過去の投稿2009年12月3日

11月29日

★   先週は、中部中会伝道委員会より問安を受けました。お越し下さったのは、委員長の中根先生(那加教会)、長老(津島教会)、長老(犬山教会)です。私どもは、一昨年、前伝道委員会と経済を巡って厳しい折衝を余儀なくされました。当時の伝道委員会は、毎週のように臨時委員会を開き、対応に追われたのでした。そのときも、問安を受けましたが、実質的には問安とはならないまま終わりました。そのような経験を踏まえ、再編された委員会の問安を改めて受けることとなりました。しかし今回は、まさに問安となりました。会計帳簿の付け方について、かなり踏み込んだ御指導も受けましたが、これも大切なご指摘でした。先週の報告の折、ひとりの委員が「長老さんは、かっこいい」との発言が出まし。「かっこいい」長老とは・・・?それは、信仰に生きる、徹底する、献身するキリスト者の存在です。もとより外見・・・ではなく、人間としての、中身のかっこよさなのでしょう。私どもも、「かっこいい」(?)キリスト者となれますように。

☆ 15周年を記念する今年、当初の計画にはなかった長老たちの問安を受けました。ひとりの長老は、伝道所のままでいることに、危機感をもたないで過ごされた御自分を振り返り、その「特異性」に気付かされ、教会設立を真剣に祈り求められたとのことです。皆さん、「20周年を待たずとも、教会設立は可能ではないか」と仰いました。経済的独立は、どんなことがあっても成し遂げなければなりません。しかし、長老と執事の養成は、年限を切ることは、やはり難しいはずです。「このままではならない、わたしもお召しがあれば・・・」と献身する会員が起こされなければならないからです。その後で、訓練(学び)を受ければよいのです。

★ 本日は、「ディアコニア委員会」を開催します。15周年記念の今年の締めくくりとなる集会です。教会のディアコニアは、対社会、地域の人々への奉仕をも目指します。しかし同時に、教会形成、伝道のために、教会じしんのため(お互いのため)にもさまざまな奉仕が求められていることは明らか過ぎることと思います。かつて祈りを「束」にし、奉仕を「束」にして神に捧げようとの表現をしばしば用いました。小さな群れの私どもは、まさに力を結集し、総力戦でことにあたらなければなりません。同時に、教会は、ひとりで、人目につかないところで奉仕する奉仕者に支えられています。

☆   先週の中部中会日曜学校委員会主催の教師研修会に、渡辺信夫先生をお招きしました。今年は、カルヴァン生誕500周年記念の集会が日本各地で開催され、先生は、86歳の現役牧師として最もお忙しかったかと思います。今回の講演は、「委員会」として、教会教育、日曜学校に関して共通認識を深め、定めるために、どうしても先生をとお招きしたのでした。実に、すばらしい講演、質疑応答でした。様々なことを確認させられ、また、不徹底を反省させられました。教案誌に掲載しますので、後日、皆さんと読みたいと思います。

質疑応答において、「まともなキリスト者・筋の通ったキリスト者」ということを考えさせられました。筋が通るとは、自分の主義・主張にこだわり、ゆずらないということではありません。むしろ、そのような自分こそ、死すべき、古き人です。しかし、自分が置かれた立場によって、あるいは時代の流行などによって、キリスト者としての自分の姿勢がコロコロと変わって行くなら、いかがなものでしょうか。そこで、「カテキズム教育」の重要性を今更ながら思わされました。改革教会がまさにその全力を注いで整えたのは、カテキズム=信仰問答=信仰告白でした。教会は、幼子から高齢者まで、神の民の全年齢層にわたって、繰り返し教え続けることによって、キリスト者と教会を建て上げ続けてきたのです。このカテキズムに聖書の信仰の「首尾一貫性」が鮮やかに示されています。それは、神の救いのご計画の全体像でもあります。言わば、神ご自身が「筋が通り」「まとも」なのです。そのお方を信じることによってのみ、私どもも筋の通った人間として育てられてまいります。神に根拠があるわけです。私どもが、自分を確立させ、自分が自分であるために、どうしても、私どもと向き合って下さる生ける神との出会いが必要です。キリスト者とされたとは、人間の回復の道へと取り戻されたということです。  「生涯教育」という言葉がなかったはるか昔から、キリストの教会は、民の教育に心を配りました。いよいよ、「学ぶ教会」となって参りましょう。かつて、教理??神学??と、学ぶこと以外の何かを求めて教会を考えていたキリスト者たちの中で、どうしたら神の教会を形成できるかと悩んだ時代がありました。
私どもは、学ぶ教会となりましょう。しかも、知ることで終わる悪しき学びとならせず、知識を体得すること、それを生きる、「真の学び」を致しましょう。究極は、「良心」を磨くことです。それは、「神の御前にある良心」です。そのためには、祈ることです。「神学と伝道を祈祷の生活において統一」(20周年宣言)することです。知識と生きることとは、聖霊によって祈る良心によって統一されるでありましょう。