教会の揺るぎない確信、教えとして、旧・新約聖書66巻は、すべて神の霊感を受けて記された神の御言葉であるという信仰があります。旧新約聖書は、私どもキリスト者の信仰と生活にとって、唯一の規範です。唯一つの道標なのです。私どもの生活にとって、唯一の神が、私どもが地上にあって幸いに、自由に、祝福に満ちて生活する道として、唯一つの規準として与えられたものが聖書です。そして聖書は、唯一の神の御言葉が文字として記されたものなのです。

しかし一方で、聖書は、誰が読んでも明らかなように、人間が書いたものです。著者がいるわけであります。歴史上、神ご自身が直に書かれたのは、石の板に記された十戒だけと言ってもよいのです。ですから、ローマの信徒への手紙も当然、パウロの著作、パウロの手紙なのです。

しかし、そのような私どもがなお聖書を読み進めて行く内に、何よりももともとのローマの信徒への手紙がそうであったように、教会の交わりの中で、私どもがこれまでしているように、教会の礼拝の説教を通して聴き続ける中で、その人々に、信仰が与えられます。救いに導かれるのです。そしてそのときこそ、私どもはまさに心の底から、人間が書き記したこの文書、聖書の言葉が、しかしただ単に人間の言葉ではなく、神の聖霊が著者に注がれ、著者たちを聖霊が導かれ、神の御心、神ご自身のお考えを明らかに示したものなのだと、納得させられるのであります。ですから、教会の教理としての聖書は神の言葉であるという教えを、私どもは、心から自分において、真理であり、納得させられ、体験させられて、信じることができるわけです。そして、この手紙もまた、そうではないでしょうか。

わたしは、何よりも説教者としてこの手紙を読んでまいりました。私自身強く思わせられてまいりました。とりわけ、本日のこのパウロの言葉を読むとき、このような感慨を強く持たされました。それは、まるで、筆記者テルティオと語り続けたパウロとの関係は、パウロと神ご自身との関係にとてもよく似ているということです。つまり、テルティオは、パウロの筆、ペンそのものになっているのです。自分の意見や、自分の考えをさしはさむことなく、忠実にパウロ先生の語る言葉を書き留めたのです。それは、神がその御心をパウロに明らかに示し、パウロは、自分の考えでは全くなく、神の御心を忠実に書くことに専心した、専念したわけです。ですから私は、まるで、使徒パウロは、神の筆、神のペンのようになっているという不思議な思いを禁じ得ません。それゆえに、本日の説教題は、神の鉛筆としたのです。パウロは、神の筆、神のペン、神の鉛筆になっているというイメージです。

そして、そのことは、ひとりパウロだけに当てはまることでは、まったくありません。それは、まさに、ここに呼び集められた神の民、キリスト者全員の姿なのです。私どものことでもあるのです。

先週の説教では、使徒パウロは、神を誇りにしていること、そして神に用いられる自分自身、神のために、神の福音のために、キリスト・イエスに仕えることができている自分のことを、誇りに生きていることを学びました。そして、それもまた、パウロ一人の特権、与えられた祝福ではなく、すべてのキリスト者の特権であり、与えられた祝福であると学びました。私どもは、自分がキリスト者であることを、心から誇りに生きたいと願います。

その誇りは、まったくこの世の持つ誇りとは、異次元、異なるものです。つまり、まったく、完全に自分自身に根拠をおいていない、置くことができない、置くことが許されない誇りだからです。何一つとして、自分の能力、自分の努力、自分の何かを根拠にできない誇りだからです。それは、まったく、100パーセント神の選びによるものだからです。偉そうなことは言えない。ありえない。しかし、そのようなまったく罪人でしかないわたしが、神に選ばれ、神に信頼され、神のご計画を積極的に担う者とされているのです。神は、あの人、この人ではなく、この私に御眼を留めて、信じさせ、従わせてくださったのです。だからこそ、今、ここにいることができるのです。
私どもは、今朝、いつものようにここに来て、礼拝を捧げていますが、それこそ、私ども誇りそのものです。何を失っても、この誇りだけは失ってはならないし、奪われてはならないと思います。逆に、このような誘惑からも守られ、拒絶したいと思います。それは、自分自身から来る誘惑です。「今度の日曜日、神さまを礼拝しには行けない。先週一週間もまた、誇るべき信仰の業を何日一つとして、なすことはできなかった。むしろ、自分の先週の歩みは、自分でも情けないほど、信仰の生き方とはかけ離れているからだ。」しかし、そこでこそ、私どもは間違ってはならないのです。私どもの誇りは、ここに来る事ができる人間であるのは、主イエス・キリストによって罪を贖われ、赦され、神の宝の民、神の招きを受けている選ばれたキリスト者であるという、ただ、神と主イエス・キリストにだけ根拠を持つという信仰のみにあるのです。

ある人は、もう少し立派になってからとか、教会員の皆さんに胸をはれるようになってからなどと考えるのなら、その時、たとい教会に、礼拝に出席できたとしても、それではもはや礼拝を捧げることになりません。自分を誇るだけです。神さまによってこんなにすごい自分になりました、胸を張って、それが証しなのだと考えているのなら、それは、ここでの使徒パウロの軽やかな、真の誇りとは無縁です。やがて、そのような自分を維持できなくなったとき、今度はまた、教会から足が遠のくしかなくなるでしょう。

私どもは、ただ、恵みによってのみ救われている、ここにだけ、自分自身に対する最大の誇りを見出しているのですし、見出すべきです。

そしてこのような使徒パウロの自覚的な誇りに生きる姿の中に、私どもは、キリスト者の誇りとは何かということだけに留まらず、キリスト者の全存在、その秘密を明らかにする真理を見出すことができます。それを決定的に明らかに示す御言葉が記されています。「キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。」パウロの誇りは、ここにあります。そして、この御言葉は、世間一般の自分を誇る人の言葉とは、まったく異質なものとなっていると思います。異質な響きが立てられています。

パウロは、言います。「キリストが私を通して働かれたこと」いったい、この文章の主語は、誰でしょうか。パウロではありません。主語は、キリストであられます。つまり、パウロの誇りとは、結局、キリストのお働きを誇るのです。自分の働きではないということです。自分の働きがキリストのお働きである限り、誇れるというわけです。それ以外には、誇りはないのです。

そして、キリスト者とは、まさにそのような存在、人間のことを言うのです。キリスト者とは、キリストを主語にして、語られる人生を送る人です。キリストのお働き、神のお働きが、私を通してなされる、そこに私どもの特質があります。

逆から申しますと、それ以外は誇れないのです。キリスト者とは、キリストの僕、奴隷です。キリストに所有されたものの意味です。キリストに属するのです。キリスト者である前に、わたしは日本人だとか、キリスト者、教会員である前に、自分は会社員だ、父親だ、母親だ、そのような言い方は、自己矛盾なのです。

それは、理想だとか、建前だとかでは、全くありません。キリスト者は、そうなのです。クリスチャン。しかし、私は個人的に、用いません。一つは、キリスト者が日本語だからです。しかしまた、クリスチャンが何か、垢にまみれているような思いが、自分の教会生活のなかで経験したからです。自称クリスチャン、少なくないと思います。キリスト教会と言っても、何百もの団体があります。宗教改革によって生まれた教会とは、無関係のような教会もあります。明らかに日本で生まれた言わばキリスト教新興宗教のようなものもあります。キリスト者とは、キリストのものです。それは、キリストに贖われたものです。キリストに救われ、キリストの所有なのです。それ以上でもそれ以下でもありません。ただし、キリストの救いを受け、洗礼を受けて、キリスト者とされましたが、実質的に、どれほど、キリスト者となっているのか、そこには、一人ひとりの個人差が生じるのは事実であります。そこに、私どもの課題があります。キリスト者ですから、いよいよキリスト者になって行く、これが私どもの歩み、聖化の歩みです。

キリストが私どもをご自身の筆、鉛筆として取り上げてくださるのです。しかし、これは、どこまでも比喩であります。丁寧に申しますと、私どもは、単なる道具ではありません。道具には、人格がありません。鉛筆には、意志がありません。ですから、握られて、動かされるままに自らを、芯をすり減らしながら、しかし紙にはっきりと黒い後を残して行くのです。しかし、私という道具は、人格を持っています。用いられていることが、手に取るように分かるのです。だから、誇れるのです。しかも、この道具は、世界にたった一つしかありません。代用がききません。そして、その鉛筆は、神に握り締められている鉛筆なのです。神がその御心のままに、

今年、年頭に、神のオーケストラという説教を致しました。カンタービレという言葉、歌うように演奏するという言葉を用いました。オーケストラは、異なる、複数の楽器によって、編成されます。その異なった楽器が組み合わされ、複数の楽器が音を合わせながら、重厚に音楽を奏でます。楽譜が準備され、指揮者によって導かれ、演奏するのです。そこで、神が楽曲を造り、神が指揮者となって、私どもがそれぞれ演奏家、楽器となる。教会の一年の歩みも、神ご自身のご計画、つまり譜面、楽譜が準備されます。そして、私どもはそのとき、そのとき、祈りつつ御言葉を聞きつつ、教会に仕える、そのとき、教会は神の福音の音色を奏でるのです。私どももまた、まず、自らこの福音に生かされ、喜び、カンタービレするわけです。

ここで、パウロは、教会員のハーモニーではなく、自分自身のことを言います。
神の道具、鉛筆であるとき、必要なのは、従順であるということです。反抗しないということです。神が手にされ、神が用いられるのです。そして、神の御心が実現します。神は神ご自身の栄光を現してくださるのです。

キリストがパウロを用いられます。異邦人を神に従わせる目的です。信仰の従順に導くのが使徒パウロの使命ですが、それは、彼が自分で決めたことではないのです。神の選びと召命です。異邦人を神に捧げる祭司です。パウロが、考えて、なろうと思ってなった立場、働きではないのです。

神が握り締められたとき、パウロを通してそのような文字が、そのようなお考えが示され、実現されたのです。
しかもそこで、はっきりと用いられるのは、彼の言葉です。彼の行いです。それは、この手紙そのものです。また、記されたようにエルサレムからイリリコン州まで福音の宣教、教会の開拓伝道、教会形成の働きでした。他の誰のものでもないのです。彼の固有の存在、彼の人生が用いられるのです。しかし、その主語はあくまでも、キリストです。「キリストが」「キリストは」となっています。
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