過去の投稿2010年3月14日

「断食するときには -人の目を気にしない方法-」

CBCラジオキリストへの時間 「断食するときには -人の目を気にしない方法ー」
賛美歌 148番「救いの主は」・461番「主我を愛す」 讃美歌21
聖 書 マタイによる福音書第6章21‐22節 2010年3月14日(2/16録音)

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」

おはようございます。今日も、あなた様の上に、主の平和がありますように。さて、いきなり質問ですが、あなたさまは今、ご自分の人生を、自分らしく生きている、と確信をもって言えるでしょうか。これは、私たちにとって、決定的に重要な問いです。ご一緒に、しばらく考えてみましょう。

主イエスは、今朝の説教に先立って、こうお教え下さいました。「人に見てもらおうとして、善い行いをしないように。」次に、「人に見てもらおうとして、お祈りをしないように。」最後に、「人に見てもらおうとして、断食をしないように。」です。この三つの説教を貫いているメッセージは、「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」という御言葉に込められています。

主イエスは、決して、断食など意味がないと仰ったのではありません。そもそも断食とは、神さまの御前に、自分の罪を認め、嘆き、悔い改めるためのものです。にもかかわらず、「自分はこれだけ敬虔な信者なのだぞ」と、人前で見せびらかそうとしてする偽善者の断食が厳しく戒められたのです。人間とは、放っておくと、どんどん、他人の目や世間体を気にして、しばられやすいからです。

人間のことをラテン語で「ペルソナ」と申します。これは、「ペルソナーレ」、響き合うという動詞から派生したのだそうです。漢字で「人間」を、人と人との「間」と書きます。西洋の知恵も東洋の知恵も、人間とは、心と心で響き合う関係があってこそ人間になれること、人間が人間らしく成長するためには、心と心で対話することが必要不可欠なのだと教えているようです。

しかし実は、そこにとてつもなく大きな危険があります。神に造られた人間は、人間だけと対話していると、自分を見失うという落とし穴にはまるということです。つまり、他人の視線、他人の評価を気にするあまり、自分の心の奥底にある声、その深い求めを掘り起こさないまま、「周りの人」に調子を合わせてしまいがちだということです。

たとえば、小さな頃を思い出して下さい。「大きくなったらこうなりたいな」と、素朴な夢があったかもしれません。ところが、小学校に上がると、急激に大人の世界には、別の評価があることを知らされます。偉い大人、立派な大人になるには、どれだけお金を儲け、どれだけ羨ましいと思われる職業に就くかにかかっているのだと教えられるわけです。そうすると、本当に自分がこうしたい、こうなりたいという願いは、吹き消されてしまって、周りの人の評価や価値観、時代の風に吹かれて、あちらこちらへと、さまようようになってしまいます。

まことの神さまは、愛と慈しみとを持って、しっかりとあなたさまを見つめていて下さっています。父なる神さまは、あなたを、他の誰とも比較してはいらっしゃいません。私がわたしであることを、そして、あなたさまがあなたであることをこそ願い、望んでいらっしゃいます。私たちは、かけがえのない自分の人生を、他の人の価値観や、ましてやお国のためにと生きる必要もないし、そうしてはならないのです。自分じしんを生きることこそ最も尊く、それこそ神さまが最も願っていらっしゃることなのです。そのために、イエスさまは、燃えるような愛をもって今、こう招いておられます。

「自分に自信が持てないのは、人の目を気にしているからでしょう。あなたも父なる神さまに心を開いて、対話しなさい。お祈りしてごらんなさい。そうすれば、あなたらしく生きれるようになります。あなたを愛をもってニコニコと見ていて下さる神さまの前で生きるとき、あなたじしんの人生が本当の意味で始まるのですよ。」 

私もあなたさまと教会で膝を突き合わせて語り合えるようにと、願っております。