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「いのちの行進」

「いのちの行進」
2010年6月27日
テキスト マタイによる福音書 第8章28-34節 
「イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。」

主イエスは今、群衆に取り囲まれています。語られた説教の素晴らしさに心を動かされ、何よりもその力ある業によって人々の関心は、いよいよ高まっていたからです。ユダヤにおいて、主イエスの伝道は、大変な反響をもって迎え入れられています。もしも、伝道という働きをこの世の評価によってはかるなら、まさに成功しているのです。

ところが主イエスは、今、弟子たちを舟に乗りこませ、ガリラヤ湖の東の地、対岸へ行くようにと促しました。そこは、ガダラの地です。ユダヤ人にとっては、異邦の人たちの住む場所、行きたくない場所でした。しかも、船出すると、舟は突然の嵐に見舞われ、弟子たちは、死の危険に直面したのです。

いったい、そこまでして、命をかけてまでこの地に来る理由は何なのでしょうか。その目的は、何だったのでしょうか。それが、今朝の物語で明らかにされます。

舟は岸辺に着きました。すると、「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。」弟子たちは、本当に驚いたと思います。彼らが、「悪霊に取りつかれ」ていたからです。そのせいで、非常に凶暴で、その辺りの道を通る人に危害を加え、墓場に住んでいたと言います。ここでの墓場とは、日本の霊園などとは違います。洞窟を掘って、そこに遺体を安置した、それが当時の墓場でした。ですから、そこで寝泊まりすることができるわけです。何よりもここで丁寧に解説しなければならないのは、この二人を現代的に表現すると、もしかすると精神疾患者としてしまうかもしれません。しかし正確なことは、分かりません。ただ、大切なことは、精神的な病に苦しむ人を、「悪霊に取りつかれた」と表現するのは、あくまでもこの時代の表現方法だということです。当時は、病気などの災いをすべて悪霊の仕業だと考えていたのです。

さて彼らは何故、墓場にいるのでしょうか。町には居場所がなかったからです。わたしは、彼らは、自ら好んで墓場に行ったとわけではなく、そこへと追いやられたのではないかと思うのです。その憤り、その悲しみが、そこを通る人々に危害を及ぼしたのだと思います。反対に、その近くを通る人たちは、ますます、この二人を敬遠し、恐れ、軽蔑したのではないかと思います。

しかし今、この二人に会うために、主イエスは、いのちをかけてここに立たれたのです。それなら、この二人は、主イエスのご訪問を喜び、歓迎したのでしょうか。違います。彼らは、むしろ、このように毒づいたのです。「神の子、かまわないでくれ。」「かまわないでくれ」という言葉は、もとの言葉の意味をそのまま表現すれば、「あなたはあなた、わたしはわたし」となります。つまり、「あなたとわたしは無関係」ということです。関係ないのだから、かまわないでくれと、主イエスを遠ざけた、退けたのです。まさに悪魔の働き、その狙いが「かまわないでくれ」という短い言葉の中に凝縮して明らかにされます。それは、関係を切断するということです。

この二人は、既にガダラの町の人たちと無関係に生きています。また、家族との関係も失っています。つまり、人間どうしの信頼しあい、愛し合う豊かな関係、絆を失っているのです。

確かに、我々の中で、実際に、墓場に住んでいる人はいないかもしれません。しかし、考えて見ると、すでに現代社会、現代世界そのものが墓場になっている。少なくとも墓場化へと進んでいるということはできないでしょうか。墓場、それは、人と人とが、正しい関係、よい関係、愛し合う、平和の関係を失っている場所ということです。いのちがないのです。愛がないのです。喜びも平和がないのです。

そして何よりも、悪霊の働きの究極の目的は、この言葉の中に鮮やかに示されます。それは、神さまとの関係をこそ断ち切らせることです。「神よ、わたしとあなたとは関係がありません。わたしは、あなたなしでも十分やっていけます。いや、やって行けようが行けまいが、そもそも、あなたとは無関係です。いへ、あなたにそばにいてもらっては困ります。」悪霊どもは、この二人を通して、悪霊の本音を語ったのです。悪霊の本音とは、悪霊の本質です。

先々週の説教で、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」を学びました。ここでも思いだして頂きたいのです。「死んでいる者」とは、言わば、「霊的な死」を意味するのだと学びました。主イエスは、神との生きた関わり、正しい関係を持っていない人のことを、死んだ者とお呼びになられたのです。

確かに、ここに登場するような極端な生活を営む人は、例外でしょう。多くの人たちは、肉体的には健康であり、精神的にも落ち込むことも少なく、社会的にも順調に行っているかもしれません。言うまでもなく、生きているのです。それどころか、充実した生活を送っているかもしれません。しかし、ここで、私どもは悟りたいのです。たとい、そうであっても、もしも、人間が、神さまとの関係を失っているのなら、霊的には死んでいるということです。つまり、神との正しい関係、豊かな愛の絆を失っているのであれば、それは、墓場を住まいとしているということになのです。

誰でも、墓場を生活の場所とするのが、どんなに異常なことであるかを知っています。ところが、多くの人、日本人は、人として、本当に生きる意味や目的を知らないままでも、異常なこととは認めないのです。聖書は言います。それでは、本来の人間としては、生きていないのです。生きる目的を、自分勝手に作りだしてしまうことはできません。それは、神を知ることによって与えられるものです。したがって、神との関わりを失っている人間は、霊的な死を既に味わっているわけです。つまり、墓場を住みかとしているのです。

さて、「神の子、かまわないでくれ。」と叫んでいるのは、この二人です。しかし、最後まで読んでみますと、実はこう叫んだのは、二人であると同時に、悪霊そのものの叫びでもあることが分かるのです。

このことから何が分かるでしょうか。実に、悪霊に取りつかれるとき、自分の本心、本音、その声が自分のものであるのか、悪霊のものであるのか、本人自身も気づかない、気づけなくなるということです。

さらに言えば、ここでは、本来、人間とは、自分の人生を、自分の意志で、自分の考えに従って生きる自由が与えられています。ところが、彼らは、自分自身を自分でコントロールできなくなっているということでもあります。

悪魔の声が、自分の声になってしまうのです。ここでも、現代人の姿が見事に告発されていることに気づけると思います。

自分で、自分をコントロールできない、それは、何もアルコール依存症やな薬物依存のような極端なことだけではありません。仕事依存症の人もいるかもしれません。悪い習慣の虜になっている、止めたいのだけれど止められないと悩んでいる人もいます。人のことを妬み、憎んでしまう自分の気持ちを、制御できない。自分の人生や考えのはずなのに、まるで何か、巨大な力、悪い力、汚れた力、その欲望の力に振り回されてしまう。そんな悩みを抱えている人は少なくないと思うのです。時代の精神、時代の流行、時代の価値観と言っても良いでしょう。他人の目と言ったら、もっと分かりやすいかもしれません。いずれにしろ自分の深い心の願いではなく、心の表面、上辺にある欲望に、肉体的な次元の欲望に振り回されているのです。それが、悪霊に取りつかれるということです。

先週、新聞やテレビで、昨年の秋葉原の無差別殺人を真似て、広島のマツダ工場の中で12人を車ではね飛ばして、ひとりを殺した、テロ事件がありました。秋葉原でまったく見知らぬ男女を猛スピードの自動車ではね飛ばし、介抱しよう、助けようとした人々にナイフを突き刺したテロは、まさに、悪魔の働きの典型と言えるでしょう。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、このような人間の現実、その悲惨を見事に言いあらわしました。彼は、こう自分自身をさらけ出して、言いました。「自分の内には善が住んでいない。もし、わたしが望まない事をしているなら、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪です。」まさに、この狂気の人たちは、罪の支配下にある、私どもの典型なのです。

悪霊とは、どのような存在なのでしょうが。悪霊は、主イエスがどなたであるかをよく知っています。ですから、主イエスを「神の子」と呼ぶのです。この呼びかけは、マタイによる福音書の一つの頂点をなす第16章で、ペトロがついにイエスさまに対する正しい信仰を告白した言葉に他なりません。

しかし、彼は、イエスさまを決して礼拝しません。従いません。知って認めても、信じること、従うこととは違うのです。したがって、言わば、「悪魔的な信仰」というものがありうるのです。それは、イエスさまを正しく知的、理性的に理解しながら、しかし、従わないということです。

悪魔はまた、何よりも自分の運命を知っています。それは、自分の存在が、このお方によって完全に裁かれることです。地上に悪霊、悪魔の居場所がなくなる日が来ることを知っているのです。ですから、悪霊どもは、こう言います。「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」

その時」とは、主イエスが地上に、再び来られ、この世界を神の国として完成される日のことです。最後の審判のときです。

悪霊が言う通り、確かにまだ、その時は来ていません。しかし、その時が始まっていることを、主イエスは、私どもに告げるために、ここでこうして働いておられるのです。神の国は、まだ完成していません。しかし、神の国は、イエスさまがこの地上に来て下さった時から、鮮やかに始まっているのです。それを証明するためにも、今、この町に、この二人の人の所にはるばるやって来られたのです。

悪霊どもは、その時が来ることを、知っています。2000年後の今日、いよいよその日が近づいている事を、サタンは知っているのです。だからこそ、逆に、自分が地獄へと落とされることに、おののいているのです。そして、自分の運命と共にさせようと、ひとりでも多くの人間を、自分の支配下に置こうと、猛烈に働いているのです。その餌食、言わば典型的な虜になってしまったのが、この二人なのです。

それを悟った悪霊どもは、懇願します。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」主イエスは、それを許されました。「イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。」 豚が群れごと、自殺したというのです。マルコやルカによる福音書によれば、その数、2000匹です。

ここにも悪魔の本質が、見事に現されています。悪魔の本質とは、いのちを殺すことのために働くことです。いのちを滅ぼそうとするのです。自分が行くべき場所であるいのちのない場所、地獄にひとりでも二人でも共に仲間を増やすために、働くのです。悪魔は、決して、人間を救いません。人間を愛していません。最後には、人間を苦しめるために働くのです。

わたしは、ここで、この二人の犠牲になった豚は、かわいそうだとも思います。しかし、誤解してはなりません。神さまは、人だけではなく、生きと生けるすべての命を慈しまれ、喜ばれる神なのです。詩編36編7節にこうあります。「主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」つまり、ここで主イエスが、悪魔の願いどおりにされたのは、悪魔の本質、その企てを私どもに悟らせるために他なりません。私どもが決して騙されないようにと、実物教育をなさったのです。

さて、この物語は、ここで終わりません。なんと、ガダラの町中の人がイエスさまを、歓迎するどころか、追い出そうとするのです。それは、何を意味するのでしょうか。つまり、彼らは、自分たちの町の二人が癒され、救われることよりも、2000匹の豚の方に価値を置いということです。

マタイは、ここで何を告げようとしているのでしょうか。それは、読者への鋭い問いかけです。いったい、悪霊に取りつかれたこの二人だけが、本当に悪霊に取りつかれているのかどうか、という問いです。おそらく、町の人々は、自分たちのことを、正気の人間と考えているはずです。少なくとも、明らかな事は、こんな墓場に住む二人とは違うということです。しかし、経済的な価値でしか、目に見える評価でしか人間の重さを測れないようになっているのなら、この町の人々もまた、悪霊に取りつかれていると言えるのではないか、そう思います。
そして何よりも大切なことは、私どもじしんのことです。私どもは、ここに登場した二人と町の人々と、どちらも自分とは関係のない極端な人たちの問題だと、他人事にするなら、それは、まったく間違っています。むしろ、そのように考えさせることこそ、悪魔の策略なのです。

たとえば、戦争の問題を考えたら、分かりやすいと思います。1人2人、せいぜい10人、20人であれば、私どもは殺人事件に戦きます。なんてひどいことをするのだと、その犯罪を憎み、犯人を軽蔑するだろうと思います。ところが、国家の正義の名の下に、200人、2000人、あるいは20,000人と、殺される人の数が増えても、むしろ鈍感にさへなるのではないでしょうか。私どもは戦地で銃を撃ちまくったり、空から爆弾や焼夷弾を落とすことも、敵めがけて特攻することも、その背後に、悪魔の働きを見ることができるはずです。

経済の成長、豊かさを否定する人は、ほとんどおりません。しかし、歴史を振り返るとき、戦争によって、どれだけの武器や兵器が開発され、生産されたかを知っています。科学技術が進歩し、莫大の経済活動が展開されて来ました。人類の経済的繁栄、科学技術の進歩の背後に、どれだけの戦争があったかを思います。まさに、そこに悪魔のおぞましい力を思わざるを得ません。私どもは、本当に、今ここで、個人に働くばかりではなく、この時代に働く悪魔であるサタン、悪霊を恐れ、その策略を見破らなければならないのです。

さて、マタイは、この物語は、実は、読者であるあなた自身のことではないか、読んでいるあなたの時代にそっくり当てはまることではないかと、告発しているのです。わたしどもは、この二人の中に自分を重ねて見ることができるかもしれません。少なくとも、この町の人々の中に自分の姿を発見できるのではないでしょうか。そして、よく考えてみれば、このどちらにも自分の姿を重ね合わせることができるはずです。

わたしは、このガダラの悪霊の虜になっていた人を癒す物語が好きです。それは、ここでもイエスさまが、このわたしのために、何をしてくださったか、それが見事に明らかにされているからです。

わたしもまた、主イエスによって、命をかけて訪ねて頂きました。主イエスは、このわたしに向かって、あなたは「神の子だ」本心から、本音の本音で、語り続けて下さったのです。

それなのに、わたしは、神の愛を信じ、受け入れませんでした。この愛を偽りだと、聖書を捨てたこともあるのです。しかし、それにもかかわらず主イエスは、「お前は、悪魔じゃない。悪い人間ではない。罪を犯して、悲惨な生き方を重ねている。確かに、わたしに向かっても、人に向かっても、心が拗けている。しかし、それは、悪魔の働き、罪の働きであって、あなたではない。わたしは、あなたを信じる。わたしは、あなたを神の子と信じている。」

この言葉が御世辞とか、表面的な言葉であるはずがないのです。確かに、私どもは、パウロが言うように、罪の支配に屈服させられています。神の子ではなく、罪の子、滅びの子、裁かれるべき子なのです。
しかし、それでも、イエスさまは、「お前は、すばらしい。あなたは、父なる神の子なのだ。」と言い続けて下さるのです。

今、私どもは、そのように語られるイエスさまのことが良く分かります。何故でしょうか。それは、主イエスが天から降りて、十字架にかかって、血を流し、その後、事実、墓場に行かれたからです。それは、正真正銘の墓場、地獄でした。罪のないお方が、私に代わって、地獄へと落とされたのです。神は、罪のない御子イエスさまに、わたしの責任を負わせられたのです。

主イエスは、福音書を通して、確かに肉声においては、このようには、語られませんでした。しかし、今、私どもは、イエスさまの言葉の背後の声を、はっきり聴きとります。今朝も聴きとることができるのです。「あなたが神の子となるのは、あなたが、すばらしいのは、わたしが、十字架にかかるからなのだよ。わたしがあなたの罪を贖うからなのだよ。」私どもは、主イエスが声にならない声で、このわたしの心の底に語り、響かせて下さったからです。

こうして、主イエスは、ここで一匹の豚さへ殺すこともなく、しかし、ご自身の命を犠牲にされ、その引き換えに、彼らに、私どもに、いのちを与えて下さいました。このいのちこそ、宝です。このいのちは、イエスさまから頂いた命なのです。永遠のいのちです。私たちは、この永遠のいのちの中で、生きているのです。

今ここで、この二人の内側で、主人が入れ替わります。交代します。これまでは、悪霊が彼らに宿り、彼らを支配していました。しかし、今は、イエスさまが、聖霊なる神が支配してくださるのです。主イエスは、私どもの心を開かせ、ご自身を信じ、受け入れた者の内に、宿って下さるのです。そのようにして、私どもじしんをも主イエスの舟として、新しいいのちへの航海へと出発させて下さるのです。そのようにして、新しい自分、本来の自分、新しい人生を始めさせて下さるのです。私どもは、もはや二度と、死の旅路へ進んではなりません。主イエスと共に、主イエスの舟である教会と共に、主イエスを船長として、いのちの行進、いのちの旅を続けます。

したがって教会の使命は、他でもありません。我々を死へと、滅びへと連れて行こうとする悪魔の策略を看破り、これと戦い、その行進を断ち切らせることです。いのちの行進へと招くのです。これは、平和の戦いです。平和をつくる戦いです。それが、教会の使命です。その武器は、ただ一つ、イエスさまのこの愛です。誰からも顧みられない墓場を住まいとするあの人たちを救う神の愛です。私どもを救ってくださった神の愛を今週も証して、歩みましょう。それこそが、教会のいのちの行進です。 

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、悪霊にしばられていた私どもを、御子イエスによって解き放ち、御子の支配下において下さいました。そのようにして、私どもを死からいのちへ、滅びから天国へと、移し替えて下さいました。そして、私どもにあなたに仕える自由と特権を与えて下さいました。どうぞ、私どもを罪と悪魔の力から解き放ち続けて下さい。そのためにも、今週も、主イエス・キリストから離れることなく、主と共に歩み続け、いのちの行進を続けさせて下さい。そして、この歩みの中に、どうぞ、私どもを用いて、ひとりでも、二人でも、招き入れる奉仕を担わせて下さい。アーメン。