過去の投稿2008年9月21日

9月14日

★    本日、皆様のお手元に、遂に大会教育機関誌「リジョイス・見本版」が届きました。日本キリスト改革派教会大会初の月刊誌です。一部、300円。毎日の聖書日課の友となります。さまざまな教師たちが、毎日の聖書日課を書きます。当初は、教師の名前が記されることになっていましたが、教師の名前は伏すことになったようです。個人的には、あの先生、この先生がどのような文章を書かれるのかとても興味があるのですが。「教会学校教案誌」に連載している「いのちのぱん」は、私どもの発案で、「リジョイス」に協力することとしました。画期的なのは、子どもの聖書日課も、大人と同じテキストを用いますから、まさに、家庭礼拝が行えるわけです。伝道所委員会報告にもありますが、「改革派中部」誌を止めてでも、ご購読を願います。

☆   昨年の信州夏期宣教講座のブックレット(1200円、2冊分教会においています)をお読みください。 渡辺先生や日本基督教団でいち早く、戦争責任を表明した安藤肇牧師の戦争責任についての講演が収められています。来年は、日本プロテスタント伝道150周年を迎えます。寡聞にして、教団、教派を超えての記念イベントの開催はほとんどないように思います。(日本聖書協会が窓口になって、記念のときを持つことを最近知りました。)それほど、日本の宣教の状況は、危機的に凋落しているということだと思います。私どもは、明治開教以来の日本のキリスト「教界」の根本問題がどこにあるのかを、明確にして教会形成、開拓伝道に従事してまいりました。つまり、キリストの主権に服する堅固な福音的教会の形成を徹底することができず、権力者、権力構造である日本の中に、からめとられることを意識的に望んで行き、教会の本質と 使命をないがしろにしたことにあるということです。それを克服するためにこそ、日本キリスト改革派教会の創立と形成があったと考えているのです。少なくとも、私どもの「加入」とはそのような意味です。しかし今、私ども自身の教会形成に対して、深刻な危機感を抱かざるを得ません。本当に、創立宣言と20周年宣言の歩みを担ってきたのか、もはや、それは歴然としている。これが、わたしの思いです。この思いを少なくとも教師、長老たちが共有しなければ、私どもの明日はない。そうなれば、日本の福音主義教会の明日もない。こう考えます。これは傲慢な思いではありあません。もしそうなら、創立宣言を裏切ることになりましょう。

★   わたしの母、兄夫妻の属している教団は、福音派のなかで、どんどん教勢を伸ばしているとのことです。その理由の大きな一つは、小さな単立系の教団が、そのまま加入、加盟するからではないかと考えています。その背後には、戦後の上述のような単立系の福音派諸教会の教会形成の困窮があると思います。

☆   「コイノーニア」というギリシア語を学びました。翻訳で一番多いのは、「交わり」となります。「キリストとの交わり」であり、そこからもたらされる「キリスト者のキリストにある交わり」です。先週は、献金の「コイノーニア=援助」という用法も学びました。霊的なものに「あずかる=コイノーニア」も学びました。世界に散らされている諸教会がキリストにあって一つの教会であることを具体的に示すことが、世界宣教のまさに第一人者としての使徒パウロの使命でもあったのです。「ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも」信じるすべてに救いをもたらす神の力が福音であると使徒は申しました。その福音の内容は、神の義です。罪人を赦す驚くべき義でした。その赦しのために、神の義がイエス・キリストにおいて現され、御子、主イエス・キリストは、私どもの贖いの代価となって十字架に死んで、三日目にご復活されました。こうして、私どもの罪、不義が赦され、神との間に正しい関係、つまり義が成就します。そしてその義とは、言葉を換えれば、神との和解であり、神の平和を受けることに他なりません。こうして、神の平和こそ、ローマの信徒への手紙全体の主題となるわけです。神の平和は、すでに十字架上で成就されました。ですから、今や、使徒たちの使命とは、この歴史的事実を報道することです。そして、その意味を公に宣言することです。こうして、この福音を信じた人は、事実、神の平和に招き入れられます。先ず、個人的に、心の中にこの平安を味わい始めます。そして、同時に、これを教えられた教会の内部、教会において、神の平和を味わい始めます。そして、福音の力は、決してそこで、終わりません。終わらせません。この平和を広げること、神の国の拡大のために駆り立てられるのです。それが、キリスト者のすべてに与えられた使命です。神の与えてくださる平和・平安を実際に、構築するのです。その手段とは何でしょうか?それこそ、福音を証しすること、宣教です。宣教こそ、私どもの光栄ある務め、責任です。そしてその宣教を支え、その実質を証しするものは、キリスト者と教会の存在形式です。徹底的にディアコニアに生きる姿なのです。他者に、隣人に仕える教会なしには、宣教もまたこの世のする「宣伝」にしか過ぎなくなります。今週も、こつこと「使命に生きる教会(キリスト者)」として・・・!