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「平和をつくる福音の宣教」

「平和をつくる福音の宣教」
2008年9月21日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第15章30-33節

「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように。平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」

先週、私どもは、礼拝式の中で祝福をあふれるほど受けることを確認いたしました。この祝福とは、神が共におられること。主イエス・キリストが共にいらっしゃることであると確認しました。主イエスが共にいてくださるということは、私どもの真ん中にいてくださることでありまた隣りにいてくださることだけではなく、私どもの内側に宿る、内に住んでくださるように仕方で、深く、共にいてくださることだと学びました。そしてそれこそは、この地上では決して受けることのできない祝福であり、天からの祝福、神の祝福であることを確認しました。

 使徒パウロは、今、心を込めて、ローマにいる愛する教会員に向かって祝福を宣言し、祈りました。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」今朝、あらためて、使徒パウロを通して告げられたこの祝福が、信じる私ども一同に成就しています。私自身もあらためて宣言します。「皆様の上に、平和の神が共にいてくださいますように。」
 
 さて、神が共にいてくださることが祝福であるわけですが、使徒パウロは、この手紙のまさに結論、まさに結びの祝福の言葉、その祈りのなかで、この神を「平和」の神と申します。この祝福の内容を、「平和」の神が共にいてくださいますようにと、突っ込んで、事柄を明らかにして申します。それは、これまでの丁寧な福音の説明、説き明かしの議論のなかで、使徒パウロ自身のなかで、ストレートに語ることができると考えたからだと思います。その鍵の言葉こそ、「平和」であります。

 8月の読書会、また夜の祈祷会では、わたしがつくりましたプリントを学びました。それは、ローマの信徒への手紙全体を一枚の表にまとめたプリントです。そしてこの大きな手紙全体の主題を、「神の平和の福音」としました。使徒パウロがここで明らかにしたこと全体の主題は、紛れもなく、福音です。それは、第一章第1節、そして2節にも記しました。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、使徒となったパウロ」これが自己紹介です。すばらしい自己紹介です。私どももキリスト者であれば、このように自己紹介できるのですし、すべきです。ただし、「使徒となった」これは、言えませんし、言ってはなりません。パウロだけが、使徒として選ばれ、立てられました。自分勝手に、借用することは決して許されません。しかし、「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出された者」これは、およそすべてのキリスト者の存在を規定する言葉です。キリスト者の自己紹介です。キリスト者の定義であると言っても決して言い過ぎではありません。

さて、「神の福音」と自己紹介したパウロは、もうすぐそこで「うずうず」するのでしょうか。もう感激が抑えきれなくなって、手紙の挨拶を始める前に、もうここで福音の真理を明らかにしてしまう。あきれてしまうほど、かっかと燃えています。「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」

挨拶を始める前から、福音の真理を要約して、提示してしまう。その意味では、我々が知るような手紙とは違う音色を最初から立てています。福音の喜び、押さえがたいキリスト者の姿が鮮明になっています。救われたということは、この福音のものすごい内容に驚き、感動しているということでありましょう。

 さて、ですから、この手紙でも主題は福音なのは、明らかです。このように考えますと、お気づきになられるのではないでしょうか。ああ、結局、新約聖書は、四つの福音書が最初に収められているけれど、結局、その他の手紙も、福音を証しするものなのだ、新約聖書は福音を証言する書物なのだと、いうことです。

 その通りです。しかし、それぞれの福音には、やはりトーン、音色があります。そこで、使徒パウロ自身が特に強調したいのは、何か、それこそが、「平和」なのです。平和とは、何でしょうか。それもまた祝福と同じです。真の祝福、本物の祝福は、この地上のなにものでも提供できません。それは、天から、神からのプレゼントなのです。神の賜物としての祝福でした。ここでの平和もまたまったく同じです。天からの、神からのプレゼント、神の賜物としての平和です。

 第一の意味では、戦争のない状態の平和ということでも、安全保障の課題としての平和でもありません。この平和とは、究極の平和です。完全な平和です。これなしには、人間が永遠に生きることは決してかなわない、人間にとって必須の、不可欠のもの、祝福です。

 そのことを使徒パウロは、これまで一生懸命記して来ました。それは、神との間に締結される、結ばれる平和です。神との正しい関係に招き入れられることです。 

そもそも、神が造ってくださった世界には、平和しかありませんでした。あの最初の人間アダムに与えられた場所は、楽園でした。そこには、まさに祝福しかなかったのです。神がともにおられる祝福です。ところが、それをアダムとエバは、食べてはならない、食べると必ず死んでしまうと警告され、威嚇されていた木の実を取って食べました。神に逆らったのです。神との愛の関係、正しい関係、神は神、人間は人間と言うこの正常な関係を逆転させようと企んだのです。このようにして、かつての平和は、人間の神への反抗によって、破壊されました。神との間の平和がなくなってしまったのです。これまでの人間、アダムとエバは、神が近くに来られるとき、彼らは、喜びと楽しさに満ち溢れて、神さまの方に駆け寄った。ところが、神の平和を失ってしまったとき、彼らは、ただちに、正反対の行動をとりました。神の前に出なかったのです。隠れたのです。身を隠し、おそれたのです。

そればかりではありません。あれほどまでにお互いに愛し合っていたアダムとエバはお互いの間の平和をも、同時に、破壊してしまいました。失ってしまいました。アダムは、責任をエバになすりつけ、エバに対して、愛の言葉を失いました。そこに、神との間の平和が崩壊したとき、ただちに人間同士の間の平和が崩壊する真理が明らかにされました。
そればかりではありません。アダムとエバの子どもたち、兄弟のカインとアベルとが仲たがいをします。兄のカインは、一方的にアベルを妬んで、殺してしまいます。人類最初の殺人が起こります。兄弟殺しです。まさに神との間の平和が破壊されたとき、ただちに人間同士の間の平和が崩壊する真理が、これでもかと言わんがばかりに明らかにされました。

イエスさまは、私どもの罪を償うため、贖うために、私どもの身代わりになってくださいました。それは、イエスさまが仰った神の国に入るためなのです。入れさせるためです。神の国の住人となるためです。神の国に入るというのは、神の前に敵対関係をもったまま、身を隠さなければならないような人間は、決して入れません。つまり、アダムとエバの子孫は、もはや、誰も入れません。
しかし、彼らの罪を身代わりになって償う人間がいれば、どうでしょうか。私どもの罪の支払う報酬の、神からの刑罰、神の怒り、裁きを代わりに受けてくださる人間がいれば、どうでしょうか。そのときだけ、私どもは、神の国に入れます。神の国で、神との間に平和が実現します。真の平和が確立します。

 しかしそのような人間は、地上にただの一人もいません。なぜなら、皆、例外なく、罪を犯しているからです。 そのような人間の可能性は、まったく罪を犯したことがない、しかし正真正銘の人間だけです。それは、まさにありえないことです。不可能です。
しかし、神にはなんでもできないことはありません。神が成し遂げてくださったのです。それは、神の永遠の御子が、私どもとまったく同じ人間となってくださるということです。そしてそれを、主イエス・キリストは、2000年前の最初のクリスマスの日に実現してくださいました。そして、30年余り後、十字架について、私どもの身代わりに罪の裁きを受けてくださいました。十字架の上出に主イエスは勝利の宣言をなさいました。「成し遂げられた。」終わった。事が、完成した、それは、私どもの救いの御業に他なりません。十字架で、私どもの救いは、完成したのです。そればかりか、ご復活して、永遠の命を獲得し、罪の赦しを、決定的に証拠だててくださったのです。おかしな表現ですが、完成の上の完成です。
 
 使徒パウロが、この手紙で伝えた福音とは、まさに御子イエス・キリストのことでした。このイエスさまが、成し遂げられた出来事の意味、贖いが、私どもを完全に救い、神の子とし、イエス・キリストとの交わりに導くことが、明らかにされました。何よりも、ここで特に強調されたのが、主イエス・キリストを信じる信仰による神の義を受けるということでした。神の義です。神の正しさ、それは、罪人を罪のゆえに、正しく罰し、裁く、正義ではなく、それだけではなく、実に、罪人を罪人のまま受け入れ、愛し、赦し、そればかりか彼を義としてしまう驚くべき義でした。しかし、この神の義は、神が不正を働かれたからではなく、神が愛が働かれたからです。神がその独り子を私どもの罪の贖いの代価として、私どもの罪の支払う報酬と、完全に支払ってくださったからです。ですから、神の義を受けるには、唯一つだけ、言わば条件がある。それは、信じることです。ただ信じることです。しかも、条件と申しましたが、使徒パウロが明らかにしたのは、むしろ、条件などということでは、当てはまらない、恵みでした。つまり、この信仰、主イエス・キリストを信じる信仰こそ、神からの賜物、恵みであるということです。信仰によって、恵みによって、主イエス・キリストのおかげで、私どもは神の義を受けたのです。

 そして、この恵みの出来事を、言葉を換えると、神との間に和解が成り立つと、和解という言葉を用います。そして、決定的に重要な表現が、第5章1節で用いられます。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」ここに、ローマの信徒への手紙の主題が明確に現されたのです。神との間の平和、これこそ、主イエス・キリストがもたらしてくださった救いの恵み、福音に他なりません。この神との間の平和、神の平和がある場所こそ、神の国です。
 ですから主イエス・キリストによって始められた地上における神の国である教会は、この神の平和が実現する度合いにしたがってその輪郭、その姿をはっきりとこの地上に見せることができるようになります。

 さて、これまでのことは、本日の前置きになる議論でした。余りにも長い前置きかもしれません。しかし、おさらいをすることも大切です。
 使徒パウロは、この手紙の序文で、このように述べました。「その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」

何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところに行ける機会があるように、祈り願っている。パウロは、心の底から、世界の中心地のローマに行きたいと考えているのです。真剣です。しかし、学んで参りましたように、それにもかかわらず、彼は、今、それ以上に、どうしても、何としてでも行かなければならないところがあると言うのです。それは、ユダヤの教会、エルサレム教会です。エルサレム教会とは、キリスト教会発祥の地。原点です。母なる教会です。すべてはこのエルサレムにある最初の教会から始まる、出発するわけです。

 しかし、感謝なことに、私どもの最初の先輩たちは、主イエス・キリストのご命令を忠実に守りました。主イエスさまが天に昇られる直前に、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子とし」なさいとの命令に従って、地の果てまで、キリストの福音を宣べ伝えたのです。外的な要因も確かにありました。それは、迫害です。多くのキリスト者たちはエルサレムに残れませんでした。不思議なことですが、神は、教会への迫害を逆手にとられて、キリストの教会を世界に散らされたのです。
 しかしそうなりますと、問題が生じます。つまり、キリストの教会のアイデンティティ、一体性、同質性が保てなくなるということです。私どものように毎週、顔を合わせることができたら、これは、自分たちの一致、同質性、同じ信仰を保つことは、そう難しくはありません。先週の中部中会の信徒研修会では、400名が集いましたが、やはり、中部中会の一致を保つことは、各個教会よりは大変であったとしても、なお、やさしいと思います。しかし、世界中に散らされたお互いに集ることもできなくなれば、いかがでしょうか。そこにこそ、キリストの教会とは、何か。何をもってキリストの教会と言えるのか、言わば、教会の目じるしが問われるのです。それは、教会の建物に十字架が掲げられているというような「目じるし」ではありません。今は、大きな礼拝堂を見れば、たいてい結婚式場のような場所であったりいたします。教会とは何の関係もありません。

 そこでこそ、今朝も私どもが告白したニカヤ信条の出番があるわけです。この信条を告白できる教会こそ、キリストの教会と言えるのです。しかし、パウロの時代には、まだまだそのような信仰告白は、整備されていません。パウロがまさに命にかえてでも守りたかったのは、いったいなんでしょうか。それは、エルサレムの教会と異邦人の諸教会、世界中に散在している教会とを、一つの教会、一致した教会の絆で結ぶことなのです。つまり言葉を換えれば、教会と教会との間に平和を構築することです。たとい距離的には離れていても、たとい一緒に集ることはできなくても、キリストの教会とは、一つの教会である。これが、使徒パウロのゆずれない確信です。なぜなら、主イエス・キリストによってユダヤ人も異邦人もなく、男も女もなく、皆、救われて神の民となることができるようになったからです。これこそ、福音なのです。これこそが、人類の平和です。神の平和こそは、人類の平和の根拠なのです。

 神の平和こそが、地上に人類の平和の共同体、教会を作り出したのです。そうであれば、教会こそ、平和の砦であります。だから、使徒パウロは、世界中にこの教会を形成するために、まさに命をかけているのです。

 教会の牧師のことを英語ではミニスターと表現するときがあります。牧師の仕事は、ミニストリーです。ミニスターとは、普通は、大臣という意味に用いられます。政治的な言葉です。もし、牧師の仕事、奉仕がミニストリーであるということは、牧師が政治家、大臣を気取ることではありません。しかし、彼の仕事は、世界に平和を構築する務め、神の平和が具体的に地上に具現化、実現するために働くのであれば、彼こそは、やはりミニスターでしょう。ミニストリーではないでしょうか。

 使徒パウロこそは、まさにミニストリーを世界に展開します。世界戦略という言葉が使われますが、それは、もともと、キリスト教のこと、第一世紀に誕生した教会の行動のことを意味するはずです。パウロは、世界戦略を立てています。エルサレムからローマに行けば、人生ゲームで言うと「上がり」かもしれません。世界の大都市に行って、大歓迎されれば、まさに、人間的には、上り詰めるなどという、何か、政治的な、この世的で、とても嫌な言い方ですが、そう考えられるかもしれません。しかし、パウロは、違う。パウロは、ローマに上がるのではないのです。どんどん、世界の果てに行くのです。福音の宣教の使命に生き抜こうとします。主イエスに従いたいからです。福音の大きさ、力を知っているからです。

 しかし、同時に、彼は、その周辺からエルサレムを忘れたことはないのです。エルサレムには、迫害の只中で、しかし極めて困難な場所で、信仰の闘いを貫いている兄弟姉妹たちがいます。そうであれば、彼らから霊的な恵み、つまり、福音を伝えられた異邦人教会は、少なくとも、彼らへ、経済的な支援をもって、支える義務、助ける責任があるのです。そのようにして、貧しい教会が豊かな教会の支援を受けつつ、エルサレムでの教会が、そこに踏みとどまる。そして、世界中の教会と交わりと保つ。そこに、使徒パウロの世界戦略、世界を平和にする戦略があるのです。
 だから、まさに命をかけて、おそろしい迫害者、40人以上の自分を殺すまでは断食すると言う暗殺者、テロリストが待つ、エルサレムに行くのです。献金を届けにです。

しかし、そこになお一筋縄では行かない問題があります。それは、肝心のエルサレム教会が、異邦人教会からの献金を拒絶する可能性があるからです。献金を受けて、歓迎されないということは、私どもではイメージできません。想像できません。しかし、ユダヤ人中心のエルサレムのキリスト者たちにとって、異邦人から支援を受けることは、彼らの異邦人を見下すユダヤ人のプライドが、福音によって克服されない限り、かなわないのです。ユダヤ人のパウロはその辺りのことを痛いほど、分かっていたはずです。だからこそ、ローマのキリスト者たちに訴えています。「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」

拒絶されたら、教会の一致、教会の平和が壊れるからです。そうなれば、神の平和の実力が、損なわれ、証しされなくなるからです。使徒パウロは、世界中にキリストの福音を広め、各地にキリストの平和、神の平和の橋頭堡、砦、拠点をつくるのです。それは、決して、キリスト教の勢力を増そうと言うような経営や経済の発想とは無縁です。宗教活動を推進して、国家の中枢に入り込んで、政党をつくって、自分たちの影響力を強めようというようなミニストリーとは、まったく無縁です。平和をつくる戦いです。神の平和の実り教会を形成する戦いです。それは、神の国の拡大、進展に他なりません。

このために、パウロは、真剣に祈ります。しかもこれはただ一人で祈っているべき事柄ではありませんから、ローマの教会に執り成しの祈りを求めます。「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」

どれほど、真剣な、切実な訴えでしょうか。ある説教者は、ここで主イエスのゲツセマネの祈りを思い起こしています。イエスさまも、十字架の前夜、私とともに、わたしのために起きて、共に祈って欲しいと弟子たちに願いました。弟子たちは、眠りこけてしまいました。私どもはどうでしょうか。世界に平和を構築する、福音宣教の務めに専心し、専念している働き人のために祈っているでしょうか。会員の皆さんにとっては、まさに自分の牧師のために祈ること、でしょう。彼が、福音宣教者としての務めを果たせるようにです。

 さて、そのような意味で、教会に仕える、教会に生きるということは、実に、偉大な、真の意味で政治的な、神の平和を広めると言う意味の政治的な働きを担うのです。私どもはそのことを、選挙で実現しようとしているのではありません。もとより、今さら繰り返すこともないかもしれませんが、私どもは、今日の日本のなかで、政治的な発言をしてゆかねばならないのです。平和と自由という、キリスト教的なそして全人類にとって普遍的な価値が、またもや危機的な状況にたたされています。日本国憲法もまた、政治家たちが無視し続けて恥じません。多くの国民もそれに慣れています。ですから、一昨年、教育基本法という、日本国憲法を実現するための基本法を、いとも簡単に葬り去ってしまえたのです。ですから、私どもは常に意識を高く持ちたいと思います。しかし、それで平和が実現するなどとは、夢にも思いません。

そうではなく、この神の平和が広がることです。あの十字架と復活の知らせを、伝えることです。福音の宣教です。そして、それと同時に、宣教する教会が、まさに平和に生きていることが、説得力を持つのです。

 もう、何度、伝道しているときに、宗教戦争のこと、カトリックとプロテスタントが殺しあっているというような批判をされて、シャットアウトされたでしょう。それを言えば、キリスト教の教えに耳を傾けなくてすむかのように、仰る場合も少なくないのです。
 私どもは、先ず、この教会に神の平和がいよいよ、確立することを、祈り求め、戦い求めます。また、中部中会、日本キリスト改革派教会、そして世界の改革派との交わり、また、諸教派との交わりや理解を求めます。そして、実現したいのは、勢力を拡大することではなく、キリストの平和、神の平和を教会において証したいからです。それは、政治的な妥協点をさぐる平和であるはずがありません。そのようなことは、この世の政治でしかないからです。神の平和です。真理です。その真理に根ざす、御言葉に根ざす神の平和が教会にありますように。この平和をもって、この争いと憎しみに、おののいている世界の希望となりますように。そのために、私どもは選ばれ、召され、キリスト・イエスの僕とされているのです。福音の宣教に仕えるのです。

 祈祷
 天のお父さま、私どもは今、あなたの平和に招き入れられ、ここで礼拝を捧げることがゆるされています。心から感謝いたします。かつては、まことの平和がなく、その結果、自分自身の心のなかに平安がありませんでした。平安のない心は、共に生きる仲間と平和をつくることができず、むしろ、自己中心、自分にこだわる思いのなかで、競争ばかりで、疲れ切りました。罪のせいです。あなたに背き、逆らっていたからです。しかし、あなたはそのようなまだ敵であったとき、御子イエス・キリストを十字架につけて、私どもの罪をあなたが償い、私どもの間に平和を造ってくださいました。心から感謝いたします。今、この平和を喜ぶ私どもが、そこにとどまることがありませんように、目を覚まして、祈り、そしてなによりも平和の福音を、平和の神を宣べ伝える者として、お用い下さい。アーメン