過去の投稿2009年11月23日

11月8日

★   先週の伝道所委員会にて○○委員のお父さま、○○氏の洗礼入会の件が議せられました。○○委員より、お母さまの理解を得られたとの報告を受けたことによります。思えば、2004年5月の特別伝道礼拝式にご夫妻で来られたことが、求道の出発になりました。ビルの時にも、伝道的集会に出席されました。脳梗塞の麻痺が少し残っておられるお体で、杖をつきながら通って下さいました。しかし、06年6月に、再発され、意識障害と右半身の麻痺という重度の病に倒れられました。生命の危機は脱しましたが、しゃべることができない状態となられました。当初、親指を動かしてくださることによって、コミュニケーションすることができましたが、今、それもできなくなりました。3年余りの闘病において、何度、お訪ねしたことでしょうか。また、降誕祭の折には、有志の兄妹で、キャロリングにお訪ねしました。

    ご自分の意思を自由にあらわすこともできない状況、そのような厳しい闘病において、○○委員は、毎朝、出勤前に訪ねて、共に祈りを重ねられました。その祈りが、ついにかなったのです。倒れてすぐ、緊急時でしたので、病床洗礼をお勧め致しました。しかし、そのような状況であった故か、ご家族のご理解を得ることは困難でした。しかし、3年余りの間、お二人が祈られる姿をご覧になられ、何よりも、御心の祈りをかなえて下さる神の恵みによって、今日の時を迎えます。

家族の救い、これこそ、私どもの最大の祈りの課題、神の約束です。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも、あなたの家族も救われる。」この御言葉を信じる人は、その通りになるのです。御言葉を信じる人には、必ず、祈りが求められます。決して短期間の祈りではありませんでしたが、祈りは聴かれています。

    病床洗礼、○○氏のご病状は思わしくありません。既に、ご自分の口ではもとより、親指での意思表示もかないません。日本キリスト改革派教会は、厳密に洗礼の礼典を執行いたします。とりわけ「試問会」が重要です。そして、洗礼入会式の際にも、口頭での「誓約」が求められます。しかし、今回は、そのようになすことができませんから、これまでの○○氏との信仰の交わりに基づき、わたしの判断で挙行します。もとより、○○委員ご自身が、お父さまの信仰の最大の理解者であり、また、戦友でもいらっしゃいます。お母さまのご理解を得て、ついにこの時を迎えようとしています。本当は、現住陪餐会員全員でそこに陪席したいと思います。しかし、重篤の方々の病室での挙行ですから、委員全員ということもかないません。お祈り下さい。

☆   先週の礼拝式後、○○氏から、「少しお話を・・」と声を掛けられました。なんと、加入の願いでした。実は、前週の火曜日に継続しています子どもカテキズムによる学び会の折、わたしの方から、かなり強く(?)、「神のお招きがあるのであれば、神の御前に飛び込んで、従うことが信仰です・・・、加入を決断されませんか・・・」という主旨のお勧めを致しました。そのとき、はっきりと、「まだまだです。桃栗三年・・・」と仰ったのです。ですから、不意を突かれました。高校生のとき、日本キリスト教団○○教会で洗礼を受けられてから、お嬢様のご葬儀を執行するにあたっての、わたしとの出会いまで、教会生活から離れておられました。加入の前に、聖餐の礼典を受領すること、これをもお勧めしました。聖餐にあずかること、洗礼を受けること、これは、天国の保証です。永遠のいのちを受ける保証です。それが、どれほどの栄光と喜びと幸いであるか、おそらくまさに天国に入るまでは、その全貌を味わうことができません。気が狂う?ほどの輝きと喜び、幸いと恵みのときでしょう。洗礼を受ける、聖餐にあずかる、どんな犠牲を払っても「獲得すべき」恵みです。しかし、主イエス・キリストご自身がその尊いいのちを犠牲にして、獲得してくださった救いの恵みなのです。それを、無代価で私どもに施して下さるのです。まだ、洗礼をお受けになっていない方がいらっしゃいます。この恵みをどうぞ、真剣にお求めください!

★   ○○氏は、もう半年余り前から「洗礼を受けたい!」と志願されています。降誕祭まで長い学びの道のりです。これまで私どもの教会の志願者たちの多くは、ほぼ1年をかけ、祈祷会にも出席していただきながら、ここに至ります。いよいよ、教会に仕える特権を与えられるわけです。キリスト者として、神に仕える時間は、若くして導かれた方より総量は少ないかもしれません。しかし、これからの生涯を、中身の濃い、献身の生涯として捧げることが出来ますように・・・。

☆   ・・・スペースが足りませんが、12日、○○委員は、○○の職員試験を受けられます。面接では、キリスト者として、主の日を優先出来ないのであれば、こちらからお断りしなければなりません。 もし、ここへ導かれるなら、【教会から】、地域のディコニアへと派遣するような思いが私どもに求められます。