過去の投稿2009年6月27日

6月21日

★  本日は、中部中会一斉講壇交換として、全牧師が自分の遣わされた群れを離れ、説教奉仕に出張します。設立40周年以降の企ても、定着したきたことと思います。私自身、加入前に、「中会が教会である」という主張をして、その実質を獲得するためには、講壇交換とその後の教師による報告、評価が必要であると発言してまいりました。それは、はるか昔、日本キリスト教団の東海連合長老会の牧師会に出席させていただいた折、深い感銘を受けたからでした。そこでは、一斉講壇交換がなされていました。何よりも驚かされたのは、その後の牧師たちの教会についての意見交換です。牧師は、うっかりすると自分の教会の状況を他教会の牧師に知られることを避ける危険性があるからです。教会内に、問題がある場合は、なおさらです。しかし、信仰告白の一致と何より牧師相互の信頼に基づいて、このような「共同牧会」が可能となるのです。私どもの講壇交換は、「その後」は、ありません。課題があるでしょう。しかし、中部中会が一つの教会であり、牧師そして長老は、「中会」という25の諸教会伝道所の教会形成全体のための奉仕者であり、中会が私どもの「全体教会」であり、その交わりの中で、各個教会・伝道所がキリストの権威、つまり救いの権威の確かさを明らかにできるのです。ここに、長老主義教会の本質があります。

☆  昨夏、休暇の折、実は、桑名伝道所にまいりました。それは、桑名だけは、主日礼拝式に出席したことがなかったからです。今回は、講壇交換として伺います。加入前から講壇交換をしていますから、福井の金沢、三重の上野、岐阜の中津川、静岡の富士見と伝道説教や講壇交換で伺いました。中部圏の広い範囲に伝道がなされ、それぞれの地で、主の日の礼拝式が捧げられていること、私どもの牧会祈祷のたびに、中部中会、そして日本キリスト改革派教会全体のために、祝福を祈りますが、本日、その祈りがいよいよ身近なものとなり、リアルなものとなることを願います。

☆  来週は、「個人伝道」の学びです。半年余りになるでしょか、長く中断していました。牧師の職務は、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、」(エフェソの信徒への手紙第4章12節 新改訳聖書)とあります。「奉仕の働き」私どもの教会の数年来の目標である「ディアコニア・奉仕」へと整えて、教会を形成すること、これが、牧師の務めです。その意味では、学びを施すことが必須です。その意味では、牧師は、教会の教師なのです。しかし、その教師は、言葉の正しい意味での教師でなければなりません。つまり、教師自身が、その教えを生きているということです。伝道の課題。私どもはこれまで徹底的に共同体としての取り組みとして学び、実践してまいりました。これからも変わりがありませんが、しかし、個人として、愛する人、隣人に福音を証し、説くことは、キリスト者であれば、誰しもの責任であり、何よりも最高の光栄ある奉仕です。しかし、何をどうすればよいのか、個人のスキルを磨くための「訓練」を施すことがほとんどありませんでした。当初の学び会の構想から、半年経って、変化もあるのですが、しかし、開拓15年の今、もう、機は熟しています。一人ひとりが、生活の中で、人との出会いの中で、キリストを証するチャンスを祈り求め、そして神が与えて下さった機会をとらえ、福音を単純に提示することは、必要です。そのごく基本を皆さんと確認できればと思います。

★  先週の、役員修養会の主題は昨年に引き続いて「伝道」でした。昨年、福音主義神学会全国研究会議の主題も「伝道」で、わたしが応答したのは、「伝道の担い手」でした。伝道の担い手は、教会です。そして、教会は、信徒たちの交わりです。信徒が伝道の主体です。伝道は、教会の「存在理由」であると申しました。伝道しない教会は、伝道(奉仕)へと召されていないキリスト者は、言葉の矛盾です。神の国は、教会において始まっていますが、完成されていません。伝道しない教会は、自分たちが神の国になってしまっているか、もはや、神の国などないと言っているようなものです。私どもは、徹底的に罪人です。その罪は、徹底的に自己中心ということです。自分のことに関心を集中するのです。しかし、神は、その罪人の罪を赦し、その生き方において、神と隣人とへと自由にしてくださいました。伝道とは、徹底して、隣人へと関心を向けること。つまり、「究極の愛」に生きることです。聖化の歩みの中で、伝道は不可欠なのです。それは私どもの目標である、「ディコニアに生きる教会」の究極の姿に他なりません
☆  先週は一週間留守にし、本日は説教もできず、今週の朝の祈祷会も留守・・・。とても寂しいです。お祈りしています。本日、全員揃いますように!