過去の投稿2010年2月14日

2月14日

☆   先週の2:11「信教の自由を守る集会」は、「裁判員制度を考える」と言う主題のもと、委員の漆崎英之牧師が講演して下さいました。わたしは、開会説教で「審きは貫かれて、赦しとなる」と題し、姦淫の罪を赦された女性の物語を説きました。

講演は、裁判員制度が、?いかに冤罪を生みやすく、
?国家権力の自己正当化の中に、国民を半ば強制的に取り込む装置として制度設計されていることに警鐘を鳴らすものでした。よく準備された良き講演でした。

しかしながら、質疑応答で、三名の信徒方からは、下記のような問いが提出されました。「裁判員制度の中に、キリスト者として参加することによって、この制度を生かすようにできないのか」「反対するところまでは現時点で説得されにくい」「そもそも何故、裁判員制度を取り上げられたのか疑問である」それぞれに、講師が応えて下さったのですが、正直、とても残念に思いました。講演を聴く前なら、このような声が当然、挙がることを予想していました。だからこそ、委員会は、この課題を正面からとらえたのでした。
?の点については、司法制度の問題、専門的な課題があると思いますから、それこそ、専門家の知見が求められるかもしれません。制度設計者は、冤罪を生まないように市民の声を広く聞くことができる裁判員制度なのだと、正反対の主張がなされています。しかし、講演において、その主張の矛盾は鮮やかに示されました。まじめなキリスト者であれば、冤罪に加担したり、被害者感情によりそって厳罰化する過ちから、まぬかれやすいので、むしろキリスト者こそ、参加したらどうなのかという議論に陥りやすいとも思います。

失礼な言い方になるかもしれませんが、もし、わたしが講演を担うとすれば、?には深入りせず、?の課題に集中したいとも思いました。ここにこそ、信教、良心の自由を犯すことに無頓着な国家権力の罠があるからです。わたしは、もし、裁判員に選ばれても、拒否します。過料を求められたら、裁判闘争も辞さないと考えています。それは、この(危険な)制度(しかも、成立の過程にも賛成できません)に、「強制的に」参加させられることに、良心を疎外されてしまうからです。人間の尊厳は、良心の尊厳です。先週も書きました。「良心が対話できる相手は、神しかいない」(渡辺信夫)を思い起こしてください。この良心は、地球の上では、もっとも壊れやすいものなのです。(星の王子さま)しかしまさにそこにこそ、神の似姿が刻まれているのです。しかし、統治する側からすれば、良心は「やっかい」です。皆がそれぞれに、自分の良心を主張しだしたら、一つの方向にまとめることはできません。それゆえに、国家は、ときには、宗教の力を持ちだして、イデオロギーを用いて国民を統合させようとします。何よりも法律によってそれを合法的に行います。

私どもは、日本における少数者とされています。しかし、だからこそ、そこから真理が見えやすい位置に置かれているとも言えます。主イエスが見ておられたのは、体制側、一般常識ではなく、弱くされている側、神の常識(御心、愛、平和、正義)でした。お国のために、生きることは、すばらしい人生だと騙されて、しかも隣人に罪を犯した私たちです。国を良くする司法制度(裁判員制度)・・・、本当なのでしょうか。

先日の祈祷会で、「キリスト教のすばらしさは、イエスさまを信じない自由を徹底的に重んじるところにこそある」と、強調しました。この「自由」こそ、最も大切なことです。神の自由にもとづいて、人間にも自由が与えられているのです。だから、「似姿」「尊厳」があるのです。神もまた、人間の自由を犯すことはなさらない!!!ここに、キリスト教の真髄、プロテスタンティズムの真髄が
ある。わたしの確信です。

    そうなれば、裁判員制度に反対しない自由もあるでしょう・・・。講演者は、これを皆さんに強制はしないのだと最後に結ばれました。しかし私は、丁寧に学び、語り合って、日本キリスト改革派教会、少なくとも中部中会として合意形成は可能だし、すべきだと考えています。(ただし、同時に、裁判員制度を支持すると判断し、表明する自由を、教会は常に保持すべきです。・・・これも信徒の手引きの学びで確認しています。)

ひとりの教師から、「説教と講演にまったく感謝する、そもそも国民の声を反映させる司法を謳う裁判員制度であるが、死刑制度を容認する国民の声が85パーセントもの数になっている現状を見ても、国民の声を正義と考えること自体が危険な場合もあるはずだ」と、貴重なご指摘をくださいました。

★ ○○姉の赤ちゃん、神の永遠のご計画のもとに、いのちを与えられ、かけがえのない人生の舞台に置かれました。その全生涯が、神の恵みと支配の中で、キラキラ輝きを放ちますように。

○○兄をほぼ毎週、見舞っています。言葉、体の動きで意思表示はできません。しかし、信仰に支えられ、過ごしておられます。赤ちゃんと三輪兄の中に、同じ「もの」を見ます。同時に、三輪兄の方が、人生の年輪を重ねておられるだけにその輝きは、圧倒的に・・・、そのように見えます。