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「教会を力づける福音」

「教会を力づける福音」
2008年11月30日
聖書朗読 ローマの信徒への手紙 第16章25-27節

「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、  あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって  隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や現されて、永遠の神の命令のままに、預言者たちの書き物を通して、信仰による従順に  導くため、すべての異邦人に知られるようになりました。
この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

ついに本日、2004年9月から志を立てて、学び続けてまいりました、ローマの信徒への手紙の講解説教を終えようといたしております。本日の箇所もまた、一回で学び終えることができないほどの豊かな内容を持っています。その意味も込めて異例のことでしたが、繰り返して、み言葉を朗読いたしました。この箇所は、新共同訳聖書は、ひとつ一つの節を区切って翻訳していますが、しかし実は、もともとの言葉では、一息に語られています。この三節は、知恵ある唯一の神に栄光が世々限りなくありますようにという神への賛美なのです。教会堂外の正面の壁に、私どもはSoli Deo Gloria!神に栄光があるように!とラテン語を記しました。使徒パウロは、この巨大な福音の書、世界史上もっとも影響を及ぼした書物であるこのローマの信徒への手紙を終えるにあたって、どのような言葉で終えるべきか、慎重に、考えておいたのかもしれません。しかし、それは、最後はこう終わるということではなくて、このように終わる以外に終われない、ものなのです。神について語る人、もし神を信じて語る人であれば、それは、どうしても神を讃美し、感謝しないで終えられません。当然のこと、必然のことです。主イエス・キリストがお教えくださり、このように祈りなさいとお命じになられた「主の祈り」もまた、その最後には、「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり、アーメン」と言って、聖書のみ言葉を用いて、讃美いたします。このすばらしい祈りを捧げることができたなら、これを神が聴いて下さることを信じるなら、どうしても神に栄光を帰し、讃美する以外に終われないはずです。

わたし共もまた、この手紙を読み終えようとするとき、この使徒パウロと声を合わせ、心を一つにして、ここに記された讃美と感謝の言葉をもって、神に捧げたいと願います。

さて、まず、ここで「強めることがおできになります」とのみ言葉をみましょう。このみ言葉を読みますと、ただちに、冒頭の言葉を思い起こします。第1章のところで、パウロは、ローマの信徒たちのところに行きたいとその願いを切々と訴えています。その主要な目的は、11節にこのように示されています。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。」

11節で「力になりたい」とあります。この「力になる」と、「強める」とは、同じ言葉なのです。ステリゾー、ステレオという言葉のもとの言葉です。ステレオとは、強固にするという意味なのです。中学1年生のとき、ステレオ放送を聴いたとき、左右のスピーカーから出てきた音のその広がり、美しさに本当に驚かされた記憶があります。モノラルではありえない豊かな世界がそこにありました。右と左から別々の音が鳴るのです。

パウロは、11節で、自分が神から与えられた霊の賜物を分け与えて、力になりたい、あなたがたを強めたいと言うのです。12節では、お互いの信仰によって励まし合いたいとも言います。現実には、まだ彼らのところに訪ねることができていませんが、しかし今、この手紙を書き終えて、ローマの教会員からすれば、読み終えるなら、まさに「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。」とのみ言葉が成就していると思います。まさに、福音によってローマの信徒たちは、強められたはずです。なによりここで、「あなたがた」と言われているのは、ローマの教会のことをこそ意味しているでしょうからローマの教会が力づけられ、堅固にされたことは、疑いえません。そうであれば、私どもの名古屋岩の上教会もまた、この手紙によって強められたと信じます。確信しています。この手紙を読み始めたのは、ここに教会堂を献堂したあくる年の秋でした。これまでも私どもは、ここに神の教会を形成するのだ、形成していただくのだと、祈りを束にして、堅実な教会の形成をこそ目指して歩んでまいりました。そして、さらに、教会堂建築までの厳しい歩みを通り抜け、教会堂が整えられて、あらためて志を高くして、ここに神の教会を建て上げるとの思いを与えられ、この手紙を礼拝式の説教によって学ぶことを通してその道を歩もうとしたわけです。

いったい私どもの人生の中で、本当にすばらしい経験、人間にとってよいこと、すばらしい生き方、使命とは、何でしょうか。その一つは、生きる力、生きる意味をなくしてしまって、もう駄目だと倒れている人を、起き上がらせることではないでしょうか。そのような人間になれたらどんなにすばらしいことかと思います。先週の夜の祈祷会のことは、家内から聞きました。渡辺委員の良き奨励がなされたとのことです。また、そこで現代の日本社会に典型的な形で表れている、年間三万人を越す自殺者の問題が語り合われたとのことです。そして、執り成し祈ったわけです。自殺者を、死を覗き込んでいる人の多くは、既に心の病の中にある方が多いでしょう。しかし、それは、ただ病院の問題でも、経済の問題だけでも解決することはできないと思います。

いへ、私どもは、主イエスによってはっきりと教えられたのは、主イエス・キリストを信じてない人々は、たとい自殺をしなくても、霊的には、神との関係においては、命を失っている。永遠の命を失って、死んでいるということでした。すべての人間は、そのもっとも深いところで、この命の救いを求めているのです。そして私どもはそれを本当に癒し、満たし、解決させ、死から命へと立ち上がらせることができるのは、主イエス・キリストご自身、一人このお方以外におられないことを知らされているのです。知っているのです。ですから、夜の祈祷会で祈ったのでしょう。祈った人は、福音を伝道しなければならないと、おそらく私を用いてくださいと祈ったはずです。
先週の読書会で、伝道について学びました。まさに、私どもの教会の存在理由が伝道であると学びました。伝道は、教会の働きの一つの部分、使命の最重要な一つというような表現では足らない、間違えやすいと学んだのです。存在理由、存在そのものなのです。

さて、次に、「イエス・キリストについての宣教」を見ます。これは、もともとの言葉では、「イエス・キリストの宣教」となっているのです。「ついての宣教」とは、すでに解釈が入っています。そう解釈するとき宣教の主体は、み言葉の宣教をするのは、キリスト者であり、パウロのことです。しかし、もう一つの解釈の可能性は、主「イエスご自身の宣教によって」となります。どちらにも解釈できる表現がここで記されたことは、意味が深いと思います。つまり、使徒パウロにとって、福音の宣教は、伝える内容は明らかに主イエス・キリストご自身のこと、そのみ業です。しかしまた、これを伝える本当の主体は、イエスさまご自身であられるということなのです。

そのことは、この箇所の構造にも明らかです。この文章の主語は、誰でしょうか。これは、決定的に大切です。それは、神です。神が強めることがおできになるのです。神のみが、人間を力づけることがおできになるのです。そうであれば、「イエス・キリストの宣教」という表現も意図的であることがわかります。使徒パウロ自身がイエス・キリストについて伝えるのです。御言葉を語るのは、他ならない使徒パウロ自身、人間です。しかし同時に、本当の意味で、強めることができるのは、神が、パウロを通して働いて下さるときです。それなくして、人間は人間を、真実の意味で、真の意味で、力づけ、立ち上がらせ、強めることはできません。教会を堅固に形成することは、神のお働きなのです。主イエスは、マタイによる福音書で、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と宣言されました。教会は、もとより、私どもキリスト者一人一人が奉仕を束にして、祈りを束にして建て上げるのです。しかし、いつでも忘れてならないことは、教会は、主イエス・キリストのものであり、ご自身が、ご自身のみが真実に建て上げることがおできになるわけです。
そこに教会の強さがあります。揺るぎなさがあります。希望と約束があるのです。

前後しますが、使徒パウロは、人を強めることのできる内容は、福音であり、すなわちイエス・キリストご自身であることを明らかにしました。しかし注目したいのは、ここでイエス・キリストの福音を「わたしの福音」と表現していることです。実は、この表現もすでに第2章16節でなされていました。なぜ、「わたしの福音」と表現するのでしょうか。福音とは、徹底的に人間的な産物ではありません。人間の発明、人間の知恵でつくったもの、作り話ではありません。誰よりもそれを知り、こだわる使徒パウロ自身が大胆に、堂々とこう表現する理由は何でしょうか。それは、この福音、人を救う神の恵みの言葉は、まさに、パウロ自身を救った福音だからです。福音つまり驚くべき喜びの知らせとなったからです。つまり、彼はこの福音の体験者なのです。このイエス・キリストの福音によって事実救われた者として、今、この福音を語っているからです。そうであれば、このイエス・キリストの福音は、自分を力づけた福音、自分を死から命へと立ち上がらせた、強めた言葉以外のなにものでもないのです。その意味で、自分の福音なのです。わたしの福音なのです。そうなりますと、私どももまた、この手紙を読み終えることができるかどうか、学校であれば、試験があるでしょう。期末試験などで、赤点を取るなら、追試を受けるわけです。その学科の課程を終えられるかどうかは、学生や生徒たちにはシビアです。もとより、聖書は、ローマの信徒への手紙に卒業がありません。一生涯、これからもローマの信徒への手紙を何十回と読み続けるのです。しかし、それでも、ローマの信徒への手紙の目的が、教会を、キリスト者を強めることにある以上、強められない読み方で終われば、やはり、聖書を読んだことにはならないはずです。意味を理解したことにならないはずです。しかし、もし、わずかでも、強められたのであれば、その人もまた、大胆にパウロと同じように表現できるはずです。「わたしの福音」です。

読書会で伝道について学び始めました。そこで、最後には、実践の訓練を試みたいと思います。しかしそこでも、もっとも大切な認識は、借り物の言葉では、通じないのではないかということです。心を打ちにくいのではないかということです。ここでも「にくい」と申しました。なぜなら、神の伝道、徹底的に神の宣教なのですから、私どもがどんなにだらしないキリスト者であっても、福音の真理を壊すことはできないからです。立派なキリスト者から伝道されなくても、大丈夫です。福音がその人を救うからです。だからこそ、なお私もまた、わたしの福音を、ここで語るのです。私を通して、神が皆さんを、一人ひとりを強めてくださることを信じているからです。それが神におできになるのです。

そうであれば、どうぞ、パウロだけでなく、相馬牧師だけでなく、皆様も「わたしの福音」と表現するまでに、自分を強くしてくださったこのイエスさま、自分の救い主を、心から認め、いよいよあずかり、あずかっている限り、気後れすることなく、「わたしの福音」と語ってよいし、語るべきです。そしてこの「わたしの福音」こそが、私どもを強め、力づけ、建て上げるのです。
昨晩、病床にある兄弟を見舞いにまいりました。御言葉を読み、祈るためです。何のためにみ言葉を読み、祈るのでしょうか。何よりも、そこで力づけたいからです。しかもそこで、私自身いつも思いますことは、結局、そこで一番大切なことは、わたしの存在が励まし、慰めることを目指すのではないということです。私自身もまた、そこで、わたしの福音を告げます。そう、わたし自身がいつもそれで強められている福音の真理です。神の言葉の力です。主イエス・キリスト御自身のことです。神御自身のことです。主イエス・キリストが病床にも共におられることです。手術台の上にもおられることです。父なる神の見守りのなかでなさることです。

さて、病床訪問で御言葉を読むのは、ほとんどいつも私です。しかし昨晩は、予想外のことが起こりました。聖書が机の上に置いてありましたし、ご自分の方から、「読みましょうか」と仰いましたので、そうして頂きました。とても嬉しく思いました。確かに、病は予断を許さないものです。それだけにご本人の心の中は、手術を前に揺れ動くことは当然のことであります。しかし、兄弟の中にすでに、福音が、救いが、主イエス・キリストご自身が確かに働いてくださり、強められ、力づけられていることがよく分かりました。その意味では、私どもの中で人生の経験からは最も年を重ねられてはおられますが、キリスト者としては最も若い兄弟もまた、罪の赦しの福音、神の愛の福音をしっかりとご自分のものとしておられるのです。主イエス・キリストの福音はわたしの福音として信じられ、体験されるのです。この兄弟は、ローマの信徒への手紙の講解説教の途中から礼拝に導かれ、求道を始められ、ここで洗礼を御受けになられたのです。

神の福音が、わたしの福音となる。ここに私どもの勝利があります。ここに教会の強さが現れます。私どもの教会が真の強さを持つか持たないか、それは、ひとへにこの大いなる喜びの音信、メッセージをじぶんのものとしているかどうかにかかっているわけです。ローマの信徒たちは、まだパウロに直接会ってはいませんが、この手紙を読み終えるにあたり、本当に自分たちの信仰と確信とがこれまで以上に強められたこと、信仰の従順へと喜んで自分たちを捧げて行くように促されたことを思います。

福音の本質、福音の内容そのもの、それは主イエス・キリスト御自身です。その教えも含みますが、何よりもその御人格、そのなしてくださったみ業が大切です。しかし、このイエス・キリストは、これまでは隠され、秘められていた神のご計画の中心、ご計画の頂点でした。しかし今や、この救いのご計画は、現わされたのです。

わたしは、使徒パウロがこれを語った時、それはどれほどの感動を込めて語ったのかと思います。そして、それは結局、この手紙を書かせる原動力になっているのです。さらに言えば、使徒パウロをローマまで赴かせ、いへ、世界の果てにまでこの福音を語りたくてならない、語らねばならないと駆り立てて行く源、力なのです。使徒パウロという存在そのものを作っていると言ってよいのです。

先週、神戸にまいりましたとき、水曜日の夜には、その日の学会は終わり、神港教会の祈祷会にまいりました。そこで、教会主事が解き明かす、ペトロの手紙Ⅰを聴きました。長いのですが、朗読します。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。

この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」

ペトロは、福音のすばらしさをここで描きます。言葉では言い尽くせない、すばらしい喜びの知らせ、魂の救い、これをもたらすものが主イエス・キリストの福音です。そして、この福音、この救いのことは、旧約聖書の時代の預言者たちも、聖書を探求し、研究し、注意深く調べて、語ったものだと言うのです。そして、今や、それは、福音の説教者たち、新約の時代預言者たちも説教したのです。その主要な一人がペトロであり、またパウロなのです。そして最後に、天使たちも見て確かめたいと願うほどのものです。天使たちにとって、救いは、無関係です。なぜなら、天使は救われる必要がないからです。救いは、神の形に似せて造られ、その形を罪によって破壊してしまった人間、神の敵になりさがった人間にとって必要なものだからです。しかし、この救いがあまりにもすばらしいので、主イエス・キリストのみ業があまりにもすばらしいので、天使たちも憧れるほどなのです。そのような救いが今や、覆いが取り去られ、蓋が開けられ、中身が見えて、現れ出たのです。

パウロは言います。これは、今、預言者たちの書き物、つまり旧約聖書を通し、いへ、そればかりではなく、私どもにとっては新約聖書を通して、明らかにされたのです。しかも驚くべきことに、神の約束の民、選びの民であるユダヤ人だけに明らかにされたのではありません。神の民ではなかった異邦人にまで、及ぶのです。彼らにも告げられるのです。そしてその異邦人に告げるために選ばれたのが、他ならないこの手紙の著者使徒パウロなのです。

そしてこの手紙の主な読者は、異邦人です。ローマ在住の人々です。使徒パウロは、信仰の従順に導くために、神に選ばれ立てられて使徒となったと第1章で自己紹介しました。パウロは、この手紙の第11章で、こう叫びました。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」

「ああ」という感激の声は、聖書の他の箇所では、嘆きの声です。しかし、ここでは、感激の声、感動の声です。神の知恵をたたえるのです。それは、パウロが、ユダヤ人が不信仰になったのは、異邦人にまで、全人類に神の救いが及び、救いにあずからせるためだと言いました。しかし時が来れば、彼らにも神の憐みが豊かに注がれるのだと言いました。これこそ、神の知恵です。なんという知恵、人間には及びもつかない知恵ある神に「ああ」と、驚くしかないのです。そして最後にパウロは、「栄光が神に永遠にありますように、アーメン」と、神を賛美して締めくくるしかないのです。

そして今ついに、この手紙を完結させるとき、あらためて手紙を振り返るとき、語ってきた事柄をここに要約します。そして、同じようにlどうしてもこの「知恵ある唯一の神」への賛美を捧げる以外に終われないのです。

使徒パウロは、ここでは、神に栄光あれだけではなく、「イエス・キリストを通して」と申します。それは、神の恵みと平和とは、主イエス・キリストを通して私どもに注がれているからです。主イエス・キリストこそが、すべてのすべて、御子なる神こそが、私どもの救いの主だからです。ですから、主イエス・キリストを通してなのです。それは、主イエス・キリストにも栄光を帰すことです。神の栄光のためにとは、主イエス・キリストを通して実現します。そして、主イエス・キリストの栄光のためにでもあるのです。こうして、福音の主は、イエスさま。主イエスによってこそ、私どもは強められ、力づけられるのです。教会は、建て上げられてゆくのです。

第一章1節にこうあります。あらためて読みます。「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」

パウロはキリスト・イエスの僕なのです。福音とは、御子に関するものなのです。御子とはダビデの子孫から生まれ、十字架にかかってくださり、復活された主イエス・キリストなのです。そしてパウロは、このイエスの御名を、福音を世界中に広めて、異邦人を信仰の従順に導こうとするのです。そのために、この手紙を書いたのです。私どももまた、パウロにならって、この福音を少なくともこの町にすむ全員に、あまねく伝道したいし、すべきです。私どももまた個人的に手紙を書いて送ることもありましょう。あるいは、伝道新聞を配るのです。神は、私どもを用いて、この町の人々を強め、救うことがおできになります。

そして今、この手紙を書き終えてこう記します。「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」アーメンが最後の最後の言葉です。真実という意味です。それは、ただ、神の栄光を讃美するこの言葉だけにかかるのではないと思います。むしろ、この救いの言葉のすべて、手紙全体にかかっていると思います。ここに書き記された福音は、すべてアーメンなのです。真実に福音なのです。救いの言葉なのです。この言葉を信じるなら、この言葉が、神のみ言葉が私どもを、病床にあっても、苦難にあっても、試練にあっても、悩みにあっても、悲しみにあっても、いついかなるときにも私どもを力づけるのです。「この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、ローマの信徒への手紙を学び続けて、私どもの礼拝をつくり、教会の形成にいそしんでまいりました。あなたは、この福音によって私どもを力づけ、強めてくださり、ここに神の教会をたて続けてくださいました。心から感謝し、御名を崇めます。どうぞ、私どももまた、わたしの福音として、隣人に、教会の仲間たちにこの福音を告げ、強め、励ましたいと願います。私どもじしんをどうぞ、福音の手紙としてください。そして、福音を告げる者としてください。福音の奉仕者、しもべとして用いてください。