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「神が共におられるので、立ち上がれる」

「神が共におられるので、立ち上がれる」
2008年12月28日 主日礼拝式
マタイによる福音書第1章18~25節②

「 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。  
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。 」
 

一年の最後の主の日を、皆様と祝うことができましたことは、私どもの最高の幸せであります。この一年さまざまなことが起こりました。祝福もあり、試みもありました。しかし、今、私どもはとにもかくにも、ここにいる、礼拝堂にいるのです。これ以上に幸いなことはありません。

 つい数週間前にも、一人の兄弟が入院、手術されました。命の危険を伴うものでした。私どもは、心を一つにして癒しのために祈ったのです。このように、一人ひとり、さまざまなことがあったと振り返ることができるでしょう。わたしもまた、激しい日々を過ごして参りました。よくも健康が守られたと不思議に思うほどの一年となりました。

 どうしても一年を振り返るような最後の主日でありますが、今朝、与えられたのは、先週と同じテキストであります。ヨセフに告げられたクリスマスの祝福の物語であります。今朝も、この箇所から、み言葉を聴き取ります。降誕祭礼拝式は、終わりましたが、教会の暦から言えば、なお降誕節は続いております。

 今朝は、特に、23節を中心にみ言葉を学びます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」このみ言葉は、本日の礼拝式への神からの招きの言葉でも読み上げられた、イザヤ書からの引用です。二つの箇所をマタイが、ここに一句にまとめたものです。イザヤ書第7章14節、「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」そして、第8章9,10節「諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。」 

私どもはすでに、マタイによる福音書の最初の説教において、大切なことを確認いたしました。それは、この福音書の主な目的は、旧約聖書の予告、預言の言葉は、この主イエス・キリストにおいて成就したのだと言うことを明らかにするための書物であるということでした。それは、単に、マタイによる福音書の特徴だけではなく、旧約聖書と新約聖書との関係そのものがそこで、明らかにされているとも学びました。だから、新約聖書の中でその最初に置かれることになったと学んだのです。たとえば、この22節のこのみ言葉一つ取り上げても、明らか過ぎるほどでしょう。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」神の預言は、実に、イエス・キリストにおいて成就した、実現したのです。旧約聖書は、新約聖書においてその権威を完全に明らかにし、同時に、新約聖書の権威をも不動のものとしたのです。どちらもなくてならないものとなっているわけです。しかし、旧約聖書は、新約聖書によって正しく解釈されるべきこともそこで明らかになったわけです。

 さて、マタイによる福音書は、神の預言は、主イエス・キリストにおいて成就したと、いの一番に、系図を記して明らかにしました。さらに、今、私どもの主イエスの出産の真実、ご降誕の経緯においても明らかにします。今朝、その預言の中心を学びます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

実は、神が、神の民と共におられる、神が御自身の約束の民、選びの民、ご自分の愛する民と共にいてくださるということは、旧約聖書の最初から最後までを貫いている約束であります。つまり、まったく新しい真理でも、不思議な驚くべき真理でもないのです。神の民の言わば、ごくごく常識的な教理です。基本中の基本の教えのはずであります。
 
 何よりも最初に、神は、アダムとエバを創造し、楽園に置かれたところから始まります。そこでは、神が常に彼らと共にいてくださったのです。それこそが、楽園の楽園たるゆえんです。食べる物、飲む物、着る物、住む物、衣食住一切の心配がない、それがエデンの園の幸いと考える向きもあります。確かにそれも幸いですが、どんな物質的な幸いにはるかにまさって、そこに神が共におられるからこそ、楽園なのでした。神の平和がそこに揺るぎなくあり、二人は、神との平和を楽しみ、その結果、二人の間にも平和があった、愛があったのです。つまり、聖書は、その最初から、私どもの神は、人間と共にいてくださる神でいらっしゃったのです。神が人と共に住んでくださる、それが、神の最初からのご好意であり、ご計画でした。ところが、その彼らが、神に反抗し、神のみ言葉を破り、善悪の知識の木を食べるという犯行に及びました。その結果、この楽園を失ったのです。神との平和を失ったのです。しかし、驚くべきことに、なお、神は、彼らをお見捨てにならず、神のご臨在は、彼らとともにありました。

 その後の創世記の中で、アブラハム、イサク、そしてヤコブの子であるヨセフの物語において、神が共におられる幸いは、集中的に描かれます。ヨセフは、エジプトに奴隷として売り飛ばされましたが、「主がヨセフと共におられたので」彼は、エジプトの最高権力者にまで上り詰めたのです。ヨセフ物語の鍵の言葉は、「主がヨセフと共におられたので」です。繰り返して、記されて参ります。特に39章に集中して出てまいります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。」ポティファルというエジプトの王ファラオの侍従長の奴隷になれたのです。これは、まさに幸運です。ただし、丁寧に申しますと、ヨセフは、そこで大きな試練を受けました。主人の妻からの執拗な誘惑を受けたのです。ヨセフは神を信じ、神の御顔の前で生きていたのでその誘惑を退けました。ところが、彼女の逆怨みを買い、牢屋に繋がれました。普通で言えば、死刑です。よくて、終身刑の身です。もはや絶望的な状況なのです。普通に考えれば、ああ、これでついに自分の人生は終わったと、自分で自分に「だめだし」するところでしょう。ところしかし、それでもなお主なる神が共におられたおかげで、彼は、そこから助け出されるのです。それは、ただ単に主が共におられたということではなく、ヨセフは、それを信じたはずです。牢屋にも、神が共におられる。これが、彼の信仰です。エジプトには、まことの神を知り、信じる人が一人もいないそのような帝国の、しかも牢屋の中で、ヨセフは、アブラハムの神、イサクの神、父ヤコブの神は、私と共にいてくださる、そう信じ抜いたのです。やがて、このヨセフがエジプトの総理大臣になります。そして、彼を殺そうとした兄弟もろとも、このエジプトに避難して、安定した豊かな生活へと繫栄して行くことになるのです。

 余談ですが、主イエスの母マリアの夫はヨセフ、地上にあってのイエスさまの父親の名前は、ヨセフです。そこにも単なる偶然を越えたものがあるように思います。
 
 さてそのおよそ300年後、エジプトではイスラエル人は大勢になり、エジプトの王ファラオは、彼らに脅威を覚え、彼らを奴隷にして苦しめました。イスラエルの男の赤ちゃんを皆殺しにするような、政策を実行しました。ところが、神は、モーセをナイル川から拾い上げ、エジプトの王家に育てられるように計らわれました。彼を、神の救いのみ業の奉仕者としてお立てになられます。その神の召命の物語が出エジプト記第3章に記されています。

「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」 神は、すでに80歳もの老人モーセに、ファラオといへ、エジプトの大軍隊と戦わせようとなさったのです。この召命を拒むモーセをして、「わたしは必ずあなたと共にいる。」と決定的な祝福の約束の宣言で、立ち上がらせなさったのです。これ以上、ひとつ一つ数えて行けば、それこそ、時間がいくらあってもなお足りません。

このような神の民の歴史を貫いて、神は繰り返し、ご自身が彼らとともにおられることを、み言葉と出来事を通してお示しになれました。ところが、神の民は、この事実を、感謝して、受け入れず、神に頼らず自分の能力に頼ったのです。結局は、み言葉ではなく、自分の判断、自分の経験、目に見えるもの、お金やら政治力、人間的な力に頼ったのです。

実に、預言者イザヤがまさにこのインマヌエルの預言をした状況こそが、そのような危機においてなのでした。すでに南北に分裂していたイスラエルは、北イスラエル王国と南ユダ王国になって、対立していました。北イスラエルは、アラムという国と同盟を組んで、強国アッシリアに対抗しようとしました。小さな南ユダ王国は、北王国がアラムと一緒になって攻めてきたなら、もはや逃れられない、これまでと考えました。そこで、異教の大国アッシリアによりすがろうとします。つまり、彼らは、軍事力、人間の数の力を信頼し、それで突破できると考えたのです。しかし、まさにイザヤはそこで、南ユダのアハズ王に、神にのみ頼りなさいと預言したのです。神の約束のみ言葉を語りました。その預言の中に、本日のインマヌエル預言があるわけです。しかし結局は、アッシリアは北イスラエルを滅ぼしてしまうばかりか、南ユダ王国をも、崩壊させてしまいました。つまり、神が共におられることを信じなかったのです。本気で、真剣に、信じなかったのです。そこにこそ、神の民の罪があります。まさに、それが罪なのであります。

さて、これは、単なる歴史物語、他人事のお話などではまったくありません。この一年の歩みを振り返り、私どももまた深く神に問われていることは、他のなにかではなく、まさにこの点です。このことであります。私どもは、神に寄り頼んで生きてきたのか。あのアハズ王のように、目に見えるものを、まるで神に捧げるべき真心をささげるようにして関心を注ぎ、追い求めたのではないか。私どもの時間は、いったい何に注がれたのか。聖書と祈りなのか、伝道と奉仕なのか、神の栄光のためなのか、それとも自己実現のためなのか、それが、問われているのです。

しかし、神は、そのような彼らの不信仰、不忠実にも関わらず、み言葉の真実を貫かれたのです。しかし、預言者イザヤ自身このインマヌエルの出来事、おとめが身ごもって男の子を産むという奇跡が、実に、永遠の神の御子の降誕であると、考えていたのでしょうか。わたし自身は、そこまでは、イザヤ自身も想像ができなかったのではないかと考えるようになりました。もとより、イザヤの預言を聴いた人々の中で、いったいどれほどの人が、この預言が、永遠の神が人となられると理解したことでしょうか。それは、もう、超絶的な出来事です。永遠の存在が、被造物の中に宿る。被造物、つまり時間が経てば、必ず朽ちてしまう物質をその身に、摂られるということが起こるなどと、誰が、想像できるでしょうか。これを信じられるのは、神御自身だけのような思いを禁じえません。しかし、神は、私どもに肉薄するために、接近するために、とんでもないことをもう、クリスマスの700年も前に、予告しておられるのです。もとより、天におられた御子なる神は、そのことをご存知です。

そして、時満ちて遂に、御子なる神は、マリアの肉体に聖霊によって宿られ、マリアの肉体をとって、飼い葉桶に眠られたのです。そのことによって、もはや取り返しのつかないことが、神御自身のなかで起こりました。三位一体の神の中で、あの夜、取り返しのまったく効かないことが起こったのです。永遠者が、超越者が、無限の存在が、時間の中に、被造物の中に、有限の中に入られたのです。正真正銘の人間になられたのです。しかも、その人となられた御子は、30数年という一瞬、人間の体をまとわれたのでは、まったくありません。そうではなく、あの時から今朝まで、そして今朝この時で終わるのではなく、私どもが天国に行くまで、いへ、そこで終わるのではなく、永遠に主イエス・キリストは、主イエス・キリストのままでいてくださるのです。あのイエスさまは、天国でもまたイエスさまなのです。十字架について一度死んで、そしてご復活されたイエスさまなのです。だからこそ、私どもは、いつでも死ねる存在になったのです。いつでも天国に行ける。そこには、人となられたイエスさまが、父なる神の右に座しておられるからです。私ども人間のトップバッターとして、御子は御父の右に着座しておられます。もはや、三位一体の神は、言わば、かつての三位一体の神ではなく、御子において人間を御自身の内に宿しておられるのです。そのようにして、神は我々と共におられるということは、旧約聖書の時代のように、神が共におられること以上のことなのです。はるかにすごいことです。はるかにすばらしいことが、ものすごいことが、起こったのです。真の神にして真の人となられたイエスさまにおいて、もはや、人類の滅びの可能性はなくなりました。ゼロです。人間を捨てるなら、もはや、神が神でなくなるからです。イエスさまの存在がなくなるからです。

それが、インマヌエルの出来事です。イザヤですら理解しえないようなことが起こった。いへ、正直に申しますと、キリスト者の中でも、この出来事のすごさをどれほど、理解しているかと思うほどです。教会もまた、このクリスマスの恵みの奇跡を、最初からよくわきまえることはできなかったほどであります。神学の歴史の中で、徐々に、この神秘の神秘性が開かれた。そう言ってよいと思います。

今朝、この礼拝式の招詞で、イザヤ書の第41章を宣言しました。「わたしの僕イスラエルよ。わたしの選んだヤコブよ。わたしの愛する友アブラハムの末よ。わたしはあなたを固くとらえ/地の果て、その隅々から呼び出して言った。あなたはわたしの僕/わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け/わたしの救いの右の手であなたを支える。」

神さまは、今朝、私どもに身を乗り出すようにして約束し、宣言されました。そしてこの礼拝式に招かれました。先週の燭火礼拝式でも、恐れるな!と学びました。これが、クリスマスのメッセージの要約なのだと学んだのです。恐れることはない。あなたは、アブラハムの子孫ではないかと、問われるのです。なぜ、私どもがアブラハムの子孫なのでしょうか。それは、先々週学びました。イエス・キリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫であって、このイエスを信じることによって、誰でもイエスさまの弟、妹にしていただけるからです。誰でも、イエスさまと繋がれば、信仰によってつながっていれば、イスラエルだからです。神は、決してお見捨てになられないのです。神は、共にいてくださり、私どもに生きる勢いを与え、天地創造のあの右の手、十字架の死の絶望から御子を甦らされた救いの右の手で、私どもを支えてくださるのです。そうであれば、私どもキリスト者は、旧約聖書の神の民にはるかにまさって、神が共にいてくださる恵みの事実に敏感でいられるはずです。深く信じて、従えるのではないでしょうか。

しかしそれだけに今、私どもは、この一年を、天を仰ぎつつ、振り返りますが、そこで、私どもの不信仰を心から恥じ、そして悔いています。悔いる思いが先立ちます。そして、私どもは、今朝、はっきりと悔い改めるべきであります。しかし同時に、そこでそれよりもなおはっきりと、鮮やかに見えてくることがあるはずでありましょう。それは、何でしょうか。そのような私どもにもかかわらず、そこで、神は、私どもをなお、お見捨てになられなかった恵みの事実であります。私どもは、この一年間、神の平和の内に生かされたという恵みの現実です。

今年、最後の主の日、わたしは、皆さんと御言葉の恵みを、なおゆっくりと味わいたい思いで一杯なのです。朝の祈祷会、愛餐会、そして夜の祈祷会でも、一年を振り返って、神に感謝いたしました。しかし今、この礼拝式でこそ、皆様と一緒にそれをすることができるし、すべきことがあります。

確かに、一人ひとり固有の、本人しか知らない、味わっていない苦しさ、試練、厳しさがありました。しかし、それでも私共は、同じ経験を重ねて来たはずです。何よりも、この礼拝式においてであります。

その恵みの事実を、讃美するにふさわしい詩の一つは、詩篇第23編ではないかと思います。「主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。」神は、死の陰の谷を一人で歩くときにも、私どもと共におられたのです。私どもは、この詩人の言葉を、自分の一年の締めくくり、あるいは人生の最後のときにも、唱えることができるのです。

最後に、皆様の中でもすでにご存じの方も多いかと思いますが、「足跡」という詩があります。このような内容です。

「ある夜、彼は夢を見た。それは主とともに海岸を歩いている。夢だった。その時彼の人生が走馬灯のように空を横切った。
 その場面場面で彼は砂浜に二組の足跡があることに気がついた。ひとつは主のもの、そしてもうひとつは自分のものであった。そして最後のシーンが現れた時、彼は砂浜の足跡を振り返って見た。すると彼が歩んできた今までの道の多くの時に、たったひとつの足跡しかないことに気がついた。そしてそれはまた彼の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれているときのものであることに気づかされた。
 彼はこのことでひどく悩み、主に尋ねた。「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、ひとつの足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私には理解できません。」
 主は答えられた。「私の高価で尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのは私があなたを携え歩いていたからです。」

実は、わたしは、自分で紹介しておきながら、この詩の内容に、いささかの違和感を持っております。主イエスは私どもは、抱えて歩んでくださるお方であることは、その通りであります。

しかし、私どもは、主に従うキリスト者です。その意味で、私どもの踏みしめる足跡は、まさに主と二つのものです。時に、何度も立ち止まってしまうような足跡かもしれません。しかし、やはり、その足跡は、私どものものでしょう。つまり、誰も、自分の人生を、生きてくれる人はいません。それは、イエスさまですらそうです。それほどまでに私どもの人生は、神の前に尊いのです。一度きりのものです。かけがえのないものであり、神の御前に責任がある歩みなのです。

大切なことは、時に、立ち止まってしゃがみこんでしまっても、そのときに、主なるイエスさまは、私どもをお見捨てにはなられないという事です。お互いのこの一年の体験、経験であったはずです。ですから、この一年、私どもは、毎週の主の日のたびごとに、そこから立ち上がることができたのではないでしょうか。自分の足で、歩んだのです。ただし、そこでいつでも知らされるのは、この歩みを支えて下さったのは、結局、すべて神の恵みのみであったということです。順調なときも、試練のときも、いへ、主にあって歩む私どもにとって、平坦な道はないと知るべきでしょう、しかし、勇気を出せる。勇気を出せたのです。主なる神が共にいてくださるからです。だから、立ち上がる、立ち上がれたのです。

私どもは、何も、先を競って、急ぐ必要はありません。しかし、確実に信仰の道を、天国への道を歩むのです。しかも、私どもは、そこで決して一人で歩んでいないのです。それは、主なる神と共に歩ませていただいているからですが、しかしそれだけではありません。私どもは、この名古屋岩の上教会の仲間たちと共に歩むこともできたからであります。

最後に、改めて、神の祝福を皆様に告げます。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

祈祷
人となられた永遠の御子イエスさま、インマヌエルのしるしが、今朝も与えられ、あなたの驚くべき恵みの事実が、この一年の歩みを支えてくださいました。あらためて、私どもの不信仰、不忠実、不誠実、不熱心をおゆるし下さいませ。新しい年を迎えようとする今、あらためて、信仰と主なる神、イエス・キリストへの献身を深める思いと感謝に富ませて下さい。へたり込んでもなお起き上がって、立ち上がって歩む者、恐れなく、歩み続ける者としてください。アーメン。