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「父なる神を祈り求めよ。」

「父なる神を祈り求めよ。」
2010年3月28日
テキスト マタイによる福音書 第7章7-12節 
「求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。   あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。  魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、  あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」

山上の説教を学び続けています。主イエスが、どれほど真剣に私どもに向き合って下さるのか、本当に、胸に迫る思いが致します。同時にまた、主イエスは、今朝もまたここで主の祈りの説教で学んだこと、同じことを仰っていらっしゃるとの思いを禁じ得ません。

主イエスは、何度も繰り返して宣言されました。「隠れたところを見ておられるあなたの父が報いて下さる。」またこうも宣言されました。「あなた方の父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ。」こう約束なさってから、主イエス・キリストはご自身の祈りである「主の祈り」を、私どもにお示しくださいました。今朝も御一緒に唱えました、主の祈りとは、まさに、完璧な祈りです。

主の祈りを祈るとき、呼びかけの言葉は重要です。最重要と言ってもよいでしょう。「天におられるわたしたちの父。」「天にまします我らの父よ」神を父と呼ぶ祈りです。逆から言えば、神の子とされた者の祈りです。神の子とされた私どもが、必要なものをぜんぶ御存じで、必ず与えて下さる父に願い求めるのです。だから、くどくどと述べてはならないと主イエスは仰ったわけです。

先回の「思い悩むな」の説教を思い起こして下さい。「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことを御存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」本当に、天の父なる神は、私どもの必要を、おぼえていらっしゃるという約束です。

さて、今朝のテキスト、これも有名な御言葉です。「求めよ、さらば与えられん」よく知られた言葉だと思います。それが聖書にあることも知らないで、使われることももしかしたらあるかもしれません。そこでの理解はこうです。「人間は、真剣に、熱心に、それこそ一心不乱に、一つの夢に向かって、目標に向かって努力すれば、絶対に叶う。求める気持ちが強ければ、それを獲得できるものだ、本気で門をたたくなら、門は開かれるものだ、要するに、こちらの心がけ、努力次第で人生は大きく道が開かれ、門が開かれ、夢は実現できるのだ」このような常識的なことです。

しかし、ここで語られていることは、そのようなこととはまったく関係がありません。私どもは、本当に、何度も同じことを、主イエスに説得されます。「思い悩む必要はない。大丈夫。わたしは、神の御子であって、このわたしがあなたを救ったではないか。罪を償ったではないか。だから、あなたは正真正銘、神の子どもとされている。」

さらに主は、余りにも卑近な例を挙げて説得されます。「地上のお父さんであっても、パンを欲しいと言って石を与えるか。魚を食べたいと言ってヘビを与えるか。我が子にだけは、つまり、自分と自分の身内にしか愛を注がないような悪い父親であっても、我が子にだけは、何とか応えてやりたいと思うし、応えるだろう。無視しないだろう。ましてや、天の父は、我が子が求めるものに最上のもの、最高のものをあたえてくださる」

わたしにもこのような経験があるのですが、財布にわずか数百円が足らず、手押し車を買ってあげられなかったことがあります。しかし、それは、食べ物ではないわけで、もし、食べさせるものがなかったとすれば、親は、本当に必死になるでしょう。このような子どもの求めに対して、無視する親は例外だと思いたいです。
主イエスは、生々しいほど卑近な例を出して、主イエス・キリストの父なる神、私どもの父なる神を紹介してくださいました。この神は、無視するどころか、喜んで、与えて下さる神です。

さて、今朝、あらためて問いたい問い、考えたい事柄は、そのような父なる神に向かって、私どもはいったいに、何を求めるのでしょうか。求めるべきでしょうか。その答えとしては、こうでしょう。「何でも求めて良い。」

祈祷会で、また日々の祈りの中で、皆さまの祈祷課題が成就するように、必要が満たされるようにと、わたしの祈りの日課です。それぞれにまさに、必要があります。地上で生きるために、どうしても必要なものがあります。食べること、飲む事、着ること、住まい、経済生活、肉体の健康、本当に切実です。食費、学費、生活費、真剣な祈りの課題です。

しかし、主イエスは、約束されます。天のお父さまは、必ず返事をなさる。無視されることは決してない。あなたのその日の苦労は、その日で十分である。つまり、その日の必要は、その日には、満たされる。
しかし、それは、当たり前の事ではなく。感謝すべきことであるにもかかわらず、私どもは、それ以上をことをも求めて、「ああだこうだ」、神さまに文句を言うことがないわけではありません。人と比べて、足らない部分を数えて、不平をつぶやくことがあります。しかし、何はともあれ、さまざまな悩みや課題を抱えながらも、私どもは、今朝、神の御前に来ることができました。この事実があるなら、この幸いがある限り、私どもは、どれほど恵まれていることかと思います。まさに今、地上における究極の幸いを受けていることは間違いないのです。

なぜなら、主イエスは、こう語られました。「ましてあなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない。」いったいここで言われる、良いものとは何でしょうか。これと並行して記されているルカによる福音書によれば、それは聖霊です。聖霊なる神です。それは、神ご自身のことにほかなりません。マタイによる福音書では、よきものです。つまり、神の国と神の義を求めるなら、神の国と義が豊かに与えられるのです。それこそが、善きものです。また、そこでも同じように結局は、神ごじしんを意味しているのです。わたしは、マタイによる福音書に即してはっきりと発音すれば、この良きものとは、語っていらっしゃる主イエス・キリスト御自身と読み替えても良いと信じます。

さて、先週、NHKのテレビ番組を、たまたま見ました。宮崎県小林市にある小学校では、毎年、バレンタインデーのときに、一つの宿題を出すそうです。それは、なんと、楽しい宿題。親子でギュッと抱きしめ合う宿題です。番組では、これまでその宿題を提出したことのない5年生の男の子が取り上げられていました。宿題の存在そのものを両親に告げていなかったようです。しかし、両親の方は、この有名な宿題の存在を知っていますから、今年こそはと、親の方から、切り出したのです。このご家庭は、お父さんが忙しかったようで、小さな頃、この5年生の末の息子さんを抱っこしてあげられなかったようです。それが、原因だったのかもしれません。子どもも、抱っこしてもらうこの宿題に抵抗していたのです。これは、一週間にわたる宿題です。いろいろありましたが、最後の日、とうとう、抱っこしました。そして、宿題のプリントに、×じるしではなく、花マルが記されていました。

わたしは、このような宿題なら、親も子も大歓迎ではないかと思いました。とにかく、ギュッと抱きしめてもらうこと、これは、子どもには、決定的に重要だと思います。学校での宿題にするということは、一方で、それをしない親、してもらえない子の悲しい存在があるのかもしれません。

さて、私どもと父なる神との関係はどうでしょうか。もしかするとわたしどもは、あの小学5年生の子どものように、父なる神に、ギュッと抱きしめてもらうことを遠慮しているところがあるのではないでしょうか。しかし、それで済ませることはできません。もしも、私どもと天のお父さまとの関係のなかに、なにか、よそよそしさ。なにか、隔てがあるなら、大問題です。しかも、それは、常に、自分の側で勝手に作ってしまうことはないかと思います。

主イエス・キリストは、求めよ!探せ!叩け!と招いて下さいます。何度も、招かれます。ものすごい例えすら語られました。あなたがたの父親であっても、パンを求める子に石を渡すことはないこと。それは、言い換えるなら、神の求めでしょう。神ご自身が、ギュッと抱きしめてあげようとの招きです。どんなに激しい招きであろうかと思います。

主イエスは、本当に、求めるなら、神ご自身が与えられ。神は、私どもを抱きしめ、そのようにして、私どもを住まいとし、私どもを満たして下さるのです。

さて、12節で、「だから」と続きます。この12節は、「キリスト教黄金律」、ゴールデンルール、最重要な掟と言われている御言葉です。父なる神は、私どもが神さまにしてもらいたいと思うことを、いやいやではなく、喜んでして下さるから、「だから」と続くのです。神さまがあなた方にして下さるのだから、あなたがたも

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と、今度は、主イエス・キリストが私どもにお命じになられます。それは、父なる神が、子どもである私どもにお求めになっておられる御命令です。そして、「これこそ律法と預言者である。」と続きます。「律法と預言者」とは、私どもで言う、旧約聖書のことです。これこそが、旧約聖書の教えなのだということです。そうであれば、何もキリスト教黄金律と言わなくても、旧約聖書に記されているその中心的な倫理的な要求、掟と言っても良いのかもしれません。しかし、それは、主イエス・キリストによって改めて取り戻された新しい戒めとなったとも言えるでしょう。

今週は、受難週です。そもそも、主イエス・キリストの御生涯は、すべて、私どものために苦しみを受けられるためのものでした。とりわけ、公の生涯、神の国を伝道するお働きを担われた3年あまりは、まさに苦しみの道、十字架へと進まれる道でした。十字架に架けられたのが、金曜日。逮捕されたのが、木曜日の夜。復活の前の一週間を、教会は、受難週として特に、さまざまな霊的な修練を自らに課すようにして過ごしてまいりました。私どもは、今年も特段の集会を致しません。この週だけ、主のお苦しみを忘れないのではなく、いつでも、主の御苦しみを忘れない生活を過ごしたいのです。しかし、同時に、もしも、日ごろの信仰生活が怠惰になっているのなら、まさに、この週は、恵みのチャンスでしょう。

さて、この週の最初の主の日にこのテキストが与えられました。「与えられる。見つかる。開かれる。」と、主イエスが仰せになられました。いったい、どんな思いで語られたのであろうかと思います。

この祝福の約束は、結論を申しますと、主イエス御自身に関わることに他なりません。父なる神に求めなさい。神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、与えられるのです。他ならない主イエス・キリスト御自身が与えられるのです。有名なヨハネによる福音書第3章16節にこうあります。「神はその独り子をお与えになられたほどの世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりも滅びず、永遠の命をえるためである。」

主は、求めなさいと招かれました。ところが、神の民はこのような救い主、メシア・キリストを求めなかったはずです。それにもかかわらず、父なる神は、神の民が求めない先から、まさに必要なものを御存じでいらっしゃったのです。それが、主イエス・キリストに他なりません。父なる神は、御自身の独り子、独り子なる神を、私どもの救いのために、人とならせ、そして十字架へと赴かせになられました。

探しなさいと主イエスは、命じられます。しかし、結局、ここで明らかにされていることは、父なる神御自身が、私どもをずっと探し続けてくださった、探し続ける神が、ついに時至り、御子なる神をこの場所に派遣され、御子において、私どもを神の子として見つけ出して下さったのです。探し続けたイエスさまは先ず、この説教を聴いていた弟子たちを発見されました。そして、2000年後、今ここにいる私どもひとりひとりをも探し出し、発見し、御自身のもとに連れて来ていただいたのです。そして門をたたかれたのもまた、主イエス御自身でした。その門とは、私どもの心の門です。心の扉を内側からカギをかけて、神へと開くことができませんでした。しかし、その門を、何度もなんども叩き続けてくださったのが、主イエス・キリスト御自身でした。

受難週は、そのような神の働き、そのために苦しまれた、苦しみぬかれ、ついには悲しみのあまり死ぬほどで、本当に死なれたお方を仰ぐときです。そのお方を御自身の聖なる御手でもって、打ち砕かなければならなかった父なる神の苦しみをも仰ぎ見るときです。

そうであれば、ここで求めなさい。探しなさい。叩きなさいと命じられるイエスさまは、どれほどの深い愛をもって、どれほどの真実をもってお命じになられ、お招きくださったかと思います。

そして最後に、翻って、このように神に祝福され、恵まれ、与えられて豊かにされた神の子たちは、その豊かさの中で、生きるようにと命じられるのです。これもまた、命令です。そうして人にしてあげる、そうやって、その豊かさに自分自身があずかるのです。この神の豊かさは、そのように、これを人に分かち合わなければ、自ら与れないものなのです。

昔から死海の例えが語られます。死海は、死の海と書きます。海の塩分の濃度は3パーセントですが、死海は、30パーセントなのだそうです。塩分の濃度が高くて、どんな人も決して沈まないのだそうです。しかし、そこには魚がいません。生きれないのです。なぜ、そうなったのか、例話では、死海が受けるだけの湖だからだと言います。ガリラヤの湖から水を受けますが、決して、自分の水を外に出さない。そうやって、受けるだけの湖で、周りの山から塩分を含んだ水だけが流入し、それが、蒸発して死の海になるのだそうです。海抜マイナス400メートルのところにあり、世界でもっともへこんだところにある湖だそうです。

キリスト者もまた、神の恵みを受けるだけであれば、死んでしまうという例えです。わたしもまた、神の恵みを受けながら、もしも、それを隣人と分かち合おうとしないのであれば、それは、やはり、不健康となると思います。

神は、私どもをこんなにも良くしてくださる。良いものを与えてくださいました。喜ばせて下さいました。だから、神さまの子どもとされた私どもも、この父なる神さまを見倣うのです。

主イエスは、「あなた方の父なる神が完全であられるように、完全な者になりなさい」とも仰いました。神が完全だから、だから、あなたがたも完全にです。この論理は、ここでも貫かれています。神が私どもを豊かにして下さるから、だから、あなたがたも豊かに施し、分かち合いなさいと言うことです。

福音の恵み、それは、分かち合う恵みに他なりません。午後、個人伝道についての学び会を行います。伝道すること、それは、分かち合うことです。本当にわたしは、思います。何十時間、いやもっと時間をかけて、信徒の手引きを考え、執筆しました。しかし、目の前に人がいません。それに比べて、学び会は、目の前に人がいる。福音を語るとき、語る自分自身の中に、喜びと恵みが与えられることを本当に味わって参りました。その意味では、牧師と言う職務がどれほど恵まれた職務であるかを思います。子どもの教会の教師もまた、受けた恵みを分かち合うことができるわけで、幸いでしょう。このような恵みは、一人占めにしてはならないと思うのです。

伝道する、それは、神にしていただいた救いの恵みを分かち合うことです。一緒に、福音にあずかるのです。上から施すわけではありません。その人と一緒に、自分もまた、恵みを受ける行為なのです。キリスト者として生きるということは、神の豊かさに生きることです。神の恵みの豊かさに触れなければ、神の愛の深さに触れなければ、私どもは、神の子として生きれないのです。それは、もともと無理な課題です。人は、人に優しく接してもらえなければ、優しくするということがどういうことか分かりません。愛するということは、自分が愛されて初めて、分かることです。

わたしどもは、神に優しくされなければ、人に優しくすることはできません。いくら、「がんばれ、努力しろ。」と言われてもできません。そして、主イエスは、そのようなことは、仰いません。しかし、主が命じられることがあります。それは、求めることです。探すことです。門をたたくことです。神を求め、神を探し、神の門をたたくのです。しかも、それは、すべてこの真理の裏返しです。神が私どもを求め、探しだし、心の門をたたき続けていてくださるという聖なる現実のことです。それなしに、今、キリスト者としてここにいることはできません。わたしが、私どもがキリスト者、教会員であること、求道していること、それは、神が求め、探し、叩かれたからです。

祈祷
神を求めなさいと、私どもの祈りを、与える約束をもって常に励まして下さいます主イエス・キリストの父なる御神。あなたを求めない、まさにそのせいで、私どもは自分の思いや願いがかなわないことに、苛立ってしまい、人にもつらく当たり、冷たく接してしまいます。愚かな罪人です。どうぞ、あなたを、あなた御自身を求めさせて下さい。あなたが、私どもを抱きしめ、包み込んで下さい。その愛の確かさのなかで、心満たされ、平和を与えられ、安心して生きることができますように。そのようにして相手の気持ち、相手の立場を思いはかることのできる余裕のある大人とならせてください。そして、あなたの豊かさを真実にあずかるために、私どもが自分にしてもらいたいことを、隣人になすことができますように。アーメン。