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「“ただ一つだけ”を選ぶ」

「“ただ一つだけ”を選ぶ」
  2010年1月3日

ルカによる福音書 第10章38節~42節
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

テキスト マタイによる福音書 第6章7~9節
「だから、こう祈りなさい。~
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。

 新しい年を迎えました。2010年が既に始まり、この一年をどのような年にしたいのか、すべきなのか、それを一人一人がそれぞれに置かれた状況の中で、考えていらっしゃると思いますし、考えることは大切だろうと思います。
今朝、神の前に集められた私どもひとり一人が、神に問われていることがあります。主イエス・キリストから問われていることがあります。大人も子どもも、問われています。大人になって、もはや、この夢をかなえるために必死になるというそのような目標、夢が無くなってしまったら、一大事でしょう。そうではないかと思います。どうしてかと申しますと、充実した日々になるかどうかは、多くの場合、目標に向かって前進しているという手ごたえによって、確かめられるものだからだろうと思います。ですから、この一事に集中する、そのようなたった一つの夢、目標というものを見失う生活は、充実とはかけ離れるのです。
しかし、そこでこそ、最も大切なことになるのは、その夢、その目標は、人間にとって本当に、真実に最も大切なことなのかどうか、そこにあります。それを問わないところで、何でも良いから夢を持とう、目標をもとう、というのは、悪いこととは決して申しませんが、しかし、キリスト者にとっては、中途半端です。「ハンパ」な生き方になるでしょう。

 今朝の説教のテキストとして選んだ個所は、ルカによる福音書のマルタとマリアの大変に有名な物語です。この二人の姉妹の家に、主イエスは伝道の生活において何度も立ち寄ったであろうことが分かります。彼女たちには、弟のラザロがいました。ヨハネによる福音書では、このラザロは、主イエスによって死から蘇生させていただいた人です。主イエスとその弟子たちは、この兄妹たちと親しかったことが分かります。女性の弟子であったと考えても間違いではないと思うのです。彼らの家は、主イエスの一行にとって、休息の場所、食事を頂く場所、何よりも家庭を開放して、主イエスによる家庭集会を開く場所でもあったのだろうと思います。主の伝道のお働きを物心両面からよく支えた兄妹です。おそらくこの兄妹は、とても仲が良かっただろうとも想像できるのです。

 しかしある時、事件が起こります。とっても小さな事件です。それは、おそらく主イエスが、説教をお始めになられたのですが、そろそろお昼になったのでしょう。主の日の礼拝式をイメージしてくださっても良いのではなかと思います。もしも、わたしの説教が12時を越えてまだ続くとしたらどうなるでしょうか。大問題になるでしょう。説教をやめさせられるか、さもなくば、皆さん、帰って行かれるかもしれません。気がきく姉妹方は、ハローズまで走って行き、何か、お腹の足しになるようなものを買い求めに行かれるかもしれません。まさに、そのようなことが、彼女たちの家庭集会において、起こったのです。しかもそれは、イエスさまご自身の説教に起因する出来事、事件でした。そこには、少なくとも12弟子がいたはずです。おそらくは、その倍、三倍の数の弟子たちが集っていたかもしれません。30人余りです。お姉さんのマルタと妹のマリアの女性二人が食事の責任を担うのです。二人で、30人のご飯の準備は、なかなか大変と思います。

 おそらくマルタは、イエスさまのお話しが長くなりそうな気配をあらかじめ感じて、そっと席を立ったのだろうと思います。そして、厨房に立って、せっせとパンを焼いたかもしれません。「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と言われます。ここでの「もてなし」とは、もとの言葉ではディアコニアです。マルタは、ご飯の奉仕、ディアコニアだけではなく、さまざまなディアコニア、おもてなしのために、せわしく、忙しく立ち働いているのです。

しかも、いつまで経ってもマリアが来ないのです。12時を越え初めて、そわそわし始めたかもしれません。そしてついに、1時近くになって、そのじれったい思いは、ついに怒りにまで発展します。彼女は、集会中にも関わらず、主イエスに近づいて、こう申します。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」彼女の怒りは、今風に言えば、「切れた」という感じでしょう。しかも、その小さな怒りは、マリアに向かうだけでは足らないのです。むしろ、ここでは、主イエスさまご自身に向かっています。それは、一方では、マルタとイエスさまとの間の信頼関係、親しい関係を物語るような小さなエピソードかもしれません。しかし、そのことは、小さな問題では決してありません。聖書に収められることになったのです。ルカによる福音書の中に収められ、世々のキリスト者に向けての信仰の教訓、神の御心を明らかに示す教訓として用いられることとなりました。

 そこで、主イエスは、このようにお答になりました。これこそ私どもが、今朝、まさに聴くべき、神の御言葉であります。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 
 わたしはこれまでいくつかのここからの説教を聴いてまいりました。大変残念な印象のある説教の一つに、これを常識的に受けとめようとするものがありました。女性には、マルタ的なタイプと、マリア的なタイプがある。教会の中では、それぞれが大切である。マルタのようにばりばり、仕事、奉仕をこなす人も教会のためには必要。ただ問題は、思い悩み、心を乱すことであって、もくもくと、もてなしの奉仕をすればよいのだ、こう言うのです。

 しかし、わたしはそのような解釈を、断じて受け入れられません。何故なら、主イエスは、はっきりこう仰ったからです。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」必要なことはただ一つだけ。マリアは、良い方を選んだ。その一つだけの方を選んだと言う意味でしょう。それは、決して女性特有の性質とか、人それぞれの性格、気立ての問題に矮小化したり、常識の問題へとすり変えたりしてはなりません。

確かにマルタは、善意の塊のように、主イエスとお弟子さんたちをもてなしたいと願っていたのでしょう。御腹がすいていては、午後の働きにさし障ると慮ったのでしょう。そもそも、食事の準備がどれだけ重要であるかは、いちいち、説明を要さないはずです。使徒言行録に記されていますが、ユダヤ人のやもめとギリシア人のやもめのための食卓の奉仕は、執事職の発祥の由来となりました。確かにそこでも使徒たちが、御言葉の奉仕を差し置いて、食卓の世話をするのは、本末転倒ですから、教会が、使徒たちに御言葉の説教、伝道に専心できるように教会の奉仕、職制を整えたのです。

しかし、昨年の祈祷会でも学びました「信徒の手引き」の学びの中で、台所、まな板の上は、聖霊なる神と人間とが共に働く仕事場のようだと申しました。お肉、お魚、お野菜、神の与えて下さった様々な命の食材をもとに、料理する、料理によって人間のいのちを養い、その胃袋、その舌を楽しませる、これは、まさに文化であり、神への奉仕に至ることなのだと、申しました。そのように家族の食事をつくる御婦人たちの働きは聖なる働きです。マルタの食卓の奉仕は、どれほど大切な、尊いものであるかは言うまでもないはずです。主イエスは、決して、精神的な事がらだけあれば、肉体的な事柄はどうでもよいなどとは考えてはいらっしゃいません。主イエスご自身もまた、「大酒飲みの大食漢」と非難されたほど、人々との食卓の交わりを大切にされ、楽しまれたのです。そもそも、教会の奉仕の中で、そのようによりよい奉仕を、互いに、比べ合うことは、おかしいと思います。教会の形成も、おかしくなってくると思います。健やかさを失うのです。

もてなしとは、真実の意味で、徹底して、自分ではなく相手を思いやることです。あのとき、主イエスは、情熱を込めて、命を注ぐようにして説教をされていたはずです。その意味で、その説教を中断させることが、主イエスへの正しい、真実のおもてなしになるとは思えません。説教するイエスさまに対する言わば、おもてなしは、自分自身も全精力を傾注して、聴くことのはずです。私どもの教会にも、ナースリーの奉仕、まさに犠牲的な尊い奉仕が捧げられています。それは、説教を軽んじるのではなく、むしろ、どれほど礼拝説教が子育て中の方々にとって大切であるのかを、教会が確信しているからでしょう。

さて、いずれにしろ、マルタは、自分自身が沢山の奉仕、すべき仕事で、心が乱れたのです。その証拠が、まさに主イエスの説教を中断させ、その上、主イエスさまご自身に文句を言ったのです、批判したのです。まさに、常識的にも、受け入れがたいことです、やり過ぎたわけです。彼女の「思い悩み」「心が乱れている」その姿は、彼女の行動にはっきりと示されてしまいました。

昨年の燭火礼拝式でも「星の王子さま」の物語を例話に用いましたが、ここでもそこから一つの例話を用いたいのです。この物語は、飛行機が故障して、サハラ砂漠に不時着してしまった飛行士と、小さな星から来た小さな王子様との出会いと別れの物語です。どこで、二人は出会ったのか、それは、飛行士が砂漠に不時着して、一週間分あるかないかの水だけを頼りに、エンジンを修理し始めたまさにその時でした。砂漠の真ん中に、一人、まさに飛行士が言う通り、「生きるか死ぬかの問題」に陥ったのです。そんな人生の危機的状況の中で、一晩を過ごして明け方、王子さまに起こされます。
「お願い、羊の絵を描いて」
それから五日目のこと、なお、エンジンのボルトを緩めようと必死になっている彼に、こんどは、このような質問をするのです。
「バラの花には、どうしてトゲがあるの」飛行士は、ボルトでいらいらしていたので、適当にこう答えます。
「トゲなんて、何の役にも立たない。あれは、花の意地悪以外のなにものでもない。」
これに対し、王子さまは、本気に怒るのです。
「ええっ、そんなの信じない。花は弱いんだ。できるだけのことをして自分を守っている。棘があれば、みんな恐がると思っているんだ。」
実は、この物語のモチーフがここで、はっきりと示されます。飛行士は、弁解しました。
「僕は何にもおもっていやしない。適当にこたえただけだ。大事なことで忙しいんだ。僕は!」
ここで、さらに王子は、怒るのです。
「大事なこと?大人みたいな言い方だ。きみはごちゃまぜにしている。大事なこともそうでないこともいっしょくたにしている。」

この時、王子さまは、かつて出会った一つの星に住んでいる実業家を思い起こしました。その実業家と飛行士が同じことを言っていると批判したのです。その実業家は、星を5億162万2731所有しているのです。毎日毎日、星を数え、それを足し算して、その星を所有して、大金持ちになっているのです。あまりに忙しく星を数えているので、彼は、もはや星を見る時間もないのです。星に興味も関心もないのです。二人の会話はこうでした。
「5億百何十万ものちっちゃなものがときどき空に見えるんだよ」
「ハエのこと?」
「いいやチカチカしているものさ」
「ミツバチ?」
「いいや、ぐうたらどもに、あれこれ夢を見させる金色のちっちゃなものだ。だが私は、有能な人間だからな。夢など見ている暇はない。」
「ああ、星だね。」
「その通り星だ。」
お金やモノを所有することに、人生を投入する、お金が人生の目的になる。生業を得るための手段である仕事が、人生そのものとなる。あるいは、休む間もなく仕事に精を出す。余裕が出たら、そのいやな仕事からリタイアする。それまで、我慢してまじめに、有能な人間として働く。
いくらなんでも、飛行士を、このようなお金やモノにだけ集中する実業家に比べたり、なぞったりするのは、言い過ぎではないかと思えるかもしれません。砂漠の真ん中で、エンジンが治るか治らないかより、大切なことはないだろうと、我々は常識的にそう思うのではないでしょうか。しかし、著者は、問うのです。この問いは、深く、鋭いと思います。わたしは、その問いは、ここでもまた、主イエスの問いをなぞって見せてくれたものだと考えるのです。

 わたしは牧師として今まで、何度も、「今は忙しいので、教会には行けない。」と特に、中年の男性から言われて来たことかと思います。いや、大学生だってそうです。中高生だって同じです。今は、勉強で、忙しいです。部活で忙しいです。バイトがあります。サークルがあります。試験勉強があります。おそらくそうしている間に、あの実業家のようになってしまうのではないかと恐れるのです。結局、いつまでも、教会や神さまは、おろそかにするのではないか、そうなってしまうだろうと思うのです。全員がそうなるとは思いませんが、しかし、多いはずです。もし定年退職しても、あるいは病院のベットの上で伏せったとしても、生死の危機を迎えても、主イエスがおっしゃった、「必要なことはただ一つだけである。」ということが分からなくなってしまうのではないかと恐れるのです。考えてみれば、人生は、いつだって、危機のはずです。飛行士が砂漠に落下して初めて、人生の危機が起こるのではありません。要するに、誰でも、自分たちの明日の命のことは分かりません。私どものいのちは一瞬一瞬、神の御前にあるのです。確かに飛行士にとって、エンジンの修理は大事な用であることは明らか過ぎることです。けれども、あるいはこう言うべきでしょう。だからこそ、それよりももっと大事な用があることを、見失ってはならないのです。人間にとっては、人間が生きるということは、「必要なことはただ一つだけである。それを取り上げてはならない。」と言うべきもの、そのような究極のものがあるのです。

 王子さまは、このように言いました。「実業家のおじさんは、一度も花の香りをかいだことがなかった。星を見たこともなかった。誰も愛したことがなかった。足し算以外は、なにもしたことがなかった・・・大事なことで忙しい、わたしは有能な人間だから!そうしてふんぞり返っていた。でもそんなの人間じゃない。キノコだ。」「そんなの人間じゃない。キノコだ。」著者は、人間を人間たらしめる、おそらくはただ一つのこと、ただひとつのもの、その存在、その大切さを訴えているのです。人間は、決してキノコになってはならないと訴えているのです。

 さて、私どもは、「星の王子さま」から離れて、主イエスの御言葉に集中してよいはずです。マリアは、何を大切にしたのでしょうか。それは、主イエスの御言葉を聴くことでした。それがないと、それを取り上げられたら人間として生きれないと思ったからでしょう。ぼんやり座っていたわけではないはずです。自分にとって、イエスさまの御言葉、神の言葉が、自分を自分たらしめるために、どうしても必要だとおもったからでしょう。自分が生きる、自分の命を輝かせるために、自分の命を、本来の命にするために、神の言葉が不可欠だからでしょう。

それなら、さらに問いを深めましょう。ここでの神の言葉とは何でしょうか。それは、愛です。神の愛です。神の命です。主の御言葉は、神の愛の言葉、命の言葉なのです。この神を、取り上げられたら、私どもは死ぬ、死んでいるのです。きのこになってしまうのです。人間ではない!極めて強い批判です。しかし、それは、本当のことなのではないでしょうか。

 それなら、キリスト者は、あの人この人が、教会に来ていないと思うその前に、自分自身が、本当に、この一年、この御言葉を聴くことなしに、生きれないのだ、自分の一年にならない。自分の生活にならないとわきまえる方が先です。先ず、キリスト者から始まるのです。そうでなければ、未信者に説得する力は弱いのです。

 父なる神は、私どもに毎日、御言葉をもって語りかけて下さいます。それは、私どもへの愛の言葉です。愛の言葉とは、神の愛の働きかけそのものなのです。間違ってはなりません。神の言葉は、星の王子さまの言葉とは違うのです。いかなるすぐれた文学の言葉とも質が違うのです。何故か。それは、そこでそれを読むわたし、聴くあなたと共に生ける神がいて下さるからです。その神の語りかけが神の愛なのです。そのようにして、今年もまた、私どもの毎日、日々の上に、神の愛が注がれるのです。この愛を受けてこそ、私どもは自分を愛し、隣人を愛せるのです。神の愛がなければ、自分は自分に与えられた神のご計画を実現することはできません。御心がなりますようにと祈るとき、そのときには、神の愛がこのわたしに豊かに注がれますようにと祈ることでもあります。神の愛に気づかせられる祈りでもあります。

 確かに忙しい日々です。しかし、忙しいという漢字が、心を亡くすと書くのであれば、私どもにとって、神を、教会を後回しにするほどの忙しい人生など、まさにキノコの日々でしかないはずです。人間の生活にならないのです。ルカによる福音書は、このマルタとマリアの物語の直後に、「主の祈り」が取り扱われるのです。これは、偶然のことではないと思います。繰り返しますが、人間にとって、お祈りすること止めたら、祈る時間を亡くしたら、主の祈りを失ってしまったら、キノコになる。人間をやめることになるからでしょう。

私どもは、一人ひとりのかけがえのない自分のいのちを、今改めて、神に差し出しましょう。そして、御心が、このわたしの上になりますようにと、祈りましょう。そうして、「必要なことはただ一つだけである。」と宣言された主イエスの愛の語りかけを聴きとりましょう。主イエスの愛を受けることから始まる、始めるのです。そのとき、喜んで、神のご計画がわたしの人生に実現するようにと祈り求めることもできるのです。そのとき私どもの教会は、必ずや、いよいよSoli Deo Gloria!を宣言する教会としてさらに形成されて行くはずです。

祈祷
 天の父なる御神、あなたは、私どもを真実のキリスト者として、人間として生かすために必要な、ただ一つだけを豊かに、溢れるほど与えて下さいます。あなたの愛です。しかし、それを求めない自分がいます。あなたではない他の物をも必要だと考える自分がいます。そのようにして、すべてを中途半端にする危険性の中に置かれています。どうぞ、救いだして下さい。あなたの愛の語りかけに、しっかりと座り込んで聴きとることができますように。そこから立ち上がる一年、日々としてくださいますように。祈祷会を、リジョイスの聖書日課を祝福し、何よりも主日礼拝式を祝福して下さい。アーメン。