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「仲良く生きる方法」

「仲良く生きる方法」
                 2009年8月2日
テキスト マタイによる福音書 第5章21~26節
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

主イエス・キリストの山の上での説教を聴きながら、礼拝式を捧げています。今朝のみ言葉もまた、一回聞いたら忘れられない深い印象を与えるものではないかと思います。なぜなら、自分の胸に手を当てて、自分の兄弟、家族、あるいは自分の子どもに「ばか」とか「ばかだなあ」、「愚か者」とか「頭が悪い」「考えが足りない」そう咄嗟に口走ったことのない方は、いったいいらっしゃるかどうか、おそらくいらっしゃらないと思うからです。もしかしたら口癖のように、言ってしまうことすらありえるかもしれません。そのとき、わたしどもは、ほんの軽い気持ちで言っているに過ぎませんと弁解するかもしれません。
 ところが、主イエスは、そんな私どもの弁解をさえぎるかのように、他ではほとんど用いない表現、究極的な表現を用いられたのです。「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」はっきり、地獄とおっしゃいました。火の地獄です。つまり、神の究極の裁き、審判の激烈さをもって、私どもに、事の重大さを気づかせようとしておられます。私どもは、今朝、このみ言葉の前に静まりたいと思います。立ち止まりたいのです。どんなにつらくても、立ち止まらなければなりません。結論から言えば、私どもは、この主イエスの激しく厳しいみ言葉の恵みを一生涯、心に刻んでいただく以外にないのです。格闘しなければならないでしょう。ここに、私どもの生活の問題、課題の急所が鮮やかにしめされているからです。

さて、主イエスはまず、こう語られます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。」「あなたは殺してはならない。」これは、十戒の第六戒です。当時のユダヤ人の基本中の基本の掟です。

最初から少し横道にそれるかもしれませんが、「人間を殺してはならない」この掟は、現代の日本と世界にとって、おそらく最も大切な戒めであろうと思います。単に、キリスト教の教え、旧約聖書の教え、掟としてはなりません。全人類共通、普遍の掟としなければなりません。さて、ここで、人間を殺したものは、裁きを受けるとあります。それは、レビ記第24章17節に記されています。人を打ち殺した者は、死刑に処せられるとあります。殺人の裁きとは、死刑です。ただし、丁寧にお話する暇がありませんが、少し触れておきたいと思います。旧約聖書によれば、神は、すべて死刑に相当する犯罪を犯した人に、一律に死刑を執行することを許容されません。実は、「逃れの町」という制度も神は、整えられました。それは、殺人を犯した者が指定された逃れの町で暮らすなら、その人を殺してはならないという掟です。民数記第35章に細かく規定されています。いずれにしろ、人を殺してはならないという神の掟の中に、どれほど、神が人間の命を慈しみ、重んじておられるかを見ます。だからこそ、人間同士お互いに、命を重んじなければならないかを、明らかにしているのです。

さて、このようなユダヤ人の常識を踏まえて、主イエス・キリストはさらにおどろくべき言葉を宣言されます。「しかし、わたしは言っておく。」この言い方の中に、まさに、先回の説教で学びました、イエスさまこそが、旧約聖書を完成させる権威をお持ちであられるという説教の響きが轟いています。旧約聖書を完成するイエスの権威あるお姿がはっきりと現れ出ています。
そして、これを踏まえてこう続きます。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
 
もしかすると、私どもは、イエスさまがここで、「人を殺した人は、これまで死刑とされてきたが、もはや、死刑制度は不必要である」と、そう仰るなら、私どもは理解しやすいのではないかと思います。先進諸国のなかで、日本とアメリカのある州だけが、死刑制度を持っている国となっているからです。

ところが、主イエスが宣言されたのは、こうです。「兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
ここで示されているのは、肉体の生命が奪われる次元だけではないのです。実に、永遠の生命が取り上げられるというのです。しかも、それは、わたしどもが、ただ人に腹を立てること、ただ兄弟に腹を立てること、愚か者と言っただけで、火の地獄に投げ入れられるというのです。つまり、それらもまた、人殺しと同じ罪であると主イエスは、宣言されたのです。

そうなると、私どもの心の中に、このような思いが湧くのではないでしょう丘。「イエスさま、いくらなんでも、それは、言いすぎではありませんか。あまりにも乱暴で、極論に過ぎませんか。」我々は、もしかすると、何の罪もない人を次々と殺して行ったテロリスト、無差別に殺人を犯した事件のニュースを聞いたりする時、そんな人間などは、殺されても仕方がないと、仕方がないではく、死刑にされて当然のことであると、怒りに燃えて考えるところがあるのではないでしょうか。そのような心の動きを、認めざるを得ないのではないでしょうか。ところが、主イエスは、そのような私どもに向かって、それなら、あなたも死刑が相当の人間ではないのかと、主は、真剣に問われるのです。

実は、このマタイによる福音書の古い写本の中には、「兄弟に腹を立てる者は」の前に、「理由なくして」を挿入する写本があると言われます。それは、おそらくこの主イエスのみ言葉が、あまりにも私たちの常識と異なっているからだと思います。

先週、一人のローマカトリックの司祭の学者、とても誠実で、やさしそうな神父さんが、ご自分の一つのエピソードを語られました。講義の前に、自分がきちんと挨拶していのに、学生たちがそれを無視したとき、本当に怒ってしまうとおっしゃいました。自分にとって、挨拶する、これこそ、人間と人間を最初に結ぶ絆と考えているから、譲れないことですとおっしゃいました。まったくその通りだと思います。昨年のことですが、実はわたしも、まったく同じ経験を致しました。講義に先立って、私語をすることが、どれほど教師の人格を無視することになるのか、気付いてほしいと訴えました。そのとき、やはり怒っているわけです。その神父さんが偉いと思ったのは、その怒りも又、自分の課題であるとも言えると仰ったことです。

人のしたこと、言ったこと、それに腹を立てる。それには、理由があるはずです。逆切れなどといういやな言葉がありますが、そのようなこととは違って、正当な怒りがあるのではないか、多くの人々がそう考える。だからこそ、聖書の言葉を写して記録した人たちの中で、意識的にか、無意識でか分かりませんが、「理由なく」と付け加えたのかもしれません。しかし、それは、明らかに間違いなのです。

今こそ、私どもは深く、静かに考えましょう。確かに私どもが人に対して怒るとき、そこには、理由があるわけです。逆切れでさへ理由があると思います。「確かに、自分の方が悪いと分かっている、けれども、そこまで言うのは、言いすぎではないか、言いすぎたあなたの方が、悪いではないか」これも、一つの理由、理屈でしょう。日本語には、屁理屈という言葉があります。これは、まさにこのような私たちの姿を写し取る言葉ではないかと思います。つまり、私たちの怒りには、何であれ、理屈、理由があるということです。反対に、理屈がなければ、激しく怒れないのです。そしてその理屈、理由は、その人にとっての正義なのです。自分に正義があると信じているわけです。

いささか古い話題かもしれませんが、ひとりの日本の大臣が「正義」「正義」と連呼していました。自分に正義がある、正義が通らないのはおかしいと主張しました。また、あるタレントの不祥事に、「最低の人間」と言い放ったそうです。これらはまだ小さなことかもしれませんが、何よりも、正義の戦争を主張した大統領のことは、世界史の中で恐ろしいほどに悲惨な出来事を刻んだと思います。

さて、ここで少し丁寧にここでの主イエスの御言葉を学びましょう。「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」腹を立てるというのは、まだ、心の中での状況です。ところが、すでにそれだけで裁きを受けると言われました。つまり、先ほどの旧約聖書でいえば、すでに殺している、だから、裁かれるというわけです。次に、「兄弟に『ばか』と言う者」これは、心の中だけで押しとどめられずに、口に出た状態です。ここでの馬鹿者を「能なし」訳した聖書があります。それは、「最低の人間」「人間の屑」「良いものが何もない人間」という意味です。最後の、「愚か者」これは、宗教的な次元の人間評価です。まさに、ユダヤ人的な究極の、最悪の人間を意味します。それは、神の前に価値のない者、神に捨てられた人間、呪われた人間という意味なのです。だんだんと、罪の重さが増してくる、それに従って、それを裁く場所も、地方裁判所から高等裁判所、最高裁判所というように段階的に上がってくるニュアンスがあります。

しかし、本質的なことは、「腹を立てる」という言わば、最初の段階で、我々は、私どもは殺人者として、神の前には、見られているということを、主は、お伝えになられるのです。口に出ていないからまだ良いではないか、そう言いたいところですが、しかし、主イエスは、「わたしは言う」と宣言されます。それに対して、我々が、私どもが「そんなのは、厳しすぎる!」そう反発を御承知の上で仰ったに違いないのです。確かに多くの人たちは、これは極論に過ぎると批判するかもしれません。もっと分かる言葉で、誰にもなるほどと受け入れやすい表現で語られた方がよろしいのではないでしょうか。ご忠告する思いを持つかもしれません。

しかし私どもは、ここで主イエスは、まさに命をかけて、命をはって語っておられることに心を寄せてみたいのです。そうでなければ、ここでみ言葉の深い次元を、見ることはできないからです。いったいなぜ、主イエスは、これほどまで厳しく私どもの罪を責められるのでしょうか。イエスさまの説教は、私どもの隠された、暗闇の部分を切り開いて、明らかにされます。本当は、それを怖がる必要はないのです。光を照らすために、明らかにするものだからです。

最後に、この説教において見えてくる、語られているメッセージ、真理を整理してまとめてみたいと思います。

それは、第一に、私どもが自分の怒りを正当化する過ちを認めさせるためです。正義の怒りとは、ほとんど自分にとっての正義であることでしかないということを気付かせるためです。私どもの怒りは、いつでも正義がある、正当性があると考えています。それが、理にかなっている、当然だと思うわけです。主イエスは、この後、十字架につけられました。それは、リンチではありません。裁判によります。裁判に基づくということは、国家とか社会全体の法律に基づく、あるいは社会正義に基づくということが建前でしょう。その正義によって、神の御子、救い主が殺される。何よりも問題になると思われるのは、最初からイエスを殺害しようと心に定めていた宗教指導者たち、律法学者や祭司長たちではなく、むしろ、直前までホサナと神を賛美し、イエスさまを大歓迎していたユダヤの群衆たちです。彼らは、イエスさまがローマの軍隊に捕えられ、何も反抗しなかった姿に驚き、失望しました。どんな奇跡でも、望むままに実現されたイエスさまのお姿は、そこになく、自分たちは、このイエスに裏切られたのだと思いました。一挙に考えを反転して、自分たちが信じ、考えていたメシア、救い主などではない、騙されたのだとしました。そして、「十字架につけろ、十字架につけろ」と死刑を求めて叫びました。言わば、逆切れです。信じた自分が悪かったかもしれない、しかし、見事に騙されたと思ったのでしょう。それは、自己正当化でしかない。

私どもは、人に腹を立てるとき、それは、自分の論理でしか考えない。そこで、自分にとって、憎い人、許せない人が現れるとまさに怒る。そのとき、私どもはすでにその人の存在を殺すことに加担しているのです。実際に、私どもの心の中に、自分の敵である人が、いつも自分を貶める人が、何かの不幸にあったとき、かわいそうにと心が動くか、もしかすると・・・。主イエスさまは、それゆえに、神さまの前では、人殺しと同じことであると宣言されたのです。「わたしは言う。」これは、旧約聖書の言葉、神の言葉の権威と同等、それ以上の権威を持っているという宣言です。旧約を完成するイエスさまの言葉です。わたしは言う。神に裁かれる。この恐るべき言葉によって、私どもの怒りが、正義が正しいものかどうか、どれほど慎重にしてもしきれないほどのものであることがわかるのではないでしょうか。

第二に、神の正義とは、私どもの社会の中で広く考えられている正義とは、異なっている、もっと豊かで広いものだということです。私どもの神は、正義の神です。義なる神です。しかし私たちが用いる正義のニュアンスと聖書を読んでだんだん気づく正義、義という言葉の持つ響き、ニュアンスは違います。「正義感が強い人」これは、確かに褒め言葉かもしれません。しかし、同時に、近寄りがたいとか、しゃくし定規にしか物を考えないとか、一人よがりというイメージもまた伴うのではないでしょうか。しかし、聖書の正義、神の正義とは、本当に悪い人、不正を働く人、その人を拒絶するのではなく、むしろその人の真ん中に出かけて行って、その人を神の正義のなかに取り戻すようなものです。正義漢の強い律法学者、ファリサイ派の人たちは特に、イエスさまが徴税人ザアカイの家に泊まった時、激しく非難しました。「あの人は、罪人の友となった。仲間になった」と言って軽蔑しました。しかし、イエスさまは、まさに正義の人ですが、罪人の友とはなられました。決して、罪には染まりませんが、彼らと距離を置きません。ここに聖書が示す正義があります。イエスさまの正義、神の正義とは、自分と異なる考えを持つ人を拒絶しない。排他的でない。むしろ、その人たちと出会いながら、神の正義へと引きづり込むような力です。

まさに、私どもキリスト者とは、イエスさまの正義によってのみ救われた、そのようなお互いのはずです。ここにいる誰一人として自分が正しい人間、自分が立派な人間であるから、救われた人はいません。イエスさまの義が、あるがままの私どもに近付いてくださったのです。そして、私どもの友となって、私どもを愛し、救いへと神の義へとつなげて下さったのです。

私どもは決して忘れてはなりません。主イエスが、十字架につけられるとき、ほとんどすべての人たちから、「お前は、神に呪われている」と言われました。「神に呪われているから、聖書に書かれているとおり、木にはりつけられている。神にとってお前は価値がない人間、この世界にとってお前は生きる価値がない人間である」と断罪されました。つい一日前までは、あなたこそ、わたしたちの王様、救い主とエルサレムの町の人々は熱狂しながら、イエスさまを迎え入れました。ところが、自分たちの期待とは違ったと判定したとき、手のひらを返されて、価値のない人間と言ったのです。馬鹿者よりもっと強く愚か者と言われたわけです。

イエスさまであれば、まさにそこで怒る正当な理由があります。怒って当然です。いったいなぜ、イエスさまは、あの十字架の上でそんな愚かで、罪深い人々に憤らないのでしょうか。なぜ、むしろ、神に訴えられ、彼らは自分で何をしているのか分からないので、あのようなことを言っているのですから、お赦しくださいと祈られるのでしょうか。それが、神の義だからです。そこにのみ、私どもの救いがあるからです。もしも、神の義が、わたしどものように正しい理由があるから、怒ってよいというのであれば、ここにいる私どもの全員は、神の正しい裁き、腹を立て、馬鹿者、愚か者と言う私どもを裁いても当然です。しかし、それをされなかったから、私どもは、罪を赦されました。贖われました。そのことを、ここで鮮やかに思うのです。思うべきなのです。

最後に、主イエスが、私どもの罪を赦して下さったという驚くべきみ業、そのメッセージがここから静かに、しかし深く、豊かに響き渡っていることを聴き取りましょう。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」私は、誰よりもこのみ言葉の真理に驚かなければならないと思います。なぜなら、わたしの主要な責任は、この礼拝式を司ることにいあるかです。主の日の礼拝司式の司式をし、説教する。これが、わたしの本務だからです。私は、皆さんに、どんなことよりも、礼拝こそが、すべてのすべて、人生の目的、意味そのものと、存在をかけて証します。それが、牧師とか神父とかの存在の中心的意義です。ところが、主イエスは、こともあろうに、主の日の礼拝式を捧げる前に、兄弟と仲直りすることを優先せよと仰っておられるからです。隣人と仲良くする、仲直りする、和解する、これ以上に大切なこと、優先すべきことはあるかと問われたのです。もとより、それは、神との礼拝を抜きにして、イエスさまを抜きにして、成り立ちません。ところが、私どもは、礼拝を隠れ蓑にしながら、実際の生活では、福音を裏切ることがあるのではないでしょうか。つまり、神さまの方を優先して、時間をとっているから、隣人の問題は、二番目にしてもよいという、現実から逃げている姿です。

主イエスは、実にそこまで、私どもの心を切り開いて、私どもの自己中心、独りよがりの正義の問題の恐ろしさを、私どもに突きつけて下さいます。それなら、私どもは、どうすればよいのでしょうか。私どもの罪を認め、主イエスに赦しを求める以外にありません。本当に、私どもこそ、殺されなければならない、火の地獄に投げ込まれて当然なのです。ところが、その地獄へと投げ落とされたのは、他ならない罪のないイエスさまでした。

私どもは、独りよがりの正義漢に陥りやすい、怒りやすい人間です。その罪を真実に認めて、主よ憐れんで下さいと、謙りながら、歩む以外にあるでしょうか。

現代世界は、人間の究極の怒りも正義も、それを行使なさる権威者は、ただ神にのみあることを忘れ去っています。だから戦争も、紛争も、さまざまな人間の問題がやむことはありません。しかし、キリスト者たちが、福音を生き始めるとき、それを生活の現場で始めるとき、世界は変わり、動くでしょう。そしてその拠点こそが、教会であることは、私どもの確信するところです。神の正義が、私たちの救い、その正義によって赦された私たちもまた、怒りから赦しへ、そして仲直りすることへと、生きている限り、呼び返され続けるのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたのみ言葉の光に照らされて、私どもは、剣や銃によってではなく、しかしいったい何人の人たちを殺して来たのかを思います。あなたの御前に、恐れおののいています。悪いのは、私ではない、そう言って、罪深い私どもの現実から逃げて来ました。信仰さへ、礼拝さへ隠れ蓑にしてしますその罪と弱さをお許しください。赦された者として、新しい一週間を新しい思いで、この罪との戦い、愛する戦いへと解き放って下さい。ただ聖霊なる神の力だけが、私どもの唯一の拠り所です。御霊を注いで下さい。主イエス・キリストとの深い交わりのなかにとどめて下さい。争いのあるところに平和をつくりだし、和解をもたらす神の子として、私どもをお用い下さい。アーメン