過去の投稿2009年8月1日

7月19日

★  本日は、子どもの教会(日曜学校)キャンプです。数年前より、この日の主日だけは、キャンプの出発礼拝式の意味も込めて、1時間早く、しかも説教もキャンプの主題に即して語ります。かつてのように大勢の 子どもたちで、てんてこまい、ということにならなくなっているのは、やはり、祈りの課題としたいと思います。今回も、楽しいキャンプ、霊的なキャンプとなりますように!

☆  祈祷会では、「信徒の手引き」の草稿を読んでいます。現代社会のさまざまな問題を扱う章を担当しています。丁寧に説明し始めれば、到底、ページ数が足りません。ですから、いつも舌足らずです。
先週、国会で、脳死は一律に人の死とする臓器移植改正法が成立してしまいました。直ちに、「日本宗教連盟」、さらに生命倫理に関係する大学教員の集いも、抗議を公にしました。異例の事です。日本キリスト改革派教会は、コメントしていません。下記、私論をしたためましたので、ご参考まで。祈祷会で、ご意見を!

★  -キリスト教倫理から見る「脳死」- 人間の命は、神からの賜物であるというのが、キリスト教、聖書の基本的考えです。人間は、ひとりひとり、神の形にかたどって、似せられて、神さまの霊、つまり神の永遠の命が吹き入れられて人間として造られた、霊的な存在です。目に見える部分だけで人間の存在が成り立っているのではありません。   「WHO」は、これまで健康の定義として、肉体的、精神的、社会的福祉の三つの領域がまったくダイナミックな状態にあることとしてきました。しかし、98年に、新しい領域が加えられました。それは、霊的(spiritual)な領域です。つまり、人間は、「心と体と魂」というキリスト教的な人間の理解に近づいていると考えられると思います。

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、あなたがすべての面で恵まれ、健康であるようにと祈っています。」(ヨハネの手紙Ⅲ1:2)魂は、神と交わりを持つ場所です。神の霊を受ける場所です。健康とは、魂が神の愛で満たされていることが必要なのです。「それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロの手紙Ⅰ1:9)人間にとって魂の救いが究極的に重要です。「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。」(ヘブライの信徒への手紙13:17)監督や長老たちは、信徒の魂の世話、配慮をします。これは、古代のギリシャの哲学者たち(ソクラテス)以来の伝統です。それは、人間の全体的な健康にとって不可欠だからです。というように、明らかに、人間の生命とは、「脳死」イコール死とはならないはずです。

☆  - 「脳死」を人の死とすることによる危険性-  臓器移植は、臓器移植を希望する人(レシピエント)、臓器を提供する人(ドナー)、両者を仲介し、医療を施す人(医師)の三者の関係によって成立します。この三者の関係が良好で、お互いに納得していれば、第三者がアレコレ言わないで欲しい。このような議論は、 はたして正当なのでしょうか。それは、神さまを抜きにした議論、正義や真理を抜きにした議論です。たとえば、援助交際をする女子学生、それを求める男性、それを媒介する業者がいます。お互いに、了解していれば、それは、許されるのでしょうか。確かに、人間の正しい良心や真理、あるいはキリスト教で言えば十戒の倫理を否定するなら、成り立つでしょう。臓器移植を望む人たちには、脳死を一律に人の死とする法律は、待ち焦がれていた法律かもしれません。しかし、当事者の利益だけで定めて善いのでしょうか。
人間の命は、神の賜物です。人間は、動いている心臓を無理に止めること、人間に死を与える権利、権威を本当はもっていないのです。主イエスは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。  むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)と言われました。確かに、 権力や法律は、体を殺すかもしれません。しかし、人間を殺すことは、神の像を壊すことであり、神の計り知れない愛を否定し、神御自身を殺すようなことであると思います。科学、医療技術の発展をそのまま、受け入れ、利用することは、人間の欲望の果てしない追及、充足をそのまま肯定する危険性を抱えています。

★  -「脳死」を人の死として認める例外-   最後に、ぎりぎりの例外についても、記して終わりたいと思います。自分の臓器、なにより心臓を提供することが、隣人を生かすことに繋がる場合、それは、本人の意思に基づいて提供するのであれば、「隣人愛」という「キリストの律法」から、許されていると思います。主イエスが、罪人のために命を与えて下さったことが、根拠です。また、「尊厳死」(安楽死ではない)の場合も、本人の意思表示があれば、ギリギリの例外として、人工呼吸器を外すことも許されると思います。

結  私たちの責任は、ますます「いのち」の尊厳を見失っている社会の中で、塩、光として機能することです。