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「あなたの窓は開かれているか」

「あなたの窓は開かれているか」
2010年2月28日
招  詞 詩編 第18篇29節
テキスト マタイによる福音書 第6章19-24節 ?
 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

今朝も、先週に引き続き、三つの教えをまとめて朗読しました。主イエス・キリストは、19節から21節までで、「天に富を積みなさい」と語られました。そして、22節~23節では、「あなたがたの目を澄ませなさい。目を開いていなさい」と語られています。三番目は、24節で、「神と富に兼ね仕えることはできないはずだ、神にのみ仕えよ」と語られました。先週は、前半と後半の教えの二つを一つにして、そこから学びました。この二つは、共通して富、財産、お金のことが語られていたからです。

さて、本日は、この三つの教えの間に挟まっている短い御言葉を学びたいと思います。「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」ここには、私どもの目の問題が語られています。マタイによる福音書の著者のマタイにとって、この目の問題こそが、二つのメッセージを結び合わせ、そして、三つの説教全体をひも解くための、鍵となるからなのだろうと思います。

「体のともし火は目である。」主イエスのこの表現は、詩的な表現と言えると思います。詩人のように説教されたとも言えると思います。

私たち現代人にとって、たとえば、日常の生活の中で、「ちょっと、電気を点けて」と言うとき、それは、部屋の蛍光灯か白熱灯か、いずれにしろスイッチを入れて明るくして下さいということです。私たちは夜になれば、いへ、日中でも仕事をしたり、勉強したりするときには、電気を点けると思います。部屋に明かり
があるかないか、それは、私たちの生活にとって決定的に重要な問題です。

またたとえば、新しい暮らしを始めるために部屋を探すとき、そこで、先ず駅に近いかどうか、場所の問題が最重要でしょう。しかし、その次には、おそらく間取りになるだろうと思います。しかもその間取りは、方角が問題になります。日中に光がよく入る部屋なのかどうか、東南の角部屋であれば、言う事がないでしょう。

主イエスの時代もまた同じです。もしかすると私たちよりも、もっと灯りの問題、光の問題は切実な要素であったかもしれません。光を十分に取り込める窓があるかないかが、どのような暮らしになるか、決定的に影響を与えることになるからです。蝋燭の灯り、燃料油によるランプの灯り、それは、当時のライフラインだったのではないかと思います。

主イエスは、ここで、「体のともし火は目である。」と仰いました。これは、体を部屋になぞらえたのだと思います。わたしたちの体にとって、目こそが、ともし火となる、光となると仰います。ともし火は、暖かさ、安らぎ、楽しさ、団らん、いのちのイメージだと思います。そして、それは、目なのだと言います。つまり、目こそはまた窓であると言っても良いかと思います。外の光を採り込めるからです。

しかしそのことは、何もわざわざ説教で学ぶ必要もないほど、当たり前すぎることかもしれません。わたしはいつも眼鏡を使用しています。いつからきちんと眼鏡をかけるようになったのか、おそらく、就職した時からだったかと思います。すぐに神学校に行き、そこではもはや不可欠となりました。以来、眼鏡のお世話になっています。

しかし、ここで主イエスが仰せになられた目の問題とは、言うまでもなく、単なる肉眼の問題、目が澄んでいるかいないかとは、単に視力が良いか悪いかということではありません。主イエスがここで「体」と仰せになられた言葉は、実は、目に見えるこの肉体を言い表すことばではなく、人間だけが持つことのできているこの体、つまり神の霊を宿す器としての体、ソーマという特別の言葉が用いられているのです。

また、「目が澄んでいれば」という「澄む」という言葉を、新改訳聖書は、「健全」と訳しています。これは、「単純」とか「純粋」と訳せる言葉が用いられているわけです。つまり、目が単純であれば、目が純粋であれば、目が健やかであればあなたの全身が明るい、となります。

主イエスは、この灯火を、どのようなものと教えておられるのでしょうか。それは、最初のメッセージによって、はっきりとしていると思います。それは、地上にある光ではないのです。太陽や月からの光でも、蝋燭やランプからの光でもありません。その光とは、天からの光です。神からの光です。もっとはっきりと言えば、主イエス・キリストご自身が自己紹介なさった通り、「世の光」なのですから、主イエス・キリストからの光に他なりません。

 しかし言うまでもなく、天は、目に見えないのです。そうなると皆さんのなかで、視力がたとい1.5とか2くらいまである人であっても、だからと言って、その人の目に天が映ることはできません。

 そもそも、目が澄んでいるという言葉は、当時の人たちにとっては、重い言葉だと思います。それは、おそらく現代よりはるかに後天的に失明した人は多かったのではないかと思えるのです。砂漠の町で、目薬は、極めて高価だったと言われます。そして、需要もあったのだと思います。つまり、目が澄む度合いというより、失明している人、盲人の方も少なくなかったかと思います。そうすると、その人は、全身が暗くなってしまうのでしょうか。もとより、主イエスのこの教えから、そのようなことを類推することはできないはずですし、してはなりません。

 視力をまったく失っても、全身が明るいということがあるのです。いへ、むしろ、ここで言われていることは、肉眼のことではまったくありません。言わば心の目です。それを、信仰の眼と言い換えても良いでしょう。肉眼は、全く光を失っても、しかし、信仰の目が澄んでいれば、明るい、生きること、人生が明るくなるというのです。人生のすべてはここにかかって来ると言っても言い過ぎではありません。もしも信仰の目、眼差しが濁っていれば、その人の内に、光が到達せずに、暗いのです。人生そのものが暗いのです。人生の真理が見えないからです。目の前にあるどんな現実よりもはるかに確かな真の現実が見えないからです。本当は、その暗さとは、視力を全く失っていらっしゃる盲人の方と比べることもできないほど、恐ろしい暗さなのです。私どもが今まさに、危険な状況の中にさらされているという現実も、実に心の目、信仰の目が開いていなければ、まったく気づけない、分からないままなのです。

 今週も、あるいは今週こそ、「星の王子さま」の物語の中で、とても有名なフレーズを思い起こさせられます。

「心で見なくちゃ、ものは良く見えない。大切なものは目に見えない。肝心なことは目に見えない。」という言葉です。王子さまがキツネから教えられた人生の秘密です。人間が動物的に生きるのではなく、人間らしく生きるために、肝心なもの、つまり物事の本質、深い真理は、肉眼で見ることはできないことを知ること、認めること、そこからしか出発できないと著者は言いたいのだと思います。
著者のサンテックスが、「心で見る」と言う表現を、私どもキリスト者であれば、はっきりと発音することができると思いますし、しなければならないと思います。それは、心で見るという心とは、信仰の心だということです。信仰の眼で見るということに繋がります。

信仰の心の窓が開かれなければ、人間にとって最も大切なもの、つまり、すべてのすべてにまさって肝心かなめのもの、自分のいのちよりも、自分のすべての宝より、比べられないほど大切なものが見えないのです。それは、何でしょうか。それは、神を見ることです。

主イエスは、この説教に先立って、八つの幸福の教えの中で、こう宣言されました。第6番目です。「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」主イエスは、そもそも、目に見えない神さまのことを「見る」と表現します。

そもそも聖書の常識、大前提は、神は創造者であられ、霊なる存在でいらっしゃるとういことです。つまり、被造物、モノではないのですから、いのちそのものでいらっしゃるのですから、当然、目に見えないのです。生ける神を、目に見える形や像にすることは禁じられています。ところが、主イエスは、はっきりと「神を見る」と言い表されました。それは、他ならない、ご自身がまざまざと、見ておられるからでしょう。そして、そのためには、「清い心、美しい心、信仰の心」が必須であると宣言なさったのです。清く、美しい心でなければ、神を心に映し出すことはできないということです。

それなら、あらためて、かつて学んだこの御言葉をおさらいしてみましょう。「心が清い」とは、いかなる人なのでしょうか。美しい心とは、どのような心なのでしょうか。何よりもそれは、清さとは神から来るもの、神の賜物であるという理解が大切です。清いとは、まっすぐに、一途に、ひと筋に神に向かう心の状態のことです。そうすると、神の清さ、神の美しさが、その人の心に入って来る、射し込んでくるのです。つまり、人の心は、自分の力、人間の力によってではなく、神によって、神ごじしんのお働きによって、清くされるわけです。そのようにして、神を見ることができるのです。

神を見る心、言い換えれば良心です。心がきれいかどうかは、自分で判定できるものではありません。してはならないはずです。第三者の誰かでもありません。もしも、自分の心は、きれいだと思っている人がいらっしゃれば、その人は、おそらく、少なくとも神さまの前には、通用しないはずです。心の清さとは、神と向かい合い、神さまと対話すること、自分の心の奥深くまで、底の底まで知って頂くこと、そのような経験によって養われ、磨かれるものです。その手段を祈りと言います。また、礼拝とも言います。その意味でもしも、共同で捧げるこの主日礼拝式が、そのような神との交わりとなっていないのであれば、そのような説教となっていないのであれば、実に、空しいです。説教によって、自分の罪と悪を鋭く指摘され、神の前に悔い改め、同時に神に赦される、そのような経験を与えられることがなければ、説教は空しいです。私どもは今皆で、神からの語りかけを聴いていますが、同時にそれは、神の御前にひとりぼっちになるように立たされるような礼拝経験でなければ、心が清くなる、良心が磨かれるということも起こらないと思います。

心、良心とは、人間との対話によってではなく、自分自身の心との対話によってでもなく、神との対話によってのみ磨かれるものなのです。それ故に、もっとも尊く、もっとも美しいものとなるのです。その美しい良心はしかし、自分の心が神の前に罪深く、汚ないものであることも同時にわきまえさせられるのです。しかし、実は、それこそが、人間の清さ、人間の美しさの極みでもあると、聖書は言うのです。

それなら、キリスト者であれば、誰でも神を見ることができるはずです。もし、見れない、もし、分からないとなれば、ゆゆしき問題です。しかし、本当の問題は、そのことすら関心が無くなったキリスト者です。今朝、自分はどうなのかと、改めて問い直すことは、私ども共通の課題と思います。しかし、そのことにこそ、私どもの生涯にわたる恵みの課題があるということを最初に申しあげた方がよいと思います。

先週も、お二人の教会員とゆっくりと向き合うときが与えられました。家内も一緒のときもありました。もとより、それぞれのご事情はまったく別です。しかし、今朝の御言葉からそれを見るなら、やはり共通する事柄が見えてくるはずです。そして、おそらく私ども全員の事情、課題にも通じるはずです。

私どもは、しばしば「信仰生活と現実の生活」というような言い方をするのではないでしょうか。そこで言われること、考えられていることは、信仰の生活がある一方で、何よりも現実の生活もある、つまりは、日曜日の生活と月曜日から金曜日、土曜日まで週日の生活とは、別のものという考え方です。まさに、悪魔の誘惑があると思うのです。日曜日には、天国の生き方を学ぶ。今学んでいる山上の説教は、まさに神の国に生きる神の民の倫理が語られているわけです。けれども、明日には職場に行く、家庭の生活へと遣わされる、そのところで、「やっぱり、信仰一本では、生きて行けない、食べていけない。自分にも家族にも、経済の問題、将来の問題が山積みである。そう考え始めるとき、うっかりすると信仰の生活が吹っ飛んでしまうことすら起こりかねないのです。そもそも、そのような考え方そのものが、信仰の現実を裏切る考え方、物の見方になってしまっているからです。

わたしどもはしばしば「現実」と言います。それは、日々の事柄、生活のことです。確かにそれは現実です。目に見える現実です。誰も否定しません。ご本人も、他者の目からもその人の生活は見えるのです。しばしば数値化することもできます。

しかし、私どもがもしもそれを現実と言って、信仰生活と分けるなら、それは、私どもの眼が健全でなくなっているということです。目が澄んでいないのです。純粋な目になっていないのです。健やかな目とは、二つのものを同時に見る目ではありません。わたしの眼、眼鏡は乱視が入っています。乱視は、近視の人より、大変です。二重に映る。私どもは一つの現実を本当にはよく見ていません。それは、たとえば、物をよく見ることのできる人と自分を比べて、同じものを見ているはずなのに、と驚かされます。

先日の週報の牧会通信に、まど・みちおさんのテレビ番組をご紹介しました。すばらしいテレビ番組となっていました。

机の上においてあるコップ、わたしにとって何気なくもしかし、毎日、見ている、視野に入っています。ところが、まどさんは、このコップを観る観方が違うのです。ゆのみという詩をご紹介します。

「にがい茶をいれられようが  にえたぎる湯をいれられようが  
うっかりおっことされようが そのへんにころがされていようが 
いってみればまあ 小さな土のかたまりでちきゅうが  
大きな土のかたまりと同じなんだ  
中にいれるものも空気でなかったら  水みたいなものだから 
これとてちきゅうなみなんだ 人間たちがなんと名づけようと
ゆのみはゆのみでもなんでもないんだ  ちきゅう一かの一ばん小さな
身うちなんだあわてることはない  たかぶることもないまあこのひろいててんちのなかでゆうゆうかんかんなんだ~」

いったい自分は日々の暮らしの中で、何を観ているのだろうと思わされました。いつも目にしていながら、しかし、ものそのもの、事柄そのもの、大切なもの、本質を正しく見ることができていないのだと反省させられるのです。
キリスト者の作家で、私どもの唄う讃美歌をいくつもつくっている阪田寛夫さんが、まど・みちおさんについてこんなことを言っています。
「まどさんは、いつも真面目に窓している。」

つまり、心の窓を大きく開いているということでしょう。その窓は、何に向かって、どこに向かって開いているのでしょうか。まどさんは、神さまやイエスさまについて直接に言及しません。ゾウやキリン、アリやカなどの生き物、豆粒、コップなど無生物について書きます。けれども、それを天から見るのです。神さまの視点から見つめているといっても良いと思います。わたしは、この詩人もまた、主イエスが宣言された、あの心の清い人の幸いを生きる証人だと考えています。

心が清いとは、心の窓が開いているかどうかです。信仰の眼が純粋であること、単純であること、健やかであることです。単純な目とは何でしょうか。私どもの目は、二つあります。わたし自身は、複眼的思考ということを、軽んじることはできません。物事は、一つの視点からだけではなく、様々な角度から見ることが大切であるということです。

そのために、私どもは幅広い教養、深い教養を身につけることが大切だと信じているわけです。しかし、その一方で、見るということを考えるとき、それは、見ているつもりでも見過ごすことがあるということをも考えたいのです。ものは真剣に、よく見ないと、見つめることがないと、本当の不思議さ、すばらしさに気づかないままにやり過ごすことがいかに多いかです。

わたしどもは二つの目を持っていますが、それは、神と富を同時に見るためではありませんし、それは、できません。一つのものを、より深く見るためです。単純な目、それは、一つの対象に集中する目、凝視する目です。それが純粋さという意味でしょうし、健やかな目ということでしょう。澄んだ眼とは、そのようによく見ることができる目のことです。神を一途な眼差しをもって見つめるところで初めて、富の正体、富の本当の姿もまた浮かび上がるのです。そのときには、富に翻弄されず、支配されず、むしろ、神の恵みのご支配の中に揺るぎなく、また、しなやかに生きることができるようになるのです。

今朝、私どももまた、この今、ここで起こっていることに気づいています。見つめています。ここに主イエス・キリストが共にいらっしゃる現実です。これこそ、今朝、見るべき現実です。そして、同時に、天を仰ぎ見るのです。そこには、わたしの存在も見えてくる。私どもが、天国に国籍を持つ存在だからです。その本当の自分の姿を見ているなら、もはや、ぶれません。もう、自分を見失うことはありません。自分という人間もまた、明るく、美しく見ることができるからです。

信仰の詩人、八木重吉さんに詩の中でも特にわたしが好きなのは、この詩です。「わたしの かたわらにたち わたしをみる 美しくみる」心が清くされているからです。神との対話のおかげです。心の眼が、開かれたからです。美しく見るとは、明るく見ると言い換えても良いかもしれません。自分の存在の中に、神を、神の光を見ているからです。神の光は、今、この瞬間、この礼拝堂の中で、皆さまの体に、皆さまの魂に射しこんでいます。だから、明るく人生を、自分を見ることができるようになるのです。

祈祷
 私どもを御顔の光をもって今、このように明るく、暖かく照らしてくださる主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、信仰の眼を、心の窓を、あなたに向けず、この世に向けてしまって、これが現実だと、目つぶしを掛けられます。自分で自分を騙しているようなものです。どうぞ、私どもの眼を、窓を、あなたへと、天へと引き上げて下さい。そして、今、どんなにつらくても、悲しくても、困難であっても、しかし、もう、そこにあなたが共にいて下さり、光を注いでいて下さる現実を見せて下さい。そのようにして、悲しんでいるようだが、見よ喜んでいるというあのパウロのような、生き方へと養ってください。この世とあなたとを、まるで二つの違う現実があるかのように、見る目、見方を止めさせ、澄んだ目で、まっすぐにあなたに向かわせて下さい。アーメン。