過去の投稿2009年8月1日

7月12日

★  今週の朝の祈祷会は、姉妹会として行われました。○○姉の初めての司会で、緊張なさった由。しかし、 カナンの女性(マタイによる福音書14章)の物語から、とてもよい学びができました。皆さんで、み言葉の恵みを分かち合うことによって、み言葉をいっそう深く聴きとり、生活に適応すること、そこに「み言葉の民」の醍醐味があります。最後に、○○姉妹が、「いのちのパンの食卓・・・」と祈られました。聖餐の食卓を祝った週だからこそ、「その通り」と思いました。 主イエスは、私どもを「小犬」としてではなく、「神の子」として聖餐の食卓にはべらせて下さいました。天国の祝福が注がれました。ここに私どもの救いと幸いがあります。 そこでこそ、私どもがただ恵みによってのみ、救われたことを忘れることはできません。「小犬」が神の子とされたのは、ただ主イエスのおかげ、恵みです。ただし、彼女は、冷たくされてもなお諦めないで、食らいつくように主イエスに、娘の癒しを願いました。ここには、なによりもキリスト者である私どもの信仰とその真剣さが問われていると思います。私どもの信仰もまた、彼女に負けず、主イエスにすがりつき、求め続けるものでありたいと改めて思わされます。

☆  先週の「報告」の欄に、名古屋拘置所訪問について記しました。牧師の「個人的奉仕」として記しました。しかし、そこでも記しましたが、そもそも牧師の個人的奉仕というものがあるのでしょうか。牧師の働きは、公的です。引退すれば、その限りではありません。しかし、それまでは、牧師の働きは、すべて教会の働きとしてなされるべきものです。すべてを小会の監督のもとになされるべきでしょう。伝道所はその限りではない・・・。これは、言い訳でしかないと思います。(ただし、教派によっては、そのような厳密性を求めない場合も少なくないと思います)しかし、現実の中には、すべては簡単に割り切れるものでもありません。

死刑囚との出会いは、わたしの中で、死刑制度否定について、もはや揺るぎなき確信となりました。(正直に申しますと、かつては、キリスト教倫理の教科書で学んだ通りの、理解でした・・・)「信徒の手引き」についても、きちんと書くつもりです。ちなみに、ローマ教会は、はるか昔に、公式声明を出しています。また、先日の新聞で、裁判員制度について、聖職者は辞退することを公的に表明しました。ただし、そこに問題があります。聖職者と一般信徒とを区別して、聖職者だけに限定するからです。ローマ教会の言わば二重倫理があります。牧師のさまざまな奉仕は、伝道所委員会において明らかにします。ただしそれが間に合わないときもあります。先日の委員会では、このことをきちんと議論しませんでした。予定表、週報以外にも牧師の働きがなされます。様々な委員会活動、浜松伝道所、大学、名古屋キリスト教社会館、これらは、すべて教会から派遣されて担っているのです。皆様の祈りなしには、よき実りを結べません。引き続きお祈りください。名古屋拘置所への訪問は、それらとまた意味合いが異なりますが、許される限り、時間と相談しながら継続を考えます。どうぞ、お祈りください。

★  「死刑囚の母となって」という7月刊行の最新刊を読みました。死刑確定囚との面談は、親族しか認められていません。一人の牧師夫人が死刑囚を養子にしたのです。その文章を読みながら、さまざまなことを考えさせられました。愛や優しさ、良心や善悪・・・。これらは、教育の課題です。確かにそうです。しかし、教育は、単に知識の伝達では不可能なのです。そこに、「教師」の存在が必須です。パソコンで、勉強を訓練することは十分可能です。衛星放送やネットを利用して、講義を中継して、講義することも今では簡単で、有効、有益です。しかし、人間を生かす真理、それは、生きた人間にしか教えられ、伝えられません。そこに、教師の存在の重さが浮かび上がります。わたしの知る彼もまた、人間的な優しさ、家庭の喜びをほとんど知らないまま過ごされました。しかし、一人のキリスト者の「愛」と出会って、神の愛を知り、信じられたのです。そのためには、どうしても具体的な「愛」を味わう必要がありました。人間(人格)との出会いなしに、伝わらない、理解できない真理、それこそが、人間にとって本質的に必要な知識です。そして、その究極こそが、生ける主イエス・キリストに他なりません。このお方を、地の塩、世の光としての存在で証すること。私どもの責任です。

☆  早いもので、来週は、子どもの教会のキャンプです。今年は、雀のお宿。久し振りです。しかも、恵那教会の兄弟姉妹と合同してのキャンプです。良き交わりとなりますように。何よりも、子どもたちにとっての楽しい時となりますように。年々、子どもの出席者が減少していることは、残念でなりません。皆さんで、どのように地域の子どもたちのために、福音を、イエスさまを紹介できるか知恵をしぼりたいと思います。