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「心貧しい人の幸い」

「心貧しい人の幸い」
                       2009年3月22日
             マタイによる福音書 第4章23節~第5章2節
 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」

先週は、山上の説教の特に、「八福の教え」とも呼ばれている箇所の言わば、導入、序論のような説教を行いました。私どもは、先週、主イエス・キリストから一人ひとりに、「あなたは幸いだ、あなたがたは幸せな人たちだ」との宣言を、感謝をもって受け入れることができました。自分自身を、天国に入ることができる実に幸いな人間であることを心から認め、感謝することができました。

主イエスは、漁師の仕事をしていた真っただ中で、「わたしに従って来なさい。ついて来なさい」とペトロとアンデレ、ヨハネとヤコブを招かれました。彼らは、自分の仕事や家族を捨て去って、従い始めたその弟子たちに対して最初にこのように語りかけられます。「幸いなあなたがた!」と9回弟子たちに、祝福を告げられました。それなら、このように無一文になって、主イエスについてきた弟子たちの、いったい何が、どこが幸いであると仰っるのでしょうか。

そのことが、この八福の教えで繰り返し明らかにされる真理に他なりません。そのトップバッターとして示された聖句を本日、まなびます。それは、「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」です。この主の言葉そのままのニュアンスを残して翻訳すれば、こうなります。「幸いである、霊において貧しい人々は。何故なら、天の国は彼らのものであるから。」

ところが、ルカによる福音書に記されている同じ説教を読みますと、そこには、単に「貧しい人々は幸いである」とあります。心ではないのです。まさに貧しい人です。そこで主イエスが宣言された「貧しさ」と言う言葉のニュアンスは、例えば私共が、笑いながら「今月は懐具合が厳しい」とか、「家計は火の車です」と言えるようなものではないのです。この貧しさとは、徹底的な貧しさを意味しているのであります。何も持っていないということなのであります。つまり、物乞いの暮らしをする以外にない貧しさなのであります。

「貧しい者は幸い」という宣言、言葉は、先週も申したとおり、そもそも常識外れと言わねばなりません。今日、この日本の中で、この主の御言葉は、おそらく、すっと心の中に入っては来ないように思うのです。私どもには、躓きの言葉であろうと思います。「良かったですね、貧しいあなたは、幸せですね、物乞いをしているあなたは」そんな言葉を、ホームレスに方に言ったら、どうなるのでしょうか。考えられない暴言の類ではないかとおもいます。

しかし、この説教を聴いた最初の弟子たち、主イエスから直接に聴いた弟子たちは、しかし、確かに、無一物になってしまった人々でした。貧しいとはいえど漁師であれば、食べるに困りません。第一次産業、食物の生産に関わる人たちは、社会がどれほど危機的になっても最後まで、食べることはできるわけで余裕があるのです。しかし、漁師をしていた彼らは、「あなたを人間をとる漁師にしよう」と、主イエスの招きを受けて、網をその場に捨ててしまっています。もう一人の弟子たちは、舟と父親とを残して主イエスに従ったのです。まさに、所有物の一切を投げ捨てて、彼らは主イエスの後をついて行ったのです。それなら、主イエスはそのような私的財産、私有財産を徹底して放棄してしまった彼ら、放棄せざるを得なかった弟子たちを、励ます意味で、こう仰ったのでしょうか。

さて冒頭で、この主の言葉のそのままのニュアンスを紹介致しました。そこでは「心」の貧しさではなく、「霊」の貧しさと申しました。同じ8節には「心の清い人々」と出てまいります。こちらの心とは、まさに日本語で言う「心」を意味する言葉と同じであります。しかし、「心の貧しい人々」の方の心とは、聖霊とも訳すことの出来る言葉が使われています。つまり、「霊」であります。それなら、霊とは何でしょうか。霊とは、神と交わる部分の事であります。創世記の第2章における人間創造の記事にこうあります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に生命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった。」つまり、人間は一方の側面から言えば、土の塵と言うようなこの世に属し、ある意味で動物と同じ存在としてあると言うことができます。しかし、人間は、それだけでは「生きるもの」完全なる人間として生きるものとはなりえないと言うこともまた明らかにされたのであります。それは、神の生命の息、つまり聖霊であります。神の御霊であります。神の霊が注がれることによって、人は人として生きる、これが聖書の人間理解であります。聖書的な人間像であります。

そうであればあらためて考えたいと思います。ここで主が霊の貧しさ、霊の貧しい者と仰ったのは、どう言う意味なのでしょうか。先程、神と交わる部分が霊であると申しました。しかも、その部分は神によってつくっていただく、与えていただく以外にないものであることは創世記の記事から学びました。つまり、主イエス・キリストは、この霊の貧しさを認める者の幸いを仰ったのであります。即ち、自分の中に、「まったく」神と交わる霊が枯渇してしまっている、無くしてしまっているということを知っている者の事であります。そうであれば当然、それは100パーセント神によって注いで頂き、満たして頂く以外にないと言うことを認めていると言うことであります。このような人間理解は、どうして起こったのでしょうか。何が人間にこのような霊の貧しさの現実を知らしめるのでしょうか。それは、イエス・キリスト、主イエス・キリストを知ったからであります。主イエス・キリストを信じたからであります。信じて救われたからにほかなりません。

逆に申しますと、主イエス・キリストの救いを受ける以前は、自分は豊かであると思い上がっていたお互いではなかったでしょうか。その豊かさとは、一方で、物質的な豊かさということであるかもしれません。あるいは、心の豊かさと言うことかもしれません。人それぞれに違いがあると思います。ある人は、いわゆる心が貧しい自分、つまり、人を赦し、受け入れ、愛することが出来ない自分、そのような自分の心の小さな、貧しさ、汚さに悩んで、物はなくとも心だけは豊かに生きてゆきたい、そのためにキリスト教の信仰が心を豊かにしてくれるのではないかと考えて求道を始める方も少なくありません。その意味で自分の心の貧しさをなんとか克服したいと考える人は未信者の方々の中におられます。そこから、聖書の救い、信仰を求める方もいるわけです。

しかし、どのようにまじめに、誠実に生きてきたと自負する求道者の方であっても、主イエス・キリストを信じ救われる以前に共通している心の状態があるのです。それは、何でしょうか。それは、どんなに悲惨になってもなお、神なしで生きれるという奢りたかぶりの心です。何も神を信じ、神さまに従わなくても、人として、人間らしく生きれるはずだと、たかをくくり、傲慢になって過ごせるという事です。「困った時の神頼み」はしないわけではないけれど、それでも心底から神に寄り頼んでいるわけではないのではないでしょうか。困ったとき、絶対的に神に寄り頼むことも実はしていない、自分に寄り頼みつつ、それだけでは不安なので、足らないので、神仏にすがるという心構えなのではないでしょうか。

ところがそのような者であっても、かつても私どものことですが、聖書を学び、イエス・キリストを知ることによって、自分自身の中に、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストを宿す能力がまったくない事に心の目が開かれるようになるのです。そこでこそ、神から悔い改めの心を与えて頂くことができるのです。「悔い改めなさい」と招かれる主イエスのお招きを真実に感謝し、受け入れ始めるのです。そして、遂には、「自分は、霊が欠乏しています。少ないのではありません。全くないのです。わたしは神さま、あなた様の御前に、まったくの乞食、ただ与えていただく以外にない者です。わたしが持っている何ものも、あなたの御前に誇れる物はなく、通用する物もありません。わたしは、あなたに憐れんでいただく以外に、生きて行けない人間です。」このように、神の御前に認め、告白し、そして神の霊を求める以外にない者であることを言い表すことができる者としていただけるのです。

これこそが、私共キリスト者に与えられた救い、恵みに他なりません。キリスト者とは、誰でしょうか。どう言う人なのでしょうか。この主の御言葉から申せば、イエス・キリストなしに生きれない人々です。イエス・キリストに満たして頂かなければ、聖霊を注いで頂かなければ人間として生きれない者であることを、喜んで認めている者、それがキリスト者であります。

そして、まさに、そのような霊の貧しい人々に保証されている、約束されているのが、天の国の幸いにほかなりません。天の国とはイエス・キリストが御支配くださる場所、領域のことであります。主イエス・キリストなしに、生きることができない私共を、主は今、まさに、ご自身の生命を豊かに注ぎ、溢れさせてくださいます。天の国の本体そのものでありたもうご自身を、よりすがり、求めてくるものに惜しまずに、あふれるほどお与えくださるのです。

主イエスがそのように具体的にあふれ、ゆすりいれるようにして私どものよくして下さる姿を私どもは見出すことができます。それが、神の教会、イエス・キリストの御体なる教会です。教会において、主イエスは今、主ご自身、神を求める者を豊かに生かしていてくださいます。主は今、この教会に私共を呼び集めてくださいました。ここで主イエス・キリストとその教会と共に生きる道を開き、与えてくださっています。それはとりもなおさず、イエス・キリストと一緒に生きる幸いです。これは、やがてのこと、未来のことではありません。今朝まさに、主イエス・キリストから、「あなたがたは幸いでしょう。なぜなら、私はあなたとともにいるのだから。あなたは私の生命に与り、私の生命に溢れて地上を旅する人達なのだから。これ以上に幸いな人達は他にいないのだよ。」そう宣言してくださいます。

先週の夜の祈祷会で、ヨハネの黙示録第3章14節-22節を読みました。この聖句を読み説くために、どうしても合わせて読むべきであると思ったのです。それは、主イエスが、ラオディキアの教会に宛てて告げられた手紙です。ラオディキアの教会、これは、アジア州にある7つの教会宛の手紙の中でもっとも厳しく主のお叱りを受け、激しく悔い改めを迫られた教会です。主イエスは、厳しく宣言されました。「わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。」口から吐き出す、主イエスの内側にある教会、主の一部分である教会が今、主イエスと関係のないものとなり下がる決定的な危機にあるのです。いったい何故そのような恐ろしく悲惨の状況に落ち込んでしまったのでしょうか。その理由は、この言葉に明らかにされています。「私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要なものはない。」

この教会は、ラオディキアは、薬の生産地であったと言われています。おそらく会員の中にも薬をつくって裕福であった人が少なくなかったのでしょう。つまり、主イエスが、「心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである。」と宣言されたこの祝福を、正面から否定しているからです。

この祝福を祝福と受け止めず、違う幸福、異質の、偽物の幸福、祝福で人生を据え、生きる目的を据え始めているからです。もしかすると、このように言い訳していたのかもしれません。「自分たちは、心において、霊においての貧しさに生きている。経済的に裕福であることは、悪いことなのか。そうではないはずだ。むしろ、神さまの祝福であって、むしろ、誇るべきことではないか。」
しかし、ルカによる福音書に記されている同じ説教では、主イエスのこの説教は、単に「貧しい人々は幸いである」とあります。心ではないのです。まさに貧しい人です。ある聖書の学者は、こう説明します。「マタイによる福音書では「心の貧しさ」と言っているが、当時の教会に既に、全財産を捧げて主に従う者ばかりではなく、自分の財産を持ったまま信仰生活をする信徒が増えていた。だから、マタイは主の言葉の衝撃を和らげるために、教会員に遠慮、配慮をするために、「心」という言葉を付け加えたのだ。」さらにこう言います。「教会は、マタイによる福音書以来、そのようにして、この主イエスの言葉の持っている厳しさ、激しさ、それがもたらす躓きを何とか、柔らかくしよう、低めようとしてきた。」本当にそうなのでしょうか。まったく的外れな解釈と思います。

ラオディキアのキリスト者たちは、今将に、決定的に主イエスに離れかかっているのです。つまり、それは、天の国から落ちかかっているということを意味します。彼らは、経済的な豊かさ、繁栄の中で、最初の弟子たち、ペトロやアンデレたちのように、一切を捨てて主イエスに従ったキリスト者の姿を、むしろ軽蔑している、それに比べて、今や、裕福に生きることのできるキリスト者と教会にまで成長した自分たちを誇りに思っていたのかもしれません。

そうであれば、それは、特に21世紀の教会、なによりも北半球にある諸教会とこのラオディキア教会とは、瓜二つなのではないかという反省が求められるのではないでしょうか。教会の頭なる主イエス・キリストは、厳しく、たたみかけるようにラオディキアの教会員に迫られます。「あなたがたは惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることがわかっていない。」

ここでは、最初に惨めなもの、悲惨な人々と言われています。実に、厳しい言葉であります。しかし、この「惨めさ」はキリスト者にとって決定的に大切な自己理解、自己認識であります。何よりも、惨めな者という言葉で私共が思い出すのは、使徒パウロがローマの信徒への手紙第7章24節ではないでしょうか。パウロは、自分の中に住み着いて、こびりついて離れない罪の力を認めて叫びました。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」その次に続く言葉はこうであります。「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」パウロは言います。私共キリスト者の救いとは、自分という人間が神の前に実に惨めな、悲惨な罪人であることを認めることと一つのことだと言うことをであります。

ハイデルベルク信仰問答は、問い二において、キリスト者が唯一の慰めを受けて生き死ぬことが出来るために、何を知るべきかと問います。答えは三つであります。第一が、「私の罪と私の悲惨」と数えます。自分が悲惨な罪人、神に審かれ、天の国から追放され、刑罰を受ける以外にない者だということであります。この惨めさが最も見えてくるのは、神の律法の光を受け、イエス・キリストの光に照らされるときであります。神を愛し、隣人を愛することが聖なる律法であります。イエス・キリストの律法であります。しかし、そこで自らの愛の惨めさを嘆く以外にないのではないでしょうか。自分自身がどれほど愛に貧しい者であるかを、嘆く以外にないのではないでしょうか。しかし、そこから、救いが始まるのも事実であります。そこからしか救いが始まらないのであります。自分が貧しいもの、神の前に正しいと認めていただいたり、人の前にも真実、誠実をつくせない者であることを認めるなら、そのことが分かるのなら、主がその後すぐに畳みかけて招かれるのであります。「そこで、あなたに勧める、裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うが良い。」誰から買うのでしょうか。主イエス・キリストからであります。幾らで売って頂けるのでしょうか。無料であります。恵みなのであります。一方的な賜物なのであります。下さいと願えば、誰でもただで、咎められることなく金を頂けるのであります。白い衣を頂けるのであります。全ては、天の国に入る入場券、チケットであります。私共は貧しいものなのであります。霊の貧しい者、神の御前に物乞いでしかないのであります。
それだけなら、何の価値も認められません。そこに価値があるわけではありません。悲惨な罪人ということなのですから。しかし、もしも、その自分の姿が見える、分かるなら、その時には、私共は主イエス・キリストにすがりつく以外にないでしょう。救ってください、赦してくださいと主の御許に逃げ込む以外にあり得ないでしょう。貧しい者の幸い、救いとは、求めれば、誰にでも無代価で、咎めることなく、惜しみなく与えてくださる神にのみ、イエス・キリストのみにあるのであります。主イエス・キリストはこのように恵みなしに生きれない私どもを喜んで受け入れてくださるのであります。「天の国はあなたのものだ、幸いな者よ」と宣言して下さるのであります。それは「見よ、私は戸口に立って、叩いている。だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。」と仰ってくださったことと同じ意味であります。

今、ご一緒にこの幸いを告げる主の言葉を聞きました。心貧しき者、霊において物乞いである者であることを、私共は、心から認めます。それを誇ることはできません。それを嘆く以外にありません。しかし、嘆くだけで終わってもならないのであります。私どもは、ただ主イエスの十字架を信じるのであります。主イエスが、傲慢な神さまなしでも生きれる、人生は完成できる、死んだ後も過ごせると高をくくって生きてきた私共、信じていてもなお、主に徹底してよりすがろうとしない私共罪人の代表となって洗礼を受け、私どもの身代りに十字架について神の刑罰を受けて下さった主イエスを信じるのです。そして、父なる神がその御子キリストをお甦りさせてくださった愛と憐みを信じるのです。命をかけて贖ってくださったイエスさまが今、悔い改めへと導き返して下さり、貧しい者、心貧しい者としてくださったのです。そのおかげで、今、天の国が、ここで始まっていることを味わわせて下さるのです。

先日、礼拝式の前の祈りのときに、ある方が「私たちの心を空っぽにしてください。」と祈られました。本当にそうだと思いました。かつて、全体研修会で礼拝式の捧げ方について学んだことがあります。そこで、私どもは、礼拝前に、さまざまな思い、あるいは患い、この世の重荷で心が占領されているかもしれない、だからこそ、礼拝の前に、この世のもので占領され、いっぱいになっているがらくた、すべての思いや悩みや課題なども、外に投げ捨てることが必要なのではないかと学んだのです。

私どもの心の中には、今なお、「自分」がいっぱいであるということです。自分の予定、自分の計画が、自分の問題が心にいっぱいであるわけです。だからこそ、それに抗って、神に求めるのです。「どうぞ、わたしの心の中から、それらを追い出して下さい。空っぽにしてください」と。今朝のみ言葉で申しますと、そこでこそ、まさに貧しくされた自分を受け入れるのです。そして、今朝、その貧しき私どもに、主イエスが主、すべてとなって下さることを、その真実のお約束を受け入れるのであります。信じるゆえに、空っぽの心に、あふれるほど聖霊を注いでいただくのです。注がれるのです。そこに天国の祝福が溢れ、その祝福がゆるぎなきものとされるのです。聖霊に満たされて、イエス・キリストと共に生き、主イエス・キリストのために生きるのです。貧しい者であることを自覚させていただいた故に、キリストに満たされ、聖霊に満たされ、神の支配に与るものとされた自分自身を喜ぶのであります。救いを喜び感謝するのであります。

心貧しき者、貧しき者の幸いに生きること、それは、神に満たされ、そして与えられた物を、自分だけで用いるのではなく、これをお互いに分かち合って生きる新しい生き方、天国の生き方、経済生活を今、ここで始めることです。たとい、あのいにしえの弟子たちのように全財産を放棄することは適わなくとも、献げる豊かさに生きたいと思います。それが、地上にあって天国を保証され、すでに天国に生きる者の姿なのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私共は貧しい者であります。それを主イエス・キリストが教えて下さいました。主イエス・キリストを知る以前は、貧しさを知りませんでした。神なく生きることの恐ろしさ悲惨を知らず認めませんでした。しかし、今、主イエス・キリストを知る者とされ、自分自身が惨めな罪人、霊において欠乏している者であることを知らされました。しかも、そのような私共に主イエスが「あなたは幸いなのだ、なぜなら、わたしがあなたを満たすことができるし、満たすからだ」と告げ、十字架と復活とをもってこれを実現して下さいました。心から感謝致します。どうぞ、この貧しさを忘れて、あなたなしで生きれるかのように傲慢になったり、うぬぼれたりすることがありませんように、お守りください。これからも天の国の幸いの中で、生きそして死ぬ者とならせて下さい。アーメン。