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「信仰、御言葉への信頼」

「信仰、御言葉への信頼」
2010年5月30日(洗礼入会・信仰告白式)
テキスト マタイによる福音書 第8章5-13節 
「 さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。
すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。  そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。
「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。」

今朝は、洗礼入会式、信仰告白式を挙行致しました。心から、私どもの内に力強く働いて下さる全能の神に感謝致します。説教の後、私どもは、新しくされた神の民、神の家族として初めての聖餐の礼典をも祝います。真にこれにまさる喜びのときはありません。

今朝は、伝道月間で中断しておりましたが、マタイによる福音書の講解説教に戻ります。与えられたテキストは、実に深い内容をたたえております。しかし、残念ながら時間のことも無視できませんから、丁寧な説き明かしをすることはできません。また週日の祈祷会で、語りたいと思います。今朝は、このテキストの中心的なメッセージを一つ取り上げて、それをめぐってお話ししたいと思います。

ここに、ローマの百人隊長が登場します。百人隊長とは100人の軍人を統率する指揮官のことです。ローマ軍の一個師団は6000人ほどで構成されていたと言われていますから、一個師団には60人の百人隊長がいました。この小さな部隊が、ユダヤの国の各所に駐留して、ローマ帝国の支配を不動のものとしていました。しかし、新約聖書の中には、この異邦人である百人隊長の中から、ユダヤ教に帰依する者も出たことが知られています。

ある日、主イエスが、カファルナウムという町に来られた時、ひとりの百人隊長が、主イエスに、懇願するために、近づいて来ました。「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」この百人隊長は、部下を、自分の家に迎え入れて看取っています。心から隊員たちのことを案じる、心ある指揮官であることが分かります。

主イエスは、彼の願いを受け入れて、おっしゃいます。「わたしが行って、いやしてあげよう」主イエスもまた、彼の願いを喜んで聞かれるわけです。しかもわざわざ自ら出向いて、癒すことを約束なさいます。
ところがどうでしょう。百人隊長は、主イエスのこのご厚意に対して、こう答えたのです。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

彼は、ローマ帝国の言わば下級役人、職業軍人です。しかし、その彼には、ローマ帝国の権威が付与されてもいます。その権力は、この人自身の人柄とか人格の力に基づいているものではありません。国家権力の担い手なのです。彼は、その権力の力を自らよく体験しているのです。自分の命令で、部隊を、ひとりひとりの隊員を動かせるのです。

同時に、ここでは言われていませんが、彼自身もまた、権力に服す一人でもあります。6000人もの部隊、60人もの百人隊長を指揮する師団長が、「出陣せよ」、「退却せよ」、あるいは事細かに、「これこれをしろ」と役目を命じられたら、彼もまた、その命令に完全に服すことを知っているのです。

このような権力の力、威力を知っているのが、百人隊長です。この人が、目の前にいるイエスが、主であると信じました。救い主でいらっしゃると信じました。彼は、ただちにこう理解しているのです。このお方こそ、主の主なのだから、このお方が願うこと、その願いを公に宣言なされば、世界はその通り動くはずだと、こう信じたのです。ですから、わざわざ、来て下さることはありません。ただひと言仰って下さればそれで十分です、と告白できたのです。そもそも、あなたのようなお方を自分の屋根に入れる資格など持ち合わせていませんと彼は極めて謙虚です。

さて、主イエスは、この百人隊長の返事を聴いて、弟子たちをはじめ周りにいた人々にこう言われました。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
主イエスは、ここで、彼に感心していらっしゃいます。直訳すれば「驚く」です。心から嬉しく、すばらしいと驚いていらっしゃるのです。その意味では、感動すると訳す方が、近いのではないかと思います。

いったいイエスさまをして、感動させたこととは何でしょうか。それは一人の人の信仰の姿についてです。これは、考えただけでもすばらしいことです。イエスさまを感動させるほどの信仰者とは誰でしょうか。
ただし読者にとってはいささかショックのはずです。この福音書の第一の読者は、ユダヤ人です。彼らはイスラエル、つまり、神がご自身の民として契約された、神の民です。なんと、神の国が約束されているはずの信仰に生きる民、イスラエルの中でさえ、「これほどの信仰」を見たことがないというのです。

ここに、注目したいと思います。「これほどの信仰」と訳されています。ある英語の翻訳は「このような偉大な信仰」と訳されてもいます。しかし直訳すれば、「この信仰」です。わたしは、むしろ、「これほどの」と訳すのはよろしくないと思います。今朝は、残念ながらこれ以上、掘り下げる時間がありません。私どもは今朝、信仰とは、いろいろな形があるのだということではなく、信仰とは、ここに登場する百人隊長によって明らかにされた信仰一つしかないのだということを覚えていたいと思います。

確かに、「信仰の賜物」という言葉があります。特別の賜物としての信仰という側面があります。しかも、神を信頼する信仰の深さに差が存在するというのは、明らかな事実でしょう。洗礼を受けたばかりの人と、一年、五年、十年先輩の人とは、違うでしょう。違って当然です。10年先輩のキリスト者の方が、信仰の理解、信仰そのものが深いことは、それだけ長く恵みを受け、学びを受けているわけですから、当たり前のことと思います。ただ、洗礼を受けて飛躍的に成長すること、「後の者が先になる」というようなことも、実際には少なくありません。

主イエスが、ここで問題にしておられることは、信仰の深さについてではないことは、この御言葉で明らかであるはずです。主イエスは、言葉をついで、このようにイスラエルに向かって警告されます。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

ここで言われている、イスラエルの東と言えば、アジア大陸、日本のことが含まれるでしょう。西と言えば、ヨーロッパ大陸のこと、アメリカ大陸のことも含まれるでしょう。彼ら異邦人が、天国の中に入り、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫である本来の御国の子らは、天国に入れない、追い出されてしまうという実に、厳しい警告があります。そして、そのことは、既に、主イエスが十字架についてご復活された後、起こっている実際の姿のことです。

したがって、繰り返しになりますが、ここで言われているのは、信仰の深さ、浅さのことではなく、真の信仰のことであることは明らかです。そうでなければ、御国の子らが、外の暗闇に追い出されてしまうことはありえないからです。天国に入るために決定的に問われるのは、ひとりひとりの信仰の質ではないのです。まことの信仰があるかどうかが問われるということが、ここで示されています。

さて、私どもは今朝、極めて単純なメッセージを学んでおります。それは、信仰とは何かについてです。それは、徹底してただ神のみ言葉に根拠を置くということです。それはまた、つまるところ、神を天と地と、すべての見えるものと見えないものとの創造者、すべての主権をお持ちに慣れる唯一の神、比べるうことのできない生ける神と信じることです。そして、私どもにこの神をはっきりと見せて下さったイエスさまを唯一の主、キリストと信じることです。この唯一無二の主を信じるとき、このお方が、発せられる言葉は、必ず、そのまま、現実化するということは、これは、論理的に当然の帰結です。

聖書は、まさにその第一ページから、繰り返し、何を主張しているのかと申しますと、神の言葉は、必ず、発せられたそのまま出来事となるということです。

創世記第1章3節からこう始まってい参ります。「光あれ。」こうして、光があった。 「水の中に大空あれ。水と水とを分けよ。」そのようになった。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
「地は草を芽生えさせよ。」そのようになった。
神は言われた。「天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。第4の日。 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」第5の日。 「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。

そして最後の第6の日に人間の創造へと続きます。創世記の第1章は徹底して、天地の被造物は神がその御言葉によって創造されたということです。

イザヤ書、第55章にこう記されています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」聖書は、主の言葉の威力を繰り返し語ります。何よりも、イスラエルの歴史、旧約聖書の全歴史とは、つまるところ、神の言葉の成就の歴史に他なりません。また、新しいイスラエルである教会の歴史もまた、神の言葉の成就の歴史に他なりません。

実に、信仰とは、神とその御言葉に信頼すること。それ以上でもそれ以下でもないのです。もしかすると、「そんなことは、当たり前すぎる・・・。」すでに洗礼を受けている方であれば、そう思われるでしょう。しかし、この当たり前の真理を、契約の民、御国の民の中にではなく、異邦人の中にしか発見できませんでした。主イエスは、彼の信仰に感動されたのです。これは、2000年前のこととすることはできません。現代のキリスト者、教会においても、問われているのではないでしょうか。この当たり前のことが、実際に、私どもの現実になっているかどうかを、今一度、問いなおすことが求められています。

洗礼入会者、信仰告白者を教会に迎え入れた喜びの朝、私どもは改めて、信仰の原点を確認したいと思います。「行け、来い、これをしろ」と言う人間の言葉でさへ、人間どうしの権力関係においてですら、実行させる力を持っています。いわんや、天地の主なる神のご意思、御言葉の力を妨げるものは、地上にないことを信じましょう。聖書に記された神の御心、約束の言葉は、必ず成就するのです。

さて、しかし今朝、一つだけ、掘り下げたい、皆さまと、神学的に掘り下げて考えてみたいことがあります。もしかすると、先ほどのメッセージと反対のように聞こえるかもしれない真理です。

当たり前のことですが、人間とは、神に造られた被造物です。その意味で、他の命、他の被造物と通じ合っています。ただし、人間だけ、他の被造物と決定的な違いがあることを、御言葉は、はっきりと告げていま。それは、何でしょうか。それは、人間だけは、神に造られるそのとき、単に、神の言葉が発せられたら、人間として存在させられていたということではなかったということです。「人間よあれ」「出でよ」と呼びだされて存在していないのです。

人間が創造されたのは、地のちりで造られ、それで終わったのではありません。その後に、神の命がその鼻に吹き入れられたとき、生き物となったと創世記第2章は告げています。それは、簡単に言うと、他の被造物より時間がかけられているということでしょう。手塩にかけて創造されたという意味でしょう。そして、何よりも、人間という存在が人間になるには、時間が必要であったのではないか、という思いが致します。これは、聖書の注解書などで、読んだことはありませんから、わたしの解釈です。そして、それは、間違いではないと思います。
たとえば、人間の赤ちゃんを例にして、考えたらよいと思います。いったい、一個の動物として、人間の赤ちゃんほど、人間が人間として育つ上で時間がかかる動物はいないだろうと思います。牛や馬は、生まれてわずかの時間の内に、自分の足で立ち上がります。草食動物では1時間もかからないのだそうです。

しかし、人間の赤ちゃんは違います。いへ、ここで考えたいのは、自分の足で立ち上がれるためには、時間がかかるという問題ではありません。人間の人格の問題です。自分の足で立ち上がるより、もっと本質的なことは、人間が喋りはじめるには、さらに時間が必要であるということです。まさにそこに大切な真理があります。つまり、人間が人格として成長し、育つために、生きるためには、決して、促成栽培はできないということです。時間をかけることが不可欠なのです。

神は、人間を、ご自身の御言葉の理解者として、神との対話の相手として造られました。言葉を換えれば、ゆっくりと育てられたのです。

人間の中で、もしも言葉が喋れるようになった人であれば、誰だって、はっきりしていることがあります。それは、その人は必ず、誰かに愛されたということです。母親に、あるいはおじいちゃんおばあちゃんでも、施設の人でもよい。とにかく、語りかけられること、抱っこされること、自分の目を見つめてもらうこと、これなしには、母語、言語を語ることはできません。

神は、人間を、言葉を理解する存在として創造されました。そして、そのために、神御自身が、あのアダムとエバに、まさにその胸に抱いて、目を見つめて、語り続けられたのです。だから、人間は生きる者となりえたのです。人間となりえたのです。神のいのちの息は、そのような方法でも、注がれた、そう理解してよいはずです。聖書の神、私どもの真の神は、物言わぬ神ではありません。私どもにむかって、優しくお語りくださる神、語り続けて下さる生ける神なのです。

そのことが分かれば、人間にとって本来、言葉を理解すると言うことは、言葉そのものでいらっしゃる神の言葉を理解すること、それこそを優先すべきことであることが分かります。つまり、人間にとって祈ることは、当たり前のこと、必須のことなのです。人間とは、そもそも神のみ言葉を理解し、神に語りかける存在なのです。そこに、人間の人間たるゆえんがあるのです。

今朝、お二人は、洗礼を受け、あるいは信仰を告白して現住陪餐会員として教会生活、信仰生活へと出発します。それは、まさに出発です。そこから全生涯に渡って、キリストにあって成長を続けるのです。洗礼を受けることは、決して、ゴールインすること、到達することを意味してはいません。

これは、最近、読んだ本からの孫引きなのですが、教会の改革者ルターは、洗礼に関して、こう言ったそうです。「洗礼は一瞬で終わるが、完成するためには一生かかる。」どこで、どのような分脈の中で語られたのか、知りません。

確かに、洗礼を施すのは、わずか一瞬です。しかし、この一瞬で与えられた恵みの重さ、豊かさは、キリスト者がその全生涯をかけて学び続けるべきものです。洗礼の恵みを味わい尽くすためには、一生涯を必要とするのです。私どもは今朝、ただちに聖餐の礼典にあずかります。それは、既に、洗礼受けた私どももなお、自分が受けた洗礼の恵みを、繰り返し学び続ける、新しくされ続ける、恵みを豊かに受けることを意味しています。キリスト者は、一生涯、聖餐の礼典に与り続けるのです。それは、洗礼の恵みを言わば完成させることと言えるかもしれません。それは、一生に渡ることなのです。

つまり、私どもは、信仰の成長の途上にある者なのです。確かに、主イエスを信じ、洗礼を受けた人は、天国が開かれました。御国に入れる保証が与えられたことを意味します。しかし、神の御心は、そこで終わるのではなく、そこから始まるのです。神の御心は、その受洗者、洗礼を受けた人が、教会員として、キリスト者として神の栄光をいよいよあらわす人として聖化することにあるのですから、そこで、立ち止まることはできません。

真の信仰とは、神とその御言葉に、つべこべ理屈をつけて、これは信じられる、これはそのまま今の自分には無理だとか、御言葉を自分の都合で取捨選択して、従ったり、従わなかったりすることではありません。御言葉を研究して終わってしまったり、喜んで聴くけれども、それだけで行わないということは、信仰とは呼べません。その意味で、まさに、この百人隊長の姿を、自分に重ね合わせることが、必須です。それ以外に、信仰はないからです。

しかし同時に、それは、時間をかけて身につける課題でもあります。そのためには焦らず、あわてず、語りかけ続けて下さる神の恵みを豊かに受けてまいりましょう。聖書を日々、ひもとき、御声を聴き続けることです。何よりも主の日の礼拝式に出席して、説教を、神の言葉として聴き続けることです。そのとき、私どもは、まさに、言葉をもって出会って下さる神、私どもを抱いて、目を見つめ、愛といのちの言葉をもって「行け、退け、こうしなさい」と語りかけて下さる生ける言葉そのものなる神との絆を深めることができるのです。

祈祷
生ける神の御言葉なるイエス・キリストよ、あなたが、聖書の言葉を通して、説教の言葉を通して、私どもに出会って下さり、私どもを育て続けて下さり、ご自身との愛の絆を結び、これを深め続けて下さいます幸いを心の底から感謝致します。そうであれば、あなたの御言葉に対する信頼を堅固な者として下さい。あなたが約束された救いの恵み、契約を確信させて下さい。契約の子らがいます。契約の親が、この約束を信じ、かつてした誓約に真実にならせてください。幼児洗礼を受けることができない契約の子らもいます。神よ、しかし、救いの契約が結ばれていることを片親が、この百人隊長のように信じることができますように。父なる御神、どうぞ、御言葉の力を、いよいよ私どもの教会が体験できますように。まことの信仰者の群として、御言葉によって生きる教会、建つ教会としていよいよ形成させて下さい。アーメン。