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「人生の嵐のただ中で」

「人生の嵐のただ中で」
2010年6月20日
テキスト マタイによる福音書 第8章23-27節 
「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。
弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。
人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

 
 
 今、朗読した物語は、マタイ、マルコ、ルカによる福音書、三つの福音書に共通して出てまいります。このガリラヤ湖における体験がどれほど、大きなものであったかが、よく分かると思います。また、最初の教会にとって、このときの出来事は、単なる思い出話しではなかったからでもあります。今自分たちにも、起こっている出来事と、重ね合わせて読まれたと思います。そればかりではありません。
2000年のキリスト教会の歴史の中で、特別に愛され続けた物語の一つであると思います。いったい、どれほど多くの画家たちがこの状況を描いてきたことでしょうか。そればかりではありません。礼拝建築の歴史のなかで、教会堂を船の形になぞらえて建築した例も、いくつもあります。あるいは、礼拝堂の皆様の座っている席、会衆席のことを、英語で「シップ・舟」と呼ぶことがあるそうです。つまり、教会を、あのガリラヤ湖に浮かぶ舟になぞらえているわけです。

 さて、主イエスが山の上での説教を終えられて、ふもとに降りて来られると、たて続けに、病んでいる人々のところに出向いて、彼らを癒されました。それによって、いよいよ人々の関心は集まり、さらに大勢の人々が主イエスを取り囲むような状況が起こっていました。
 そのとき、主イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。岸辺には、一艘の船がおいてありました。もしかするとペトロの舟かもしれません。すると、主は、弟子たちに、「向こう岸に行くように」とお命じになられました。

 これは来週のテキストで学びますが、主イエスが命じられたこの対岸とは、ガダラ地方と言われて、ユダヤの人たちからすれば、好んで行く場所ではなかったのです。

 主イエスが、その舟に乗りこまれると、弟子たちも従いました。しかし、彼らはウキウキ、ワクワクするような思いで乗り込んだのではないと思います。イエスさまが行けと言われて、乗り込まれたから、ついて行くしか仕方がないだろうという気持ちがあったのだと思います。何故、このように消極的になっていたと想像するかは、弟子たちが最初に乗り込んでいないからです。そして、その理由は、一つには、行き先の問題があったからでしょう。そしてもう一つは、何よりも天候のせいだったのではないかと思うのです。
 
 先週、この説教の準備を始めたとき、浜名湖で本当に悲しい事故が起こったことを知らされました。豊橋にある中学校の生徒たちの乗るボートが転覆して、ひとりの女子生徒が亡くなりました。新聞によれば、その場所は、特に強い風が吹く場所だったのだそうです。わたしの浜名湖の印象は、穏やかというものです。しかし、それでも場所によっては、強い風が吹くところもあることを知りました。

ガリラヤ湖の大きさは、浜名湖のおよそ三倍です。ガリラヤ湖は、海抜マイナス200メートルの場所にあるそうです。山に囲まれているこの湖は、普段は、凪の状態でのどかなのですが、山から吹き下りてくる突風が起こるのだとも言われています。

 最初に弟子とされたペトロとアンデレも、ヤコブとヨハネもこの湖で漁師をしていました。この湖のことは熟知していたのです。雲の流れなどを見計らって、「こんな日こそ、かえって、気をつけなければならないのだ」と、少なくとも、彼らだけは考えていたかもしれません。

 しかし、イエスさまが乗り込まれると、彼らもまた覚悟を決めて乗り込んだのでしょう。そして、わたしは、これは、先週の祈祷会でも少し触れましたが、先週、登場したあの二人、律法学者と父を葬りに行かせて下さいと願い出た弟子の二人とも、おそらくは、弟子たちの最後に、乗船したのではないかと思っています。もしかすると群衆の中からも、この舟にわたしの乗せてほしい、わたしもイエスさまと一緒に行かせて欲しいと願い出た人もいたかもしれません。

 こうして、皆が舟に乗り込んだとき、ペトロたちは、帆を挙げて、岸辺を離れたのでしょう。おそらく最初は、まるで鏡のように穏やかな水面であったかもしれません。気持ちのよい風が吹いて、うとうと眠りたくなるほどであったかもしれません。主イエスは、お疲れが出たのかもしれません、気持ちよくお眠りになられました。弟子たちの中にも、一緒にしばし昼寝を楽しんでしまった者もいたかもしれません。

 ところが、しばらく進み行くと、ガリラヤ湖特有の激しい風が吹いて来て、舟は大揺れに揺れました。慌てて起き上がって、皆で力を合わせて、入ってくる水を掻き出し始めます。 ところがどうでしょう。なんとイエスさまだけは、まだ眠っていらっしゃいました。最初は、弟子たちはこう思ったかもしれません。「さすが、イエスさまは動じない、わたしたちの大将だ。やっぱり、ただものではない」 しかし、嵐の勢いは止まりません。彼らは、このままでは本当に沈んでしまう。転覆してしまうかもしれない。ついに、主イエスに近寄って、起こして言いました。「主よ。助けて下さい。おぼれそうです。」「溺れそうです」これは、直訳すれば、「死にそうです」となります。

 先週は、父を葬りに行かせて下さいと願い出たひとりの弟子のことを学びました。しかし彼は今、父親の葬りどころではなく、自分自身が、このガリラヤ湖を墓場にしなければならなくなる、死んでしまうと思ったかもしれません。亡くなった父にも、家族の者たちにも申し訳ない、なんて親不孝な息子だろうと思ったかもしれません。

あの律法学者もまた、主イエスから、ご自身に従うことは、枕するところもない所に行くことになるのだと言われて、相当の困難を覚悟したはずです。しかしまさか、こんなにも早く海で遭難して、死んでしまうかもしれない。いくらなんでもそれは、酷過ぎるだろうと思ったかもしれません。

それどころか、ペトロやヨハネもまた、こう思ったかもしれません。「イエスさま、確かに、自分たちは、漁師であってこの湖のことは、熟知しています。だからこそあなたさまは、きっと私たちを信用してくださって、眠っておられたのでしょう。わたしたちもまた、あなた様に眠って頂いたまま、対岸につけるようにと、いつも以上にがんばりました。でも、もはやそんな状況ではありません。死んでしまいます。」「いや、そもそもこんな目にあったのは、あなたが舟を出せと命じられたからだったはずです。主よ、あなたの責任でもあるはずです。どうぞ、わたしたちを助けて下さい。」

さて、弟子たちの心の中を自由に想像して語りましたが、わたしは、このようなことは、このときの弟子たちだけではないと思うからです。主イエスに従い始めた人、これを読んだ最初のキリスト者たち、そればかりか、私ども自身の体験でもあると思うからです。

 確かに教会に来て、主イエスさまのことを学んで、わたしもイエスさまを信じたいと思って、洗礼を受けて、教会に入会しました。こうして教会生活、信仰生活が出発します。ところが、自分の人生は、期待通りに、問題が解決されわけではない。いや、むしろ、これまで以上に、困難なことを体験する・・・。そんなとき、しばしば、つぶやきがでるのです。主イエスが本当に生きておられるなら、もうそろそろ、大どんでん返しをして起してくださってもよいではないか。そんなことを、一度も考えたことのない人は、むしろ少ないのではないかと思います。

さて、主イエスは、起こされてすぐにこう仰います。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」皆さまは、この主イエスの御言葉をどのように聴きとられるのでしょうか。いったい、こんな局面で、怖がらない人などいるのだろうかと思います。もしも、怖がらない人が、信仰の人、信仰に生きる人であるならば、まさに、わたし自身信仰の薄い者のひとりであって、信仰の薄い者と非難されても、「その通りです」と認めざるを得ないと思います。

しかし、ここで主イエスもまた著者じしんが、ここで言わんとしたことは何であったのでしょうか。それは、ここでただ一人信仰に生きた方とはどなたであったのかということです。それは、イエスさまお一人でしょう。
つまり、主イエスこそ、まことに神を信じておられるお方でいらっしゃるということです。信じ切っておられるのです。単純であり、素朴な信仰と言えるかもしれません。神がご自身とともにいらっしゃるという信頼に生きておられるのです。そしてこれが、信仰なのです。すべてを父なる神に委ねきっておられたのです。また、ご自身が死ぬべきことは、定まっているけれども、それは、このような死に方ではないと、わきまえておられたのだとも思います。

そして最も大切なことは、主イエスは、このような神信頼に生きることを、弟子たちに要求されるということです。これは、そこまでは、できなくても、仕方がないということでは済まされないのです。「わたしは信仰に生きるけれども、あなたがたは、わたしのレベルまでは、信頼できなくても仕方がないね。」とは仰いません。ご自身が父なる神を信頼なさったように、同じように、主イエスご自身を信頼するように、求めておられるのです。

そのために、主イエスは、何をされるのでしょうか。起き上がって、風と湖とを「お叱りになった」のです。これもまた、驚くべきことです。風や湖に命じることがお出来になる。いへ、命じるだけなら、誰でもできるでしょう。しかし、主イエスがお命じになられると、たちどころに凪になったのです。

弟子たちは、驚いたでしょう。そして、風や湖まで従わせてしまうこのお方は、特別なお方、まさに神のようなお方なのだと改めて、考えたのだと思います。そして、これこそ、主イエスがここで弟子たちに、そればかりか、これを読むすべての時代のキリスト者たちに悟らせ、信じさせるための振る舞いであったのだと思います。つまり、主イエスは主の主、王の王、絶対的な権威をお持ちの神でいらっしゃるということです。だからこそ、このお方が、私どもと共にいらっしゃれば、もはや、何ものをも怖がる必要はない。このイエスさまに委ねきってしまってよいのだという、行いによるメッセージです。

ただし、ここで少し丁寧に語る必要もあるかと思います。委ね切ってしまうということは、イエスさまがなさったようにただ眠っていれば良いということではありません。

確かに教会とは、キリストが臨在しておられる、神の家です。教会とは、キリストの体であって、私ども一人ひとりは、その部分であって、主イエスさまはその頭です。しかしだからと言って、教会の歩みを振り返れば、何もかも順調に進んだわけではありません。最初の教会からして、まさにそうでした。初代教会は、確かに、世界中に伝道した力に満ちた教会でした。しかし、最初から多くの問題、壁にぶつかっていました。内側から異端が生じました。外側から、迫害が起こりました。まさに、前途多難の出発でした。キリスト者たちは、まさに、吹けば飛んでしまうような一握りの人しかいなかったのです。圧倒的に反対者に囲まれていて、伝道して人数を増やすどころか、存続することじだいが奇跡のような厳しい状況に置かれていました。

 それから、2000年後のとくに現代日本の教会も、一向に嵐が去らないような状態かもしれません。日本キリスト改革派教会もまた、前進とか成長どころか、維持できるかどうかという危機にあると言っても、言い過ぎではないと思うのです。先週の週報に記した通り、首都圏はまだ良いのですが、四国や東北の伝道は、まことに厳しいものがあります。このように、教会の歴史とは、絶えず嵐にもまれ、沈みかかり、転覆しそうになった歴史であると言えると思います。

さて、この舟に乗船している人々は、誰ひとり、お客さんはおりません。舟に乗り込んだのは、イエスさまから皆、弟子と呼ばれ、見なされているのです。したがって、クルー、船員ひとりひとりが、それぞれに委ねられた部署について、与えられた責任、奉仕の業に勤しむのです。寝ている暇はありません。

私どもの教会は今、いよいよ志を高くして、経済の自立を目指し、それと同時に、教会設立を目指しています。ことしの前半、伝道所委員たちが経済の問題について、ひとり一人が献金のアピールをしました。それは、教会員が増えれば、経済の問題も解決するでしょうから、どうこうしましょうと言う議論では決してありませんでした。現住陪餐会員が献金に励むことによって、私どもは自給を果たすのだということだったはずです。また、長老と執事の問題も、まったく同じでした。会員が増えれば、人材も増え、与えられると言う事ではなかったはずです。今いる、私どもが神に問われ、応答するとき、伝道所から教会設立へと導かれるのだと、信じたのです。その意味で、まさに全員が責任ある船員なのです。そうであれば、「果報は寝て待て」式には参りません。主イエスが、ここで眠っていらっしゃったのは、私どももまた、眠っていれば、後は何とか神さまがやってくださるということではありません。主イエスの眠りは、私どもに信仰を教えるためのものだったのです。神が共にいらっしゃることを信じ、怖れずに、なすべきことをなせばよいのです。

いったい、ここで言われている「怖がる」とは、どういうことなのでしょうか。それは、泳げない人が舟に乗る、飛行機に初めて乗る人が、離着陸のとき怖いと思う、高所恐怖症の人が、ビルの屋上に登るのは怖いと思う。そういうことではないはずです。これは、人として当然のことでしょう。叱られても、どうなるものでもありません。ここでの怖がるという問題の本質は、日常の現実の中で、今ここに、神が共にいらっしゃらないと考えることなのです。

つまり、この舟である教会に、まるで主イエス・キリストが共にいらっしゃらないかのようにふるまったり、語ったりすることです。主イエスは、そのような言動を厳しく斥けられます。

先週、ひとりの弟子に向かって、主イエスはこう仰いました。「死んでいる者たち」に死者を葬らせなさい」これは、単に未信者、教会の外の人々のことだけではないのだと思います。もしも、キリスト者が、教会に、自分の日常生活に、主イエスが共にいらっしゃらない、不在であると考えるなら、まさに、教会が私どもの墓場になるでしょう。もしも、主イエスの臨在がないとすれば、教会はもはや死んでいます。大きく立派な教会堂があっても、大勢の人たちが出席していても、教会はすでに死んでいるのです。キリストの教会はそこにありません。さらに言えば、キリスト者が、主イエスがここに共にいるのにもかかわらず、無視していれば、教会による、キリスト殺しと言わざるを得ません。

私どもは、主イエスさまが共にいてくださると信じるから、目覚めるのです。一所懸命になるのです。自分の責任、自分に与えられた賜物を見出し、これを磨き、これを神と隣人に捧げるのです。もしかすると、皆さんの中で、名古屋岩の上教会には、牧師がいるし、委員もいるから、大丈夫と考えるかもしれません。確かに、牧師がいる、委員がいることは恵みです。しかし、あのとき、ガリラヤ湖を熟知していた漁師のペトロたちもまた、恐れ戦いたのです。まさに、皆で祈りを集め、奉仕を束にしなければ、教会設立を、主の栄光を仰ぎ見ることはできないのではないでしょうか。

しかし、主イエスがここで「信仰の薄い者たちよ」と嘆かれ、非難された御言葉を深く受け止めたいと思います。しかし、同時に、きちんとわきまえたいことがあります。主イエスは、この信仰の薄い弟子たちに、どうされたのでしょうか。たとえば、彼らを試験して、この試験の中で、怖がらなかった者だけ、まさに弟子として受け入れ、怖がった人は、落第になったのでしょうか。違います。

主イエスが叱られたのは、風と湖であって、弟子たちではないのです。彼らは、決して主イエスに見離されたり、見捨てられたわけではありません。ここで弟子たちが悟るべきことは何でしょうか。それは信仰とは、主イエスについて行くこと、それ以上でもそれ以下でもないということです。主イエスが行かれるところについて行く。それが、信仰なのです。その時には、たとい、主イエスさまを嘆かせることがあっても、主イエスが、弟子たちを見離されたことは、この後もありません。一度もないのです。

信仰とは、風や湖を従わせるお方、つまり、創造者なる神、歴史の支配者なる神でいらっしゃることを信じることです。そしてこのお方について行くことです。ついて行けば、大丈夫です。大丈夫と言う事は、決して、平坦な道を歩める、嵐に会わない、苦しみや悲しみを経験しないということではありません。 教会生活を始めれば、これまで経験しなかった十字架を担うことになるのです。それを、言わなければ、偽りでしょう。また、そのような教会生活は真実なものともならないでしょう。

 それなら、いったい誰がキリスト者になるのか。大丈夫です。神さまが、選ばれ、招かれるからです。だからこそここに招かれた私どもは、主イエスさまのところに来れたのです。そして、主イエスのいる舟に乗りたくなって行くのです。イエスさまが船長です。舵を切るのは、会員ではなく、主イエスさまです。行きつく場所は、思いどおりの場所ではなく、思いもよらない場所かもしれません。しかし、それこそ、主イエスによる本当の場所です。

最後に、わたしは、この物語を読むたびに、後の使徒ペトロの驚くべき、変化、変容ぶりを思い起こさずにいられません。もう、読む時間はありませんが、後で、使徒言行録第12章を読んでくださったらと思います。「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。」

ペトロは明日、死刑に処せられるかもしれない獄中で、熟睡していました。まるであの日のイエスさまのように、眠っているのです。暗闇で天使の光を浴びただけではなく、つつかれてやっと目覚めることができたほどです。すっかり、安心していたのでしょう。それは、決して、自分は、明日、死ぬことはないはずだ、奇跡が起こるから大丈夫だと信じていたからだとは思えません。むしろ、使徒ペトロは、自分の死に対して、すでに勝利していたからです。さらに言えば、死んだ後の教会のことも、もう、主にゆだねていたのでしょう。家族のこともそうだったのだと思います。

ガリラヤ湖の嵐の中のペトロと、獄中のペトロ、同じペトロです。私どもは、おそらくはあのときのペトロと同じように、主イエスから何度も、「信仰の薄い者よ」と嘆かれ、主の悲しみを深めさせてしまうかもしれません。すでに、そうさせてしまったと、振り返る仲間もいるはずです。しかし、それが決定的な敗北、失敗ではありません。主イエスがおられるところに、共にいること、これこそ、信仰なのです。私どもの生活のいついかなる時も、とりわけ、嵐の中でこそ、今、主イエスは、共にいてくださるのだと信じることです。この嵐そのものが、自分の人生を決定的に損なうことはない。そんな力は、この嵐そのものには決してないことを、信じることです。主イエスだけが、風も湖を叱る権威をお持ちなのです。

私どもは今朝、この舟の中で、「いったい、この方はどういう方なのだろう」との問いに対して、こう告白しました。「光よりの光、真の神よりの真の神」(ニカヤ信条)そして、説教を聴いて皆さまの心の中で、こうも告白しているでしょう。「あなたこそ生ける神の子、キリストです。」(マタイによる福音書第16章16節)私どもは今週も、この主イエスと共に、ここから船出するのです。主の平和と共に。

祈祷
私どもの人生もまた、海の上を旅するようなものです。しかも嵐に行き悩むこと、しばしばです。しかし、私どもの舟のまことの船長でいらっしゃるお方が、共にいてくださいます。生ける神の御子が、私どもと共にいて下さいます。どうぞ、いついかなる時にも、この恵みの事実に気づき、安心して、主と共に、主が行かれる道を進むことができますように。私どもひとり一人が、教会の形成のために仕えることができますように。しかしまた、願わくは、この嵐の時を、速やかに静めてくださいますように。しかし、あなたの御心のままにしてください。そして、最善をもって、私どもの人生を、教会を築いて下さいますように。アーメン。