過去の投稿2008年12月24日

12月21日

降誕祭、おめでとうございます! 主イエス・キリストのご降誕の幸いが、今朝、ここに呼び集められた全員に、豊かにありますように! この祝福をご自分のものとする方法、それは、ただ一つです。イエスさまをキリストそして主として、心に信じ、受け入れることです。そのとき、私どもの心の中に、神は聖霊を注ぎ、主イエス・キリストを宿してくださいます。これこそ、私どもの真のクリスマスです。この恵みの体験こそ、降誕を祝う、醍醐味です。今朝の礼拝式で、あなた様にも、真の降誕祭のお祝いになりますように!

☆本日は、降誕祭主日礼拝式です。時の経つ早さに、うろたえるような思いです。来週は、今年最後の主日です。ここまで、支え、導かれた恵みの神に、心からの感謝と賛美を捧げる、そのような礼拝式となりますように。振り返れば、今年、説教準備や週報作成は、毎回、土曜日深夜でした。昨晩、ある他教派の牧師から、午後の子ども集会を終えて、今から、礼拝準備・・とのメールを受けました。説教準備は、テキストを一週間かけて読み続けているわけですから、字義どおりに、夕方から準備するわけではないにしろ、原稿へとまとめるのは、土曜日・・・。反省を迫られるわが身ですから、なにか、自分だけではない・・・との慰めを・・。

★先週の火曜日朝の祈祷会の折、うかつにもその日が、今年最後の祈祷会になることに気付きました。 毎年、年末最後の祈祷会は、一年を振り返り、恵みを分かち合うときを持ちます。大急ぎで、「ローマの信徒への手紙 神の平和の福音」を学び終え、一人ひとりの証を伺う時と致しました。13名の出席者でしたから、ゆっくりと時間をとってお話していただくことができなかったことは、残念でした。しかし、お一人お一人の今年の歩みもまた、神への感謝と賛美で締めくくることができました。これにまさる幸いはありません。名古屋岩の上教会の今年の歩みもまた、会員一人ひとりが主体的に奉仕に参加し、教会形成にそれぞれがあずかることが許されました。しかし、それでもなお、課題は残ります。もとより私どもは「もうこれでよい」とか「この程度で・・・」というような信仰生活はありません。神の御顔の祝福の前(コーラム・デオ)で、私どもはつねに、Soli Deo Gloria!(ソリ・ デオ・グロリア神の栄光のために!) と心を奮い立たせられつつ、歩みます。

☆祈祷会でもご紹介いたしました。先週、出席された一人の学生の礼拝出席レポートを拝見して、本当に感謝いたしました。本当に、深く「事柄 ことがら」が分かり始めています。大学生になって、初めてキリスト教や、さらには、初めて私どもの教会の礼拝を体験されました。彼女は、学校での「礼拝」は礼拝ではないと記しました。(これは、言いすぎでしょうが、それほどの体験となったわけです。)また、私自身は、表現していなかったことですが、我々日本人のまわりにある人間の宗教と宗教的行為が「人間の、人間による、人間のための」ものであると認識し、喝破してみせてくれました。今年は、キリスト教学で、200人余りの学生と接したのですが、改めて、聖書的な、ごく基本的な真理を思わされました。聖霊のお働きなしには、み言葉の真理は、「開かれない」ということです。しかし同時に、人間の側で、心を開いて、謙虚に求めるならば、主イエスが約束されたように、「求めなさい。そうすれば与えられる。」は真理であるということです。初めから、求めていない学生たちに、どのように福音の真理を宣言し、証言するのか。今年初めて担当した、学科の学生たちの前に、これまで経験した事のないプレッシャーを味わわされています。
  
 しかし何故このようなことを祈祷会で申し上げたのか。それは、決して、未信者だけのこととすることはできないからです。キリスト者もまた、自ら省みて、いかがでしょうか。神を求めること。枯れた谷に鹿が水を求めて喘ぐように、神を求めることです。心を開いて、主に従う態度を整えることです。それなしには、  何度、み言葉を聞いても、変わることも、成長することも起こりません。今年の降誕祭礼拝式。かけがえのない時となりますように。                

★新年度の教会生活(奉仕)のために、今から、祈りの内に神に求めてまいりましょう。年末、年始ですが、「神の御前にひとり静まる時が、与えられますように。