過去の投稿2010年2月1日

1月31日

★ 本日は、会員総会です。準備の為、委員おひとりお一人が良く準備されました。年報を作成して、 委員会としては、ほとんどその責任を終えたかと思うほどです。(実は先週、何年かぶりで、胃腸風邪をひきました。気が緩んだのかもしれません・・・)しかし、教会としては、この総会こそ!重要です。ここで、今一度、私どもの祈りを、高く掲げ、明確にし、そのために、一人ひとりが最善の献身と努力を注ぐことが求められています。同時に、風邪をひいたときは、「休む」以外にありません。教会は、「有機体」です。つまり、一人一人の、さまざまな信仰の状態の中で、皆で、歩むのです。休むときも、アリです。いへ、オオアリなのです!

☆ 先週の報告の折にも申しあげましたが、○○姉の手術前のお祈りの言葉をこの欄に御紹介したい・・・のですが、残念です。先週の説教の題は、「究極の幸福」でした。罪の赦しを受けたキリスト者は、 究極の幸福者です。この幸福の中でなら、たとい事故、災いで生命を失ったとしてもその人の生涯は「幸福」と言わざるを得ません。この幸福があるからこそ、小さな幸福たちもキラキラ輝くのです。この究極を、今朝も、心から感謝し、御名を、力を尽くして讃美しましょう。

★    降誕祭に受洗された姉妹から下記のようなメールを受けました。抜粋して御紹介します。
「神を知ることは、必ず自分の生き方を変えていただけることとなると思っています。 私は今生きている毎日をとてもとても大切にしています。 一分一秒も散漫に生きることがないように思っています。聖書が自分の生き方の指針になり、家のことも仕事も子育ても主人との関係も色々な事項の意志決定が、とても楽に確信をもってできるようになりました。まだまだ本当に理解が行き届いていないものも多く、毎日出来る限り多く読んでいきたいと思っています。 先週の説教のクロノスとカイロスのお話はとても興味深いものでした。説教原稿を何度も何度も読み返しました。こういった興味深い話を、ことあるごとに実家に帰るなり、友人と会うときなりに努めてしようと思っています。そこから神を知る人が興されれば、みんな、どんなに人生に確信を持って生きていけることでしょう。 主人にも、今は教会には来れないので、説教が終わったら「今日のお話はね・・・」と伝えるようにしています。       ~~~
~~~そういった、本で得られた限られた知識を振りかざして、真理を葬り去ってしまうのは本当に何も知らないで一生を終えてしまうことになってしまうと思うのです。 」

☆ 朝日新聞1月16日の夕刊で渡辺信夫先生が取り上げられていたとのことを伺いました。掲示しています。拝見し、改めて、改革教会の信仰の伝統に生きる私どもにとって、極めて重要な言葉が、「さらり」と語られていることに気が付きました。軽い衝撃を受けました。この欄で改めてご紹介致します。

 「―――そうした考えや行動もカルバンと関係がありますか。
 「ええ、一番学んだのは『良心』の問題です。一般に言う良心とは、世間並のレベルで自分を見つめるような意味合いかと思います。でも、カルバンの場合は、「神から授かった、自分自身を見ることができる目」とでも言うべき考えです。良心が対話できる相手は神しかいない。  彼は直接それを言っているわけではありません。でも翻訳をしながら、私はしみじみ、そのように感じました。戦争体験と重ね、良心にグサッと刺さることもありました。今回の改訳は、自分でも読みやすいとは思わない。でも私の胸には深く入ってくれました。」

  人間の良心の再発見、そこに人間の尊厳の根拠を見ることができます。人間が人間になるためには、「対話」が必須です。対話なしに、人は人になれないのです。最近の説教で毎週のように引用した、「星の王子さま」の究極のメッセージもまた、この対話の相手を指し示すところにある、とわたしは考えています。しかし、それは、神との対話まで行かねばなりません。自分を掘り下げること、それは、神との関係を掘り下げることなのです。神を知ること、それはただちに、自分(人間)を知ることになる、とは、キリスト教綱要の冒頭で指摘される決定的な真理です。したがって、神との対話を失えば、本来の自分を見失い、構築できないのです。「良心が対話できる相手は、神しかいない。」この言葉を心に何度もつぶやいてみて下さい。 「大切なものは目には見えない。」「僕は僕の薔薇に責任がある・・・」キツネに教えられた箴言を心に刻んだあの王子さまのように。忘れないために。掘り下げるために!

  渡辺先生は、15周年記念誌のご原稿を、さらに丁寧に推敲して下さっているとメールを頂きました。記念誌の刊行、今しばらく、お待ち下さい。小さな教会の為に、渾身の力を注がれる先生にただ敬服、感謝です。