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「地の塩、世の光」

「地の塩、世の光」
                 2009年7月5日
テキスト マタイによる福音書 第5章13~16節
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

主イエスは、「幸いなるかな、幸いなるかな」と八つの幸いの教えを、弟子たちに語られ、弟子たちを祝福されました。本当に笑顔で、喜びに満ちあふれて、宣言されました。弟子たちに与えられているその幸いとは、すべて天国にかかわるもの、神の国の祝福でした。

さて、今朝は、この教えの直後、第二番目の説教に移ります。主イエスは、ここで、天国の祝福、幸福に生かされている者たちの使命を明らかにされます。主イエスは、先週までの八福の教えを通して、キリスト者とは、言わば、天国を本籍としている人間であることを明らかにされました。そして、今ここで、そのキリスト者とはまた同時に、この地に派遣されている人間であることも明らかにされます。神の民であるキリスト者とは、天国の祝福をいっぱいに受けながら、天国を目指してこの地上を旅する民なのです。丁寧に申しますと、この地上に天国を拡大させ、進展させ、鮮やかに映し出しながら歩むことが、私ども神の民の使命なのです。

私たちキリスト者とは誰であるのか、何をする者なのか、神の民とはどのような人たちであって、何をする人たちなのか。このようなことをアイデンティティと申しますが、キリスト者のアイデンティティは、私どもが自分勝手に考えだし、決めることはできません。許されていません。教えていただく以外にないのです。神とその御言葉に示していただく以外にないのです。ですから、ここで、主イエスさまが、とても分かりやすい仕方で、私たちとは何者なのかを、教えて下さったのです。イエスさまが、私どもキリスト者をこのように定義して、宣言されたのです。「あなたがたは地の塩である。」そして、「あなたがたは世の光である。」

しかしもしかすると、私共はここでも、間違って聴きとってしまう危険性があるかと思うのです。「イエスさまは、そう仰いますが、それは、立派なお弟子さんたち、立派なキリスト者のことですよね。あなた方の中には、まさか、このわたしは含まれていませんよね。」このみ言葉にたじろいでしまって、他人事のように聞き流してしまう危険性です。そもそも、主イエスが、最初にこのみ言葉を語られた時、それこそ、12人の弟子たち一人ひとりとアイコンタクト、目を合わせて語られたのだと、私は想像します。弟子たちが、イエスさまを囲んで座り込んでいたとき、イエスさまもまた、一人ひとりを見つめながら、語ったのです。ヨハネはペトロの背中に隠れてしまうことはできなかったと思います。ただし、もしかすると心の中では、こう思ったかもしれません。「イエスさま、こんな年若い私は、地の塩、世の光だなんて、とてもではありませんが、荷が重すぎます。恥ずかしくて、たまりません。」

しかし、主ははっきりと「あなた方」と仰っいます。この「あなたがた」とは勿論、教会をさして仰った言葉であります。「教会は地の塩である。教会は世の光である。」ということであります。しかし同時に、その教会を構成しているのは他ならない私共一人一人のです。誰と置き換えることもできないかけがえのない私共一人一人のはずです。

先日、宮崎県知事が、自民党総裁候補になれるのなら、選挙に出ても良いと発言したことが、テレビニュースに何度も流されました。わたしは、「いきなり、すごいことを言ったものだ」と、思いました。しかし、主イエスがここで宣言されたのはわずか12人の弟子たちです。わたしは、むしろ、この言葉におののき、たじろがないでいるほうがどうかしているとさへ思います。地の塩、世の光、これは大変な表現、たとえだからです。塩は食物に、光はありとあらゆる生命に、いずれも不可欠のものです。「自民党の総裁、総理大臣」と「世界の光」とを比べて下さい。誰が考えても、世界の光である人間の方が、圧倒的に偉大でしょう。光のない世界、塩のない食べ物、それは、想像がつきません。なくてならないものです。つまり、主イエスは、ご自身が選ばれたわずか12人の弟子たちのことを、この世界に絶対に、なくてはならない存在であると宣言されたのです。まさに驚くべき言葉です。反対に、もしも、「この世界は私抜きでは成り立たないのだ、私がいなければ世界は滅びるのだ。」と、このように声を荒らげたら、それはどこかのカルト宗教、新興宗教の教祖でしょう。政治家であれば、まさに独裁者の出現と言うことになるでしょう。

それなら、何故、目の前に座る弟子たちにむかって「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」と仰ったのでしょうか。この主の宣言は何を意味しているのでしょうか。丁寧に考えてまいりましょう。

先ず、「あなたがたは地の塩である。」です。主イエスが私どもを塩になぞらえられたのですから、塩とは何かを確認しておきましょう。
第一に、塩には、腐敗を防止する作用があります。塩は、食物に振りかけられるものです。そして、その物を日持ちさせます。冷蔵庫のない時代、塩はその意味でも極めて貴重なものでした。サラリー、給料は、ソルト、塩から派生した言葉だそうです。これは、余談ですが、地の塩とは、とてもおもしろいたとえだと私は思います。いったい、実際に、地に塩をまくというようなことはあるのでしょうか。むかし、ローマ帝国が、カルタゴと言う町を侵入して、滅ぼした後、そこに塩をまいたのだそうです。それは、二度と、農作業ができないように、不毛の地にさせるためだと言われています。なるほど、塩の土地には、作物はそだたないでしょう。

話を元に戻しますが、つまり地とは、単にこの大地、地面のことを意味しているのではないことが分かります。教会が置かれている、地上の世界のことです。そして、聖書、創世記は告げます。この地上の世界は、人間の罪によって、まさに不毛の地になってしまった。それは、第3章のアダムの罪、何よりも、第4章のカインの殺人の罪です。12節に、「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。」とあります。この世界は、罪によって呪われたものとなり、汚染されました。腐敗したのです。その腐敗の臭い、腐臭はおぞましいものです。殺人ということ、ひとつを挙げれば、十分でしょう。この数十年間の間、世界は、何億という人たちが、人間の手で、人間同士で殺し合いました。また、人間の罪によって飢えて死んで行きました。そのような大地に、私ども教会が塩である。塩なのだと主イエスが教えてくださったのです。

もう一つの塩の効果は、食べ物の味を引き出すことです。この大地、今は、人間の罪によって汚染されています。人間は、本来の人間の姿を失いました。それは、21世紀、いよいよ加速しました。人間性が劣化しているのです。科学と技術は進歩しましたが、人間の理性、愛や優しさ、謙遜、その美しさは損なわれているのです。そうでなければ、先ほど申したようなことが起こるはずがありません。殺傷能力のある武器の発明だけでは片付きません。それを用いて、利益を上げる人たちの存在があるわけです。

しかし、聖書は、断じて言います。神は、この土地をよきものとして創造されたのです。本来は、善きものです。神が喜ばれた、満足された世界、大地なのです。美しい世界なのです。つまり、塩とは、この美しい世界、大地の味わいを取り戻し、引き立てることです。

そもそも神は、人間に地を治めることをお命じになられました。この世界に積極的に働きかけなさいという命令です。それが、労働であり文化です。人間のありとあらゆる営みです。そもそも、農業、工業、商業どんな労働も、神に感謝し、その栄光を求めるなら、善きものです。つまり、私どもが塩であるということは、私どもがなしている手の業、すべての働き、学生なら勉強、スポーツそれらに塩を混ぜるのです。勉強に塩を混ぜるなら、その勉強は、本来の意味、本来の味を取り戻すでしょう。それは、神に喜ばれるものとなるはずです。そしてそれは、自分にとっても、喜びとなるのです。仕事もそうです。本当は、本来は、仕事そのものが、私どもの喜びであり生きがいでありやりがいであるべきです。ところが、仕事の奴隷、それにしばられている現代人の姿があります。私ども自身が、その虜、罠に陥るのです。しかし、塩をまいて、すり込まなければなりません。つまり、神さまが本来、意図された祝福された姿に取り戻すことです。この世界を、本来の姿に、神さまへと取り返すのです。そのことによって、そこに生きる人間が幸いになるからです。

最後に塩は、自らは目立つべきものではありません。むしろ目立ってはいけないでしょう。私どもは、とりわけ教会の生活において、そのことを知らされます。確かに世の中では、自分を売り込む、自己アッピールすること、その能力が問われます。ところが、教会の生活を続けてまいりますと、おそらく気づくのです。決して目立たないけれども、この兄弟、この姉妹の存在と奉仕が、それを当り前のこととして、捧げて下さることによって、教会は建て上げられる、進み行くということです。確かに、そこにも自分との戦いがあります。その人の性格、気質のせいにすることはできません。誰だって、人に褒められ、評価されたいです。例外はないと思います。しかし、神に褒められること。神に喜ばれること、神のご栄光のために用いられることの喜びが、まさに天国の幸福がその人をそこでなお支えるのです。時に、不平をつぶやきたいときもあるかもしれません。しかし、それで、教会の益にならないのなら、言わない。それこそまさに、塩の働きの一つの例です。

さて次に、「あなたがたは世の光である。」光は、生命を支えます。光の効力について、いちいち、説明する必要もないかと思います。明るく照らす光です。ヨハネによる福音書は、この世界のことを闇と言い表します。だからこそ、そこで、主イエスのこの自己紹介が重みをますのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」暗闇は、死です。滅びです。イエスさまが共におられない世界は、暗闇であり、罪と死にそまった暗黒です。けれども、暗黒は、マッチ一本で、吹き飛びます。皆さんもご経験があるのではないでしょうか。本当に、暗い所では、人に鼻をつままれても分かりません。隣に誰がいるのか、何があるのかもわからない、それが暗闇です。しかし、ろうそくの火がわずかでもあれば、何とかなります。ですから、蝋燭の火は貴重です。

主イエスは、私どもの存在を、あの12人を世界の光と見て下さるのです。つまり、塩と光、これは、地と世がそう評価する言葉ではありません。この評価は、イエスさまの評価なのです。神の判断、評価なのです。その意味で、私どもが問われるのは、この神の評価、審判のみなのです。

日本の教会、キリスト者の人口は、今なお、国民の1%に満たないのです。先日、日本キリスト改革派教会の役員修養会で外部講師として招いた有名な方は、昔からこのような主張をなさいます。国家に対して、1%ではほとんど何の影響を示せるというのか。だから、10パーセントを目指そうというのです。しかし、わたしはそれに頷けません。確かに、人々が、「教会が世の光だと、偉そうに言うが、日本の教会のどこが光なのか。何が地の塩なのか。あなたがたにそんなよい影響力が日本の社会にあるのか」そのように、言われる事は良く分かります。このような世間の反応に対して、主は既に予告されました。この直前で教え諭して下さったとおり、教会の光、塩としての尊さを知らず、むしろ光を放てないように、塩をまき散らされないように教会に蓋をして消してしまおうという考え、義を押しつぶす、キリストを押し殺す行動に出るのであります。しかし、それは、教会にとって避けられませんし、むしろ幸いであることを学びました。
ですから、ここで根本的に問われますことは、世間の方々が教会をどう考えるのかということではないのです。問題は、私共キリスト者一人一人がキリストの教会を、キリスト者たる自分自身の重さと使命とをどこまで主の言葉に則して理解しているか、信じているか、まさにそこにあるのであります。

もう10年以上も昔の伝道新聞の巻頭メッセージのタイトルを、「あなたは日本一、あなたは世界一」としたことがあります。それは、人間ひとりひとりは、神に造られ、生命を与えられている、それは掛けがえのないものなのだということです。つまりあなたは日本でたった一人しかいないのです。あなたは、世界でたった一人しかいない人間なのです。そのような存在として、神はあなたを慈しんでおられ、愛しておられる、高価な尊い存在として見ておられる。そのようなメッセージでした。そのような意味で、日本一、世界一なのです。

このメッセージは、10年前でも今日でも、一人でも多くの人々に届けなければならないと信じます。そして、今日の主イエスの御言葉も、このメッセージに基づいて聞き取られなければなりません。あなたは、どれほど大切な存在なのか、主イエスは、地の塩、世の光と呼ばれたとき、掛け値なしに、必要不可欠の存在と断言し、説得されたのです。そうであれば、わたしどもは、この主の説得を心から受けいれたいのです。どれほど、価値のある、尊い存在なのか。造り主なる神ご自身にとってまさに、御子イエス・キリストの生命を十字架でお捨てになられても、私共を神の子として買い戻そうと判断なさるほど、神にとっても、この世界にとってもかけがえがないのです。神の愛の対象とされているのであります。

主イエスが、私どもを塩、光とご覧になられることは、もう一つのことを教えています。私たちがなした行為、奉仕が、結局、自分たちが褒められるためにする、それは、間違いなのだということです。主イエスは仰いました。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」塩と光の目標、目的は、この世界の人々が、私どもの天の父、天のお父さまをあがめる、礼拝する、感謝する、讃えるようになるためなのです。

最後に考えましょう。それでもなお、私どもが、地の塩、世の光であることに、たじろくかもしれないからです。既に、主イエスの自己紹介、ヨハネによる福音書第8章12節を聴きました。「わたしは世の光である。」を読みました。「世の光」それはまさに主イエス・キリストご自身についてこそ当てはまると申しました。自分で自分を世の光であると宣言することは、その意味でイエス・キリストのみに許されていることです。それなら、何故、教会とその教会をつくっている私共が世の光なのか。これまで八福の教えでも繰り返しましたが、あなたがたは今はまだそういう者ではないけれど、これからそうなると仰っておられるのではありません。なぜなら、主の御言葉は、私共の内側にある何かを根拠にして語られたものではないからであります。教会が、世界の中の光となるのは、ただ教会が光よりの光なるキリストを頭としているからなのであります。教会が、この光を浴びているからなのであります。

あなたがた!」と宣言されたとき、そのあなた方の中に、イエスさまはご一緒におられるのでしょうか。それとも、イエスさまなしのあなたがた、イエスさまがご不在の私どもなのでしょうか。いいえ違います。教会は、キリストの教会です。この礼拝式は、聖霊によって主イエス・キリストがご臨在しておられます。イエスさまが共におられるのです。そうでなければ、教会ではありあません。あなた方とは、イエスさまを含んでいるのです。その意味で、光のない教会、光を放たない教会などあるはずはないのです。逆に申しますと、光を失っている教会は既にキリストの教会ではないのであります。

おかしな言い方ですが、光を失った光は存在しません。もはや光ではありません。主イエスも仰っておられますが、塩気をうしなった塩はもはや塩ではありません。そして、そのような塩はあり得ないはずであります。塩と言い光と言い、それはすべて主キリストを意味しているのであります。教会がこの地の塩であり、この世界の光であるのは、教会がキリストと結ばれているからなのであります。教会がキリストを頭として戴いているからなのであります。
「子どもカテキズム」は、その問い一は、ウェストミンスターのカテキズムと、ほとんど同じです。

問1 私たちは何のために生きるのですか。
答 私たちが生きるのは、私たちの神さまを知り、神さまを喜び、神さまの栄光をあらわすためです。これが私たちの喜びです。
しかし、問い二は、違います。これは、これまでの様々なカテキズムと比べてもユニークなのです。

問2 どうしたらそうなりますか。
答 主イエス・キリストを信じて救われること、神さまの子どもとされることです。
私がそこで、何よりも強調したかったことは、たった一つのことです。キリスト者として生きるのは、人間として生きることは、イエスさまに救われることによる、ただ恵みによって救われるだけ、それ以上でもそれ以下でもないということです。これが福音なのです。地の塩になることも、世の光になることも、いわんや神の異なることなど、私どもの努力やがんばり、こころがけでなれるわけは、断じてありません。ただ、救われることです。イエスさまに救って頂くだけです。聖霊の恵みによってのみ、私どもは、塩として光として生きることができるし、自ら、励むこともできるのです。

私どもはニカヤ信条で、毎週、教会を信じると告白します。しかしそれは、いつでも「主にしてかつ命を与えたもう聖霊を信ず」つまり、聖霊なる神を信じるから、聖霊なる神によって生み出された教会を信じるということに他なりません。私どもが日本一、世界一であるのも、ただイエスさまを信じるからです。そのような認識が与えられるのは、信仰の恵みによるのです。

 私共は、自分たちの岩の上教会をどのように見ているのでしょうか。キリストが見ておられるように見ているのでしょうか。私共は、信じているのでしょうか。この教会のおかげで、この世が腐らないのだ、この世界が破滅しないのは、ここに私共が存在しているからだとそう信じているでしょうか。

私共の教会の名称は、「私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」このキリストのみ言葉に由来します。それは、ただ、イエスさまの決意によって、私どもの教会も存在を許されているのです。ですから、もしも私共が、主イエスから目を離せば、もはや岩の上教会ではなくなります。

私どもは、信じること、主イエスとこのみ言葉を信じることが求められているのです。そのとき、私どもは、地の中へもぐる。深くかかわることができる。世界の上に、目立つところに出かけることを恥としない。どんなに権力から、あるいは人の目から恰好悪くても、恥じない、ときに迫害すら受け止めることができるようになるのです。

私共は今キリストを信じ、心を清くされています。何よりも今、ここで神を見上げ、つまり、見ています、礼拝しています。それは、神様から見れば、神の光を浴びているということです。今、神を見ている私共は神の光を浴びております。エフェソの信徒への手紙は言います。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」光を浴びた者は光の子とされたのであります。神の子とされたのであります。自分で神の子になったのではありません。自分で光を放ったのではありません。光なる主イエス・キリストを信じることによって、主イエス・キリストと結ばれ、そのようにして、光を放つものとされたのであります。ですから御言葉は、続けて「光の子らしく歩みなさい。」と教え命じるのであります。光の子らしく歩むと言うことは、何よりも、この光を隠さずに、出来るかぎり大勢の人々に届くように生きることであります。端的に申しましょう。伝道することです。私共はたとえ蓋をされても、へこたれずに山の上にある町、山の上に置かれた町として生きてまいりましょう。神の栄光のため、それは即、この町の人々の救いと幸福のためなのです。

今、聖餐を祝います。塩もまた、塩味を失えば、何の役にも立ちません。捨てられるのです。私どもが塩であるのは、神のみ言葉、つまり塩味を持つイエスのみ言葉を聴いたから、受け入れたからに他なりません。聖餐の礼典は、その主イエスが定めて下さった目に見えるみ言葉です。信仰を持って味わうとき、塩である私どもの塩味はいよいよ利いたものとなります。主イエスは、そのようにして、地の塩として、私どもをここから遣わしてくださいます。

祈祷
 主イエス・キリストの父なる御神。あなたは、御子イエス・キリストを世界を照らし、私共に生命を与えるためにお与えくださいました。私共は光なるイエス・キリストを浴びて今、光の子とされました。世界の光とされました。恐れ多いあなたからの評価であります。しかし、そのあなたの評価は決して私共をうぬぼれさせたりいたしません。自分自身が光そのものではなく、光を浴びて光るものだからであります。しかも、この光は単に私共に生命を与えるばかりか、世界を救う為にあなたが御子によって照らしてくださったものなのであります。どうぞ、主イエス・キリストが仰ったように、世界に、何よりも私共で言えばこの地域に福音を伝える、伝道の業を担うことによって、主イエスの夢、主の意志を実現することを得させてください。私共に教会を正しく見る目、自分自身の使命を弁え、それを生きる力をお与えください。アーメン。