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「群衆になるか、弟子になるか」

「群衆になるか、弟子になるか」
2010年6月13日
テキスト マタイによる福音書 第8章18-22節 
イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、
弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
そのとき、ある律法学者が近づいて、
「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
イエスは言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
ほかに、弟子の一人がイエスに、
「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
イエスは言われた。
「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

 主イエスは今、群衆に取り囲まれています。彼らは、大変な熱気をもって主イエスを歓迎し、興味を抱いて追いかけ、みもとに集まっています。すると、主イエスは、弟子たちに、ガリラヤ湖の対岸まで、舟で渡るようにと命じられます。それはおそらく、弟子たちと群衆とを分けよう、切り離そうとするお考えなのだと思います。

そのとき、ひとりの律法学者がこう言いました。「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」考えて見ますと、これは、すばらしいこと、すごい事です。律法学者とは、聖書の学者、つまりユダヤ教の権威です。それは、ユダヤ社会全体の指導者ということを意味しています。主イエスの初期の伝道がどれだけ大きな影響を及ぼしたのか、驚くばかりです。何よりも、マタイによる福音書の最後を知っている者にとっては、まさに驚きです。何故なら、イエスさまを十字架へと追いやった、まさに張本人こそ、この律法学者を中心にした宗教指導者に他ならないからです。

そのような律法学者から、「どこへでも従って参ります」と申し出られたなら、普通だったらどんなリアクションをとるでしょうか。先ずは、歓迎し、誉めるのではないでしょうか。律法学者が主イエスに従うのであれば、どれだけ、助けになるでしょうか。イエスさまにとって、決して損にはならない、いやむしろ願ってもない人材だと思うのです。主イエスの伝道が成功したという証明にもなると思います。ところが、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と、かなり冷たい対応です。「キツネにも鳥にもちゃんと住まいがある、しかし、人の子、わたしには、安心して横たわれる場所はない。あなたはそのようなわたしについて来るというのか。」

私は、このやり取りを読みながら、仏教の世界ことを考えました。仏教において、出家する人、つまり仏門に入る人は、お寺の門の前に、数日間、座して、扉を開けてもらうのを待つ儀式があると聞いたことがあります。今、儀式と申しましたが、つまり、ちゃんと入門できるということは、お互いに分かっているわけです。ただ、出家志願者、入門者には、そのような覚悟を持つ事が、仏教では求められているということなのだろうと思います。

そうすると、私どもキリスト者にも又、主イエスの方から、「あなたの決意、決断は本物ですか、本当に、このわたしの厳しい生き方について来れますか」つまり、あなたの覚悟やいかにと、試験されたと読むこともできるかもしれません。

しかし、もしそうであれば、ただちに疑問がわきます。なぜなら、あのペトロとアンデレたちのときは、こんなに厳しい試験はまったくなかったからです。

それなら何故、この律法学者にだけは、言わば、特別に厳しい対応をなさったのでしょうか。おそらくその理由は、この短い文章だけから結論付けることはできないと思います。

しかし、一方で、主イエスが律法学者に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と語られた言葉は、先に弟子となったペトロたちも、隣でしっかりと聴いていたであろうと思います。そうであれば、彼らもまた、緊張感が走ったのではないでしょうか。ああ、本当に、イエスさまに従うということは、そのような決意と覚悟が求められているのだ、自分は大丈夫なのだろうかと、考えさせられたのだと思います。

ここで少し横道にそれますが、もとより、イエスさまの伝道生涯の中で、毎日、野宿をして、あの創世記に登場するヤコブのように、石を枕に、眠っていたわけではありません。ここでの「枕する所」とは、安住する場所、自分が故郷にする家、実家はないと言う意味に解釈すべきだと思います。つまり、そこからだんだんわかってくることは、主イエスは、地上にあっては旅人として歩まれるのだという表現であると理解することが相応しいと思います。こうして、主イエスに従うキリスト者もまた、まさに地上に枕するところを持つ、つまり、地上の住まいを絶対化して、地上の暮らしぶりしか考えないというのではなく、むしろ、天にこそ、私どもの枕するところ、つまり、天をこそ、自らの故郷にする、故郷を天国に持つと言う意味です。

ここからは、断定はできないことで、想像するしかないと思うのですが、彼は、きちんと聖書を学んだはずではないイエスさまの中に、これまでのどの教師にもまさる聖書の真理に関する煌めくような光を見て、本当に興奮したのだと思います。しかし、もしかすると主イエスは、そのような学問の世界、学者の研究の知的な興奮の延長線上で、主イエスに従うことはできないと、その自覚を求めていらっしゃるのだと、わたしは思います。主イエスは、この律法学者が、ご自身の律法理解、解釈の見事さに感動している様子を見つめていらっしゃると思います。

いったい、主に従うということは、どのようなことでしょうか。それは、これまでの自分の生き方、在り方を、「よりすばらしいものにする」ということではありません。つまり自分のこれまでの人生の、その延長線上には起こらないということです。主に従うためには、そのときは、はきりと線が引かれる、断絶があるのです。

私どもキリスト者が、キリストの弟子とされたのは、私どもに何が起こったと言う事なのでしょうか。それは、主イエスさまと出会ったということです。そこで、神によって人生の方向転換が起こった、起こされたということです。しかも丁寧に申さなければなりません。それは、決して、一回で終わりません。方向転換は、日ごとに起こるのです。そのようにして、私どもの内側に主イエスさまが造り出してくださった新しさが深まる、成長するわけです。洗礼を受けて、それっきり、卒業とか完了するわけではありません。そのところから、方向転換を深めて行くのです。

繰り返しますが、それは、これまでの人生の歩みをさらにバージョンアップするとか、揺るぎないものにするとか、確立するというのではありません。自分のこうしたい、ああしたいという、ああなりたい、こうなりたいという、言わば、心の上辺の思いを捨てて、神へ向かって方向転換することです。

言うまでもなく、律法学者は、神を信じています。そうでなければ、聖書の学者であるはずがありません。しかし、その信じる神の理解、イメージは、変えられなければならないのです。そのために、主イエスさまは、「枕する所がない」という表現を用いられるのです。それはただ単に、仏門に入門する人が問われるように、「キリストに従う生活、伝道の生涯は厳しいぞ、貧しいぞ、大変なんだぞ」と、覚悟の確かさ、決心の確かさが問われているのではないのです。

ここで主イエスさまが求めていらっしゃったのは、律法学者にもまたペトロにも、全く同じことです。律法学者にだけ当てはまることではありません。誰にとって、例外なしに求められているのは、方向転換です。そして、この方向転換のことを、聖書の表現として、「悔い改め」と言うのです。

神の国に入るためには、この世の国の生き方、考え方では通用しません。この世に枕をおくことではありません。神さまを自分のまさに神とする、枕は神です。自分とこれまでの生き方、考え方を中心にしないで、神とその御心を中心にするという転換が必要なのです。そして聖書は、告げます。この悔い改めもまた、神の恵みなのです。自分自身の力や悟り、賢さや誠実さでもないのです。

この律法学者がこの直後どうなったのか、定かな事は誰も分かりません。しかし、わたし自身は、マタイによる福音書の中にだけこの記事が収められているところから、彼は既に、マタイが指導したであろうこの教会の会員として、主イエスに言われたように、悔い改めて主を信じ、教会に仕えていたのではないかと思います。

さて次に、今度は、既に弟子とされている一人がこう申し出ます。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」これは、あらためて先週の説教を思いだして頂きたいと思います。あのとき、ペトロは、言わば、家族をも捨てて、主について行きました。ところが、後で、主イエスさまの方から、彼の家を訪ねてくださいました。そればかりか、姑の病を癒していただき、家族のみんなを救って頂いたのです。つまり、主イエスさまこそ、ペトロだけではなく、その妻も、子どもたちも、親たちも、深く愛し抜かれたのです。

それだけに、今朝の、主イエスの御言葉には、驚かざるを得ません。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」もしも、今朝、聖書を初めて、ここだけを読んだ人がいらっしゃったり、何よりも興味本位で聖書を読む人であれば、ほぼ間違いなく、このイエスさまに反感を抱くのではないかと思います。まるで新興宗教の教祖、カルト集団の指導者のように、洗脳やマインドコントロールをかけて、家族との関係を遮断してしまう、あるいは、血も涙もない、家族の情愛をまったく弁えない、およそ人間としての暖かさ、優しさのかけらも持ち合わせていない、これ以上、表現すると苦しくなります。そのような悪い印象、批判を生じかねないと思うのです。

いったい誰が、父親の葬儀に出席することをひき留める人がいるでしょう。先週学んだあのすばらしい主イエスさまのお言葉、愛のお心と行いとはあまりにもギャップがあると思います。

それだけに、丁寧に読みましょう。ここで弟子とされた人物は、これまでの流れから見て、既に、「わたしに従って来なさい」と主イエスさまに弟子になるようにと招かれていたのだと思います。ペトロの場合は、ただちに従いました。ところがなんと、この弟子は、父親が亡くなったその直後に主イエスとの出会いが備えられていたのかもしれません。おそらく、彼は、肉親の死に触れ、人生について、将来について深く考え始めたのかもしれません。そのような、悲しみに沈んだ彼を見て、主イエスがお声を掛けたのかもしれません。そして彼の心は激しく動かされ、「この人について行こう」と決心したのかもしれません。

しかし、彼は、すぐに考えました。先ず、何と言っても肉親の父の葬儀に出席しなければならない、何よりも、葬儀をきちんと取り行ってあげるのが、息子の務めだと確信していたと思います。

ですから、彼は、こう言います。「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」「まず」と言います。つまり、この言葉の裏には、葬りが終わったら、次には、あなたにお従いしますというニュアンスがこめられています。そして、おそらく、彼は、当然のことと思って、主イエスから、このような返事を期待したことでしょう。「それは、お気の毒に。さぁ、早く家に帰ってあげなさい。」もしかすると、心のどこかにこんな期待もあったかもしれません。「わたしも、御父さんの葬りに立ち合いましょう。」

ところが主イエスは、断固、命じられます。信じられない言葉を彼は耳にします。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

主イエスは、ここで、「先ず」何をするのか、先ず、何をすべきか。そのことを主イエスは決してお譲りになられないのです。つまり、「次に」、「二番目に」主イエスの従うのでは、ダメだと仰るのです。第一番目にです。すべてに先立って、わたしに従うことを土台とせよということです。「先ず」とは、すべてに優先させよ、ということです。人生には、一切に先だってしなければならないことがある、その順序は、決して、覆せないのだというのです。

考えて見ますと私どもは、「先ず」ということを、人生の節目節目で、持っているのではないかと思います。小学生、中学生、高校生、大学生、就職して、結婚して、出産して、働いて、退職して・・・、それぞれの局面で「先ず」があるのではないでしょうか。先ずは、これを優先する。これが課題となる、これを目標とする。人生の節目節目で異なるかと思います。私どもはそれは、当然のことだと考えているのです。ところが、主イエスは、その私どもの常識を破られます。

言うまでもなく、それは、私どもの救いがまさにそこにかかっているからなのです。私どもの救い、健やかな歩み、人間らしい歩みを営む上で、どうしても欠かせない事柄があるからです。生活の節目であろうが、何気ない日々の繰り返しであろうが、これを曲げることはできない、これを第二にすることはできないのです。それは、ごくごく基本のことです。

信じることです。先ず、神さまを信じる。そのとき、神が私どもの生涯を、完全に燃焼させてくださるのです。本当に生きる、自分の人生を輝かして生きるために、どうしてもしなければならないことは、「先ず」主イエスさまを信じることです。

子どもカテキズムの問い一は、人生の目的を明らかにします。「私たちは何のために生きるのですか。」「私たちが生きるのは、神さまを知り、神さまを喜び、神さまの栄光をあらわすためです。これが私たちの喜びです。」です。人生の目的とは、神さまを知ることなのです。そこから真実に始まるのです。このテキストに即して言えば、こうです。私たちは、先ず何を目的にすべきですか。

私たちは、第一に、何から始めるべきですか。第一にすべき目的、目標は何かです。それは先ず、神です。先ず、神さまの御心を知り、信じ、従うことです。

もう一度、先週の説教をおさらいしましょう。ペトロは、先ず、主イエスさまに従ったのです。すると、しばらくの後、主イエスさまが頼みもしないのに、家にお越し下さり、頼みもしないのに姑の病を癒されたのです。もしも、彼が先ず、姑の病が癒されてから、従いますと言ったらどうなっていたのでしょうか。つまりは、「先ず」、神なのです。「第一に」イエスさまなのです。だから主・イエスとお呼びするのです。あれとこれが済んだら、片付いたら、聖書を読みましょう。教会に行きましょう。信仰を求めましょう。考えましょう。それでは、主イエスと真実に出会うことができないのです。悔い改めることへと主は招かれます。自分の考えが先ずある。そこが問題なのです。自分の考えこそ常識、当然のこと、そう考える、そこが問題があるのです。

続いてこう仰います。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」この表現も、人を傷つけ、苛立たせます。反発させると思います。

主イエスが、葬儀を軽んじることなど、到底、考えられません。何よりもキリストの教会こそ、人の死をどれだけ真剣に考えてきた事でしょう。500年前の日本は、一般の人の葬儀はなされなかったと言われています。当時の仏教は、今日のいわゆる、葬式仏教ではありませんでした。貧しい人たちは、丁重には、葬ってもらえなかったのです。しかし、ローマ教会の宣教師たちは、民衆の葬儀を買って出ました。丁重に葬りました。そのことが、当時の日本人の多くの人々の心に、キリシタンの教えは、人を大切にする教えと映りました。キリスト教は葬儀やお墓を重んじて参りました。それなら、この主イエスさまの御言葉もまた、深く考えなければならないはずです。

いったい、「死んでいる者たち」とは、何を意味するのでしょうか。キリスト教は、いのちを考える時、三つの部分で考えます。

第一に、肉体的ないのち、生命です。ギリシャ語では、ビオスと言います。英語のバイオのもとになった言葉です。

第二に、精神的な命です。プシュケーです。サイコロジーなどのもとの言葉です。

そして三番目が、ゾーエーです。永遠のいのちです。つまり神のいのちです。これこそ、人間をまことの生きた人間とするいのちなのです。聖書によれば、人間とは、この神のいのちの息が吹きいれられたとき、生きものとなったと告げています。

その意味で、主イエスさまを第一にしないこと、「まず神」、「第一に神」と神をすべてに優先しないことは、このゾーエーを失っているということを意味するわけです。だから、主イエスさまは、先ず神と、神を中心にしない人のことを、死んでいる人と言ったのです。つまり、この弟子に、「あなたは、死んではならない。あなたまで死んではならない」ということなのです。「あなたは、わたしを第一にして生きるのだ、そのとき、あなたがなすべきことは、見えてくる。分かってくる。そのために、わたしは命じる、わたしに従え。ついて来なさい。」主イエスがまさに極みまでの愛をもって、この新しい弟子を真理に、いのちの方へと導かれているのです。

わたしは、やはり、ここでも想像するのです。この弟子は、この後、どうしたのか。このイエスさまのお心を悟らずに、「そんなひどいことを言うのだったら、こっちから願い下げだ。あなたのような、親子の愛情を知らない人の弟子になんかなりたくもない。」そう言ったのでしょうか。わたしはそう思えないのです。確かに、そのときには、そんな気持ちが湧いたかもしれません。しかし、主イエスに従った。そのとき、おそらく、この家族は、本当に、ひどい先生だと、主イエスに躓いたかもしれません。しかし、やがて、この人が、生まれ変わったように、生き生きと主イエスに従い、充実した生活を始めることを知ります。喜んで生きることを知ります。そして、彼もまた、やがて母親に、また兄弟にも、復活の命を、永遠のいのちの喜びを伝道したのだと思います。

先日、母から電話がかかってまいりました。母の出席する教会の牧師から、わたしの証の放送を聴きましたよと告げられて、驚いたようです。兄に教えてもらい、インターネットで証を聴いたと言うのです。神学校に入学するとき、本当に反対されました。しかし、その後、何年もかかりましたが、主イエスは、母にも触れて下さったのです。そして癒し、救って下さったのです。

主イエスこそが、わたしの浅知恵などより、はるかに深く、はるかに激しく、わたしの幸せ、わたしの家族の祝福を願っていてくださるのです。だからこそ、譲られません。「先ず、わたしの御言葉に従いなさい。それがどんなに幸せであるかを知りなさい。」こう招いてくださるのです。ですから、主を第一にすべきなのです。

おそらく最初のペトロは、イエスさまを信じてついて行ったら、やることなす事順調に行って、自分の願ったような、思いどおりの人生を送れるようになることを期待したと思います。地上に枕する生活、ふっくらとした枕で寝る豊かな生活の希望を持っていたと思います。しかし、主の養いと訓練を受けて、少しづつ、悔い改めを深め続けました。ついに、殉教者となりました。おそらくそれは、自分の想像し、考えていた人生と正反対だったのかもしれません。思いどおりの人生ではなく、思いもよらない人生となったかもしれません。しかし、実にそこにこそ彼が心の最も深いところにあった自分の本当の願いが実現できた喜び、神の栄光をあらわすことができたその光栄を深く覚えることができたと思います。

これは、半分冗談ですが、ヨーロッパの人たち、特に、ローマ教会のキリスト者たちは、天国の門には、ペトロがいて、天国の門番をしていると言います。しかし、ガリラヤのひとりの漁師が、主イエスに従ったことで、世界史がこれほどまでに動いた事実を思います。天国の彼には、あのローマ教会が、今なお、自分のことを教会の土台なのだと主張しているとは、信じがたいことでしょう。

ペトロとこの律法学者だけではありません。主イエスは今朝、ここに招かれたお一人おひとりにも、こう招いておられます。「先ず、わたしに従いなさい。わたしを第一にする、そこから始めなさい。」それは、主イエスの弟子となるそのときこそ、私どもは、本来の自分自身の生き方、在り方を取り戻して頂けるからです。救われた生活を始められるからのです。天国に枕する人間に変えられるのです。今地上にあって、永遠の命の輝き、喜び、希望に生きる揺るぎない生活を始めることができるからです。「先ず、わたしに従いなさい。」

祈祷
わたしに従って来なさいと、今、私どもにも、あなたの弟子になることへとお招き下さいました主イエス・キリストよ、あなたの招きこそ、私どもの救いであります。私どもの心の上辺にある思いどおりの人生ではなく、私どもの心の奥底にある最も深い願い、それは、思いもよらない人生へと私どもを導きます。しかし、それこそ、あなたが計画し、あなたが私どもに求められる祝福された、永遠の命に至る歩みであることを信じます。自分の人生が真実の自分自身の人生になる道です。どうぞ、そのために、悔い改める心をつくって下さい。古い自分に死んで、新しくされた自分へと生かして下さい。あなたを信じ、従う心を、私どもの心に与え、造って下さい。死と滅びに至る歩みではなく、いのちと救いに至る歩みを、ここにいる全ての上に、もたらして下さい。今週も、主イエスさまを仰ぎ見、主について行く歩み、主の歩みにかさなる日々として下さい。アーメン。