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「あふれるほどの平和と恵みを受け」

「あふれるほどの平和と恵みを受け」
2008年11月23日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第16章17-23節

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。 
平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。」
わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。
(16:24)(わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。)

いよいよ、4年にわたって主の日の礼拝式で学んでまいりましたローマの信徒への手紙も、最後の最後の箇所に入りました。

第16章は、まさに結びの挨拶です。ローマの教会の中で、著者であるパウロが知っているキリスト者のおそらくほとんどの仲間たちの名前を呼ぶのです。そして、そのひとりひとりに、「よろしく」「よろしく」と告げているのです。17回も「よろしく」と告げられます。

何度もおさらいをしますが、ここでの「よろしく」とは、日本人の挨拶として用いる、「よろしくお伝えください」という意味とは、かけ離れています。いわんや、「よろしくお願します」ということでは、まったくありません。著者のパウロは、自分のことを売り込んでいるわけではまったくありません。また、自分が、「その人のことを心にかけていますよ」、そのことをお伝えくださいという意味で、「誰それさんによろしく」ということでもないのです。

ここでの「よろしく」とは、ユダヤ人パウロがした挨拶です。この手紙は、ギリシャ語で記されていますが、ユダヤ人の母国語であるヘブライ語の「シャローム」という言葉の意味がこめられているはずです。それは、「神の平和があなたにあるように」「神の平安があなたにあるように」という意味です。

使徒パウロは、第15章の結びの言葉、第33節にこう書いています。これは、ローマの信徒への手紙の内容そのものでは、まさに終わりの言葉です。第16章は、福音の内容について、新しい真理が展開されているわけではありません。その結びの言葉はこうです。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」「神様が共におられるように」これは、神が共におられるか、おられないかはっきりとは分からないので、どうか共にいてくださいますように、わたしは、神に祈りますというのではありません。これは、「祈り」ではなく、むしろ「宣言」です。祝福の宣言なのです。ここでの「アーメン」とは、真実という意味です。この祝福の言葉は、真実の言葉だということです。つまり、確実であるうということです。これまで、ローマの信徒への手紙を通して、使徒パウロが全力を注いで告げた福音、喜びの知らせとは、「父なる神は、その御子、主イエス・キリストによって私どもの罪を贖い、私どもの罪を赦し、私どもを神の子としてくださった」ということでした。「神との間に和解が成立し、その結果、神との間に平和が成就したのである」ということでした。つまり、「もはや、天地の創造者にして、聖なる、義しい神との間に何の妨げ、不和もなく、罪を赦されて、憩うことができる関係へと導かれたのだ」ということです。そして、「この福音の恵みは、ただ主イエス・キリストが私どもの罪を償うために、犠牲になって十字架についてくださったこと、三日目に、私どもを赦し、神の子とするために、お甦りになられたことを、ただ信じるだけ一気に、一挙に与えられるのだ、これが神の恵みなのであるぞ」と心を込めて、告げたのです。

ですから、「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」とパウロが祝福を宣言したとき、この手紙の読者がこれをそっくりそのまま、自分に成就すると信じれば、ただそれだけで、まさに、平和の源なる神が共にいてくださり、その人には、神の平和があふれるほど与えられるのです。ですから、これを聞いた人は、自分たちもまた、「アーメン」と言うべきです。そして、「アーメン」「本当にその通り、真実です」と言ったなら、その人の上にまさに、この神の平和が成就するのです。

使徒パウロは、まさにこの祝福を、第16章において、信徒一人ひとりの名前を挙げて、たとえば、「平和の源である神が、プリスキラとアキラと共におられるように、アーメン。」と言ったのです。それが、ここでの「よろしく」という意味であります。

ちなみに、礼拝式の最後の部分のプログラムに、「祝福」があります。初めて、礼拝式に出席されて、このプログラムをご覧になられたら、いったい、何が始まるのか、何がなされるのか、と思われるかもしれません。この祝福とは、まさに、「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。」という祝福を、私が告げるのです。それを、もしも、「アーメン」と信じて、受け入れられたなら、まさに、この平和がその人に与えられます。神との間に平和をもって、神の平和の中に、次の主の日、日曜日まで、過ごすことが保証されるのです。万一、次の日曜日が来なかったとしても、永遠の日曜日、つまり、そのときには、天国の祝福が与えられるのです。それほどまでに、重要なものが、この「よろしく」の挨拶なのです。今朝の礼拝式でも、祝福を心を込めて宣言しますので、皆様も、「アーメン」と力強く、応答し、神をたたえていただきたいのです。

さて、この「よろしく」の挨拶は、16章の16節で、もう終わったと思いましたら、なんと、21節から、また始まりました。どうして、ここで改めて「よろしく」の挨拶が再開したのかと申しますと、ここでは、使徒パウロ、著者パウロからの祝福の挨拶ではなく、パウロと共にいたキリスト者たちが、どうしても、どうしても告げたいと願い出たからであると思います。

最初に登場するのは、テモテです。テモテとは、使徒パウロと共に伝道旅行を担ったまさにパウロの協力者であります。年齢的には、親と子ほど離れています。そして、実際に、テモテにとってパウロは信仰の大先輩であり、霊的な父親のような人なのです。しかし、パウロは、実にそのように息子以上に年齢が離れているこの青年を、自分の同労者、協力者と紹介するわけです。そこに、福音のもたらすすばらしさの一つがあります。とりわけ、日本人は、人間関係において、しばしば年齢の上下関係にこだわります。ところが、パウロは年若きテモテと肩を並べることを、喜ぶのです。テモテが喜ぶのなら、わかります。しかし、飛び抜けた指導者のパウロの方が、喜び、上下関係にこだわらないのです。

新約聖書のほぼ半分の書を書いたのは、使徒パウロです。使徒パウロの手紙が半数を占めているというところに、この伝道者の並々ならない活躍ぶりを見ることができるとおもいます。それほどの偉大な使徒であることは、今日の私どもには疑いの余地がありません。どの世界、どの分野でも権威になる人がいらっしゃるのではないかと思います。あの先生がこう仰った、あの書物にこう書いてある、それが一般的認められるうようになれば、まさに学説は定説となるのでしょう。ノーベル賞ではありませんが、しばしばその成果が評価されるには、時間がかかるわけでしょう。使徒パウロは、突出したキリスト者であるということは、しかし、もはや明らかです。しかし、そのような教会のまさに権威を代表する指導者ですが、パウロが記した手紙は、個人宛の手紙はまた別ですが、教会に書き送った手紙においては、ほとんどパウロと誰々から書き送るというような連名、連署しています。例外は、ガラテヤの信徒への手紙であります。今、ガラテヤの信徒への手紙と申しましたが、すぐにローマの信徒への手紙はどうなのかと、序文をめくってくださる方、思い起こされる方がいらっしゃるでしょうか。そこには、この手紙は、パウロ一人から書き送られた手紙として記されています。ところが、この最後の場面で、明らかにされるのは、確かに一人でこの手紙を書き記したのだけれども、パウロが他の手紙でもしているように(Ⅱコリントの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、Ⅰテサロニケの信徒への手紙、Ⅱテサロニケの信徒への手紙、フィレモンへの手紙)、言わば、共同執筆なのであるということです。

専門外のことを申し上げるのは、おこがましいのですが、科学者の論文には、研究が大掛かりになるわけですから、しばしば、何人もの研究者の名前が列記されるのではないかと思います。

福音の世界、それは、科学者たちの共同研究、研究チームに似たところがあると思います。どういう意味かと申しますと、一緒になって、協力しあっていなければ、真理に到達できないというところです。もしも、皆さんの中で、福音の真理、聖書の信仰、教会の教えを学びたいと願われて、たったひとりで、聖書を開き、聖書に関する書物を読んで、ただそれだけで、福音の真理に出会えるでしょうか。それは、基本的には、不可能です。教会の交わりの中でしか、できません。神は、そのようにして、教会に聖書を与えてくださったのです。教会の交わりから離れたところで、聖書の研究を重ねても、真理に至ることは、そもそも、聖書の教えにかなっていない取り組み方ですから、不可能となるのです。福音とは何でしょうか。使徒パウロがここで力の限り、証したのは、神の平和でした。その神の平和はまず、神と信じるその人の間に実現します。しかし、それはまた、信じる人と人との間に実現します。それが、神の教会に怒っている平和なのです。私どもは、この神の平和を与えられている教会の交わりのなかで、主イエス・キリストが十字架の上で実現してくださった神との平和を受けることができる、できたはずです。そして、だからこそ、今度は、自分もまた、この教会の平和つくり、平和の交わりを育て、築くために、洗礼を受け、教会員に加わって、今、奉仕の歩みをなしているわけでしょう。

さて、次に、テルティオという人が突然登場します。最後の最後に、この手紙が口述筆記されたものであることがあかされます。私は、これは、異例のことだと思いますが、この手紙のなかで、筆記者テルティオは、自分のことを書いてしまうのです。私どもの常識から言えば、「ちょっと待った。」となるのではないでしょうか。

国会には、必ず、筆記者がおられます。テレビに映るときがあります。時間が来れば、交代します。専門家です。筆記者は、絶対に、自分の感情、自分の意思をその文書に、議事録に反映させてはなりません。許されません。まったく言わば機械のように、正確に筆記することが、彼らの職務のはずです。

ところが、ここでは、筆記者本人が、その最後に自分の名前を挙げて、挨拶するのです。キリストに結ばれているからだと言うわけです。つまり、この手紙は、公的な手紙です。しかもパウロが書いたのですから、現代風に言えば、著作権は、パウロにあります。先週、キリストへの時間、ラジオ伝道の会議のなかで、賛美歌の著作権の議題がでました。讃美歌であっても、許可を受ければ、無料で使えるものと、料金が発生するものとがあります。聖書であっても、厳密に言えば、ホームページなどで使用する場合は、どの翻訳、どの刊行会からのものであるかの断りを入れることが礼儀とされます。

しかし、私どもにとりまして、この手紙を読みますと、まさにこれは、個人的な書物なのではないとわかります。ローマの教会がキリストの教会となるために、そのために書くわけです。そしてそれは、決してパウロ一人がなすわざではないのです。これは、皆で担うのです。

ここであらためて、今年の私どもの教会の年間標語を思い起こします。ローマの信徒への手紙第12章5節です。「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」教会は、キリストに結ばれた者によって形成されます。教会とは、キリストの体であると聖書は申します。キリストを信じている者は、洗礼を受けて、キリストの体なる教会の一部分とされるわけです。キリストに結ばれるとは、具体的には、目に見える形では、洗礼を受けるということです。洗礼を受けるとは、教会に加えられることなのです。そのようにしてキリスト者とされた者たちは、体の一部分となります。一部分とされた者たちは、体のたとえのとおり、それぞれが異なった賜物が与えられていますから、異なって働きを担うのです。続く6節以下にこうある通りです。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」

この言葉がパウロ先生の口から出た時、筆記者テルティオは、いったいどんな思いで書き記したことでしょうか。ああ、そうだ、わたしは、パウロ先生の手になる。パウロ先生の筆になるということであったのではないでしょうか。パウロ先生をこのようにして助ける者、その役割を今ここで担っているのだと思ったでしょう。しかも嬉しく、誇らし思ったでしょう。

そしておそらく、テルティオはパウロの口述筆記をしながら、自分が神の口、神の鉛筆、筆とされているのだと思ったのではないでしょうか。これは、まさに、キリスト者の全員に与えられている恵みであります。

さらにガイオという人も登場します。この人は、おそらくコリントの地方における有力者、すくなくとも経済的な意味では富裕な人であったと思われます。この人の存在で、パウロは自分の身の回りのこと、食事のことも何もわきに置いて、専心してこの手紙をしたためることができたのです。
市の経理係エラストという人がここに登場します。当時の教会は、おそらく貧しい人々、奴隷も多かったと思います。しかし、一方でガイオや公務員のような社会的な立場の強い人たちもいたわけです。

つまりここから見えてくる当時の教会の姿を一言で言えば、総動員体制ということではないでしょうか。キリスト者、キリストに結ばれている者たち、教会員がそれぞれの賜物や立場をすべて主に捧げ、伝道に捧げて、教会の形成のために力を合わせていたのです。ローマの信徒への手紙第15章のこのみ言葉をただちに思い起こします。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」

同じ思い、心を一つに合わせて、主イエス・キリストを讃美する姿です。しかも、1節で言われているとおりです。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。」
ローマの教会は、弱い教会ではありません、むしろ、パウロが書き送った場所であるコリントの教会のほうが弱いはずです。しかし今、それぞれの地方にある一つのキリストの教会は、こうして互いに平和の交わりのうちに、キリストに結ばれ、互いに愛の絆で結ばれているのです。それは、どんなにすばらしいことであったかと思います。

さて、最後に、第16章24節です。と、申しましても、新共同訳聖書を見れば、24節は、削除されています。多くの写本には、この箇所がないからで、新共同訳聖書が翻訳に採用した底本には、ないわけです。詳しいことを触れる暇がありませんが、多くの聖書では、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」削除されています。

その一つの理由は、第20節で、すでに、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。」との挨拶が記されているからです。我々の文章においても、同じ言葉を、そこまで繰り返すことは、通常しないはずです。ですから、これは、聖書写本のなかに、何かの理由で紛れ込んんだのであろうと、考えられるわけです。しかし、果たして、もともとの手紙には、やはり記されていなかったのでしょうか。私自身は、ここに24節に、この挨拶の言葉が加えられていても、これまでのパウロの熱心を思えば、十分にありうることだと考えています。

よろしく、よろしくと、神の平和があるようにと祝福を告げて、最後に、恵みがあるようにとも告げるのです。しかし、この恵みがあるようには、この20節で、言わば、たった一回では、何か、しっくりこなかったのではないかと思うのです。

そもそも、この手紙の序文の挨拶の締めくくりは、どのような言葉であったのでしょうか。それはこうです。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」でした。パウロは、恵みと平和があるようにと祈るのです。祝福を宣言するのです。そして、神の恵みとは、いかなるものであるのかを徹底して明らかにしました。主イエス・キリストの恵みです。十字架と復活の救いの恵みです。そして平和とは、この恵みの結果与えられる、私どもの救いそのものでした。恵みによる神の平和が、ローマの信徒への手紙の主題なのです。福音なのです。この手紙は、まさに、序文で恵みと平和、結語、末尾で恵みと平和が記されています。
読者は、神の恵みと平和に挟み込まれているのです。しかも何よりも、この手紙の中心は、恵みと平和を明らかにしたのです。この手紙は、恵みと平和にい満ち満ちているのです。

キリスト者とは、どのような人のことを言うのでしょうか。それは、ただ恵みによって救われ、神の平和、神との間に平和を与えられた人のことです。何も、立派な人であることが、キリスト者であるわけではありません。立派な人であるに越したことはないのですが、立派な人でなくとも、救われます。いへ、罪人だから救われるのです。罪人である自分のような者が、ただ神の恵み、キリストの恵みによって救われた、これ以上でもこれ以下でもありません。そして、キリスト者は、誰でも、勝利者とされています。キリストの復活の勝利のおかげで、ただそれだけの理由で、私どもも人生の究極の勝利を、人生の終わりにではなく、今この時与えられます。使徒パウロがローマの信徒への手紙第8章で語ったのは、まさにそのことでした。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」第8章1節は、決定的な勝利宣言でした。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」

実に、キリスト者の内側に、主イエス・キリストご自身が住んでおられるわけです。さらには、「“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」聖霊が、私どものために祈ってくださるのです。さらに、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
摂理の働きのなかで、私どもは、どんな試練も禍も、決してそれで終わらない、キリスト者を敗北者にしてしまうことはないと言うわけです。

使徒パウロは、その序文で、すでにこう祝福を宣言しました。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

ローマの信徒たちは、この意味を、ここで腹の底にまで、収めたと思います。骨の髄まで、悟ったのだと思います。ああ、本当に自分たちは、この恵みと平和に包み込まれている。取り囲まれている、挟み込まれている。もう、神の恵みから逃げられないのです。パウロは、ここで同じ祝福を繰り返したとしても、たとい修辞的には、文章の書き方、手紙の書き方からすれば、整っていなくても、それは、あまり関係がありません。パウロの勝利宣言なのです。何度、勝利を宣言しても、語る方も、聞く私どもも、聞きあきません。

わたしは、ここで、第8章が響いてくるのです。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。」

私どもは、主イエス・キリストのおかげで、罪赦され、人生の勝利者とされたのです。確かに、まだ、サタンは、完全には、敗北していません。消滅していません。間もなく、平和の源なる神が、教会の足の下でサタンを粉砕されます。しかし、まだ、そのときが来ていません。しかし、すでに、十字架でそれは、確定しているのです。

今週、私どもにどんなことが起こっても、起こらなくても、私どもは、神の恵みと平和に挟み込まれ、取り囲まれ、包み込まれている、恵みが平和が私どもと共にあること、これが、私どもの現実なのです。今、アーメンと告白して、神を賛美しましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、私どものような罪人を、あなたの恵みによって、救い、神の子としてくださいました。かつては、人生の試練の中で、すぐに右往左往して、平安を失っていました。しかし今、少しずつでも、あなたとの平和の中に入れられて、その揺るぎない支えの中で、私どもは平和を喜ぶ者に変えられています。何という幸いでしょうか。どうぞ、どんな試練のときにもなお、この神との平和の中に、私どもを深くとどめ置いてください。そして、この平和を、人と人との間において生かす道を開いてください。この平和をいよいよ拡大し、確立させてください。ローマの信徒への手紙を読み終わろうとする私どもの教会を、平和の道具として用いてください。