過去の投稿2009年6月6日

5月31日

☆   先週は、一年に一度の名古屋地区四教会合同修養会が名古屋教会で開催されました。当教会からは、証者として○○姉が立てられ、20名あまりの仲間が出席しました。ご主人の救いを諦めていたとのこと。ご主人の救いの一つの契機となったのは、やはり、生まれたばかりのひかりちゃんのことでしょう。一年間、毎週祈祷会で、毎日、祈ってきた契約の子が、集中治療室へ。本当に、青ざめるような衝撃でした。家内と病室の外で、立ったまま祈ったことは忘れられません。また、加藤姉と明兄と、病室で祈ったことも忘れられません。しかし、それですぐに導かれたわけではなかったのでした。説教が、日本語とは思えなかった・・・、笑いが出ましたが、本当のことです。聖霊によらなければ、聖書も説教も分からないのです。先週、子どもカテキズムを遂に学び終えた、○○兄から、○兄が求道へと進まれる大きなきっかけは、家に説教原稿が置いてあったのを読んだこと、それが心に響いたから・・・と教えられました。人づてに(!)初めて伺いました。説教原稿が用いられたのです。教会の様々な文書が、家庭のなかに置かれていることも意味があるわけです。

★  他の証者のお話をも伺いながら、そこで共通していたのは、家族伝道は、伴侶・親・兄弟など、上から目線で説得することは、有効ではなく、むしろ避けなければならないということです。必死で祈りながら、しかし、家族は必ず救われと信じ、自分がキリストのものとされたことによって、家族もまた、すでに清められていると信じることが重要だということです。そして、自分以外の教会の仲間たち(牧師、会員)が、声をかけ、導くことが重要となることを思わされました。その点、私どもの教会の課題がなおあるかと思います。とりわけ、すでにクリスチャンホームとされた方々の責任をおもいます。教会という大きな神の家族皆で、それぞれの家族伝道を支援してまいりたいと思います。

☆  先週は、名古屋教会の受付に、「死刑減刑嘆願書」が置いてあり、驚かされました。おかげで、何人もの署名が得られました。さて、「死刑制度」について、これまで日本キリスト改革派教会として公式に態度を表明してこなかったかと思います。ローマ教会は、明確に死刑制度の廃止を主張します。これが、今日におけるキリスト教の基本的スタンス、スタンダードであると、私は確信しています。確かに旧約聖書には、律法による死刑、死罪の規定がありました。しかし、新約聖書にはありません。エゼキエル書第18章23節には、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」とあります。神の御心は、人間の死ではなく、命、生きることです。善悪の知識を食べた人間は、「即死」しませんでした。そこにも、神の、人間の命への慈しみ、惜しみがあります。御子のお命を犠牲にするほどまでに、人間の命は御前に尊いのです。ただし、キワメテ、大切なこと、大前提があります。それは、死刑制度への存廃が、キリスト者であるか否かを判定する基準には、決してならないということです。たとえば、教会役員は男性であるべきか、女性も許されているのかについて、日本キリスト改革派教会はなお議論を重ねています。「奴隷制度」についても、悲しい事ですが、2000年の歴史の中で、聖書からそれを支持したキリスト教会もあったのです。ただし、今日なお、奴隷制度を支持することは、この世に対する教会の社会的責任を果たす意味から、考えられない知的怠慢、霊的鈍感であると考えます。しかし、それでもなお、それをもって「キリスト者に非ず」と、つまり「アナテマ・滅び」を断定することは、差し控えるべきです。大切なことは、聖書の教えに、「先入観」を捨てて、聴き従おうとする態度です。そして、教会(教派・教団)の中で、よく議論することです。その際、議論とは、自分の主張を相手に説得することだけを目指すことでは決してありません。聖書と教理に聴き従う態度を決定した上で、仲間の主張の中に正しさを認めようとする開かれた心、つまり、教えられようとする心を持つこと、自分を絶対化しないことです。これらの基本姿勢は、キリスト教倫理の諸問題について応用されるべきです。教会の政治的発言などは、まさにこれが問われます。

★  今回も宿題の「裁判員制度」に、触れるスペースがなくなってしまいました。最大の問題は、選ばれた人は、基本は、辞退することができず、これに服さない者には罰則が科せられるということです。これは、徴兵制に近いのではないかと、危機感を持ちます。裁判権は、国家権力そのものです。国民主権であるから、国民が裁判員になることは、ふさわしいという議論は、確かに説得力があります。しかし、それを拒むことを違法とするなら、反対に、極めて危険ではないでしょうか。恥ずかしながらこれまで、何も考えていませんでした。しかし、今回の死刑囚との出会いを機に、もし私が選任されたら、辞退を、と思い始めています。