過去の投稿2010年1月17日

「今この瞬間に、神の愛を見る」

「今この瞬間に、神の愛を見る」
                    主の祈り 第四祈願?
招  詞 創世記 第2章2-3節
テキスト マタイによる福音書 第6章11節
「だから、こう祈りなさい。~わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

 
先週は、「主の祈り」の中の第4番目の祈りを学びました。今朝も、ひき続いて学んで、神を礼拝致しましょう。先週の説教の題は、「一杯の水に、神の愛を見る」でした。たった一杯の水の中にも、神さまの私たちへの愛があふれているのだ、それを信仰の眼を見ることができるのだと学びました。そのためには、私どもは、地上に生きるために必要な、衣食住だけではなく、すべての物質をも神に求めようと申しました。こうして、わたしどもの眼は、真実に開かれ、先週、一杯の水、一杯のごはんの中に、神の私どもへの愛を見る、そのような信仰の眼が少しずつでも、開かれたことを信じています。そして、一週間で終わらせず、一生涯、この祈りと祈り続けて、深めて参りましょう。
 
さて、今朝の説教の題は、「今この瞬間に、神の愛を見る」と致しました。主イエスは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と祈りなさいと教えて下さいました。この祈りにおいて、必要な糧の問題と、もう一つの問題が取り扱われています。それは、「今日」という時間の問題です。

おそらく、私どもキリスト者が、創造者なる神さまの創造のみ業を考え、そして讃美する中で、忘れがちなことがあるのではないでしょうか。それは、「時間」の問題、時間の創造のことではないかと思います。私どもが今ここで、存在できるのは、時間、むしろ時と言った方がよいかもしれませんが、この時があるからです。そして、この時の中に、今この瞬間に、神の私どもへの大きな愛を見ることができるし、しなければならないのです。なぜなら、そのような時を生きるのでなければ、私どもは、貴重な、かけがえのない自分の人生を、空しく終わらせてしまう事になるからです。それは、実に、恐ろしいことです。

 2010年も、今週まで来ると「明けましておめでとう」という挨拶をすることもなくなってくると思います。我々の人生は、そのようにしてどんどんと過ぎゆきます。私どもは、天国を目指して、一歩一歩、着実に歩む救いの恵み、この特権にあずかりました。したがって、この人生という時正しく、充実させて、生きる特権と責任があります。今朝、ゆっくりと、丁寧に、この問題を共に掘り下げて考えて参りましょう。

わたしが高校生のとき読んだ小説の中で、忘れ難い作品の一つに、明治の文豪、森鴎外の「青年」があります。あらすじの大方は、ほとんど記憶にないのですが、ただ、この短い言葉だけは、今でも、記憶に鮮やかなのです。「日本人には生活がない。」このセリフです。そこで語られていたのは、おおよそこのような内容だったと思います。日本人は、学校に入れば、すぐに次の学校、上級の学校に入学するように追い立てられる。就職すれば、したで、さらに出世するように追い立てられる。皆が、今このときを、いやでも何でも我慢して、こらえて生活している。今、一生懸命、こらえていれば、がんばっていれば、きっと、幸福な生活が待っている。優雅に暮らせるのだ。今は不幸でも、がんばっていれば、やがて幸福の未来が来る。これは、森鴎外の目に映る、明治の時代の日本人の姿です。しかし、今も本質的なところでは、ほとんど変わりがないのではないかと思うのです。

ある説教者が、そこで、このような実例を紹介していました。これは、スイスのひとりの実業家の方のお話しです。彼は、とても優秀で、またまじめで、実業の世界で、猛烈に仕事をして、大きな成功を収めたそうです。しかし、彼自身は、そのビジネスの世界を、軽蔑する思いがあったようです。一日も早く、このような金儲け、喰うか喰われるかの競争の社会から、引退したい。その方は読書が大好きなのです。自分の家を建て、書斎をつくり、そこに好きな本をびっしりと集めた。そしていよいよ、もう、お金の心配は要らなくなった。そして、仕事を辞めたとき、失明してしまったというのです。

もしかすると今、会社勤めしている人たちの中で、このビジネスマンの実話に、深く問われる方も少なくないのだろうと思います。今は、自分の生活を支えるためにいやな仕事だけれど頑張っている。定年退職すれば、自分の思い通りの時間を手に入れられる。そのような思いを心に秘めて、一生懸命、働いていらっしゃる方は少なくないように思うのです。

しかし、そのような我々に、神の御言葉は切り込んできます。鋭く問いかけてきます。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」私どもは、今日というとき、今というこの瞬間を、本当には生きていない、生活がないというような人生としてはならないはずです。しかしそれなら、いったいどうすれば、私どもは、今この時を生き生きと、充実して生きることができるようになるのでしょうか。
ここで、とても参考になるのは、ギリシャ語で、時間のことをどのように表記するのかということです。ギリシャ語では、時のことを、「クロノス」と「カイロス」という二つの言葉であらわされます。クロノスとは、まさに何時何分という「時間」をあらわします。それに対して、「カイロス」は、ただの時間ではないのです。たとえば、これは、我々がしばしば経験することだと思います。

たとえば、牧師としてはいささか、恐い気もするのですが、礼拝の時間のことを考えてみましょう。皆さんにとって、10時30分から、12時までの、90分は、長い時間でしょうか。短い時間でしょうか。90分は、大学での一つの講義の単位とされています。礼拝式の中で最も長いのは、説教の時間です。聖書朗読を含めて45分です。今年に入って、お気づきの方はいらっしゃるでしょうか、少し短くなっています。昨年の降誕祭主日礼拝式は、12時10分を越えるまで礼拝が続きました。東方教会では、2時間立ったまま礼拝するのだそうですが、私どもは、おそらくそれでは、無理だと思うのです。いずれにしろ、礼拝時間は、短いに越したことはないというような声を、聞きます。何故そうなるのか、特に説教の問題です。説教が長い、長く感じる。それは、おそらく説教がつまらないからでしょう。分からないからです。分からない話しは、10分でも20分でも聞かされるのは、苦痛です。内容のない話も10分、20分はとても長く感じられるでしょう。ところが、その説教が、本当に自分にとって、なくてはならない、命の言葉だとおもったらどうでしょうか。今年最初に聴いた、あのマルタとマリアの物語のように、マリアにとって、自分が生きるために、自分がじぶんであるために、どうしても必要で、なくてはならないのだ考えているなら、たとい、主イエスがお昼を越えて、説教を継続しても、きっと、長くは感じなかっただと思うのです。もとより、それほど主イエスの説教は、すばらしいものだったのだと思うのです。同じ、45分でも、長く感じる45分もあれば、あっという間の45分もあるのです。そして、あっという間の45分の経験のことを、「カイロス」とあらわすことができます。もう詳しい説明は要らないと思います。カイロスの時を、豊かに持っている人は、幸福でありましょう。

そうなると、ある人はそこでもまた、「そうそう、そんなカイロスを持つために、会社にとられる8時間、往復で10時間、残業を入れれば、12時間。それ以外に、レジャーや趣味や他のいろいろ楽しいものでカイロスの経験をいっぱいしよう。多くの人たちがそのように、お考えになっていらっしゃるでしょう。確かに私どもには、今自分がしていることは、つまらないこと、くだらないこと、そう考える誘惑に充ちているのです。家庭の主婦であれば、どうでしょうか。

昔、洗濯機がない時代の家庭の主婦にとって、洗濯機の登場は、まさに画期的な事件であったと思います。実にすばらしい技術の発明です。しかし、もし、家庭の主婦が、自分は家族のため、自分の貴重な時間を使われている、なんて嫌なんだろう、と思って毎日過ごしているなら、どのような家庭になるでしょうか。もしも、お母さんが、赤ちゃんの子育てに、まさに自分の時間を使うとき、それを「奪われてしまう」と考えたらどうでしょうか。はやく、成長しなさい。はやく手がかからないように、あなたに時間を奪われたくないから、自分の貴重な時間を、奪われるのはいやだから、誰かに預けたいと考えるなら、どのような子どもに育つのでしょうか。あるいは、預けなくても、これだけ、あなたのために、時間をかけたのだから、あとで取り戻そうと考えるなら、どうでしょうか。それが、本当に、健やかな人間を育てることになるでしょうか。答えは明らか過ぎると思います。

今、家庭の生活のなかで、これが終われば、これがなくなれば、自分の時間が持てて、せいせいする、そのように生きるのは、クロノスでしかないでしょう。それならいったい、私どもは、どうすれば、カイロス、充実した時、満たされた生活を持つことができるのでしょうか。

昨年の燭火礼拝式から毎週のように、「星の王子さま」の物語を例話に用いております。申し訳ありませんが、ここでもそこから一つの例話を用いたいのです。この物語は、飛行機が故障して、サハラ砂漠に不時着してしまった飛行士と、小さな星から来た小さな王子様との出会いと別れの物語です。その中にこのようなエピソードがあります。星の王子さまは、地球にやってきて、一人の物売り、商人と出会うのです。その人が売っていたのは薬です。どんな薬かと申しますと、のどの渇きをピタッと押えてしまう薬です。その薬を一週間に一粒飲めば、あとは何も飲まなくても良い薬です。

王子さまは、尋ねます。「どうしてそんな薬を売っているの」
商人は、答えます。「すごく時間が節約できるんだ。」「えらい先生が計算したところ、この薬のおかげで、一週間に53分の節約になるそうだ。」
「その53分をどうするの?」
「好きなことをすればいい・・・。」
王子さまはこうつぶやきます。「ぼくだったら、もし53分つかええるなら、どこかの泉までゆっくり歩いて行くだろうになぁ・・・」

さて、この薬を、買い求める人は、その対価で、何を得ることができるというのでしょうか。それは、時間です。

年末の大掃除のとき、教会の外回りを高圧ジェット水で、きれいにしました。これも、時間と力を大幅に節約できました。実は、これまで苦労していましたから、いささか感動的な思いすら持ちました。時間と労力を節約する製品を作れば、それこそ、商品になります。まさに、地球には、このような商品を、どんどん産み出す人がいて、それは、一方で、人間にとって、とても、ありがたいのです。それを否定することは、あり得ないのではないかと思うのです。

しかし、著者のサンテグジュペリが問う事は、現代の科学技術に潜む問題だけではありません。上辺の問題だけではないのです。著者は、このエピソードによって、読者の一人一人に、「人間が生きるとは、何か」を深く問うのです。
「そんなの人間じゃない。キノコだよ。」これは、今年の年頭説教で引用した、セリフでした。人間は、何によって、人間になれるのかを問うのです。人間が、キノコになってしまうのは、どうしてなのか、この究極の問いがここでも、問われているのです。

さて、水を飲む時間を節約するという、この極めて奇抜な物語は、いったい何を意味しているのでしょうか。生きる上で絶対に必要なもの、必要なこと、それこそ食べること、飲むことでありましょう。それをなくせば、生きて行けません。また、この物語の主人公の飛行士は、実は、この王子さまが、この薬売りの商人の思い出話を聴いていたのは、今まさに、一週間分の飲み水を入れていた水筒の最後の一滴を飲みほしてしまったところなのです。飛行士にとって、そのような薬があれば、夢のようでしょう。何としても手に入れたいと思うようなことでしょう。

さて、このエピソードの後、すぐに、実は王子さまと飛行士は、井戸を捜しに砂漠を歩き始めます。そして、井戸を発見します。この物語のクライマックスです。ヨハネによる福音書第4章に、サマリアの井戸辺で一人の女性と主イエスとの出会いの物語があります。主イエスは、サマリアの井戸に汲みに来た、女性に宣言しました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

サハラ砂漠の真ん中で、最後の一滴を飲みほしてしまった飛行士の恐怖は、どれほどのものでしょうか。そのような、彼が、このエピソードを聴かされたのです。言うまでもなく、肉体にとって、絶対に水が必要です。それを疑う人は一人もいません。肉体を持つ我々の実体験に基づくのです。ところがしかし、私ども人間にとって、それと同じように必要なものとして永遠の命に至る水、つまり、主イエス・キリストが与えて下さる命の水の存在とその必要性を、疑う人は数知ず多いのです。キリスト者の中にも、あのマルタのように、食事の世話、肉体の糧、飲食を優先したマルタがいました。

先週の説教でわたしは、一杯の飲料水の中に、神の愛を見ることができるのだと申しました。しかし、それは、どうしてそのように見えてくるのかと今一度、確認致しましょう。それは、私どもが、まことの水、それを飲めば、単なる飲料水とはまったく異なった水、もはや渇くことのない水である主イエス・キリストという永遠の命に至る水を受けているからです。私どもは、永遠の命に生かされる水、主イエス・キリストご自身の尊い命と愛を溢れるように、毎日、受けているからです。この主イエス・キリストのおかげで、私どもは、人生の究極の渇きをいやされているからこそ、一杯の飲料水にも、神からの恵みと愛を味わうこと、見ることがでくるのです。

さて、このエピソードを今朝のテキストの中で、取り扱った本来の目的は、時間の節約とは何かの問題でした。そこに戻りましょう。時間を節約する薬、しかも水を飲む時間です。偉い学者先生は、一週間で、53分の節約になると言うのです。いったい、なぜ、53分なのでしょうか。一日で言うと7、8分となるのでしょうか。ゆっくりとお茶を飲めば、もっと時間がかかるでしょう。反対に、ただ喉の渇きをいやそうと、一気に水を飲めば、一日に、1分ほどではないかと思うのです。わたしは、説教準備の黙想のなかで、自分なりに気づきました。関連する書物には、誰も書いていません。しかし、かなり強い確信があります。

子どもたちへのクリスマスプレゼントとして、作品を書くことを依頼された著者は、この井戸水で、水を飲んだときの水をこう表現しました。
「心にもおいしい贈り物なのだ。(水なのだ。)ちいさなこどもだったころ、クリスマスプレゼントをもらったとき、クリスマスツリーの明かりや、真夜中のミサの音楽、そしてみんなのやさしいほほえみのおかげで、プレゼントがきらきらと輝きだすように感じたのにも似ていた。」立った一杯の井戸水は、肉体ばかりか、心にもおいしい贈り物となるわけです。そして、それは、何が必要なのでしょうか。それは、「ツリーの明かり、ミサの音楽、みんなのやさしいほほえみ」です。サンテグジュペリは、カトリックのキリスト者です。カトリックの方であれば、もしかするとピンと来るのかもしれないと思うのですが・・・。53分、それは、まさに、カトリックのミサの時間の象徴、メタファー、暗喩ではないでしょうか。

現代人の多くの人は言うかもしれません。「礼拝の時間があれば、何ができるか。どれだけ稼げるか。どれだけ、休日を楽しめるか。そうだ、教会に行く時間を節約しよう。それこそが、いやな仕事から解放されて、休日を楽しむ方法だ。」しかし、神を礼拝する時間を節約する、亡くしてしまう、それこそ、まさに死なのです。そのとき、人間は、人間ではなくなっているのです。キノコになるのです。肉体の水を飲まなくても生きれる薬は、売っていません。しかし、永遠の命の水を飲まなくても生きれるよ、楽しめるよと謳う、ものはどんどん売られています。昨年末、世間をにぎわわせた、大麻という麻薬の問題がありました。しかし、違法な麻薬だけではなく、たとえば、ゲームソフトなどもその典型ではないでしょうか。テレビでもレジャーでも、勉強でも仕事でも、たくさんあります。教会に行くより、もっと有意義だ、将来に役に立つと言われて、受験生は、教会に行かない。教会は、合格後に、ということになるかもしれません。
けれども、どうぞ、知って欲しいのです。もしも、私どもが、そのように時間を節約して、好きなように使っても、それでは、人間は死ぬのです。人間として生きれないのです。クロノスだけが過ぎて行ってしまうのです。カイロスがないのです。そこには、本当に自分の今、自分自身のかけがえのない人生がないのです。誰かの借り物のような生活になってしまうのです。

どうすればよいのでしょうか。答えは、明白です。この時間の中に、主イエス・キリストをお迎えすることです。あなたの生活の真ん中に、主イエス・キリストをお迎えすることです。そのときこそ、クロノスはカイロスになります。質的に変化します。空しい人生は終わります。充実した人生が始まります。なにも仕事を変える必要はありません。家事や育児をやめるのではありません。今までいやいやしていたことすら、充実し始めるのです。そこにも主イエスさまが共にいてくださることを知ることができるからです。今この瞬間に、神の愛を見ることができる、そのようにして、私どもの人生は、新しくされて行きます。この日用の糧を今日も、今日与えて下さいとは、このように、今日という今の真ん中に、主イエス・キリストを迎え入れる言わば、場所を開ける祈りなのです。

神さまが与えて下さるのは、今このときを、本当に有意義に過ごすためなのです。礼拝を捧げることによってこそ、私どもはまことの人生を、つまり、自分本来の自分を、その命を生きることができるようになるのです。そのためには、どうしても、神の命、主イエス・キリストが必要なのです。

最後に実は、「日用の糧」、「わたしたちに必要な糧」というギリシャ語は、本当には、どのような意味を持つのかは、簡単ではありません。何故なら、このギリシャ語には、日用の、日々のという意味もあるのですが、「将来の」という意味もあるのです。ですから、ある人は、「将来の糧を今ここで与えて下さい」と訳すのです。そうなると、それは永遠の命を、今、ここで与えて下さい問う意味になるでしょう。しかし、本来の意味がたといそうであっても、要するに同じことでしょう。

つまり、お水は、体にだけではなく、むしろ魂にこそ、必要なのです。そして主イエスは、今この瞬間、信じる人の魂に、渇くことのないまことの水を、つまり、神の愛を、永遠の命を豊かに注いで下さっているのです。こうして、神は、今ここで、永遠の命を与えることによって魂の必要を豊かに顧みて下さり、豊かに満たしてくださと同時に、実に、私どもの肉体の水、パンをも必要なだけ備えて下さるのです。神に感謝します。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは私どもに人生を、生きるこの時間をつくり、与えていて下さいます。しかし、あなたなしでは、ただ時間を過ごすだけとなって、空しく終わります。本当に生きることができません。あちこち、右往左往しながら、迷いながら、自分を失い、自分の人生を生きることができません。どうぞ、この祈りによって、私どもが真実の人生を生きることができるようにしてください。そのために、正しく礼拝する力を与えて下さい。御言葉を豊かに与えて下さい。そのようにして、毎日の生活の真ん中に、主イエス・キリストを常に、迎え入れることができるようにしてください。充実した、人生の目的にかなった歩みをつくらせてください。アーメン。