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「神の御顔に照らされる幸い」

「神の御顔に照らされる幸い」
                 2009年9月20日
テキスト マタイによる福音書 第6章1~4節
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」

   

先日、夏の休暇をいただいて韓国の教会、中部中会と宣教協力関係にある東釜山老会に属する二つの教会の礼拝式で説教させていただきました。その一つの教会の牧師は、明日の50周年信徒大会の折にも問安してくださる金聖福牧師です。金先生の牧会される教会は、私ども中部中会全体の現住陪餐会員より多いのです。数百人の教会が、先生の伝道牧会の二十数年で1000人を越えておられるわけです。今、新しい土地を取得し5階建の大きな教会堂を建築しておられます。韓国の状況と私どもの状況とを、単純に比較できません。しかし、ひとりの日本人伝道者として、真剣に問うべきことがあると思います。韓国、高神派の牧師たちの信仰の姿勢は、私ども日本人牧師のそれとは、ずいぶん違うと、まことに反省を強いられます。しかし、その一方で、まったく恥知らずで僭越ですが、そこまでも違いが生じるものかとも思うのです。私ども日本人伝道者は、これほど働いているのに、これほどしかその実りがないのかと嘆くときがないわけではないのです。そのような人間的な誘惑を知らない牧師は、いないと思うのです。

さて、本日から、第6章に入ります。今朝読みましたのは、第4節までですが、これは、18節までひとくくりで語ることもできる個所です。主イエスはここで、三つの信仰の行為について、取り上げられました。今朝読んだ「施し」。次に、5節から15節までの「祈り」。そして18節までの「断食」です。これらは、当時のユダヤ人が考えていた信仰の実践、信仰に生きる生活の要となるものでした。そして、主イエスの説教の結論は、三つとも同じです。「そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」つまり、三つの説教は、一つの結論、一つのメッセージへと要約できると思います。「神さまは、隠れたことを見ておられる。その隠れた奉仕に必ず報いてくださる」という真理です。

主イエスは先ず、こう仰います。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」しかし、これを文字通りに実行することはできるのでしょうか。私たちが、人の見ている前で善い行いをしない、他人がまったく気付かないところでのみ善行をするという可能性は、果たしてありうるのでしょうか。たとえば皆が、まだ起きていないところで、町内の清掃をする。名前をまったく明かさずに、福祉施設に寄付をする。お金を投げ込む。確かに、それは、不可能ではありません。しかし、とても難しいことでしょう。

何よりも、そこで自分が、たとい他人に知られずとも、自分自身が、「ああ、善い行いをしたのだ」という満足感、達成感を味わうことはあるのではないでしょうか。確かにこの個所では、「人の前で」とあります。つまり他人の前です。ところが、主イエスはそこでとどまらないのです。こうも仰います。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」そうなると、この満足感、自分でよいことをしたのだという意識を持つことすら、否定されているということになります。ただし、いったい、「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」これを文字通りに解釈することはできるのでしょうか。できません。そのような脳の働きは、あり得ないのではないかと思います。

それなら、主イエス・キリストは、一切の報いを否定してしまわれるのでしょうか。それも違います。まったく違います。

讃美歌566番に、「報いをのぞまで人に与えよ。こは主のとうとき、みむねならずや」という詩があります。信仰者、キリスト者は、人からの報いを期待しないで、自分に与えられたものを人に施そうと言うのです。いったいどうしたら、そのようなことが可能になるのでしょうか。一回や二回ではなく、常にそれを続けることは、どうやったらできるのでしょうか。

先週、テレビ番組で、わたしも尊敬する水谷修という方、夜回り先生として有名な方の原作をドラマ化したものが放映されました。わたしも観ました。ドラマのなかで、覚せい剤を使用する子の母親から、報いを求めないで人助けをするなんて、そんな人は信用できないと言われます。しかし、夜回り先生は、あるシーンで、「自分には、報いがあるのだ」と言いました。それは、青少年たちの笑顔だと言うのです。大人を信じないで、反抗的な眼差しの子どもたちが、しかしやがて心を開いてくれたときに見せてくれるその笑顔、それこそが、自分の働きを支えるものなのだと仰いました。

なるほどと思いました。それは、本当に大きな報いだと思いました。だから、ずっと続けていられるのだと思いました。報いをまったく求めないで、善い行いをしよう、これは、あり得ないことだと思います。

たとえば私どもが仕事をしていて、もしも、ただ給料だけが自分の報いである、しかもその給料は、ただ自分のためだけに使うと言うのであれば、そのとき、本当に、充実した人生を生きることはできないのではないかと思います。つまり、自分の仕事が誰かの役に立っている、誰かの笑顔に結びついている、誰かを幸福にすることに一役買っている、そのイメージが描けず、手ごたえのまったくない仕事は、一日も早く辞めたいと思うような、悲しむべき労働でしょう。仕事においても、報酬を求めることは、給与を求めることは当然です。そればかりか、そのお金を誰かに施すときにも、そこから報いを求めることは当然ではないかと思います。

「報いをのぞまで人に与えよ。」とは、まったく何も報いを期待しないようにして、人に施せと言うのでしょうか。違うと思います。主イエスは、そうは仰っていません。主イエスは、むしろその逆のことを主張されたのです。主イエスは、報いを求める信仰を語られているのです。報酬を信じる信仰です。それならいったい、その報酬、その報いとは何でしょうか。

そこで、先ず主イエスが仰った1節の「人の前で」ということに着目したいのです。この「人の前で」という言葉に対応するのは、何でしょうか。それは、天の父です。天の父なる神のことです。つまり、「人の前で」に対応する言葉は、「神の御前で」ということです。改革派教会の信仰の姿勢をあらわすモットーの大切な一つに、「Coram Deo!コーラム・デオ」というラテン語があります。神の御前で生きるということです。つまり、ここでは、神の御顔の前で、報いを頂くこと、これが、これだけが、私どもの信仰の行いの目的、目標なのだと、主イエスは私どもを教えさとされるのです。繰り返しますが、この三回の説教の結論は、「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さる。」これです。主イエスが、どれほど真剣に、熱心に、天のお父さまが、報いてくださるのだから、この報いを期待し、この父の報いを望みなさいと招かれていることかと思います。ここでは、神とおっしゃらすに父と仰ることのなかにもそれがあらわれています。ですから、反対に、もしも、人の前での評価を求めるなら、もはやこの最高の、究極の報いを頂くことはできないと言われたのです。戒められたのです。

あらためて、問います。信仰とは何でしょうか。神を信じることです。それは、目に見えない神を信じることです。信仰を漢字で書きますとは信という文字に仰ぐという文字です。信じて仰ぎ見るということです。これは、信仰についての聖書のメッセージの大切な真理を明らかにする表現であると思います。つまり、信仰とは、見ること、仰ぎ見ることだというのです。しかし、言うまでもなく、真の神は、目に見える存在ではありません。目に見えるように人間がこしらえたすべてのものは、偶像です。神とは関わりがありません。信仰とは、目に見えない神を、見ることなのです。

それだけに、もし私どもが、神がどこにいらっしゃるのかがわからなくなる、もし私どもが、共にいてくださる神さまの事実が見えなくなってしまえば、私どもの信仰は、干からびて来ます。信仰の喜びや確信は、弱まります。それが続けば、危機に瀕してしまいます。ですから、私どもは、毎日、御言葉を読んで、祈って、神を仰ぎ見るのです。祈りの中で、神を父とお呼びして、私どもは、自分が神の御前で生きていること、生かされていることを毎日、確認させていただくのです。そして、今朝、主の日に、神の民が神の御前に勢ぞろいして、共に仰ぎ見ることによって、信じて救われて歩むキリスト者の喜びは頂点に達するわけです。つまり、主イエスは、この三つの説教を通して、まさに私どもの信仰、その生活のもっとも大切な部分に光を照らそうとなさっておられるのです。

神は、見えません。そして私どもの信仰もまた、肉眼では見えません。しかし、信仰は必ず生活を造ります。生活を造りださない信仰は、真のものではありません。絵に描いた餅、アクセサリーです。単なる心の支えでしかありません。聖書の信仰、キリスト教信仰は、私どもの全存在に関わることです。どのような家庭を築くのか、社会生活を営むのか、私どもの生活のすべての部分が、神さまの愛と恵みを受けるのですから、すべての部分で、神さまの栄光をあらわすことができるわけです。

つまり、目に見えない信仰は、その生活ぶりで明らかになる、それは、否定できない姿です。そして、それは、きわめて大切なことです。その意味で、主イエスは、信仰が施しにいたること、行いを伴うことを当然のこととされていることは明らかです。「施しなどどうでもよいのだ」などと、主イエスは仰いません。むしろ、信仰に生きるということは、自分に与えられたその恵みを分かち合うことだと、仰るのです。それは、私どもの信仰をはかるものなのです。つまり、信仰に生きる者は、自分のものを隣人と分け合って生きる者のことだと言ってもまったく言い過ぎではないのです。祈らないキリスト者はいません。信じることは祈ることですから、祈らない人は、キリスト者ではありえないのです。それと同じように、献金しないキリスト者もまたいないということが、ここで明らかにされるでしょう。自分のためだけに生きる人は、キリスト者、神の恵みを受けていないということになってしまうからです。つまり、信仰に生きる者にとって、施しは、当然のこと、常識なのです。

しかし、だからこそ、主イエスは、そこにメスを入れられます。なぜならば、その当然のことの中にこそ、私どもの弱さ、罪が混入するからなのです。入り込む。混ざってしまうからです。主イエスは、それをよく御存じなのです。それならいったい、その罪とは、何でしょうか。その罪は、どこから来るものなのでしょうか。

私どもは先週、「完全な者となりなさい。」との主イエスの言葉を聴きました。その直後に、この説教を聴いています。完全な者、それをここであてはめるならどういうことになるのでしょうか。それは、隠れたことを見ておられる父なる神を見失わないということです。神の眼差し、神の御顔の光を浴びているということです。神の御前に立つということです。神の御前で生きるということ、そのことです。それだけなのです。完全な人間とは、天の父の前で、その報いを受ける人ということです。これを、徹底して信じる人、これを徹底して期待する人、それが完全な人間なのです。

1996年、アトランタオリンピックの女子マラソンで、銅メダリストになった有森裕子さんというランナーがいました。その方は、レース終了後のインタビューで、「自分で自分をほめる」と言いました。自分で自分のことをほめてあげたい、よくやったということです。その年の、流行語になったのです。これは、一方で共感を得ました。本当に人知れず、努力を積み重ねられたのだと思うのです。本人にしかレースのつらさ、コンディションのことは分かりません。本当に、銅メダルでも、満足だったのだと思います。

横道にそれますが、わたしは、自分を可愛がることは、とても大切なもとだと考えています。これは、現代人が、どれほどうつ病で苦しんでいるのかを知る時、本当に、大切なことだと思います。自分をいじめてはならない、まさに先週、完全になりなさいという主イエスの御言葉は、私どもにまさに「あなたのそのままでいいよ。そのままで、わたしは愛しているからね。」ということに他ならないと学んだのです。この神の完全な愛の中に自分を発見すること、それが救われることです。わたしのあるがままを、理解し、支え、逃げださすに共にいてくださるイエスさまが、父なる神がいらっしゃる、そこに、現代人の救いがあります。そして、自分を可愛がる、言葉を丁寧に言えば、大切にする道がここから開かれるのです。

さて、有森さんは、自分をほめると言いました。他人に善行を見せない、苦しく激しい練習は、知られない。しかし、自分は知っている、その自分をほめるのです。ところが、主イエスは、ここで、こう仰います。「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」簡単に言えば、自分のしたこと、それで自分をほめてはならないのだよということでしょう。自己満足でおわってはならないのだよということでしょう。

「右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」いったいそのようなことはあり得るのでしょうか。脳の働きから言ってもそれは不可能です。右半身、左半身いずれも健康であれば、ありえないことです。それならなぜ主イエスは、それほどまでに、他人の目、いへ、そればかりか自分自身の目すら、気にしてはならない、そこからの報いを求めてはならないとまで仰るのでしょうか。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙?第4章で、こう言っています。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。」自分で自分を評価しない。これは、自分のことを自分でほめないということではないでしょうか。しかし、私どもは、誉められないでどうやって生きていけるかと思います。そんなことは、この世において、多くの人から誉められている人だから言えるのだと批判がでるかもしれません。しかし、パウロは、コリントの教会員からは、誉められるより裁かれているのです。

確かに自分にやましいことがないことは、感謝なことです。大切なことです。しかし、良心に恥じないことをしているから、自分が神に赦されているのでは決してありません。マタイによる福音書の主イエスの言葉でいえば、自分で自分を完全な人間となっていると認めることは決してできません。完全な人間とは、神さまがそのように見て下さるからでしかないのです。自分が今、完全になっているか、到達しているかどうか、それは自分で判定できません。してはならないことです。

完全な人間、それは神に完全に愛されている、言いかえれば、神に評価されている人間ということです。神に重んじられている、大切にされている人間とであることを認め、信じることです。だからこそパウロは、まさに単純に自分自身についての確信を抱いていいるのです。自分は、決して裁かれない。神の完全な愛の前に、生きている。神の御顔の前で赦されている、そう信じているからです。

説教の冒頭で、韓国と日本の違いについて申しました。これは、反対に、たとえば、韓国やアメリカから来られる宣教師たちのことを考えてみても良いと思います。今年は、日本でのプロテスタント開始150周年とされ、記念の集会が開かれました。日本の教会は、宣教師たちの到来によって始まります。その最初の宣教師たちによって建てられて日本最古の教会の系譜にあるのが日本キリスト改革派教会です。彼らは、福音の力を知る教師たちでした。母国では、福音を語れば、「打てば響く」という経験を重ねておらたと思います。ところが、日本では、そうはいきません。今も昔も、宣教師たちの大きな危機、誘惑がそこにあると思います。献身しているのだから、そんなことは克服している、そうではありません。それは、地上にある限り、続くものです。宣教師も牧師も人間的に言えば、おそらく優秀な人は少なくないのです。彼らの働きをこの世の経済価値ではかれば、余りにも、割に合わない報いでしょう。しかし、もしも本人が、そのような考えに落ち込んだらどうでしょうか。人の前、人の顔の前で生きようとするなら、どうでしょうか。正しい伝道になりません。福音の伝道になりません。単なる宗教団体の、日本における拡張に貢献するだけのことになるでしょう。
伝道者、伝道献身者こそ、もしも、自分が、神に見られていること、神の報いがすでに豊かにあることを知らないのであれば、その働きは破綻します。破綻しています。いへ、伝道者だけではありません。特に、日本で、主の御言葉に生きて、必死の思いでその御言葉の約束の実現のために、労しているなら、教会の施し、まさに教会の愛の働きディアコニアを推進しようとするなら、それが、まったく割に合わないものであり、何よりも、具体的な前進、結実を見ることが難しいことによって、すぐに目に見え、評価を得られる何かをしはじめたりするのではないでしゅうか。

私どもがこの地上にあって、この世の生活のただ中で、本気で、神に従うことができるかどうか、それは、神の御顔をはっきりと意識し、その御顔の光を浴びているかどうかにかかっているのです。

それなら私どもは、どこでそのようなすばらしい経験、体験を味わうのでしょうか。もう一度、申しあげます。それは、毎日の御言葉と祈りの生活です。そして何よりもその頂点である、この主日礼拝式です。ここでこそ、私どもは、神の前にいるのです。神の御前で生きているのです。神の御顔の光を浴びているのです。そして、我を忘れて、神を賛美し、神に感謝し、神に栄光を帰すのです。そのような神体験、それは、この主の日の礼拝式において与えられるものです。だからこそ、私どもにとって、この礼拝式が人生の旅路の中心、目的になるのです。ここで、神の完全な愛を注がれ、神の報いをここで受けるのです。

そのときあらためて立ち戻らされることができます。時に、あるいはしばしば、わたしどもは心にこのようにつぶやいたり、憤ったりするのではないでしょうか。「わたしの奉仕、善い業、信仰の生活は、何の報いもないではないか。誰からも評価されなかったり、嫌味すら言われたり、かえって損することの方が多いではないか。」そのような思いが、砕かれるのです。癒されるのです。

なぜなら、私どもには、今ここで、圧倒的に割りの合わない報酬が与えられているからです。それは、神の完全な愛です。神のまったき恵みです。わたしの上に、罪人であるわたしの上に、神の太陽の光が昇っているのです。神の御顔の光、暖かな命の光、明るい光が注がれているからです。しかも、やがて主イエスが来られるとき、あるいは、私どもが死ぬ時、天の父のもとでの報いは、私どもの地上の生涯においてなした奉仕に比べて、圧倒的に割りの合わないほどのものすごい報酬が備えられているのです。

それを、今あらためてここで、兄妹姉妹たちと共に知ります。だから、今朝からもう一度、私どもの人生の旅路へと出発できるのです。主イエスによって示される施しに生きる生活には、忍耐と労苦が伴います。ときに私どもを打ち倒すこともあるかもしれません。しかし、なお支えられるのです。倒れても、立ち上がれるのです。

主イエスは、私どものディアコニア、愛の働きに期待されます。私どもの信仰にもとづく善き行いを求めておられます。感謝をいいあらわし、感謝に生きることを求めておられます。その一つが、施しなのです。そして、そのためにい、主イエス・キリストは、私どもにお命じになられます。「あなたがたの報いがどれほど豊かなものであるのかを、しっかりと見なさい。」神の御顔の前で生きるようにと招いて下さるのです。あの夜回り先生は、青少年たちの笑顔に支えられると言いました。私どもは、こう告白します。私どもは、父なる神の笑顔、御顔の光に支えられる者たちであります。

しかも、父なる神は、しばしば、人間の笑顔、喜び、感謝すらふろくのように添えてくださいます。昨日も子どもたちの笑顔のプレゼントを受けました。私どもの伝道に感謝する隣人も、神が備えておられます。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの天の父よ、あなたが共にいて下さるのに、ときに、あるいはしばしばあなたを見失い、忘れてしまい、人間の目の前、自分の目の前で生きようとしてしまいます。目に見える手ごたえをもって、信仰の確かさを確認しようとするのです。私どもは、しばしば人の目を恐れたり、何よりもしばしば自分の存在価値を人間や社会からの評価に置こうとする誘惑のただ中にいます。どうぞ、あなたからの報いを望ませて下さい。そのために、今ここで受けている恵みの報酬がどれほどの重く、  豊かであるか、すばらしいものであるかを、深く気づかせて下さい。主の日の礼拝式、毎日に祈りの生活を聖霊に満たし豊かなときとして下さい。アーメン。