過去の投稿2010年2月1日

「十字架上の祈り」

「十字架上の祈り」
                    主の祈り 第5祈願?
招  詞 詩編 第32篇1節-5節
聖書朗読 ルカによる福音書  第23章32節-38節
テキスト マタイによる福音書 第6章12節
「私たちの負い目を赦して下さい、
私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」
(わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』)
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 本日も、先週に引き続きまして、主の祈りの第5番目の祈りを学びます。これまで、主の祈りの説教で礼拝式を捧げるときの聖書朗読は、ほとんどがその日解き明かされるテキストだけを読んでまいったかと思います。けれども、今朝は、第15節まで続けて読みました。主の祈りが収められている福音書は、マタイによる福音書とルカによる福音書だけです。マタイによる福音書においては、この祈りは、山の上でなされた説教の中で、語られます。そして、マタイによる福音書では、14節、15節はここで語られた祈りについての教え全体の中で、言わば、結論の言葉にあたります。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人の過ちをゆるさないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

今朝は何故、「私たちの負い目を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」の祈りだけでなく、最後の14、15節まで朗読したのか。おそらくすぐに気付かれることと思います。この第5祈願が、自分自身の罪の赦しを取り扱い、同時に、隣人の罪を自分が赦すことが一つにくくられて、一つの祈りとされているからです。主イエスが、教えて下さいました祈りについての教えの結論こそまさに、私たちの隣人の過ち、負い目、罪を赦すべきことを告げるものでした。つまり、神さまにお祈りすることと、隣人の罪を赦すこととは、極めて深く関係し合っている、深く響き合っているのであろうことが直観的にわかる、少なくとも、うすうすと気づけるだろうと思うのです。
 
 主イエスは、主の祈りをお教え下さる直前に、こう仰せになられました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ。」まさしく、神さまの方が、私どもにどうしても必要なものを御存じなのです。しかし、実は、とても恥ずかしいことですが、その最も大切で、これなしには生きれはしない、その最優先しなければならないそのことを、私どもがしばしば、後回しにしてしまいます。多くの人たちは、こう思っています。「そのようなものは、自分の暮らしに必要はないと、まったくとてつもない間違い、勘違いを犯しています。ついには、まったく気づかないまま過ごすという最大の危険、究極の危機の中に落ち込んだままになっているのです。

先週のおさらいになりますが、人が人であるためにどうしても必要なもの、それは、唯一の慰めであると学びました。その唯一の慰めとは、神の御前に罪を赦されることなのだ、それこそが、誰にとっても例外なしに究極の幸福なのだと学びました。人間にとって、罪が赦されることにまさって、必要なことなどありはしないのです。それだけに、罪が赦された人間こそが、究極の幸福に生かされている人と断言できるのです。

この真理、この事実を、今、逆から見てみましょう。父なる御神は、一体、何故、御子なる神を人とならせられたのでしょうか。この神を人間とならせたのは、この御子に苦しみを味あわせるためでした。つまり、十字架で、人間の罪を償わせ、罪を罰するためでした。その罰は、十字架の上で、神の罪に対する怒り、呪いを、愛する独り子に負わせになられるほど、御父にとっても、御子にとっても、どれほど苦しく、どれほど悲しく、恐るべきことであったのか、わたしどもにはついに理解することはできないほどの、ものであると思います。それは、ただ、私どもに本当の幸福を、本当の命を、生きることを、救いを与えるために他なりませんでした。ですから、人間にとってこれ以上に必要なものはないのです。十字架以上に尊い出来事は、この地上に起こりませんでした。十字架の死以上に、限りない、激しい、深い、広い、高い、豊かな、驚くべき愛は存在しません。そして、その愛は、ただ、まっすぐにわたしへと、あなたへと向かってくる愛です。

それほどの愛、それほどの犠牲が2000年前に起こったのです。ですから、人間にとって十字架以上に、必要なものはありません。私どもは、この神の愛で一方的に、決定的に罪を、負い目を、数え切れないほどの借財を赦され、放免していただいたのです。どれほど感謝しても、しきれません。どれほど讃美しても、足りません。本当に、今朝も、今この瞬間も、私どもは救われている幸福、神の子とされているありがたさ、幸いに驚かざるを得ないのです。

 さてしかし、今朝の説教は、その次の問題、課題を考えることです。主イエスは、きちんと、お問いになられるのです。「そのような赦されたあなたは、一体、父なる神さまの御顔の前で、人の過ちを、絶対に赦さない、絶対に忘れないと言い張れますか。あなたは、一方的に自分に負債を負わせた相手に対して、絶対に復讐する、絶対にやり返すと考え続けることなどできますか。神に赦されたあなたが復讐することは、できるのか」

いへ、お問いになられているのではありません。主イエスは、宣言なさったのです。「あなたが本当に、神の御顔の前に生きているなら、あなたは、自分が罪を赦された者であることを忘れることはできないはずだ。そのような人間が、自分の損害を与えた相手を赦さないままに、平然としていられるはずはないでしょう。」

 この宣言は、さらに鋭く、言わば、警告すら込められていると思います。「もし、人を赦さないままであれば、それは、あなたが神さまに赦されていないままだからです。もし、神に対するあなたの負債がそのまま残っているのであれば、あなたは破滅ではないか、滅びる以外にはない。」実に、厳しく、厳粛な警告です。
 
 さてしかし、です。おそらく、既に私どもの心の中は、何かそわそわしはじめて来ます。苦しくなってくる、不安になって来ます。それは、当然のことだと思います。何故なら、「確かに、牧師が言う通り、ここで主イエスがお教え下さったことは、論理的に言って、間違いない。その通りと認めざるを得ない。神さまの前に真実に赦されているのだったら、当然、人の罪をも寛大に見てあげなければならないはずだ。」こう、頭では分かっているのです。ところが、心ではそれを受け入れられない自分が、頑としているのです。したがって、それを実行することが難しいのです。

わたしはつくづく思います。おかしな実験かもしれませんが、もしも、自分がどんな人間なのかを、真実に知ろうとする勇気を持っているなら、この実験をなさったらよいと思います。それは、聖書が言う、自分がどれほど罪深い人間であるのかを悟るための実験です。それは、私どもの罪深さを知る道です。最も深く知る道だと思います。それは、この主の御言葉を実践するところにあると言っても決して言い過ぎではないと思います。「私たちの負い目を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」この祈りを文字通りに祈り、実践することです。私たちに、自分にとてつもない負債を負わせた人間を赦すことです。もし、私たちが、この主の御言葉を、本気で、実践しようとすれば、ただちに、分かるはずです。どれほど困難であるか、いや、それは本当にはできないと。

 さて、そうなりますと、あらためて考えてみましょう。「私たちの負い目を赦して下さい、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」この主イエスがお教え下さった祈りを、こう理解してお祈りすることはできるでしょうか。つまり、「わたしが、隣人から受けた負債を帳消しにしているので、神さまも、わたしに倣って、わたしがあなたに及ぼした負債を帳消しにして下さい。」絶対にできないと思います。このような、祈りを、一体だれが、神さまに捧げられるでしょうか。

赦すという言葉は、忘れると言う意味もあります。あの人、この人の顔を思い出すと、怒りがこみ上げる、そんな悲しい経験を、したことのない人はまさに幸いです。しかし、十数年も生きてきたら、そのような人は、ほとんどいないのではないかと思います。あるいはこれから経験するはずです。いずれにしろ、自分が誰かを赦すことを条件にされて、自分の罪が赦されると解釈するなら、この祈りを、一体だれが祈ることができるのでしょうか。それこそ、神への冒涜以外のなにものでもないでしょう。
 
 さて、私どもは今一度、自分たちが、神の御前で罪人であるか、どれほど人を赦せない人間であるかを、思い返してみました。
しかし今朝はそれと同時に、この祈りを祈るとき、もっと大切な真理、最も大切な真理をご一緒に考えたいと思います。

私は、かつてこの祈りを解説する一人のアメリカの神学者の書物を読みました。多くを教えられました。しかし、ハッキリとそれは違う、まったく違うと思わされたことがありました。著者は、この「主の祈り」は、主イエス・キリストご自身が祈られた祈りではないと断言なさるのです。こう仰っいます。「主イエス・キリストは罪のないお方であるから、神の御前で負い目をもってはおられない、だから、この第5祈願をイエスご自身が祈られた事はない、一度もない。」

 勿論、主イエス・キリストが神の御前に芥子粒ほどでも、何か負い目を負っておられるなら、十字架上での主イエスの死は私共の罪の赦しとはなりません。罪の全くない者が私に代わって神の永遠の刑罰としての死を死なれる以外に、罪の贖いは不可能だからであります。救い主イエスさまは、まったく罪を犯したことのない、そのような人間だからこそ、私どもの贖いの代価となれたのです。私どもを、お救いくださる条件を満たしていらっしゃるのは、罪のまったくない、イエスさまだけであって、このお方の十字架だけです。しかし私は、そのことをよく弁えた上で、この主の祈りの全体を、むしろ、何よりもこの第5祈願こそ、主イエス・キリストが実際に祈ってくださったことを信じるのです。まさに主イエスの祈りであることを確信しています。
 
ルカによる福音書の第23章34節には、十字架の上での主の祈りの中でも有名な言葉を記しています。「そのとき、イエスは言われた『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないのです。』『父よ、彼らをお赦しください。』これは、主イエスの十字架の上での祈りです。この祈りは主イエスだけが祈れる祈りです。主イエスだけが、全人類の中で、ただ一人このように祈れるのです。それは確かであります。しかし、主イエスは私共と決して、他人ではありません。私共の救い主となってくださったのであります。それは、私共と立場を同じくすると言う意味です。それは、私共のお兄さん、長兄となってくださったと言うことであります。それは私共にとって何を意味するのでしょうか。

 父なる神は、イエスを私どもの兄弟と見られました。それは、私どもの代表でもあるのです。このイエスが、十字架の上で、ご自分を殺し、神に反抗する罪を犯した者たちの負い目を全部、ご自身が引き受けられ、しかも彼らの罪をことごとく赦して下さいと祈られたことは、まるで、このわたし、あなた、人のことをちっとも赦せないままでなお、悶々としている罪人に他ならないわたしの代表として見ていて下さるのです。

 実に、実に恵みであります。不信仰者、未信者の方からは、そんなむしの良い話があるかと、叱られるかもしれません。「『父よ、彼らをお赦しください。』これは、すばらしい愛の人イエスの祈りであって、あなたの祈りではないはすだ。」こう、仰っるかもしれません。まったくその通りであります。

 しかし、聖書は証するのであります。それは、イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストがなした御業をあたかも信じた自分が神の前でなし遂げたかのように、父なる神は私共をご覧くださるという福音の真理であります。それゆえに、私共は、罪人でありながらただ、御子の「いさおし」、イエス・キリストの「功績」によって、罪を帳消しにされ、そればかりかまるで御子イエスのように私共を受入れ、愛してくださるのであります。

 そこで決定的に大切なことは、「私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」という「私たち」という複数形の言葉の意味であります。この『私たち』は、キリスト者お互いの私たちということだけではありません。むしろ、この私たちとは、キリストと私、キリストと私たちという「私たち」こそがその中核となっているのです。実に、主イエス・キリストは、私共をご自身に巻き込んでくださるのであります。私共は、隣人の負い目、罪を完全には赦し切れていないのに、もう既に、「わたしたち」と仰っるのであります。そのようにして、私どもをご自身の側へとくくりつけて離したまわないのです。

 ここで、「私たちの負い目を赦して下さい。」という祈りの言葉を考えましょう。この言葉は、米国の神学者が言うまでもなく、主イエス・キリストご自身のうちには、神に対してどんな僅かの負い目もお持ちになってはおられません。それは全く確実であります。

しかし、その主イエス・キリストが私たちと肩を並べて、つまり、私どもの仲間の一人となってくださって、私どもの代表となってくださって、神の御前に跪いて、こう祈られたのであります。そうであれば、どうして、父なる神は、御子を断罪できるでしょうか。どうしてお捨てになられたままでいられるでしょうか。同時にそれなら、どうして、父なる神は御子イエス・キリストがしっかりと肩を抱いてくださる御子の弟や妹たち、即ち私共キリスト者の罪をゆるさないでおれるでしょうか。御子は、十字架で、死に至るまで父なる神に服従を貫かれたのです。御子は、完全に父の御心に従われたのです。

父なる神は、それを完全に受け入れられた証拠に御子を死人の中からよみがえさせられました。そうであれば、私共の罪もまた、主イエス・キリストのお陰で赦されること、赦されていることは、確実です。確実すぎるほどです。

 こうして私共は、「主の祈り」を、「主イエスの祈り」だからこそ、自分じしんの祈りとして、実に大胆そのものですが、今朝も祈ったのです。明日も祈れるのです。罪人を救うイエスさまが、同じ立場に立ってくださった祈りだからです。主イエスは、私共に代わって祈られたのであります。私共の代表になって祈られたのであります。だからこそ、私共はこの祈りを祈れるのであります。それは勿論、この第5祈願のことだけではありません。この主の祈りのすべての祈りは実際に主イエス・キリストが祈られた祈りなのであります。主が先に祈られた祈りであるからこそ、私共は逆にどんなに小さな、わずかの、弱々しい信仰であっても、たとえ、信仰が与えられて日の浅い者であったとしても、畏れ多くも、この祈りの全て、六つの祈願のすべてを自分の祈りとして祈ることができるのであります。

 確かに「御名が崇められますように」と祈りながら、自分の願い、自分の考え、自分の名前をも崇められたいと、未だ完全な意味で、主が教えて下さったように心の底から祈れない思いを抱えている、情けない自分がいるかもしれません。しかし、私共はそれにお構いなしに祈れるのであります。その自分の弱さに負けないで、祈るのです。私共の代表となられた主が祈られたからであります。主イエスが、私に代わって、わたしの代表になって、祈られたからです。私どもは、この主イエスと信仰によって、洗礼によって一つに結ばれているかぎり祈れるのです。たとい、「御心がなるようにと」祈る心の中に、実際にはなお「中途半端さ」に嘆く自分がいるとしてもです。なおそれに構わず祈れるのであります。間違ってはなりません。決して、この祈りに相応しい祈りの心、信仰の生き方が確立したうえで初めて、ついに、自分も堂々と胸をはって、主の祈りを祈る事が出来るのではないのです。私共の主がすでに、先に祈られたからこそ、祈ることが出来るのです。

 「私たちの負い目を赦して下さい」私どもは、この祈りを私共の代表として、父なる神に祈られた主イエス・キリストに心の底から感謝する以外にありません。御名を讃美する以外にありません。そして、同時に知るべきであります。
 子どもカテキズムの問い37で、神さまが私たちに求めておられることは何ですか。とあります。答えは、「神さまが私たちに求めておられることは感謝することです。」こう記しました。そしてただちに、問い38でこのように問うのです。「あなたはその感謝をどのようにしてあらわしますか。」答え「神さまが聖書を通して明らかにしておられる御心に従うことです。」こうして、十戒についての学びが始まります。

 今朝は、十戒を学んでいるのではありません。しかし、十戒とは、要するに神を愛し、隣人を自分のように愛することだと主イエスがお教え下さいました。つまり、神と人への愛、二つで一つの愛に生きることです。神への感謝とは、口先だけではなく、行いを求められているのです。愛するとは、今朝学んでいることで言い換えれば、隣人の罪を赦すことなのです。こうして、この祈りは、私どもをして、終わりのない自分自身との戦い、信仰の戦いへと駆り立てさせる祈りとなります。ならざるを得ないのです。

最後に、私共はキリスト教会最初の殉教者ステファノのことを思い起こしましょう。彼は、この主の祈りを自分の祈り、自分の行いとした典型だからです。彼は、ユダヤ人から石を投げつけられて殺されます。しかし、そこで彼は跪いて、こう大声で叫びました。「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」(使徒言行録7:60)主の祈りの第5祈願の言葉と心とを自分の祈りの言葉と心にそっくりそのまま映すことの出来た先達であります。主イエスの救いの実力、聖霊なる神さまが人間を造り変えて下さるその威力を見させられる思いがします。主イエスの祈り、主イエスの救いが、ステファノのこのような生き方を作ったのであります。ステファノがもともとイエスに劣らない愛の人であったからということではありません。これが三位一体の神の御業なのです。

 私共は、主の祈りをこれからも大切に祈ってまいりましょう。自分のあるがままの信仰の姿で祈ってよいのです。そして、祈りのなかで、私共は変えられ、育てられて行くのであります。自分自身の罪の赦しをますます悟らせて頂けます。聖霊を注がれて、主イエス・キリストに似せられて行きながら、あの人、この人のところへ、あらためて遣わされてまいりましょう。

 祈祷
 私共が決して償うことのできないあなたへの負い目、罪を、御子に償わせてくださいました、御子の父なる御神、それ故に我らの父よ。受難週を迎え、御子の受難に信仰の心を集中する私共であります。そこで、御子が何故、御苦しみをお受けにならなければならなかったのか、その事に心を向かわせてください。神の御前に負い目を負う私共のその罪の深さと恐ろしさを認めさせて下さい。まずそれをキリスト者である私共から始め、深めさせてください。そして、未信者の方にも、聖霊の光を浴びて、自分の罪を嘆き、私共と共に、無くてならぬものを与えて下さい、罪の赦しを与えてくださいと祈ることが出来ますように。 罪の赦し生きる私共が、自分自身の罪と戦い、また隣人の罪の赦しの為に祈り労することができますように。アーメン。