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「祝福のお土産を持ち運ぶ人」

「祝福のお土産を持ち運ぶ人」
2008年9月14日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章25-29節②

「しかし今は、聖なる者たちに仕えるためにエルサレムへ行きます。マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。それで、わたしはこのことを済ませてから、つまり、募金の成果を確実に手渡した後、あなたがたのところを経てイスパニアに行きます。そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。
 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」

わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、今朝も、ここに呼び集められたお一人お一人の上に豊かにありますように、心から祈り、また祝福します。

今朝も、さまざまな思いの中で、皆様はここにおられます。一人ひとりの一週間は、何事もなく、いつものように過ごすことができた方もおられれば、厳しい思いのなかで過ごされた方もおられるかもしれません。それだけに、わたしにとりまして、この説教はもちろんのこと、礼拝式の最後の祝福を宣言するとき、すべてに力を込めますが、しかし特別に力が入ります。本当に、もしも、万が一、今週、ここに来た仲間が来週は共に会えなくなっていたとしても、しかし、主イエス・キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりの外ではなく、その中で起こっていること、そのように信じて死ぬことができるようにと願うからです。いや、そこまでの、究極のことを言わずともよいでしょう。私どもは、地上に生きている限り不安です。

実は、先週の中高科の分級のとき、一人のお友達から、今週末に、岡崎で地震が起こるんだよという話を聞きました。そのような予言をした人がいるというのです。すると、そこにいたほとんどのお友達がそれを知っていました。そればかりか、先週、委員会であつまった牧師たちの中でもほとんどが知っているのです。今は、そのような情報がインターネットを通して、一瞬で広まることを改めて思わされました。大地震が起こったら、信徒研修会がなくなり、そのための準備が要らなくなって助かるかもという、ブラックジョークもありましたが、我々は、明日のことが分かりません。本当に分かりませんから、占い師、有名な占い師などは、今でも、いへ、今こそというべきでしょうか、影響力を与えます。分級では、そんなのまったく根拠はなく、でたらめだからねと言いました。しかし、私どものこの地域、この日本には、どこでも大地震が起こる可能性があります。まさに、地上にあるすべてのものは、不動のもの、揺るぎないものなどないということです。天のふるさと以外に、私どもの究極の安心、安全、平和の居場所はないということです。

しかし、そこで、私は何よりも皆様の一週間の旅路が守られるようにと祈ります。それは、私の毎日の基本の祈りです。皆様お一人ひとりが平和のうちに過ごすことができるようにと祈ります。しかし、大地震が起こったらその祈りはどうなるのでしょうか。それによって被災したら、仮に、自分だけが被災したとするなら、どうなるのでしょうか。その時には、私の祈りは、かなえられなかったのでしょうか。聞かれなかったのでしょうか。断じて、違います。

私どもは、毎週、あの祭司アロンが告げた祝福によって送り出されます。「願わくは、主があなた方を祝福し、あなたがたを守られるように。願わくは、主がみ顔をもってあなた方を照らし、あなたがたを恵まれるように。願わくは、主がみ顔をあなた方に向け、あなた方に平安を賜るように。アーメン」この祝福、この平安、平安とはまさに、ローマの信徒への手紙で学んでおります、神の平和のことに他なりません。神の平和が与えられるようにと祈り、祝福を告げるのです。ですから、この祝福に、皆様が「アーメン」と応答するなら、その人にまさに祝福は宿る、注がれるのです。アーメンと応答して、神の祝福を確実にキャッチした、するのです。ですから、私どもは、先週、どんなに悲しく、つらいことが起こったとしても、しかし、神さまが共にいてくださらなかったのではないと、信じて、ここに来ることができたはずです。それを確認できると思います。その意味で、私どもは、自分の一週間を、良いこと、ラッキーなことがあろうとなかろうと、逆にアンラッキーなことが起ころうとも、自分に注がれた祝福を見ることが許されています。信じること、神を信じること、福音の神を信じるということは、自分に注がれている祝福を信じることです。つまり、自分のことを明るく見ることです。

さて、使徒パウロは、エルサレムを訪問して、異邦人の諸教会から集められた献金を届けようとします。そのために、熱望している、憧れのローマの信徒たち、教会員たちへの訪問を後回しにします。しかし、ついに、その聖なる務めを、奉仕を全うできたなら、あなたがたのところに行くと約束します。そして、パウロは、ローマの信徒たちに、あなたがたのところに行くときには、こうなるのだと告げます。「そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行くことになると思っています。」「思っている。」これは、知っているという言葉です。ある人は、信じている、確信しているとも訳します。「キリストの祝福に満ち満ちている」という表現です。「キリストの満ち満ちた祝福」です。新共同訳聖書のように、それを「持って」行く、「ともなって」行くとも訳せます。また、キリストの満ち満ちた祝福の「中で」行くとも訳せるかと思います。祝福が充満している。充満している祝福です。

小さな祝福、少しの祝福ではありません。満ちているのです。そもそも、神の祝福とは、そのようなものの他にありません。もし、「あなたに神の祝福がありますように」と、言われたとき、それは、そこで言われた祝福のイメージとは、いかなるものでしょうか。

いへ、そもそも、祝福とは何でしょうか。それが、分からないまま、祝福された人間であるかどうか、ぼんやりしたままではないでしょうか。我々日本人は、厳密に物事を考えることが苦手ではないでしょうか。イメージとか、雰囲気、ムードに負けてしまう。よく分からなくても、言葉を使って、分かったつもりになる。このようなことは、我々の欠点、大きな、致命的な欠点ではないでしょうか。それなら、キリスト者としては、特に日本人キリスト者であれば、そのような日本の雰囲気、日本人の弱点に負けるわけには行きませんし、そのままにしていてはならないと思います。福音とは、神の力であります。信仰とは、ムードではなく、神の御言葉に根ざします。そして神の御言葉こそは、まさに明らかなものであります。ですから、改革派教会、宗教改革によって生まれ、その伝統に堅く立ち、継承しようとする教会であれば、教理の学びを、一生涯続けるのです。終わりがありません。

祝福とは、小さなものではありません。例えば、コップで言えば、半分ほど入っている状態のイメージではありません。八分目程度でもありません。まさに、あふれるほどです。充満するのです。溢れ出るのです。

この充満という言葉で私がすぐに思い起こす御言葉は、エフェソの信徒への手紙第1章の教会についての使徒の言葉であります。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」ここでの満たしているという言葉が、あふれるという言葉と同じです。教会は、キリストが臨在しておられるということです。そしてその臨在の仕方は、キリストの霊、聖霊による臨在です。そしてこの聖霊なる神は、「すべてにおいてすべてを満たしているお方」なのです。この教会とは、地上にあるあの教会、この教会、岩の上教会のことを含みますが、しかし、その一個の教会のことではありません。むしろ、目に見えない教会、天の教会、公同の教会のことを第一に指し示しているのです。しかし、私ども岩の上教会とは、地上における現実のここにある教会です。弱さに満ちた教会であります。なお、未成熟な部分の多い開拓途上の教会であり、日本キリスト改革派教会の教会規程で言えば、まさに伝道所なわけです。しかし、この伝道所の教会であっても、この「すべてにおいてすべてを満たしているお方」主キリストがここに共にいてくださいます。そうでなければ、キリストの教会にならないのです。私ども名古屋岩の上教会が徹底的にこだわり、徹底して求めてきたのは、正真正銘、キリストの教会となること以外ではありませんでした。

キリストが共におられないのであれば、それは、どんなに礼拝に人々が集って、どれほど社会的に知られる存在になったとしても、どれほど人材的、経済的に大きな力を持つことができても、さかんな集会、活動を展開しても、結局、神の前では、無意味でしかありません。真実のキリストの教会の姿からすれば、仇花でしかありません。

そこで徐々に見えてきたかと思います。祝福とは一体なんでしょうか。神の祝福とは、何でしょうか。今日の私ども、新約の時代の私どもに取ってそれは、主イエス・キリストの祝福であります。そうなれば、主イエス・キリストの祝福とは、言葉を換えれば、キリストの福音のことでしょう。キリストの福音、これまで明らかにしてきた福音の真理そのもののことです。

牧田吉和先生が、中部中会の信徒神学講座に来てくださることを知りましたが、そこで語られる主題は、こうでした。「聖霊の力にあふれた説教」私どもの教会は、日本キリスト改革派教会創立20周年宣言の文言「聖霊の力あふれた教会」という言葉、私どもの名古屋岩の上教会の目指し、獲得すべき、目標として掲げ続けています。そのような聖霊の力あふれる教会は、結局、聖霊の力あふれる説教なしには、実現し得ないということが、牧田先生によって新しく強調されるのではないかと、思います。牧田先生がどのようなお話をなさるのかまったく分かりませんが、しかし、聖霊の力あふれる説教にとって、なくてならないのは、熱く語ること、説教者の語り口ということでは本質的にはないことは明らかであると思います。ただし、福音こそは、何を語り、何について議論するにまさって、人間をもっとも熱くさせるものであると、わたしは確信しています。聖霊の力あふれる説教にとって不可欠なこととは、それは、なにより、純粋な教理です。福音の内容に他なりません。御言葉が正しく語られることです。それは、まったく古い教えです。宗教改革者たちから受け継いできた私どもの揺るぎない確信です。ですから、パウロは、この手紙を順序だてて書き進め、遂にこの手紙を書き終えるのです。

私どもは、説教を終えるとき必ず祈ります。パウロもまた、手紙を終えるときには、やはり祈りで、祝福の祈りで結ぶ以外に終われないと思うのでしょう。パウロは、33節でとても重要な祈りの言葉を告げます。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」です。何が重要なのかと申しますと、平和の源なる神という表現です。何よりも今朝、祝福とは何かを考える時、それはまさに、この祈りの言葉のなかに含まれていることが分かるのではないでしょうか。つまり、神が共におられることです。キリストが共におられることであります。それが祝福なのです。私どもが誰かの祝福を心から祈る。それは、その兄弟の具体的な祈りの課題が実現されるようにということは、もちろん含みます。しかし、私どもは、その課題がその通り実現したとき、そのときはじめて信仰によって祝福されたのだと言うのでしょうか。断じて違うはずです。思い通りにならない場合、自分の人生にまさかこのようなことが起こるはずがない、あるはずがないと言うことが、しかし、私どもの人生に起こらないとも限りません。 

キリスト者であれば、決してそんな不幸や悲しみは、逃げ去って行く、離れ去って行く、関係なく生きて行けるようになる。そうでしょうか。聖書は、神の御言葉は、私どもにそう告げているのでしょうか。答えは、明らか過ぎます。私どもへの祝福、真の祝福、本物の祝福とは、永遠の、いつまでも残るものです。天からの祝福です。それは、罪の赦し、主イエス・キリストとの交わり、神の子とされること、神の恵みです。それを一言で言えば、主イエス・キリストが私どもと共におられるということです。いついかなるときにも主イエスさまが共におられることです。その祝福が、私どもにとっての祝福そのものです。実に、平和の源である神が私どもと共にいてくださる。教会の真ん中にいてくださることが、祝福なのです。

さて、このときの最初の読者は、使徒パウロが果たして本当に、無事に、自分たちの街に来てくれるのか、知りません。しかし、私どもは知っています。彼は、ローマに赴きました。それは、使徒言行録に記されています。それなら、どのような形で使徒パウロは、ローマにたどり着いたのでしょうか。

パウロは、ここに書いている通り、何よりもエルサレムに行きました。献金を届けたのは間違いないことでしょう。しかし、すんなりとエルサレムに赴けたのではありません。例えば、使徒言行録第20章では、エフェソの教会の長老たちに別れの説教が収められています。そこで、パウロ本人が、こういいます。「そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。」

エルサレムには投獄と苦難が待ち受けていると、理解しています。しかも、エフェソの教会にはもう二度と来れないであろうと予告するのです。命の危険を十二分に察知しているということであります。

何よりも、次の第21章では、こうあります。ティルスという港にいたキリスト者たちが、こう言うのです。「彼らは“霊”に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返して言った。」聖霊がその港町のキリスト者に働いて、何とか、エルサレムに行かないようにと説得しました。つまり、神さまの霊に導かれて、エルサレムに行けば、大変な目に遭うことになると予告されたということです。さらに、極めつけがあります。

神に立てられて七人の執事の職を務めたうちの一人、フィリポの家に滞在したときのことです。これもそのままお読みします。「幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」

わたしたちはこれを聞き、土地の人と一緒になって、エルサレムへは上らないようにと、パウロにしきりに頼んだ。

わざわざユダヤからアガボという預言者た尋ねて、絶対に来てはならない。来たらこうなると、パフォーマンスさへして、説得したのです。このとき、遂に、著者のルカもつまり、パウロと一緒に伝道旅行していた同労者、チームのメンバーたちも、声をそろえて、エルサレム行きを諦めるようにと、撤回するようにと説得したのです。言うまでもなく、それは、聖霊の促しに従った行為です。人間的な思いではありません。信仰の判断によって、少なくとも今は、エルサレム行きは、御心ではないと信じて、説得したのです。続けて読みます。「そのとき、パウロは答えた。「泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。」「パウロがわたしたちの勧めを聞き入れようとしないので、わたしたちは、「主の御心が行われますように」と言って、口をつぐんだ。 数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。」
使徒パウロは、死ぬことを覚悟して、それでも献金を届けなければとかんがています。それほどの意味があるということです。それに負けるようにして、彼らは引き下がり、「主の御心が行われるようにと」祝福したのです。同じ聖霊の導きを受けて正反対の意見が提出されています。教会のなかで、しばしばそのようなことが起こります。しかし、お互いの確信が、高度の形で完成することを目指すわけです。それは、神の御心がなるようにということでの一致です。そして、彼らは、なんとかパウロの命を守ろうとの善意ですが、しかし、パウロ自身は、その善意を受けながら、自分の命よりも大切なこと、それを証しするように導かれたわけです。それが、エルサレムに諸教会の献金を届けることです。来週、学びます。

しかも感激することは、実に、ルカは、この旅路に同行するのです。「数日たって、わたしたちは旅の準備をしてエルサレムに上った。」私たちとは、これまでの伝道チームです。彼らは、パウロを見捨てることなく、共に行く。これは、すごいことではないでしょうか。本当に、彼らは、神の御心がなるということで、神の使命で、一致するのです。先週の説教のメッセージがここでも実現している姿を見ることができます。

さて、それならエルサレムでどうなったのでしょうか。詳しく見る暇がありません。結論を申しますと、彼は、命を狙われます。ユダヤ人たちが、どれほどの殺意、憾みを覚えているのかを示すのは、23章の12節にこうあります。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。」暗殺者40人以上。これは、尋常ではありません。しかし、使徒パウロは、守られます。誰に守られたのかと申しますと、ローマの兵隊です。彼は、自分を訴えるユダヤ人に対して、自分はローマの市民権を持っているから、自分の裁判は、ローマの法律でしか裁けないと申告したのです。それによって、彼は、逆に、ユダヤ人のリンチ、暗殺から、公権力、ローマ帝国の権力、軍隊によって守られ、法廷のあるローマまで護送されたのです。安心して、自分のお金ではなくと申しましょうか、公金でローマに送られたわけです。

長く申しましたが、つまり、パウロがローマに来たとき、ローマの信徒たちは、囚人となっている使徒を見るのです。我々なら、どうしてそこにキリストの祝福をあふれるほど持っている人の姿として見れるでしょうか。それなら、彼らは、このパウロの姿を惨めな人間、悲しい人間、不幸な人間、忌むべき人間として認めたのでしょうか。断じて、違います。彼らは、まさにこのパウロの姿のなかにも、神の祝福、主イエス・キリストが共にいてくださる祝福を見たはずです。あふれるほど持っている姿です。ローマの兵隊たちに護送されている姿のなかに、むしろ神の祝福に護送されているような姿として映っているのではないでしょうか。満ち満ちた祝福のまんまん中で、ローマに入ってきた姿です。

実は、使徒言行録によれば、ローマでのパウロは、言わば、軟禁生活を強いられますが、しかし、自分の家に訪ねる人には、何の妨げもなく、自由に福音を証しし、教え続けました。使徒言行録の結びの言葉は、う。こうです。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

最後に、この使徒パウロのあり方を見ながら、私どもは、決して他人事と考えてはなりません。偉大な使徒パウロだからこそ、満ち満ちた祝福をたずさへ、あるいは神の祝福に護送され、満ち満ちた祝福のまんまん中で、赴くことができたのであって、自分たちには、夢のようなことだと、考えてはなりません。

最初に、キリスト者とは、自分を明るく見る人と申しました。肯定的に見るということです。自分を受け入れるということです。パウロもまた、自分を徹底的に肯定的、明るく見た人です。自分の将来は、本当に厳しく、殉教することが定められていると弁えている節があります。いや、確信していたかもしれません。しかし、彼は、自分を暗く考えません。明るく見るのです。

私どもも、自分に与えられたキリストの祝福の大きさ、すばらしさ、その力のすごさを、信じましょう。洗礼を受けている、先週、聖餐を受けた人、それは、キリストの祝福そのものです。信じましょう。私どもは、他の誰でもなく、ここにいる私どももまたこのキリストの祝福にあずかっているのです。信じるとき、それが実現します。そのとき、まさに私どもはここから遣わされ、出て行く場所に、キリストの祝福を、神からのお土産、教会からのお土産として手渡され、送り出されるのです。このお土産を誰かに差し出すとき、そこにコイノーニアが生まれるのです。その人がこの祝福にあずかって頂いたなら、まさに交わりが結ばれるのです。平和が実現します。その旅を、私どもは今週もまたここから始めます。出発します。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもの人生には、苦しみや悲しみ、不安や怒りが多いのです。平坦なばかりの道が続く歩みではありません。しかし、私どもには、天からの祝福、あなたの祝福にあふれています。今ここで、罪の赦しが与えられ、主イエス・キリストが共にいてくださり、私どもの内に住んでいてくださいます。この祝福は私どもに確実に注がれています。どうぞ、その祝福のなかで、起こり来る困難です。困難に負けず、むしろそこでこそ頭を挙げ、そして自分を祝福された人間、祝福を分かち与えることのできる人間として明るく見ることができますように。アーメン。