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 「憐れみ深い者の幸い」 

  「憐れみ深い者の幸い」  
                         2009年5月3日
      聖書朗読 マタイによる福音書 第18章21節-35節
      テキスト マタイによる福音書 第5章1~6節
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」
「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」

既に「八福の教え」の説教を開始して6回目になります。本日は、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」主イエスが山の上で弟子たちを見つめながら、語られた八つの幸いの言葉の、第5番目の言葉を学びます。最初に、この幸いの説教に共通して語られている真理を、整理して確認することも大切であるかと思います。主イエスが繰り返し明らかにされ、訴えられたことを、鮮明にして、しっかりと弁えておきたいと思います。

先ず、ここに描き出された幸いとこの幸いに生きる人とは、いったい誰のことなのかということです。言うまでもなく、第一にそれは、主キリストの弟子たちのことです。主イエスの御目に映る彼らの姿、それが、心貧しく、悲しんでいて、義に飢え渇き、柔和な者として映っていたのです。しかもそれは、2000年前の彼らだけのことでは決してなくて、今日のキリスト者、私どもの姿でもあるということです。この幸いに生きる人の姿とは、神の民であるキリスト者の姿に他なりません。

もう一つのことは、この八つの幸いとは、ひとりのキリスト者が、この八つの内の何か一つ、あるいは二つを持っているということではないということです。主イエスがここで描き出された八つの幸福とは、一人のキリスト者に与えられている八つの姿なのです。幸福に生きる人間には、この八つの側面が伴うということです。

心の貧しい人は、悲しむ人となり、悲しむ人は柔和な人となり、柔和な人は、義に飢え渇く人となり、義に飢え渇く人は、憐れみ深い人となる。そして、憐み深い人は、心の清い人であり、彼は、平和を実現し、義のために迫害されるこのように、続いて行くわけです。

第三のこと、何よりも弁えておくべきは、この八つの実りの全ては、イエスさまがもっておられるご性質、存在の姿に他ならないということです。いへ、イエスさまこそがただお一人、この八つの一つ一つの完成品、完全な体現者なのです。だからこそ、このイエスさまと信仰によって結びあわされた人、先ほどのたとえで申しますと、主イエス・キリストに貫かれた人は、少しずつですが、この八つの実りの芽が出、やがて成熟させられ花開き、結実させていただけるのです。

つまり第四のこととしては、これらの幸福は、一方的な恵みの賜物であるということです。彼らが、そのようなすばらしい人間であるから、それらを条件にして、幸福が与えられるということではまったくなく、ただ神の恵みによる実りであるということなのです。

これらの四つのことを何かにたとえてみますと、これはおかしいたとえかもしれませんが、串で刺したおでんとか焼き鳥です。そこでの串になるのは、主イエス・キリストです。このお方が、私どもを刺し貫くのです。私どもの背骨、私どもの存在の柱となる、キリスト御自身がわたしをバックボーンとなって、わたしを支える、わたしをキリスト者として下さるのです。ただ、キリストのお恵み、救いの恵みの故です。そのときにはそこに、神の与えて下さる幸福な姿が現れ出るというわけです。それが、キリスト者の八つの姿であるというわけです。その八つの内の一つ一つの姿は、主イエス・キリストを信じて救われた者、串であるキリストに貫かれた者が、不思議なことですが実らせられるものなのです。おでんとか焼き鳥のたとえにすれば、それは具です。串で刺されたのですから、一つ一つの味わいは異なりますが、八つの具は、ひとつのおでんです。

さらにおかしな例えで恐縮ですが、たとえば牛肉の部位にサーロイン、ロース、ヒレがあるようなものです。キリスト者の存在がここに示されています。これらの事々を押さえる事が、実に、この「八福の教え」を福音として読み解く鍵であり、この福音のメッセージのポイントはまさにそこにあるのであります。
さて、それなら、当然この「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」もこのポイントから解釈しなければ、意味が通じないはずであります。

これまで学んでまいりました、「心の貧しい人々の幸い」や、「悲しんでいる人々の幸い」などは、一読して、常識をはるかにこえた教え、驚き、衝撃を与えるものでありましょう。しかし、今朝の五番目の言葉以降から、もしかするとそのような衝撃、驚きはやわらいでしまうように読めるのではないでしょうか。

「情けは人の為ならず」という諺があります。「人に親切に優しくしてあげると、やがて自分自身に返ってくることになる。だから、出来るかぎり、他人に情け深く接すれば、自分のためになる。」と言うことです。憐れみ深く人に接することのできるような心優しい人、愛の人は、自分もまた優しく接してもらえるだろうと言う考え方は多くの人々が抱いておられる考えではないでしょうか。しかし、この主の御言葉をそのようなことわざの理解、常識として解釈することは出来ません。全く的外れであります。これは、主の言葉であります。主イエス・キリストが全身全霊を傾け、生命を掛けて語っておられる言葉なのであります。そもそも、単に常識的な言葉ではないはずであります。

私共は、呑気にこのみ言葉を聞けません。きちんと、自分に問うべきです。はたしてわたしは、情け深い人間なのかどうかです。実は、最近、若い人々の間では、先程の諺を、まったく逆の意味に解釈されることが多いのだと聞きました。つまり、「他人に情けをかけるとつけあがる。甘えた人間にしてしまうから、むしろ、情けをかけるとその人のためにならないのだ。」こう言うのであります。これは、社会の風潮ともかかわって来ているのかもしれません。しかし、そもそも、そのようなことをあれこれ言う前に、そもそも我々は、情け深い者ではないということを、認めることが大切であります。そもそも我々の真実の姿は、実は、とても冷たい人間なのだということを認めるところからしか、ここでの主イエスの言葉の意味やその幸いを正しく聞き取ることはできないと思います。

あるひとりの戦場での体験を持っている方が、新聞でこのようなことを書いていました。「戦場に行けば、人間の教養も修養も何の役にも立たない。皆、獣のようになるのに、時間は掛からない。」これは実に重い言葉であります。そのような体験を持っていない我々には、言葉をはさむ余地がないように思えます。しかし、その方が今思い出しても、そのように言わざるを得ない人間の現実の姿については、私も十分に想像できるのです。自分の生命がかかるまさに緊急の時に、人の為に憐れみをかけていたのでは生き延びれない、そのように思いに心が傾くわけです。ですから、人と人とが殺し合う戦場に立った時、獣のようになるという言葉に説得力があるのです。

つまり普段の余裕のある生活の中でという限定ではなく、いついかなる時でも、憐れみ深く生きるということは、実は、生身の人間にとって、たやすいことなどでは決してないのです。たとえば、我々は美しい物語を読んだり、悲しい映画を観たり致しますと、涙を流します。しかしもしも、自分も結構これで心優しい人間だ、憐れみの心を持っているのではないかと、考えるのであれば、それは自分を欺いたことになるのではないでしょうか。自分自身について誤解してはならないと思います。どれほど物語の世界、スクリーンの中の出来事に涙を流しても、憐れみ深い人間であり、憐れみに生きたことにはなりません。憐れみに生きる、憐み深く生きるとは、悲惨な状況に置かれたその人に、自分の心を震わせ、それだけではなく実際に自分の体や時間や財産を用いることです。自分を痛ませて相手を助けることです。そう考えると直ちに、それがどれほど、難しいことであるのかが分かります。よく考えてみますと、自分の最も近く共に生きる伴侶や家族、子どもにすら憐れみ深く係わることは、簡単なことではないように思うのです。

さて、しかしであります。問題は、主イエス・キリストはほかならないそのような私共に、このように宣言なさるのです。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」繰り返して申しますが、「憐れみ深い人々」とは他ならない私共の事です。主は実にこう、仰います。「あなた方のなかで憐れみ深くない人はいません。あなたがたは皆、憐れみ深く生きていますね。」このように、断言されてしまうとき、私共はそわそわし始めて、いったいどうしたら良いのだろうか、穴があったら入りたい、隠れてしまいたい、そのような恥ずかしさを覚えるのが、真実ではないでしょうか。

実は、聖書の中で、「憐れみ深い」と言う言葉が記されているのは、この箇所とあとは、もう一か所だけなのです。その一か所とは、ヘブライ人への手紙第2章17節であります。こうあります。「それでイエスは神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償う為にすべての点において、兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです。」ここで明らかに示されている真理は、憐れみ深いお方とは主イエスご自身に他ならないと言う事です。主イエス・キリストこそ憐れみ深いお方なのだと明らかにしているわけです。憐れみ深いお方であればこそ、私共の兄弟となってくださったのです。そのためにまず人間となってくださったのです。しかも人間となって、私たちの立場、わたしたちの悲劇、苦悩をつぶさに見て、なによりも御自身こそ、私どもにはるかにまさって、はるかにまさって苦しみと試練、そして誘惑をなめてくださったのです。

同じヘブライ人への手紙第4章15節はこう記しています。「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったがあらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」つまり「憐れみ深い」人とは、誰のことを意味するのか、現わしているのかというと本来、このようなお方、つまりイエスさまだけが当てはまるのです。主イエスだけが真実に、言葉の正しい意味で100パーセント「憐れみ深い人」と呼びうるのです。

先程、我々は、小説や映画で涙を流すことで、「ああ、自分の中にも憐れみの心、優しい心があるな」と思い上がってはならないと申しました。主イエスは、天から私共の惨めな、悲惨な姿をご覧になって美しい涙を流された、というのではなかったのであります。そうではなく、天の御位をお捨てになって、自ら人間となり、私共の兄弟となり、私共の罪を償うためにその肉体、その尊いお命を十字架でお捨てになってくださったのであります。私共は、涙を流した所で、自分を憐れみ深い人間と直ぐに誤解してはならないと思います。手を汚すことなく、自分が犠牲になることを引き受けずに、かわいそうと思うだけなら、主が仰っるような「憐れみ深い人」とは無縁なのであります。その意味でこそ、正に主イエスこそ、主イエス・キリストのみ、言葉の正しい意味で憐れみ深いお方なのであります。

ところが、ここでも、このお方が、憐みの心貧しい私共に向かって、「あなた方のなかで憐れみ深くない人はいません。あなたがたは皆、憐れみ深く生きていますね。」と宣言なさるのです。いよいよ、いたたまれないような気すら致します。

しかし、そこでこそなお踏みとどまって、改めて問わなければならないと思います。何故、主イエス・キリストはこう仰っるのでしょうか。何故、それほどまでに憐れみにこだわりなさるのでしょうか。

そのことを考えたときに、私は、マタイによる福音書の中で、主イエスが、一つの旧約聖書の御言葉を重ねて引用していることに気づきました。最初は、第9章13節であります。これは、著者のマタイを弟子に召しだした記事であります。収税所に座っていた徴税人、つまり天下の罪人と後ろ指を指されていたマタイと、主イエスが一緒に食事をなさった出来事であります。それを見ていたファリサイ派の人々は主イエスの行為を批判しました。そこで、有名な言葉が語られました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」そこで、主が『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』と言う、これはホセア書第6章6節を引用して語られたのであります。主は、ここではっきりと主張なさいます。わたしが、つまり「神が求めるのは、憐れみの心である。」憐みの心を、「愛の心」といっても構いません。つまり、神を愛するその愛の心を求めるとはどう言うことなのか、それをファリサイ派の人々にも気づいて欲しいのです。それは、病人、死に至る病である、罪にそまっている人間が、その罪を赦され、神に立ち返るそれこそ、神が喜ばれ、望まれることなのであります。いけにえを捧げておけば後は神を忘れてしまうような形ばかりの宗教では、神の憐れみに生きることにはならないのであります。それでは、その人本人が神の憐れみを受け損なってしまうのであります。

もう一か所の引用は、第12章6節であります。ここでは、弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいる、つまり、安息日には労働をしてはならないという掟を弟子たちが破っていることへの非難がファリサイ派から、投げかけられた記事であります。そこでも主は仰っいました。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』これは、安息日を形ばかり守って、それで信仰に生きていると思い違いをしていたファリサイ派の人々への痛烈な批判であります。

実に、マタイによる福音書は、神の憐れみを強調するのであります。それは、主イエス・キリストが憐れみを強調なさることと同じことであります。つまり、主イエスこそは、憐れみの神でありたもうこと、憐みの神御自身に他ならないことを、強調したいためです。なぜなら、私どもが、信仰の生活を健やかに生きるために、私共の神がどれほど、憐れみに富んでおられるのか、憐れみ深い神でいらっしゃるかを知ることがどうしても必要だからです。このことをとことん知ることがなければ、骨の髄までしみ通るように知る、刺し貫かれるように知ることがなければ、正しく信仰に生きること、教会の交わりをつくることができないからです。

ですから、マタイによる福音書は、第18章で一つの譬え話を記します。この譬えは、マタイだけが記したものなのです。主イエスが、ペトロの問いに主が答える形でなされたものです。「主よ、兄弟がわたしにたいして罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」主の答えは、こうです。「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい。」そこで、譬え話がなされます。一万タラントンの借金をしている家来を、憐れに思った主君が彼を赦し、借金のすべてを帳消しにします。ところが、その家来が、たったの100デナリオンの借金を返していない仲間に出会って、家来は、借金を返すまで牢にいれたのです。これを聞いた主君は怒り、この家来を牢に入れたのであります。その時の主君の言葉はこうでした。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」ここに、主イエス・キリストの深いお心が現れ出ております。これは何も、借金の返済を多めに見てあげたらよい、というような教訓ではありません。借金とは、罪の事なのであります。主君とは神、この一万タラントンの借金を抱えているのは、罪人たる我々のことに他なりません。そして、主はこの自分では何をどうしようとも決して支払えない負債を免除していただいた私共に、これからはどのような生き方がまっているのかを示してみせてくださったのであります。主イエスは、ペトロに、「これほどの赦しにあずかって、憐れみ深く生きる以外に生きようがないだろう、だから、私は言う、あなた方は憐れみ深い人々、それ以外の人は、私の弟子のなかにいるわけがないだろう、わたしがどれほどの犠牲を支払って、あなたの罪を帳消しにしたのか。そうであれば、あなたも私の憐れみ、神の憐れみを受けて生かされている者らしく、憐れみに生きなさい。その時には、ますます、憐れみを受ける幸いを味わうことになる」と仰っるのです。

先程のヘブライ人への手紙第4章15節-16節「だから憐れみを受け、恵にあずかって、時宜にかなった助けを頂くために大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」と言っています。このようなまさに真の憐れみ深い主であれば、私共は憐れみを受けることができるのであります。大胆に、神に近づけるし、祈れるし、7度の70倍でも繰り返して赦しを受けられるのであります。そのように赦されるのであれば、私共も隣人に対して、おそらくほんのわずかでしょうが、この憐れみを反映する生き方をする以外にあり得ないし、神の憐れみを映し出す生き方は、少しづつ始まるのであります。

最後に、「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」と宣言された主イエス・キリストこそ、この憐れみを私共に与えるために、ご自身がこの憐れみを造りだしたお方であることを確認致しましょう。ホセア書第6章6節の引用は『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』と言う訳であります。しかし、私共が旧約聖書を開いてみますと、そこにはこうなっています。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく」口語訳では「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない」新改訳のほうでは、「わたしは誠実を喜び」となっています。これはもともとの言葉、ヘブライ語では、「ヘセド」と言います。旧約聖書の信仰にとって決定的に重要な言葉となっております。この言葉は、契約の愛、正義、真実、このように訳すことができます。ギリシャ語の憐れみの方は、人間の心の中の動き、いわゆる我々の日常使う意味の憐れみなのですが、ヘセドとは神の私共への契約に基づく御心、神が神らしく私共に心を向けてくださるということであります。

この幸いの言葉の直前は、義に飢え渇く人々の幸いでありました。義に飢え渇かれたのは、人間ではなく、神ご自身、キリストご自身であられます。実に、愛とは、神の愛とは、神の義と別別のものではないのです。「ヘセド」のなかには、神の愛と神の義とが混じり合っていて、これを二つに分けることは出来ないのです。しかし人間は、違います。人間の世界では、義とか、正しさを損なってでも、憐れみを掛けてあげること、それこそ憐れみ深い人になるのであります。日本では特に、法律的に杓子定規に善悪を判断するような人は、憐れみの心から遠いと言われるのであります。しかし、神の憐れみは違います。神は正義なのであります。神の正義は、罪を見逃されません。神の愛は罪を理由なく帳消しにしてしまうようなものではないのであります。そうしてしまうならば、正義がなり立たなくなるからです。そこにこそ、イエス・キリストの十字架が立たなければならない、必然性があります。どうしても、そこでイエス・キリストの十字架が必要となるのであります。十字架とは、私共の罪を赦す為に、神が立たせた木であります。そこで、私共の罪が徹底的に罰せられたのです。罪のない御子イエス・キリストが、人となられ、兄弟となってくださったのです。そして、十字架の上で神の正義の審判を身代りにお受けになられたのです。私どもが受けるべき罪の刑罰は、罪なき主イエスの流された御血によって帳消しにされたのです。

しかも主イエス・キリストは、死んでそれきっり終わってしまったのではありません。誰よりも、父なる神からのあふれるほどの憐れみをお受けになったのです。その証拠こそ、ご復活です。「憐れみ深い人は幸いである、その人は憐れみを受ける」とのご自身の言葉を、誰よりも最も鮮やかに証言なさった、見本となられたのも、実に、主イエス・キリストに他ならないのです。

この十字架の下に立つのが私共キリスト者であります。そうであれば、十字架を仰いでいるかぎり、どうして、憐れみに生きないで信仰の歩みを造れるのか、主イエス・キリストが仰ったのはそこです。私共は既に、この憐れみの王様、憐れみのチャンピオンによって、憐れみを溢れるほど、限りないほど受けているのであります。その目に見える証拠が、聖餐の礼典に他なりません。聖餐にあずかるなら、私共も憐れみに生きる以外にないのです。確かに現実には、隣人の痛み、悲しみ、苦しみに実に鈍感な私共の姿があります。しかし、そこでこそ、心から「主よ、憐れんで下さい。キリストよ、憐れんで下さい」と祈ってよいのですし、祈るべきです。そしてその時には、私共も、たとい僅かであっても、すでに確かに憐れみに生きはじめているのです。

 祈祷
憐れみ深い主イエス・キリスト、憐れみの父なる神よ。私共があなたからどれほど憐れみを受けているのか、私どもは、実に愚かにもしばしば、それを見失ってしまいます。そこで、私どもの罪の赦しのためになし遂げられた御子の十字架の愛を、そして父なる神よ、あなたの十字架の正義を忘れるからです。どうぞ、憐れんで下さい。私どもこそあなたのあふれる憐れみを受けている者らしく、心を隣人に開くことが出来ますように。憐れみに生きることができますように。自分の立場や幸福を守るだけ、自分の家族の繁栄を願うだけの閉ざされた心を、あなたへと、そして隣人へと開いてください。そのために、どれほどの罪を赦されたのか、どれほどの愛と犠牲を受けたのかを悟らせて下さい。そして、救いの喜びに富ましめてください。         アーメン。