過去の投稿2010年1月26日

「究極の幸福」

「究極の幸福」
                    主の祈り 第5祈願?
招  詞 詩編 第32篇1節-5節
テキスト マタイによる福音書  第6章12節
「私たちの負い目を赦して下さい、
私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」

 今朝、私どもは、「いよいよ」、主の祈りの第5番目の祈りを学びます。先週までは、第4番目の祈り、「日用の糧を今日も与えたまへ」「私たちに必要な糧を今日、与えて下さい。」を学びました。先々週の説教題は、「一杯の水に、神の愛を見る。」そして先週の説教題は、「今この瞬間に、神の愛を見る」と致しました。「日用の糧を今日も与えたまへ」の祈りは、まさに衣食住そのもの、そして、毎日という時間、その暮らしに直にかかわる事柄が取り扱われました。したがって、この祈りは、キリスト者だけではなく、まさに地上を生きるすべての人にとって、言わば、身近な祈りなのだと思います。三度の食事のたびに祈るべき祈り、祈りたい祈りだと思います。

さて、主の祈りの前半は、神について、後半の三つは、私どもに身近な祈りの課題について扱われるのだと既に学んでまいりました。しかし、いかがでしょうか。「私たちの負い目を赦して下さい」「われらの罪をも赦したまへ」我々は、このように、神さまに罪を赦して下さいと、毎日、それこそ三回、唱えているでしょうか。いへ、一般の方のことを議論するのではありません。キリスト者じしん、いかがでしょうか。私どもは、主イエスさまの十字架によって罪を赦され、永遠の命を与えられ、神の子としていただいた者たちです。そのような私どもなのにもかかわらず、日に一度でも、この祈りを真剣に、真実に祈る必要を覚えているのでしょうか。もし、この祈りが、自分の信仰の生活、日々の暮らしのなかで、切実なもの、切実な祈りとなっていないとすれば、それは、何か重大な間違い、いへ、もっと言えば、決定的な過ちをそこで犯している可能性があるのではないでしょうか。

ただし、この毎日のパンを祈り求める祈りと、罪の赦しを求める祈りを、まさに毎日祈っている、それを生活に根付かせている、そのような伝統に生きているキリスト者も少なくないと、言います。ドイツのキリスト者の家庭では、食前の感謝の祈りとして、このような短い祈りを大人も子どももするのだそうです。「主よ、私共になくてならないものが二つあります。それをあなたのあわれみによって与えてください。日毎のパンと、罪の赦しを。アーメン。」実に、すばらしい祈りです。これは、明らかに主の祈りの言葉を反映した祈りであります。誰でも、日毎の食べ物がなければ肉体の生命を維持できません。生きてゆけません。それとまったく同じように、人間は誰でも、罪の赦しなしに生きてゆくことはできないことを、この祈りは、常に突き付けるのです。主の祈りは、この第5祈願において、まさに、圧倒的にキリスト教のキリスト教たるゆえんを明らかにするような祈りです。キリスト教の独壇場です。ただし、問題はそこであります。我々は、いえ、繰り返します。他ならない私共キリスト者じしん、その事を本気で信じているでしょうか。本当に、そう考えているのでしょうか。それが問われるのです。今朝、深く問わなければならないのです。

私どもの教会のまさにルーツにあたるのは、スイス、ジュネーブの教会を御言葉によって改革した牧師、ジャン・カルバンとそのグループです。ジュネーブの教会は、聖書の教えに従い、聖書に書いてあることだけに基づいて、主の日の礼拝式のプログラムを整え直しました。そして、礼拝式の中心に神の言葉の朗読と説教を据えたのでした。当時のローマ・カトリック教会の礼拝プログラムと比べれば、とても簡素なものとなりました。しかし何と言っても、改革派教会の礼拝式の中で際立ったのは、「罪の告白」を会衆皆で唱えることだったのではないかと思います。

 そもそも、罪の告白を重んじること、これはローマの教会も私ども改革教会も、信仰の生活にとって決定的に重要であると等しく理解しています。ローマ・カトリック教会の礼拝堂に入られた方もいらっしゃると思います。そこに小さな部屋があったことに気づかれたのではないかと思います。その小部屋を、告解室と申します。告げるという漢字に解決の解という漢字を合わせて「告解」です。信徒が自分の犯した罪を司祭である神父さまに告げる部屋です。司祭は、それを聴いて、赦しを宣言するのです。つまり、信徒を罪の縄目から解くわけです。司祭は、宣言するだけではなく、罪の悔い改めにふさわしい善い行いを具体的に教え、励まします。このような罪を犯した魂が丁寧に配慮されることは、極めて、大切なことです。ところが、教会の改革者たちは、その小部屋を撤廃してしまいました。その制度そのものを捨てたのです。その理由は、罪を告白し、赦しを告げることができるのは、司祭、神父だけではないという理解です。それは、信徒どうしで行える。罪の赦しの権能は、教会に与えられているのであって、司祭という職務者だけが行うものではないという聖書の信仰に、もとづいているのです。その代わり、改革者たちは罪の告白を、主の日の礼拝式の中で、毎週行うこととしたのです。カトリックの信徒は、教会の法として、一年に最低一度、告解をする義務があるそうです。私どもは、それを言わば、毎週、共同でしているわけです。

 お気づきのことと思いますが、私どもの教会の礼拝式では、この「罪の告白」を、プログラムの形では行っていません。しかし、これもまた、お気づきのことと思いますが、わたしの捧げる祈りにおいて、何が中心になっているかと申しますと、それは、私どもの一週間の罪を代表して告白し、懺悔する祈りの言葉です。告白に対する神からの罪の赦しは、まさに、礼拝式全体で、何よりも説教と聖餐の礼典によってはっきりと告げられます。これが私どもの教会の礼拝式の言わば、中身です。

このような罪の告白、あるいは、十戒の後に唱える「主よ、憐れんで下さい」という言葉に対して、少なくない日本人は、違和感を覚えるのです。ここにこそ、日本人が克服すべき課題の急所があります。まさに、日本人の決定的問題がここにあると言わなければなりません。

わたしは大学生の頃、友人に自分がキリスト者であると、ことあるごとに証しました。そのとき、何度も聴かされた言葉があります。「クリスチャンネームは、あるの?教会に行ったら、懺悔するのでしょう?」からかう気持ちが半分以上です。懺悔する必要のある人が教会に行く。そして黒い服を来た、神父さんに赦しを頂いて帰って来る。そのようなイメージがあるのかもしれません。そして、そこに何か暗いイメージを抱くのです。「『憐れんで下さい』などと大の大人が、あまりにも情けないではないか。男子たる者が、あまりにも女々しい、弱々しいではないか」という感覚があるのだと思います。かつてのわたしも抱いていたイメージです。しかしこれこそ、全くの誤解、間違いなのです。

いったい人間にとってもっとも幸いなこと、究極の幸福とは何でしょうか。確かに幸福と言っても、一人ひとり何を幸福に思うのか、異なります。しかし、考えなければなりません。人として、人にとって共通のものがあるはずです。1世紀の人間にとっても、21世紀の人間にとっても、ヨーロッパの人にとっても、アジアの人にとっても、共通の、普遍的幸福があるはずです。それは、一体何なのでしょうか。これこそ、実に基本的で、しかし大切な問いです。

今朝の招詞は、詩編第32編を読みました。詩編の中でもとても有名です。ダビデの詩です。これは、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第4章で引用しました。「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。]

あるとき王ダビデは、罪を犯しました。それは、自分の部下の妻を横取りした罪でした。そのために、ダビデは部下を戦争の前線に駆り出し、巧妙に、殺してしまいました。恐るべき罪、卑劣極まりない罪です。さて、我々の感覚から言えば、もし、この罪を懺悔するなら、殺したウリヤ、その妻バテシバに向かうべきではないでしょうか。ところが、ダビデは詩編第51編でこう歌っています。

「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。」いかがでしょうか。間髪をいれずに、「おい、違うだろう」と突っ込みを入れたくなるかもしれません。お詫びし、赦してもらわなければならないのは、神さまに対してではなく、取り返しのつかない罪を犯して、傷つけたこの夫婦に対してのはずです。ところが、ダビデは、ただあなたにと、神の目に罪を犯したと強調しているのです。ここに聖書のメッセージがあります。罪とは、神の前に負う、負債であるという理解が鮮やかに示されているのです。罪とは、神さまとの関係における負債、借金なのです。したがってこれは、神に支払わなければならない負債なのです。あのダビデの罪は、人間的に言えば、犯罪です。殺人罪です。そして姦淫の罪です。彼は、その負債を彼らに負うことは、正しいし、必要です。しかし、日本人は、せいぜいそこで終わる、終わらせるのです。それ以上がないのです。

ところが、聖書が明らかにするのは、罪とは、神とのあるべき正しい関係を破ること、御言葉を破ることなのです。人間は、人間に対して負債を負うだけではなく、何よりも、誰よりも負債を負わなければならないのは、造り主なる神に対してなのです。私どもの命、この肉体、この心、この魂、これらすべては神から与えられた贈り物です。これは、授かった者、与っているものなのです。つまり、これらのまことの所有者は、神、創造者なる神にあるのです。ですから、私どもは絶対的な責任がある存在なのです。それは、お父さんやお母さんに対してでも、兄弟や家族に対してではないのです。自分自身に対してでもないのです。もとより、まったくないわけではありません。

しかし、この一番大切なことは、忘れがちなのです。いへ、あるいは、一度も悟ったことがないのです。それは、何か。それは、神に対する責任です。私どもは義務があります。神に報告する義務です。自分のいのちだから、自分の勝手にする。いやになれば自分で決着をつけるということが、行われます。自殺の問題です。しかし、私どもの人生は、神さまに対してだけ、報告の責任と義務があるのです。そのときは、誰ひとりの例外もなく、求められます。それを最後の審判と申します。そのとき、私どもの負債は、どれほどのものになっているのでしょうか。けた外れのものでしょう。何百億、何兆円。そのような途方もない借財になるはずです。なぜなら、神が私どもの罪を赦して下さる方法を知っているからです。それは、ただ一つしかない方法でした。その神のみ業から逆算して計算すれば、それは、計測はできません。お金でも、重さでも、広さでも、高さでも、深さでも、どんな測定もできません。はかりがないのです。それは、神の御子のいのちを、十字架で、私どもの負債を支払う代価、代金とされたからです。私どもの負債は、それほどまでのものなのです。

私どもは、聖書を読んで、ダビデが犯した罪を知るとき、おそらく多くの人は義憤に駆られるだろうと思います。「こんな男、こんな王は赦してはならない。卑劣な男、極悪の王!」と考えると思います。しかし、私どもは、そこでこそ、自分を偽ってはならない、欺いてはならないはずです。もし、自分が同じ立場に置かれたら、自分なら、どうであったのかと考えてみるとよいでしょう。確かに、「いへ、まさか自分はそんなことは絶対にしない。」そう言う方も少なくないと思います。しかし、だからと言って、その人自身が、自らを省みて、そのような誘惑、悪い考え、思いを抱いたことがないと、言えるのでしょうか。

主イエスは、実際に姦淫を犯さずとも、心の中で、姦淫の罪を犯すことがあり、それもまた、姦淫の罪と同じなのだと、宣言されました。何故なら、人間はもともと、神の聖さ、神の正しさに照らして、神の目の前に、その正しさ、聖さの前に立ちうる者として、造られているからです。ところが、今は、そうではなくなってしまっているのです。アダムとエバの物語を語り直す暇がありません。私どもは、神の御前にまさに、罪人になっているのではないでしょうか。そして、その罪は、たとい、あのダビデが王であり、権力者であって、この事実をもみ消すことができたとしても、―実際にできたし、したわけですが―、神の御前には、もみ消せないのです。神の御顔の前には、残るのです。そしてその責任を神がお問いになられるのです。

そのとき聖書はただちに言います。その責任は、あなたのいのちで償う以外にない。そのいのちとは、単に肉体のいのちが奪われることではありません。心や魂、神から頂いたいのちのすべてです。神との交わりという、永遠のいのちです。この命こそが奪われるのです。聖書はそれを永遠の滅びと告げます。神の前に、ただ神に罪を犯した私どもは、神の正当な審判を受け、神の正しい刑罰、つまり罪人である私に、永遠の死、永遠の滅びが求刑され、やがて執行されるのです。

だからこそダビデは、このように歌ったのです。喜びに踊り上がるようにして、こう歌ったはずです。「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」罪を赦された人間こそ、幸福の極みなのです。ダビデはさらに言いました。「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを/赦してくださいました。」罪を赦された人間こそ、幸いな人なのです。
 
主イエスは、祈りを教えて下さる中で、神の前に負債をお赦し下さいとの祈りの重要性を、鮮やかに示されました。どうしてなのでしょうか。それは、そもそも父なる神を、わたしの父、私どもの父、私たちの父なる神とお呼びできるのは、お祈りできるのは、罪を赦されている人間だからです。罪赦されていなければ、どうして真の聖なる神に近づき、祈れるでしょうか。神に背を向け、その御顔に泥を塗って、いへ、そんな甘いことではなく、神の御子を十字架に追いやって殺してしまった、それこそが、私であり、皆さんなのです。これこそ、私の犯した罪であり、あなたの犯した罪なのです。

しかし、神は、その御子をご自身の永遠のご計画の下に、私どもの負債を帳消しにするために、十字架に与えて下さったのです。私どもを赦すため、救うために他なりません。赦されたから、祈れるのです。ですから、神に祈れる人こそ、幸いな人、言葉の真実な意味で、まことの幸福の人なのです。この幸福と他の様々な幸福とは比べ物になりません。比較できないのです。あまりにもすばらしいからです。すべての幸福は、この言わば唯一の幸福なしには、色あせるようなものだからです。逆に、言えば、この唯一の幸福、究極の幸福である罪の赦しがあれば、たとい他のすべての幸福を失っても、自分のことを幸福な人間であると、心の底から受け入れられるのです。そのようにして死んで行けるほどのものなのです。

最後に、今朝も、「星の王子さま」から一つのことを御紹介したいと思います。この20世紀最も読まれた小説と呼ばれる物語は、1943年にアメリカで出版されました。著者サンテックスは、フランス人で、当時、アメリカに亡命していました。すでに有名な作家であった彼は、アメリカの出版社から、このような依頼を受けます。「子どものためのクリスマスプレゼントとなる物語を書いて下さい。」この編集者の求めが、この傑作を生むことになります。子どものためのクリスマスプレゼントとして、刊行されたこの書物は、明らかに、子どもにはあまりにも深い内容をたたえていて、これを深く理解することは、極めて難しいと思います。大人ですら、まさに上辺だけで、読み終えられてしまうことの方が多いのではないかと思います。

さて、子どものための書物、として刊行されながら、実際に、このように深い物語になりました。どうしてなのでしょうか。それは、この物語が一つの明確な目的を持っていたからなのです。

ヨーロッパの優れた文学作品の多くは、プロローグから始まりエピローグで終わります。この星の王子さまのエピローグは、献呈の辞で始まります。この書物を捧げる人の名前が登場するわけです。それは、レオン・ウェルトと言います。著者の親友です。したがってもう大人です。大人のレオン・ウェルトのための書物なのです。子どもたちに謝る意味をも込めて、最後にこう言い換えました。「子どもだった頃のレオン・ウェルトに捧げます。」

どうしてこの親友に書きたかったのでしょうか。彼はユダヤ人で、飢えと寒さに苦しんでいたからです。1943年のフランスにいるユダヤ人、それは何を意味するのでしょうか。それは、今日にもナチスドイツの警察に捕えられ、毒ガス室に送り込まれるかもしれないという、まさにいのちの危機の真ん中にいるので
す。逃げ、隠れしていたのです。

献呈の辞で著者はこう言います。彼は今慰めてあげなければならない人なのです。彼には慰めがどうしても必要なのです。「慰め」、ヨーロッパのキリスト者であれば、「慰める」という言葉を聴けば、すぐに一つの書物を思い浮かべるほど有名な書物があります。ハイデルベルク信仰問答です。その問い一は、こう始まります。「生きるにも、死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答え、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。」

たとい自分が死ぬときでも、これがあれば、喜んで死んで行ける、少なくとも、死に負けない力、それこそが慰めなのです。人間は、誰しも、この慰めが必要です。慰めがなければならないのです。特に、あのときのレオン・ウェルトはなおさらです。そのために、この書物が書かれたのですから、奥が深いのです。著者が言うように、「寝転がって読んでほしくない」そのような書物となっているはずです。この書物の究極の主題は、死に打ち勝つ本物の人間のありようとな何かです。これを、描き出したのです。それをひもとく鍵の言葉こそが、「慰め」です。それは、私どもの信仰から申しますと、イエス・キリストに救われること以外にありません。恵みと愛に充ち満ちた真実の救い主なる主イエス・キリストに所有されることです。今朝の祈りの言葉で表現すればこうなります。慰めとは、主イエス・キリストによって罪を赦されることに尽きるのです。罪を赦された人は、真実の救い主イエス・キリストのものとされ、そのようにして、神の子とされるからです。神にその負債を赦された人こそ、生きるときも死ぬときも、幸福な人間として生き、死ねるのです。それこそが、本物の人間です。たとい毒ガスで殺されても、なお、慰めの力に包まれることは、できるのです。

献呈の辞ではありませんが、主イエスは、主の祈りを教えて下さる直前に、こう仰せになられました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ。」真にありがたい言葉です。天の父も、主イエスも、私たちになくてならないもの、必要なものを御存じなのです。それは、罪の赦しに極まる、そう言ってよいのです。ここにこそ、人間のまことの救いがあります。人生の勝利があります。主の祈りの第5祈願、これは、私どもに、自分が、負債を赦された人間、罪を赦された人間、慰められている人間、幸福な人間とされていることを、繰り返し思い起こさせていただくための祈りなのです。祈ることが許されている幸いな人間であることを、繰り返し、思い起こさせていただける祈りなのです。

来週、集中して学ぶ予定ですが、私どもは、こうして、この祈りの中で、神の御顔の前で、隣人の負債を数えることなどできなくされてしまいます。憤りに駆られることはできなくされてしまうのです。神の前で、自分の負債を帳消しにしていただいた者として、赦しに生きるようにと、向き直されるのです。

私どもは、この祈りを、まさに食事のたびに三度祈ること、そのようにして私どもの生活の真ん中で、自分の唯一の慰めがどこにあるのか、そしてどれほど、深く、確かに、揺るぎなく慰められているのか、その恵みと幸福、その喜びと感謝を確かなものとされるのです。この救いの確信の中で、生き続けることができるのです。

祈祷
 私共から父よ、と呼ばれることを恥となさらない、主イエス・キリストの父なる御神、憐れみの父。私共は、しばしば、他ならない自分自身があなたの御子を十字架で殺した罪人であることを忘れてしまう傲慢で、鈍感で、頑なな者であります。どうぞ、このまことに愚かで、罪深い心を赦してください。私共がこの主の祈りに導かれ、常に自分がどれほどの負債を負う者であるかを悟らせてください。それだけに、御前に罪の赦しを祈り求め続ける者とならせてください。そして何よりも、祈るその度ごとに、罪の赦しの恵みに与っている恩恵に心から感謝し、感動し、喜びを持って生きなおすことが出来ますように、御霊を持って導いて下さい。アーメン。