過去の投稿2010年6月7日

6月6日

☆    先日の祈祷会で、あらためて「サマリアの女性」の物語を読みました。特に、その後半を読みました。主イエスは、彼女に、「本当に人間に必要なものは、目に見えないものなのだ、それは、あなたの目の前にいる、このわたしを信じること、このわたしを霊と真とをもって礼拝することなのだ、そのとき、あなたの心に、魂にいのちの水が注がれ、このおいしい水であなたは満たされ、うるおされ、力を与えられる、そして、あなた自身の魂の深みからこの水が泉のようにわきあがるのだ・・・」と対話の中で、語られて行きました。

★   ・・・読書会での個人伝道の学び会の時に申しました。個人伝道、霊的な対話を御言葉から学ぶとき、最大のテキストとなるのが、おそらくは、この女性との対話です。ここを何でも丁寧に読むことによって、私どもの対話、霊的な対話の「勘所」になるものが分かるのではないかと思います。それを、自らのものとするためには、そのような対話を実践することが大切でしょう・・・。牧師との対話・・・。(皆さんは、それをどのくらい求めていらっしゃるのか。牧師に基本的なこと、どんどん質問されると、どんどん引き出される・・・ハズです。それは、先生に質問すると、習ったよりはるかに深く、豊かに教えを受けることができる場合があります・・・、それと同じです・・・。・・・だと良いのですが・・・。)会員同士の霊的な対話・・・。それは、あのエチオピアの宦官を洗礼に導いたフィリポが、「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。」(使徒言行録第8章35節)ようにすることでもあります。

☆    サマリアの女性のテキストの前半は「飲み物」について、後半は、「食べ物」について語られています。私どもの霊のまことの食べ物、飲み物・・・。聖餐の礼典の式辞、祈祷での祈りを思い起こします。サマリアの女性のいのちの飲み水は、イエスさまご自身でした。そして、イエスさまの「食べ物」は、父なる神の御心を行うことでした。主イエスによって救われた彼女は、サマリアの町に出かけて行って、主イエスを紹介します。主のもとに行くように勧誘します。彼女もまた、喉の渇きも忘れてしまい、夢中で、伝道します。イエスさまにとって伝道することが、いのちの食べ物を受けることであったように、彼女にとっても、イエスさまを紹介し、人々をイエスさまのところに勧誘することも、いのちの食べ物を食べることだったはずです。

★   先週、私どもは、洗礼入会者を迎え入れ、「教会として」いのちの食べ物を豊かに食べたのです。どんなに、すばらしい実り、味わいであったことでしょう。又、個人としても「いのちの食べ物」を大いに食しましょう!

☆    愛餐会の後、名古屋地区合同修養会に、遅れて出席しました。伝道が主題でした。○○姉も○○兄も、私どもの会員が声をかけて誘ったのではありません。言わば、お二人とも自ら、門をたたいて下さったのです。愛餐会で看板のことが何度も話題になりました。看板は、語りません。しかし、神は、○○兄の心の中に、語りかけていてくださったのです。それが聖霊のお働きです。私どもの伝道とは、神御自身が先行して働いて下さる御業を信じ、それに参与することなのです。物言わぬ、看板すら用いられます。○○姉は、ビルのときから、教会の存在に関心を持ちつつ、「危険な!?」宗教団体かも・・との思いで、その後、数年も、来るのにかかりました。(教会堂の献堂を、当時の会員に呼びかけたときの一つの鍵の言葉は、地域の人々への愛として、会堂を建てようと言うことでした。それは、私どもの信仰からは、ビルでも、キリストの教会としてなんら不都合はない。しかし、信仰なき人々には、躓きを与えることも、考えねばならない・・・。だから、人々に入りやすくするために・・ということでした。会堂建築を担った当時の少ない会員も、最初から、全員一致で、前進したわけではなかったように記憶します・・・。)伝道を考えるとき、それは、先週の説教でも語ったように、プロセスとして考えることが重要です。人間が育つために、時間がかかると言う真理です。伝道の最初は、情報です。「キリスト教って、良いものだよ。あなたのために、役立つよ」「教会は、あの場所にあるよ。誰でも、出入り自由だよ。」それで、よいのです。関心のある人は、心が動きます。そのとき、関心がなかったとしても、イヨイヨ、時が満ち、《行きたい》との思いが募る場合があります。○○姉もそうだったはずです。

☆   サマリアの女性は、個人伝道までしていません。言わば、伝道の最初期の段階でとまりました。しかし、それでもよいのです。そこには、イエスさまご本人がいらっしゃったからです。今に当てはめれば、「牧師・教会」のところに連れてくることが大切です。「先生、あとは宜しく!」それでも、よいでしょう・・・。

★   同時にしかし、今している「個人伝道の学び会」が目指していることは、ここから一歩進むことです。「先生、この方はもう、洗礼のことも考えて見えます。どうぞ、聖書と教理と生活を教えて下さい・・・。導いて下さい。」とそこまで、信徒として、担えるはずです。