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「イエスの系図の中に入れられて」

「イエスの系図の中に入れられて」
2008年12月7日
第1回
マタイによる福音書第1章1~17節
「 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。」

 私どもは本日から、新しく志を立てて、マタイによる福音書を学ぶことによって、主の日の礼拝式を捧げてまいります。
 聖書を生まれて初めてお読みになられた方は、39巻からなる旧約聖書の一番最初に収められている創世記から読み始めるか、あるいはまず27巻ある新約聖書から読み始めるか、どちらかであろうかと思います。おそらく多くの方は、やはり新約聖書の最初に置かれているマタイによる福音書を読まれると思います。もともと旧新約聖書66巻をこのような形に整えたのは、他ならない私ども教会でありました。教会は、新約聖書を一つに集めたとき、その巻頭にこの書を置くことを決断したのです。

 昨日、「教会学校教案誌」第32号が教会に届きました。来週の日曜日までに、全国の諸教会に届けなければなりません。わたしもこの教案誌の責任を担う者の一人なのですが、たとえば、一つの書物、書籍を世に送り出そうとするとき、おそらく我々の関心を集めるのは、その表紙、装丁だと思います。本に帯をつけて売られます。その帯には、読んでみたくなるようなキャッチフレーズ、心にひっかかってくるような文章が抜き書きして記されています。著者じしんもそうでしょうが、しかし、編集者、編集長はとにかく、どうしたらその本を先ず手にとってもらえるのか、そこに知恵を注ぐものだと思います。

 それなら、新約聖書の巻頭におかれたマタイによる福音書はどうなるのでしょうか。我々のような旧約聖書の知識がない者が読めば、どのような反応が出るでしょうか。答えは、明らか過ぎると思うのです。いきなりカタカナの人名の羅列です。高校一年生のとき、生まれて初めて聖書なるものを学校で手渡されたとき、本当に面喰いました。最初から、読む気が失せてしまいました。何だか、外国の人の知らない人がだーっと並んでいて、興味が湧く人は、おそらく少ないと思うのです。びっくりします。

 ある日本の作家は、聖書のすごさは、まさにそこにあるのではないかと申しました。つまり、読者に言わば、媚を売らないということです。商業ベースの小説やエッセイ、読み物とはまったく異質であるということです。確かにそうです。聖書は、聖書以外のありとあらゆる書物と、まったく違います。それは、聖書の真の著者は、神御自身であると聖書自身が主張しているからです。神の言葉なのです。その意味では、我々が知る、また求めるようなエンターテイメントとしての読み物とは異質であることは当然です。

 さてしかし、わたしは思います。2000年後の我々にとって、この書き出しは、確かに、そっけなく、まったく理解できないくらいに面白みがありません。しかし、最初の読者はどうであったのでしょうか。マタイによる福音書の著者のマタイにしてみれば、わざわざ、わたしがこれから書きしるすこの書物は、興味のない人には、読んでもらわなくて結構です。そんな思いがあったのでしょうか。決してそのようには考えられません。

 さてそもそも、このマタイによる福音書の第一の読者は誰なのでしょうか。誰に向けて書かれたものなのでしょうか。ローマの信徒への手紙がパウロが、ローマの信徒、ローマの教会に宛てて記した手紙であることは、明らかであります。それならマタイによる福音書はどうでしょう。この福音書は、使徒マタイが伝道し、共に生きた教会の交わりが生み出したものなのです。つまり、読者もまた第一には、彼ら自身です。そしてその教会の中心メンバーは、ユダヤ人なのです。キリスト者となったユダヤ人にとって、イエスとは誰なのか。イエスが告げた福音とは、いかなるものなのかを、明らかにしているのです。

 その意味で、キリスト者となったユダヤ人マタイにとって、ユダヤ人にとって、そればかりか全人類にとって、いったいこのイエスとは誰で、どのような意味を持つのかを明らかにしようとするのです。

 そこで、マタイがどうしても開口一番、すべきだし、これ以外にないのだという思いのもとで、記したのが、系図でした。我々には、まったく面白みのない、読む気持ちをわざわざ萎えさせるかのような書き出しは、実は、ユダヤ人にとっては、とても大切で、一番効果的な導入なのです。ここに記されている人物の名前は、多くがユダヤ人の名前です。しかも、多くが旧約聖書に登場します。ユダヤ人には、まさに自分たちの民族の系図が、最初に記されているのです。ここに記されている人を知らないユダヤ人は、おかしな表現ですが、「もぐり」です。ユダヤ人ではないのです。旧約聖書を読まないユダヤ人、これは言葉の矛盾です。つまり、我々には、遠い世界の系図ですが、彼らには、もう諳んじることもできるような系図なのです。

 さて、それなら、第一の読者にとって、この系図を読むとき、誰もが知っている常識的な系図であって、我々が受けるような躓きや、驚きはないのでしょうか。いいえ、違います。むしろ、彼らの方こそがもっと衝撃を受けるはずです。こんなの面白くないと言って、聖書を閉じてしまう以上の反応がでるかもしれません。つまり、憤慨するのです。怒り出すのです。ばかばかしい。ばかばかしいどころか、神さまを馬鹿にしている、けしからん。許せない、そう思うユダヤ人が圧倒的に多かったのではないかと思うのです。
 
 先ず、「アブラハムの子ダビデの子」と記されます。その意味は、アブラハムの子孫そして、ダビデの子孫ということです。アブラハムとは、ユダヤ人の先祖、ルーツという意味です。創世記第17章7説にこうあります。「わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」つまりユダヤ人とは、神に選ばれたアブラハムという一人の人、神の祝福を受けた人の子孫なのです。ユダヤ人とは、アブラハムの子孫であるという誇りに生きる人間のことなのです。そして、彼の子孫の中から王となる者たちが出るとありましたが、ダビデこそは、ユダヤの歴史のなかで最大の王でした。ダビデ王の時代の繁栄こそは、ユダヤ人にとって、その頂点のような暮らしであり、神の祝福の具体的なイメージなのです。

マタイは、いきなりアブラハムの子孫として王ダビデが誕生し、実にまたそのダビデの子孫としてイエスが誕生したと告げるのです。そして極めつけ、まさに究極の称号、まさに驚くべきタイトルをもってイエスを紹介するのです。それが、キリストです。キリストとはヘブライ語のメシアのギリシャ語の表記です。それは、油を注がれた者という意味です。簡単に言えば、救い主という意味が込められているのです。

 つまりマタイによる福音書は、開口一番、全新約聖書にとってもっとも大切なメッセージを告げているということを意味するのです。それは、逆に申しますと、旧約聖書にとって、もっとも大切な主題を、そのまま受け止めているということです。旧約聖書の中には、メシアであるキリストが来られることを待ち望みつつ生きる人間の姿が示されています。神の民は、どうしてもメシアが必要なのです。メシアなしに、キリストなしに救いが成就しえないからです。ですから、私どもで言う旧約聖書だけでは完結できない民なのです。キリストが誕生し、登場しなければ、ユダヤ人の歴史は完結できないのです。

 ところが、マタイはそのユダヤ人の期待、待ち望みに対して、一気に答えを提示します。あなた方の問いに対して、ここにこそ神の答えがあるのだ!と告げるのです。ユダヤ人の問い、ユダヤ人の待望に対する神の御答え、それこそ、イエスなのです。あのイエスこそ、キリストなのだぞと高らかに宣言するのです。あのイエス。あのイエスとは、十字架につけられた男に他なりません。ユダヤ人であれば、十字架の木につけられた者とは、神に呪われた人間、神に捨てられた最低の人間を意味します。そんな男が、いへ、そのお方こそ、イエスさまこそがキリストであられたのだと告げるのです。私どものイエス・キリストこそ、アブラハムの子ダビデの子であられたのだ。つまり正真正銘の神が旧約聖書に記したみ言葉の約束の成就者、実現者であられるという宣言です。

 ですから、ユダヤ人にしてみれば、その意味では、この一語で、この一文で、なんだこれは、と興味を失う、いへ、憤りをもたらすことになるはずです。しかし、ユダヤ人のキリスト者マタイにしてみれば、まさにそこにこそ、決して譲れないメッセージがあるのです。そして、何としても先ずユダヤ人に、ここから目を背けずに、神の約束がこのお方においてことごとく実現したこと、成就したのだということ、そしてこれこそ、福音つまり神からの喜びの知らせ、メッセージなのだと言うのです。この福音、この喜びの知らせをまっすぐに、直球で投げかけるのです。
 
 さて、第2節からいよいよ、この系図そのものが書きしるされて参ります。そもそも何故、系図なのでしょうか。私の家には、系図がありません。系図にするような生まれではないからです。曽祖父まではたどれるでしょうが、その前までは、怪しいです。しかし、日本にも系図にこだわる特殊な立場の人がおられます。しかし一般の人には、今や、系図にこだわる人は、おそらく少ないのではないかと思います。ただし、それならそうかと言って、系図にこだわる気持ちがなくなってしまったというわけでもないと思います。

 今年、名古屋はノーベル賞受賞者を出しました。つい最近、受賞者と友人であると言う方のお話を伺うときが与えられました。大学の先生の奥様です。なるほど、一緒に働かれたのでしょうから、よく知っておられるのでしょう。仮に、万一と申しましょうか、ノーベル賞の受賞者がわたしや、わたしの家族、親戚であれば、どうでしょうか。もしかすると聞かれなくても、「実は」ということになるかもしれません。自分のことではなくとも、自分の関わり、血筋の中で、そのような業績、有名な人が現れたら、なんだか、自分も少し偉くなった気持ちがするのではないでしょうか。しかしながら、その反対のことを考えてみたいと思います。私どもの家族、兄弟、親戚、縁者のなかで、もしも、犯罪者が出たらどうでしょうか。そこまでいかずとも、世間の目から見て、よく思われないであろうこと、そのような人のことは、できれば隠しておきたい。人に知られたくないと思うのではないでしょうか。「実は」と、自分から話し出すことは、むしろありえないのではないでしょうか。
 
 ユダヤ人は系図を誇ります。こう言ってもよい、系図が命です。自分とアブラハムとの関係がなくなるところで、自分の存在、自分のアイデンティティー、自分の誇り、自分の価値観は消滅するからです。アブラハムに与えられた神の祝福は、アブラハムの子、子孫であるというところで、この先祖とのつながりにおいて確かなものとなるからです。ですから、アブラハムにまで遡ることができる系図を持つことは、重大なことなのです。あの使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙第3章のなかで、こう言いました。「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。」
生まれて八日目に割礼を受けていることを誇って見せたのは、正真正銘、アブラハムに繋がっているという意味なのです。ベニヤミン族の出身とは、アブラハムの子のイサク、その子のヤコブ、そのヤコブの12部族の一員であるということでまさに由緒正しきユダヤ人であるという誇りなのです。

 さて、それなら、キリストであられるイエス、私どもの主イエスの系図はどうなっているのでしょうか。まさに、そこでこそ、直ちに、驚くべきことを発見してしまうのです。パッと見て、ありえない、非常識な系図であると分かってしまうのです。その一つは、女性が登場しているということです。ユダヤ人にとって、女性が系図に入るなどということは、ありえないのです。神の約束は、割礼というものを受けることによって、神の民の一員となります。そのような目に見える「しるし」が割礼なのです。しかし、その割礼は男性が受けるのです。男性の性器に傷をつけることが割礼ですから、女性が受けられるはずがありません。それだけを挙げても、系図の中に女性を入れることは、系図そのものの信ぴょう性や重み、価値を失わせるものなのです。ところがマタイは、平気でここに5人の女性を登場させます。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻つまりバト・シェバ、そして主イエスの母マリアです。この一人ひとりについては、今朝の説教で触れる時間はまったくありません。しかし、たとえば、ラハブというのは、遊女なのです。ルツに至っては、実に、ユダヤ人ではありません。王ダビデは、部下のウリヤの妻を横取りして、おそろしい殺人の罪を犯して、手に入れました。

ということは、この系図は、決して輝かしい系図などではないということです。つまりそれは、単に主イエスの系図が輝かしいものではないのだということだけではなく、むしろ、ユダヤ人のこれまでの、肉の誇り、血統、血筋の誇りなど、神の御前で、通用するはずがないという、目も覚めるような厳しい主張が込められているのです。ですから、我々がするような、ああ、自分とは関係ない、難しそうという意味で本を閉じてしまうという仕方ではなく、こんな物は、読みたくないと閉じるどころか破り捨てたくなるような、系図なのです。

しかし、私どもも、またユダヤ人も、自分の系図を誇ることができるのでしょうか。私どもの歴史のなかで、先輩はどれほどの大きな罪を犯してきたのでしょうか。いったい私どもの先祖をたどって、殺人を犯したことのない人がいるのでしょうか。先の戦争、そこからさかのぼっても近現代のいくつもの戦争、江戸時代、戦国時代・・・、いかがでしょうか、もしアブラハムから主イエスの誕生までざっと、さかのぼって2000年、同じように我々の先祖の歴史さかのぼれば、どうなってしまうのでしょうか。

 それなら、いったいマタイによる福音書は、なぜ、そのような罪にまみれたユダヤの歴史をここに明かすのでしょうか。それは、もはや、私どもがそのような自分の血統、自分の血筋に頼ったり誇ったりしなくても良いのだと告げたいからです。それは、ひいては、自分自身を神さまの御前で、誇って見せて、神さまこれこれ、このように生きてまいりましたので、他の人よりは、高い評価を与えてください。他の人たちより、よい地位に立たせて下さい。などと、自分の力を頼りに生きることを木っ端みじんに吹き飛ばしたいからです。

 実に、マタイによる福音書は告げます。キリストであられるイエスさまは、イエス・キリストは、このような罪人の歴史のただ中に入って来られた。そして、それが意味することとは、どんな過去の失敗も、どんな今この時の恥も、罪も、すでにイエスさまが人となってこの地上に来てくださった限り、イエスさまがお生まれくださった限り、もはや神さまの前で、まったく関係がなくなってしまったということなのです。なぜなら、主イエスさまは、そのような人間の友となり、そのような人間の肩を抱き仲間となり、私どもと連帯してくださったからです。しかも、このイエスさまには、まったく罪がないのにも関わらず、罪人たちのこのすべての罪を、過去の罪、現在の罪、ありとあらゆる罪を、担ってくださったからです。ご自分がただお一人で、引き受けて下さったからです。それがおできになられるのは、イエスさまが神のひとり子であって同時に私どもの友達、つまり正真正銘の人間となってくださったおかげです。主イエスの十字架における私どもの罪を償うための身代りの死と三日目のご復活のおかげで、ただそれだけで、私どもは、アブラハムにさかのぼれるのです。誰でもアブラハムの子、子孫になれるということです。

 そうなれば、ここに記された系図は、ただ単に、ユダヤ人のための系図ではなくなっています。全人類のための系図です。今や、誰でもイエス・キリストを信じれば、イエス・キリストのおかげで、その人の過去の過ち、罪のすべては帳消しにされるのです。主イエスさまを信じれば、誰でもイエスさまの系図の中に組み込まれるのです。主イエスの血筋の中に、その血統の中へと入れられるのです。そうなると、異邦人であっても、アブラハムの子とされる、つまり神の子とされるのです。神の独り子イエスさまのおかげです。そのように父なる神が、旧約聖書の約束通り、アブラハムの子孫であるイエスさまを通して、全人類を救ってくださったのです。

 今や、ユダヤ人も異邦人も、誇るべきは、ただイエスさまだけです。このイエスさまと信仰によってつながっているなら、誰でもアブラハムの子、つまり、神の子、神の家族の一員とされるのです。

 著者のマタイは、イエスさまのお弟子さんにしていただく前は、徴税人でした。彼も知る同僚に、おそらくザアカイという徴税人がいたのだと思います。ルカによる福音書の中に、この徴税人の頭のザアカイとイエスさまとの出会いの物語が記されています。この物語の締めくくりのところで、主イエスは、ユダヤ人から後ろ指を指されていたザアカイのことを、「この人もアブラハムの子なのだ」と宣言されました。同じようにユダヤ人に後ろ指を指されていたマタイにとっても、他ならないこの自分もまた、正真正銘のアブラハムの子ダビデの子であるイエスさまのおかげで、アブラハムの子とされているのだと、嬉し涙を流したのです。マタイ自身が、イエスをキリスト、救い主と信じ、自分自身の本当の姿を取り戻すことができたのです。わたしはアブラハムの子、神の子なのだという認識です。自己理解です。本当の自分とついに発見できたのです。本当の自分に立ち戻ることができたのです。そしてそれは、イエスさまのおかげで本当のことなのです。これこそ、マタイの告げる福音、嬉しい知らせの中心、それどころか新約聖書の福音の中心メッセージなのです。イエスさまを信じれば、誰でも罪が赦され、神の子とされ、神の家族の一員とされる、その証拠にここに、この福音書を読んでいるキリストの教会があるのです。それがマタイによる福音書を生み出した共同体としての教会なのです。あなたもこの教会の仲間になってください!なれるのですから、なってください。これが、マタイによる福音書の第一章、冒頭の宣言であり招待の叫びなのです。
 
 この朝、時間の関係で、与えられたテキストのほんのわずかしか説き明かすことができませんでした。私どもは今、待降節を迎えております。クリスマスを迎える準備のときです。しかし、すでに2000年前にクリスマス、神の御子が、旧約聖書の神の預言通り、神の民ユダヤ人が待ち望んでいた救い主イエスさまは、マリアからお生まれになられました。それなら、もう待つ必要はありません。しかし、私どもは、今朝もこのように礼拝をささげながら、待っているのです。それは、主イエス・キリストがもう一度この地上にお戻りくださる日を待っているのです。その日までは、この地上に完全な救いが成就しないことを知っているからです。この地上にはなお罪と悪魔の力が暗躍しているからです。そして、世界に破壊、戦争が蔓延し、罪のせいで苦しみと悲しみが満ちているからです。多くの人々が、もはや神の力を恐れおののかず、人間の力が万能であるかのようにふるまっています。しかし、そのような世界に、もう一度、イエスさまが、今度は、ダビデ王などとは比べられないほどの真の王、王の王として来られるのです。そこで関わるのは、触れられなかった、14代、14代、14代と言う区切りの意味です。結論だけ申しますと、それは、歴史的な事実から申しますと14代では区切れません。それならマタイは、間違えているのでしょうか。ますます信ぴょう性がないということになるのでしょうか。違います。彼は、こうして読者にメッセージを伝えようとしているのです。ある聖書の学者は、ダビデというヘブライ語は、14の画数で表記されていることに注目して、言います。あのダビデの子孫としてお生まれになられたイエスさまこそが、アブラハムに約束された、彼の子孫から王が誕生するという予言の真実の成就であると言うのです。なるほどと思います。

しかしたとい14の画数にこだわらなくても、私どもにとりまして、イエスさまこそが、私どもを救う真の王の王であることが大切です。しかもこの王は、今、天において隠れた仕方で、教会を通して、世界を支配しておられます。しかし、やがて、再び来られるとき、その時は、顕わな仕方で世界を治められるのです。その日を待つのが、私ども教会なのです。その日を待つことによって、イエスさまが真の王であることと、やがて速やかにこの地上に再び立たれる希望に輝く日を証しているのです。

 今、聖餐の食卓を祝います。この食卓こそ、イエスさまが来られたことによって始まった天国の喜びの食卓の写しです。この食卓に招かれ、あずかる人には、王の王なるイエスさまが、救いを保証し、私どもが神の子とされていることを、確証してくださるのです。今、この聖餐を祝いましょう。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神、マタイによる福音書の冒頭の系図を通して、あなたの福音を学びました。旧約聖書を成就してくださった御子、主イエス・キリストを心から賛美いたします。あなたの御子、私どもの救い主イエスさまのおかげで、私どもすら神の子とされました。この誇り、この祝福に生きる者とされ、教会の一員とされ、イエスさまの家族とされたことを心から感謝いたします。この幸いを元に、地上の生涯を神と隣人のために、いよいよ生きて行くことができますように。この福音にいよいよ生き、この福音を証することができますように。マタイによる福音書の学びを通し、いよいよ私どもの教会が、あなたに喜ばれる教会として成長できますように導いて下さい。
アーメン。