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「主イエスについて行く」

「主イエスについて行く」
                       2009年3月8日
               マタイによる福音書 第4章18節~22節
 「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」

 私どもは、今、マタイによる福音書を学ぶことによって、礼拝式を捧げております。福音書とは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストの福音、天国のよき知らせ、つまり福音を明らかにするための書物です。確かに主イエス・キリスト御自身の歩まれた足跡が記されていますから、うっかりすると主の伝記、単なる歴史物語のように勘違いされます。しかし、福音書に記された主イエスのみ業は、すべて当時の人々だけのものではなく、彼らのためだけに意味のあるみ業でもないのです。すべての時代のすべての国々の読者のためのみ業が記されているのです。今朝の物語もまた、他ならない私どもの物語なのです。

さて今朝、私どもは、最初の弟子、後に使徒となるシモンとアンデレの兄弟、さらにヤコブとヨハネの兄弟が主イエスに呼び出され、弟子となった物語を読みました。さらに23節以下も読みました。

 主イエスは、生まれ故郷のナザレから、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムを歩いておられます。それは、ご自身の弟子を招くためです。最初に選ばれたのは、二人の兄弟でした。シモンとアンデレです。シモンというより、ペトロと呼ぶ方が、私どもには慣れ親しんでいます。最初の教会の指導者になった人です。12人の弟子の筆頭になった人物です。私どもの教会にとって、このペトロは、特別の存在です。なぜなら、このペトロこそ、主イエスに対して、誰よりも最初に、「あなたは生ける神の子、キリストです。」と正しく告白しえた弟子であったからです。実に主イエスは、「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる。」と宣言されました。この岩とは、シモンのあだ名であるペトロを意味します。「この岩の上に」とは、岩と呼ばれているシモンペトロが告白した信仰の告白であると私どもは確信しています。信仰告白の上に、キリスト御自身が御自身の教会を打ち立てて下さるのです。それが、私どもの教会の名称の由来であり、何よりも確信なのです。名古屋岩の上教会と、使徒ペトロとは、特別の関係にあると言ってもよいでしょう。
 
 ペトロとアンデレは、いつものように漁をしていました。いつものように、網を打っていました。その生活の現場、その仕事の現場に、主イエスは、来られたのです。それは、まったく一方的なものでした。その日、主イエスは、岸辺に立って、二人の働きをじっとご覧になっていました。船の中には、父親や他の兄弟たちや仲間たちも乗り込んでいたようです。仕事を一生懸命していたのでしょう。そのような毎日の当り前の生活の真ん中に、主イエスが言わば、いきなり入り込んで来られたのです。

マタイによる福音書は、あきれるほどに、淡々と記しています。このペトロとアンデレとが、どのような人間であるのか、どのような考え方、生き方をして来たのか、まったく何も記していません。まるでそのようなことには興味がないと言わんがばかりです。私どもとしては、ついつい、その時の彼らの気持ちはどんなであったのかと興味がわきます。もしかすると彼らは、人生に行き悩んでいたのだろうか、自分の仕事に不満を持ち、毎日の変化のない暮らしに葛藤しながら、いやいや、漁師をしていたのでしょうか。だから、すぐに従ったのか・・・。まったくわかりません。いへ、マタイによる福音書は、告げるのです。そのように詮索する必要はないし、意味がない。

本日、皆様のお手元に届けられるかと思いますが、今月の「改革派中部」に後藤公子先生、インドネシアの神学校で神学教育をなさっておられた女性宣教師の文章が記されていマス。後藤先生の証をもとにした、メッセージです。

「わたしは若いころ宣教師の伝記を読み、大きな影響を受けました。そのような崇高な人生があるという事実に心躍らされ、その犠牲的で、かつ意義ある生き方に深く感動しました。やがて献身へと導かれましたが、私自身は宣教師として献身をしたわけではありません。どこへ行き何をするかは、主の御心のままにしてください、と祈りました。結果的に宣教師として歩むことになりましたが、それが主の御心であり、私自身に与えられた特別な使命だったからです。宣教師になることだけが意味のあることではないし、すべての人がそのために召されているわけでもありません。大切なことは、すべてのキリスト者には、主からの特別な、しかもユニークな使命が与えられていることを知り、それを発見し、その使命に生きることです。自分に与えられている使命を知るための前提条件が献身なのです。」

ここで改めてキリスト者にとって、その信仰の生活、生涯にとって決定的に重要で、鍵となる言葉について確認しておきましょう。それが献身です。献身とは、神さまの前に、自分の存在そのものを、人生そのものを神のものと認め、それを自覚的に差し出すことです。自分を神の道具としてくださいと、明け渡すことです。自分の主権を、本来の主権者にお返しすることです。後藤先生は、はっきりとそれが、神からの使命を受け入れ、弁え、その使命に生きる前提条件になるもの、それが献身であるとおっしゃいました。

献身とは、特別な出来事ではないということが大切です。献身とは特別のキリスト者、働き人だけに求められているものではないということです。献身とは、主イエス・キリストに贖われた人間の当然の存在様式であるということです。イエスさまに救われた人間とは、献身した人間とされている、されざるを得ないということです。このあたりのことを、日本キリスト改革派教会中部中会の創立「40周年記念宣言」でこう言い表しました。「わたしたちはあるがままで献身者とされました。」これは、とても重要なメッセージです。キリスト者即献身者であると告白したわけです。なぜでしょうか。それは、主イエス・キリストがそのお命をもって、私どもの罪の贖いの代価として支払ってくださったからです。そのようにして私どもは、滅びから、神の刑罰から、神の怒りである地獄から、あまりにも高価な犠牲を支払っていただいて、買い戻していただいたのです。主イエスさまが十字架で流された御血、割かれ肉体、そのようにして身代りに死んでくださった犠牲によって、私どもは、買い戻されたのです。それを贖われると申します。この救いの手続き、この救いのみ業があったからこそ、私どもは、地獄から天国へと移し入れられるのです。あの十字架によってのみ、私どもは天国に入れる人間、天国に住まいを与えられるのです。

そうであれば、私どもは、もはや自分自身を自分の支配者とすることはできません。自分の「主」は、もはや自分ではないということを、心の底から喜んで、告白することが、救われることなのです。信仰に生きることなのです。そして、救われて信仰に生きるということは、罪を赦された私どもの存在が、神に積極的に受け入れられ、神のものとされ、神のご栄光のために生きること、働くこと、奉仕することができるものとされたということです。
 
 主イエスは、汗を流して働いているその現場に、網を引き揚げている彼らの手元の中に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と招かれました。ペトロたちは、このとき、自分の将来を見ていません。はたして自分がそんな大きなことをする人間となれるかどうか、自分自身をも見ていません。ただ、呼びかけて下さったイエスさまだけを見つめたのです。

しかも、彼らは、主イエス御自身がどのようなお方であるのかを、よく知っているわけでもなかったのです。イエスさまの将来もまったく知りません。つまり、このイエスさまが、自分たちのために、十字架について罪と死の究極の問題と戦って下さること。そのために、苦しみを受け、神の刑罰としての死を死んでくださることも、この時には何も知らなかったのです。

しかし、ここで聖書ははっきりと告げています。「ただ、ついて行けばよい」と宣言するのです。今、自分の将来の全貌、全体像が分からなくても、イエスさまのすべてが分かっていなくても、しかしついて行くことです。ここに神が求めておられる信仰があります。従うことです。ただし、そのようにできるのは、主に呼ばれたからです。呼ばれた、呼び出されたからです。

 人間を取るとは、何でしょうか。これは、先ず何よりも、主イエス御自身のお仕事であります。主イエスだけがもともと御出来になられるお仕事です。主イエス以外には、担えません。まったくそのようなことは不可能です。ありえないことなのです。

 それなら、人間を取る、釣る、すなどるとはいかなることなのでしょうか。漁師は、魚を網の中に釣り上げます。ガリラヤ湖での漁とは、マグロの一本釣りのようではなくて、網を打って、その中に魚を追い込んでとらえるわけです。主イエスは、天の国は近づいたのだから、あなたも悔い改めなさいと叫び、招かれました。つまり、あなたも天国に入りなさい。そのために、悔い改めなさい。生き方の方向を変えなさい。天国へと人生の方向を目指し、逆転させなさいと仰ったのです。そして、イエスさまは、その天国へと私どもを招きいれるために、伝道を始めて下さったのです。悔い改めれば、誰でも天国に入れるように、イエスさまは、天国に入る手続きを整えて下さるのです。それが、十字架の贖いのみ業です。十字架のイエスさまを信じれば、誰でも、天国へと入場し、入国できるわけです。その人間を天国に入れるための仕事を、イエスさまは、私どもにも与えて下さるのです。
 
 そうであれば、この仕事こそは、世界のありとあらゆる仕事の中でもっとも価値ある仕事であります。又同時に、責任のある重要な仕事です。これは、丁寧に申し上げなければなりませんが、人間のありとあらゆる仕事の中でもっとも価値ある、尊い、責任のある仕事であれば、その仕事に就く競争率、これは、相当なもののはずではないでしょうか。これが我々の常識と思います。国連職員になるためにはどうすればよいのか、少しだけ調べてことがありますが、これは、まさに並大抵のことではできません。中学生や高校生がそれを目指して進むなら、スバラシイですが、しかし、最初から、そのためにどれほどの倍率、資格、学位が求められるかを知ると、そこで多くの場合、自分の現実を見て、諦めてしまうかもしれません。何を言いたいのかと申しますと、そのように、やりがいのある大きな仕事に就くためには、まさに選りすぐられるような、選抜が伴うということです。

そうすると、ここで主イエスがなさったことがあまりにもこの仕事の重要性と比べて、軽いという気がしませんでしょうか。エルサレムの町に行けば、当時の学者、また指導者がおります。有名人なら、おそらくエルサレム近郊に住んでいるのではないでしょうか。ところが、イエスさまは、人間を取る漁師が欲しいから、ガリラヤの湖で働く本物の漁師を選ぶ。これは、冗談のようではありませんか。ジョークなら、面白いですが、しかし、イエスさまのお仕事をさせるのです。それは、要するに、一言で申しますと弟子です。ご自身のお弟子を選び、召し出されるとき、どうして、ガリラヤ湖の漁師なのでしょうか。人々の前で弁舌さわやかに語れるとは、到底思えません。ここで最初の弟子にされているのは、全員、漁師です。多くの人の心を捕えるなら、まず、有名で、頭もよくて、そして演説ができなれければならないでしょう。それならば、イエスさまは、このペトロやヨハネたちは、人柄だけは、ピカイチ、人間性において、人格においては、この四名は、際だってすぐれた人であったのでしょうか。それは、この後、分かります。暴露されるのです。このペトロは、言わば、普通の人です。特別、勇気にあふれているわけでも、たとい、目立たず、口べたではあっても、しかし実直で、言行一致する真実一路の人ではありません。主イエスの十字架を前に、絶対にあなたをお守りし、どこまでもお従いすると大見えを切っておきながら、しかし最後には裏切り、逃げだした人です。ゼベダイの子ヤコブとその兄弟も、イエスさまからのあだ名は、ボアネルゲス、訳すと「雷の子たち」です。怒ると何をしでかすか分からないような、心穏やかで、優しい人ではなく、その正反対なのです。気性が特に激しいタイプの兄弟です。

いったい何故、そのような選抜をされるのでしょうか。結論だけ申します。なぜなら、マタイによる福音書はそれに何も答えないからです。つまり、そんなことはどうでもよいというのが、メッセージです。結論は、イエスさまの選びにのみあるということです。彼らが、自分の仕事に空しさを覚え、もっと大きな仕事がしたい、もっと有名な人になりたい、やりがいのない、単調な暮らしにそろそろ嫌気がさした・・・。そうではないのです。いへ、それもあったかもしれません。しかし、私どもが聴きとるべきは、ただイエスさまが選ばれたということだけです。イエスさまの弟子になるための試験、選抜クラスそれはない。ただ、イエスさまが選び、呼び、それに応答するかどうかそれだけです。そしてシモンとアンデレは、すぐに応答したのです。漁師にとって命の次に大切なのは、船と道具です。ところが、網を捨てたのです。仕事を捨てたのです。そしてイエスさまの招きにあずかって、すぐについて行くのです。

さらにヤコブとヨハネは、なんと船と父親を残してイエスさまに従うのです。この四人が四人とも、このイエスさまのお招きを感謝をもって、受け入れ、直ちに自分のすべて、自分の存在そのもの、生きている証拠、生活、家庭すら捨てて、従うのです。

 私どもは、今、この物語を読んで礼拝しています。いったいこの物語は、何でしょうか。そもそも福音書とは、過去にこれこれこのようなことが起こり、語られましたと告げる歴史資料集ではありません。伝記ではないのです。これは、私どもの物語なのです。福音、喜びの知らせです。この福音書の最初の読者は、すでに教会に招かれているキリスト者です。つまり、弟子なのです。イエスさまを信じるとは、従う人のこと、弟子のことであって、それ以外ではありません。つまり、イエスさまを尊敬し、敬意を表し、人生の肥やし、教養として重んじることは、信仰とは無縁です。主イエスを信じるとは、従うことです。それは、自分のこれまでの生きて行く方向性を止めることです。この四人の人たちがしたことは、まさに、先週学んだ主イエスの宣言の実りなのです。「悔い改めなさい。天国は近づいたのだから。」この四人こそ、悔い改めるということがどのようなことなのかを鮮やかに示す証人、証し人なのです。そして、何よりも大切なことは、それは、私どもも同じではないかと、問いかけるのです。あなたがたも、彼らのように悔い改めなさい。主イエスについて行きなさい。そして、人をすなどる働きにいそしむことができるのだから、そうしなさいということです。

 いかがでしょうか。私どもは、自分がキリストの弟子として選ばれたこの現実を前にして、キリスト者として生きれば生きるほど、「ああ、イエスさまは、よくぞ、わたしを選ばれた、さすが、お目が高い。わたしはこんなに優秀で、立派で、イエスさまのお仕事を担うにふさわしい人間だから。」このように思えますか。むしろ、自分を知れば知るほど、ますます、思えなくなるのではないですか。少なくとも、わたしはそうです。能力という点から見ても、意思という点から見ても、人柄という点から見ても、いったい、イエスさまの目は節穴ではないかと思えるほどです。すぐれた人なら、他にもたくさんいるのに、どうして、こんな取るに足らない、ただの人を選ばれたのか。

 マタイによる福音書が問題にするのはまさにそこです。いへ聖書は、そのようなことに全く関心がないのです。いへ、関心がないというより、それを問う必要などまったくないのだと告げるのです。問うべきこと、見つめるべきことは、ただ一つです。それは、他ならないこの私、皆さんが、イエスさまにわざわざ出向いていただいて、わざわざ、そばに近づいてきて下さり、「わたしについて来なさい。あなたを人間を取る漁師にしよう」と招かれたこと、それだけです。

 それなら、私どもはどうすべきでしょうか。私どもは、これまでの生き方をやめますか。それとも、「わたしはまだ若いです。こんな若者では、弟子などはるかに及びません」と逃げるのでしょうか。あるいは、「わたしは、一家の主です、父親です。子どもたちを食べさせなければなりません。社会的にも、家庭にも責任もあります。理想だけでは生きていけません。もうしばらくは無理です。」あるいは、「わたしは、もう若くありません。この年では、遅すぎます。弟子になれません。」しかし、そのような言い訳は、この物語を読めば、成り立たないことがはっきり示されるのです。まさに、この物語の眼目の一つはそこにあるのです。信仰とは、イエスさまの弟子になることであって、それには、ただイエスさまが呼んでいて下さるときに、自分の能力とか、人柄とか、自分の可能性を自分で判断することではまったくないのです。ただ、招かれたイエスさまさまを真剣に見つめて、アーメンと応答すること以外にはないのです。悔い改めて従うか、これまでの生活を続けるか、どちらかです。

 彼らは、その弟子としての生涯のなかで、実に惨めな、あまりにもみじめな経験を致します。主を裏切ったのです。それなら、このイエスさまの選びと召命と、彼らの応答は無駄であったのでしょうか。主イエスのお約束は、結局、実らず、失敗に終わったのでしょうか。いいえ、まったく違います。彼らは、まさに、最初のキリストの教会の柱、土台のように指導者として用いられたのです。実に、キリストの教会の最初の指導者は、漁師なのです。ただの人なのです。しかし、主イエスが、従う者を必ずそのように育てて下さるのです。彼らこそがその証拠になったのです。
 ある人は、こう批判します。「父親を捨てるなんて、まったくどうにかしている。」それなら、彼らの決断は、彼らの家族や家庭を破壊したのでしょうか。そうではありません。神は、彼ら自身の生涯ばかりか、彼らのすべての責任をもとって下さるのです。そのようにして、私どもの人生は、完成され、完結させていただけるのです。

本当に、そうです。偉そうなことは言えませんが、わたしもまた、洗礼を受けた後、牧師になるべく神学校にまいりました。神学大学ではありません。100年の歴史があるとは言いますが、小さな神学校で、この世的に言えば、その学校を出ても、何の資格も何の保証もありません。しかもその後、牧師として働いたのは、土地も建物もないまったくの開拓教会でした。さらに、わたしどものこの教会もまた、もともと単独で開拓伝道した教会です。どうやって生きて、どうやって、子どもたちを育てられたのか、不思議です。つまり私の小さな歩みを振り返るだけでも、主が共にいてくださり、守り導かれるという事でなくてなんでしょう。まだ現役ですから、今後のことは、まだ分かりません。しかし、主が20歳の時、わたしをも救い、お召しくださり、洗礼を受けたことが決定的なのです。

今朝、もう心深く、主イエスの招きを受けておられる方もおられるはずです。どうぞ、ついて行きましょう。まず、洗礼を受けることから始まります。これこそ、決定的に重大な服従なのです。そこから弟子とされる道が始まるからです。ただし、始まるということは、そこで終わらないということです。そこから従い続ける毎日が始まる。すでに洗礼を受けている私どもであれば、主イエスが、約束されている使命に生きることが求められています。献身の恵みを徹底することです。そこで私どもに与えられる使命とは、決して自分で決断し、選択するような使命ではありません。それは、神が与えて下さるものです。備えて下さるものです。そのためにはしかし、主に従う毎日がどうしても必要です。ときに、あの最初の弟子たちのように、立ち止まったり、倒れることもありましょう。しかし、主が招いて下さったのです。主は、主イエスだけが、私どもの人生を完成してくださるのです。キリストを信じると言うことは、自分自身にとってまるで想像もできないような新しい世界へと招き入れられることなのです。大志を抱くのです。いへ、神の大きな志、キリストの志を自分の志いして生きることです。他ならないここに集められた一人一人によって、この教会によって、天国に入る人が起こるのです。そのために、私どもは、今週も祈り、働くのです。

祈祷
 取るに足らない私どもにもかかわらず、ただあなたの一方的な愛と恵みを受けて、私について来なさい、人間を取る漁師にしようと招いて下さいました、主イエス・キリストの父なる御神。召されたペトロやヨハネもまた、弟子として順調に成長したわけではありませんでした。躓き倒れ、何よりも取り返しがつかない罪を犯しました。あなたを裏切りさへしたのです。しかし、あなたのみ言葉の約束は、彼らの愚かさや、罪にも関わらず、失われることなく、変わることなく成就いたしました。彼らの将来は、まさに多くの人々を天国へと導き入れる漁師として働くことになりました。天の父よ、今、私どももあなたのお召を受けていることを再確認させてください。主イエスにどこまでもついて行くこと、天国に人々を招き入れる伝道の働きを、今、キリストの教会が担うべきことが許され、明治られていることを悟り、力を合わせてこれに専心できますように。私どもの教会の歩みが常に、天国を証し、そこに導き入れる伝道奉仕へと結びあわされて参りますように。 アーメン。