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「偽預言者を見分ける」

「偽預言者を見分ける」
2010年4月11日
テキスト マタイによる福音書 第7章15-20節 
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。      
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

主イエスは、教会に向かって、このように警告なさいます。「偽預言者を警戒しなさい。」マタイによる福音書は、紀元70年ごろに生み出されたものであろうと言われています。この福音書を生み出した共同体、この福音書を最初に読んで教会の形成を進めたこの教会も、既に、第一世代から第二世代への継承が進んでいた時代だと思います。そのような教会にとって、この「偽預言者を警戒しなさい。」との警告は、まさに真剣な、そして切実な、極めて真剣な呼びかけであっただろうと思います。

「偽預言者を警戒しなさい。」という警告が明らかにしている事実は、既に、このとき、キリストの教会の中に、「偽預言者」が存在していたということに他なりません。しかも、それは、教会の存在そのもの、存続そのものを脅かしかねないほどの、脅威となっていただろうということです。

何故、偽預言者は、教会の存在、存続にとって、脅威となるのでしょうか。それは、教会とは、神の言葉が正しく語られ、正しく聴かれる場所に他ならないからです。神の言葉が正しく説教されないと、また、その説教に応答する教会員がいなければ、教会は、成り立たないのです。これが、特に16世紀教会の改革者によって出発した福音主義教会、その流れのまさに源流にさかのぼろうと志す日本キリスト改革派教会のまさに基本中の基本の教会理解です。

ですから、教会の中で、偽預言者が活動するなら、それは、まさに放っておけません。決して見逃してはならない、根本的な問題になるのです。

現代の日本の中で、さまざまなキリスト教があることを、皆様もよく御存じの事と思います。キリスト教まがいの宗教が大きな力を持っています。数年前の情報ですが、名古屋のしかも緑区は、日本の中でも、エホバの証人の人口が急増している地区だと聞いたことがあります。皆様も、身近で感じていらっしゃるかもしれません。彼らは、一軒一軒の家を訪問して、聖書にこう書いてある。ものみの塔の冊子こそ、聖書を正しく解説する書物である、キリスト教界は堕落して、悪魔の集いになっている、自分たちこそ、正真正銘の神の民、エホバの民なのだと、宣伝して回ります。つまり、キリスト教会を偽物、悪魔の会堂とののしるのが、彼らの本質と言ってよいと思います。その他にも、モルモン教とか統一教会とかがあります。

しかし、キリスト者にとっては、それらは、異端であるとパッと分かります。一瞬で識別できると思います。ですから、今朝の主イエスの偽預言者を警戒するということは、そのような既によく知られた異端のことを考えることは、違うと思います。

実は、説教者として、率直に申しますと、新しく来られた方々、求道中の方々には、本日のテキストは、避けて通りたい、あまり深入りしないで足早に通り過ぎたい、そのような思いが、わたしの心の中に湧きました。そこですぐに、思わされました。「偽預言者を警戒しなさい。」これは、他でもないまさに、預言者つまり説教者である私への警告なのだということです。誰よりも、私こそが率先して、自分のこととして、主イエスのこの御言葉を聴かなければならないと思わされました。

わたしは牧師として、毎日、考え、そしてお祈りすることは、この町に住むすべての選びの民が、一日も早く、この名古屋岩の上教会に導かれ、福音を聴いて、応答して、洗礼を受けて、神の民に加わって頂くことです。一人でも多くの選びの民が、救われる事に他なりません。しかしだからこそ、誘惑も起こるのです。

先週は、「狭い門から入りなさい。」を学びました。本日は、偽預言者に警戒しなさいです。この説教の繋がりから言えば、偽預言者とは、第一に、狭い門から入るようにと導く説教者ではなく、滅びに通じる広い門を紹介し、それへと人々を招き入れる伝道者のことでしょう。しかし、一人でも多くの人が教会に来て、救われることを願う時、それは、言わば、門戸を大きく開くことに転落しやすいのです。誰もが入りやすいように、主イエスの道、主イエスさまそのお方御自身を牧師が勝手に整え直す、常識的に語り直す誘惑があるのです。

たとえば、ある牧師、ある伝道者が聖書を語ると、大勢の人たちが教会に来て、洗礼を受けて、教会がどんどん大きくなるとします。そうなると、一般的にも、そして教会の内側からも、「ああ、この牧師、伝道者は力ある、優れた伝道者だ」と、認められるようになるかと思います。ところが、神の眼差しからすると、それが必ずしも、神の立てられた説教者、預言者ではないということが起こるのです。

この課題、この問題は、何も新約聖書だけのものではありません。イスラエルの歴史の中で、しばしば、偽預言者が登場しました。預言者とは、自分自身のことを語る人ではありません。神の言葉を預った人それが、預言者の意味です。自分の考えではなく、神のお考えを伝達するのです。言わば、伝言者です。ところが、その御言葉は、聴く人々には、耳に心地よく響きません。受け入れにくいのです。エレミヤ書第8章にこうあります。「彼らは、おとめなるわが民の破滅を/手軽に治療して/平和がないのに「平和、平和」と言う。 彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず/嘲られていることに気づかない。」

神は、御自身の民が滅びることを警告しておられるのに、偽預言者は、お手軽に、民を治療してしまうのです。「あなたがたには、神の平和がある、神の平和があるから大丈夫。」と言うのです。ですからイスラエルの民は、喜んで聴きます。「ああ、この預言者は、すばらしいな。私たちが大変なとき、不安のとき、苦しんでいるとき、大丈夫だ、神さまはあなたがたを守って下さるのだ、安心して良いのだと、心にスッと入って来る言葉を語ってくれる。さすがは、我らの預言者だ。」そう多くの人々は、考えるのです。

ところが、真の預言者エレミヤは、違います。涙を流しながら、イスラエルの民がこのまま、悔いあらためないまま進んで行けば、待ち受けているのは、滅びだ、滅亡だと訴えるのです。人々からは、疎んじられます。嫌がられます。そればかりか、そんな悪い事ばかり言うのであれば、もはや語るなと迫害を受けさへするのです。

しかも、この神の民にとって生きるか死ぬかの、決定的、根本的に重要な課題は、新約聖書に入っても、変わらないのです。イエスさまの十字架と復活、そして聖霊の降臨によって出発した新しい神の民、教会のなかにもまた、かつてと同じような深刻な危機が、継続したのです。それが、偽預言者の存在です。その偽預言者と壮絶な戦いをした一人が、使徒パウロでした。

?コリントの信徒への手紙 第11章12-15節をお読みします。 「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」

使徒パウロは、サタンでさへ、光の天使を装うと言いました。偽使徒、偽預言者の存在は、当然ありうることで、巧妙だと言うのです。パウロは、実にしばしば、偽預言者に苦しめられました。彼が開拓伝道すると、必ず、ユダヤ主義の伝道者がやってきて、彼が語った福音を覆したのです。この偽りの伝道者たちは、パウロが、ただ信じるだけで救われる、洗礼を受けるだけでよい、決して、ユダヤ人の割礼を受ける必要などないと語った時、猛烈に反発しました。先ずは、神を信じるなら割礼を受けなければならない、旧約聖書の掟は、そのまま、現代のキリスト者にもあてはめられなければならないと主張して、教会の中で、パウロとその福音理解への徹底的な攻撃が起こったのです。

これが、初代教会の姿でした。まさに、そこでは、偽預言者を警戒することこそが、教会内部の教えの真理、イエスさまの教えの正統を継ぐための教会の根本的戦いでした。それは、外からの弾圧、迫害と勝るとも劣らない、極めて重要な戦いでした。

その意味で、私どもの教会は、徹底して教理を整えるための戦いをしてまいりました。私どもはその教理の特徴から言うと改革派教会、その制度、教会の政治から言うと長老主義教会と申します。

そもそも古代の教会は、今あるこの66巻の聖書を、信仰と信仰生活の唯一の規準としました。それを正典と申します。次に、この正典である聖書を正しく解釈する規準として信条を制定しました。その決定的に大切なものが、今朝も唱えたニカヤ信条です。世界共通の、歴史を越えた普遍的な信仰の告白です。また、誰が教会で説教するのか、誰が教会の交わりを整えるのか、それを明らかにするための制度、教会の政治と申しますが、これを整えました。

世々の教会は、これらを整えることがなければ、地上にキリストの教会は、成り立たない、キリストの主権を正しく確立する真の神の教会は建たないのだと確信したからです。

そして、そのような堅固な、教会を目指してこの日本に創立したのが日本キリスト改革派教会なのです。この教会は、誰が説教するのか、説教者を養成するために、神学校を設けています。神学校を卒業すれば、自動的に牧師になれるわけではありません。教会の試験が課せられます。何重もの、言わば、壁を乗り越えさせるようにして、最後に洗礼、聖餐の礼典の執行をゆだねることのできる教師として任職されるわけです。

さらに、任職されて教会の説教者として奉仕を始めても、その教師じしんが、やがて偽教師、偽預言者になる可能性もあるわけですから、常に、その説教は検証されなければならないのです。特に、教会の長老は、見分ける責任が与えられています。その規準となるのが信仰告白です。長老たちは、万一、説教者が、ウェストミンスター信仰規準から外れたお話しをしているなら、その説教者を辞めさせなければならないのです。これは、大切なことです。教会は常に警戒を怠ってはならないのです。偽預言者の存在は、既にあるからなのです。

さて、今朝のイエスさまの説教、その説き明かしであるわたしの説教を聴きながら、皆様の心の中はどう動かれたでしょうか。「ああ、わたしは一人の教会員にすぎません。別に説教者、牧師ではありませんから、この警告は自分には関係ありません。」と単純に解釈することはできないと思います。

「羊の皮をかぶった狼」と言われました。これは、もともと狼であるけれど、羊のそぶり、つまり、よいキリスト者やよい説教者を装っているということでしょう。自分自身もまた、本当は、狼なのだと分かっているわけです。しかし、実際には、そのような人は、まさに例外中の例外ではないかと思うのです。

先週、神戸改革派神学校の入学式がありました。新入生の中に、もともと狼として、牧師や、キリスト教の世界で働いて、自分の権力、自分の宗教、自分の主張に、教会員を引きずりこむことを、決意して入学試験を受けて、合格したのでしょうか。わたしはそのような人は、一人もいないと信じています。それなら、「私たち、日本キリスト改革派教会の会員は、安心だ、教会の歴史を見ても、その教えの伝統を見ても、まさに正統中の正統、何の問題もない、すばらしい栄えある歴史の教会に来れた」と思われるかもしれません。

しかし、事はそれほど単純ではありません。説教者も、また、ひとりのキリスト者も、他なならない自分じしんが偽物になる可能性がある、そのことを常に、わきまえている必要があると思います。

主イエスは、茨とかアザミとか、たとえて仰います。イチジクとぶどうとたとえて仰います。これらは、誰が見ても、もはや一目瞭然のことです。しかし、ここで言われている問題は、目には見えないものなのです。つまり、本人も無自覚ということが起こるのです。「まさかわたしが、偽預言者?まさかわたしが羊の皮を身に付けた貪欲な狼?とんでもない。あり得ない。」そのように批判されたら、おそらく激怒する、烈火のごとく怒って反発するだろうと思うのです。

これは来週のテキストに入ってしまいますが、自分は、預言者のつもり、イエスさまの弟子のつもりでいながら、イエスさまの方では、知らないということが起こるのです。

わたしは、ここで、主イエスと12弟子たちが祝った最後の晩餐、過ぎ越しの祭りのときのやりとりを思い起こします。主イエスは、仰いました。「はっきり言っておく、あなたがたの内の一人がわたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは非常に心を痛めて、代わる代わる言い始めます。「主よ、まさかわたしのことでは」彼らは、イエスさまのために心を痛めるのでしょう。しかし、一方で、自分のことではありませんね。まさか、自分はあなた様を裏切ることはありません。そう分かって頂きたかったのでしょう。しかし、わたしは、その言い方の中に、私どもの真実が明らかにされているのではないかとも思うのです。つまり、自分の将来のことは、自分でも、確信しきれないのです。だからこそ、質問になっているのです。「わたしは、決して裏切りません。」ではないのです。「わたしではないですよね。」こう言うしかない、自分の姿を認めているのです。

しかし、ペトロはそれを飛び越えてしまいます。「たとえ、みんながあなたにつまづいても、わたしは決して、つまづきません。」「たった一人、自分だけは、絶対にそんなことはあり得ない。偽預言者のように、偽り者、あなたの敵対者になどならない・・・。」しかし、まさにこの彼は、そう自分に誓ったとき、倒れるのです。

私どもは、自分自身が偽預言者にならないように、どうすれば良いのでしょうか。それは、自分ひとりで決して立たないということです。自立しないと言うことです。私ども親は、子どもが自立することを目指して、育てるだろうと思います。しかし、信仰にとっては、自立ということを丁寧に考えなければなりません。信仰とは、自分では立たない、立てないと認めることです。自覚することです。自分は、主なる神、主イエス・キリストに支えられて初めて立つことができるのだと認めることです。

預言者はもともと、どこから出発する者なのでしょうか。それは、神とその聖なる御言葉です。しかし、神の御言葉そのものから離れ、神の言葉に代わって、神の言葉を知った自分自身の考えに基づいて、語り直す、語り変えて行く、そこに偽預言者が登場するわけです。こうして、ありとあらゆる異端が登場したわけです。それは、結局、何に基づくのでしょうか。どうして異端者が出るのでしょうか。

主イエスは、わたしは羊の門であると自己紹介されました。羊とは、何でしょうか。それは、主イエス・キリストとの関係を示す表現であります。つまり、キリスト・イエスが、羊飼いでいらっしゃいます。キリスト・イエスさまのものとされている、主イエス・キリストに贖われ、主イエスの所有とされた者、その人が羊です。イエス・キリストに救われた者が、主イエスの羊、神の羊なのです。そうであれば、じぶんが羊かどうか、それは、イエスさまと結ばれているかどうか、そこにかかっています。

主イエスは、ヨハネによる福音書第15章で、こう自己紹介されました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」

私どもがなすべきこと、それは、このイエスさまにつながり続けることです。それは、主イエスの御言葉を聴き続けることに他なりません。主イエスの御言葉を聴き続けることです。そこから決して離れないことです。卒業しないことです。一人立ちしないことです。そのとき、生きているぶどうの木からは、必ず、ぶどうの実がなるのです。今、春になって、教会の小さな庭に新しく植えられた新しいぶどうの木に、葉が芽生え始めました。今年の秋か、あるいは、来年の秋か、いずれにしろ、時が来れば、実を結ぶことでしょう。焦る必要はありません。

それと同じように、いへ、はるかに確実なことがあります。真のぶどうの木でいらっしゃるイエスさまは、生きておられる神です。今、私どもを御自身に結び合わせて、私どもを真実に生かし、私どもと共に生きて下さるお方です。ですから、このイエスさまに、私どもの思い煩いも、不安も、将来のことを、すべて、ゆだねることができます。主イエスにお任せしましょう。そのときだけ、私どもは自分自身に対して、正しい見通し、明るい見通しを持つことができるのです。

今、洗礼入会を目指して学んでいらっしゃる仲間がいます。ということは、まさに今、信仰とは、自分で立つのではなく、キリストに結ばれ、キリストが立ちあがられる、復活されるそのキリストと共に立つ以外にない者であることを、信じるかどうか、それが問われているということを意味するのです。

つまり、自分が、将来、すばらしい実を結べるかどうか、それを自分の実力次第、努力次第だと考えるのでは、決して、ありません。まことのぶどうの木でいらっしゃる主イエスさまと結ばれているなら、必ず、実ると、復活して今生きておられる主イエスを信じるのです。

信じる生活は、何もしない生活ではありません。実らせるための努力の道もまた、聖書によって、明らかに教えられています。それは、ただ、主の御言葉を浴び続けることです。聴き続けることです。そして、祈り続けることです。つまり、教会生活に励むこと、この単純な事実に他なりません。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、御子イエス・キリストの尊い贖いの御業によって、私どもは神の民の一員とされました。真の羊飼い、良き羊飼いなる御子イエスの羊とされました。心から感謝致します。どうぞ、私どもをあなたの羊のままに、育て、養って下さい。あなたから離れ、自分勝手に御言葉を解釈するとき、自分の思いや考えをもとに、聖なる御言葉を利用しようとするとき、私どももまた、狼となってしまうことを恐れます。聖霊なる御神よ、私どもを絶えず御言葉に結び、主イエス・キリストにくくりつけてください。安心して、良き実を結ぶその時を待ち続けることができますように。アーメン。