過去の投稿2010年5月1日

4月25日

☆  先週は、「契約の子の父母と子どもの教会教師との懇談のとき」を設けました。そもそも、このような懇談の時の必要性は、子どもの教会の教師会からの要請に基づきます。伝道所委員会でも、子どもたちの教会においてのゲームについての考えを表明したこととも、深いところでは通じ合っています。

    契約の子の信仰教育の主体は、「親」にあります。これは、神から受けた「教育権」です。これは、国も地方公共団体もいかなる第三者からも奪われてはならない、権利です。日本における「義務教育」の期間は、小中学校の9年間ですが、それは、どこまでも親の市民として生きるための基本的知識を得るために、学校期間に教育を委託しているわけです。私どもの状況では、ほとんどの場合、キリスト教教育を施す学校は近くにありませんから、まさに、家庭において、聖書の言葉、その教えを教え、共に祈ることが求められています。何よりも、親が信仰に生きる姿勢そのものが、教育の「権威」を生むのだと思います。もとより、親自身が学び続けている者であり、また、親じしんが、自らの信仰を整えるために、悪戦苦闘の最中にあるということが多いかと思います。(信仰の第一世代の親は、自分の経験にはない、信仰の教育を施すのですから、まさに、手探りです。わたし自身がまさにそうでした。

ひとりの委員が、赤裸々に(?!)家庭生活について告白されましたが、【親】であるということ、教育の主体とされていることに対して、おそらく誰しもが、胸をはって、「わたしを見なさい」とは、言い得ないのだと思います。まさに、親自身が信仰者としての「破れ」を自覚させられているのです。しかし、それでも、私どもは、与えられた契約の子どもに対して、責任を放棄することができません。これは、幼児洗礼を、片親の強い反対によって施せなかった兄妹であっても、当然、同じです。ましてや、幼児洗礼を志願し、誓約した親であれば、生涯にわたる責任です。

    しかし、この親は、同時に、現住陪餐会員です。同時に、契約の子は、未陪餐【会員】なのです。現住陪餐会員は、たとい自分が子どもの教会の教師でなくとも、責任をもって子どもの教会を支える責任と義務があります。子どもの教会に信仰教育を「預ける」ことはできません。その意味では、契約の子の親は、たとい教師に就職されなくても、何らかの意味で教師を助ける人、できれば、補助教師となって、教師会を構成するメンバーになって頂きたいとすら思います。

    何よりも当然のこととして!またお願いも致します。子どもの教会の礼拝式に契約の子らを、出席させましょう。それなくして、私どもの教会が主から与えられた責任である地域の子らへの伝道は、始まりません。そして、私どもの子どもの教会の礼拝式もまた、子どもたちの心に届く説教、礼拝となるようにと、祈りを集め、研鑽をつまなければなりません。    

★   先週の懇談会は、むしろ中・高・大学生、成人となった子らを持つ方々が多く集まりました。最初に想定した懇談会のようではなくなりましたが、これも極めて大切なときであったと信じます。幼子であれば、幼児洗礼が可能ですが、すでに中・高・大学生、成人にはできません。

    懇談会冒頭に読んだのは、申命記の御言葉でした。新旧約聖書の中で、これ以上に、丁寧に信仰教育について記された個所はないかと思います。しかし、そこで大前提になっていることがあります。それは、旧約の民は、皆、割礼を受けた者であるということです。親である者が、言わば幼児洗礼を施され、家庭ではもとより、信仰共同体の中で育てられてきたのです。申命記の戒めは、親から子へそして孫へと連綿として語り継がれた信仰教育の根本なのです。

残念ながら、私ども第一世代の親は、自分自身、そのような教育を受けていません。むしろ、自分で率先して求道したのです。ですから、いきおい、子らへの信仰教育も、「その時が来るまで待つ」という過ち(!!)を犯しやすいのです。しかし、私どもの教会は、親の洗礼と同時に、幼児洗礼をも強く勧めます。乳幼児であれば、なおさらです。それは、「その時が来るまで、放っておいてはならない」からです。そのような意味で、日本の教会、何よりも私どもの若い教会にとって、まさに信仰継承の課題は、教会を挙げて取り組むべき、今、まさに「旬」の課題です。聖霊降臨祭を目指して、一人の契約の子が信仰告白の準備をしています。     

☆    先回の読書会での個人伝道の学びもまた、家族伝道についての懇談となりました・・・。本日は、読書会を休会として、高蔵寺教会の講演会に祈祷会で、祈り続けましょう。