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「罪を赦すことのできる方」

「罪を赦すことのできる方」
2010年7月4日
テキスト マタイによる福音書 第9章1-10節 
「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人は起き上がり、家に帰って行った。
群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。」

本日から、マタイによる福音書第9章に入ります。ここで改めて、マタイによる福音書の特色について、確認しておくことは、意味のあることだろうと思います。マタイによる福音書の大きな主題は、まことの王でいらっしゃるメシア・キリストは、十字架にかかってご復活されたあのナザレで生まれたイエスさまでいらっしゃることを告げることにあります。さらに、この福音書は特に、教会員である読者たちに、主イエスが打ち建てられた岩なる教会においてどのように生きるべきか、キリスト者たちを教え、養い、励まそうとして記されています。
さて、それなら、今朝の物語を通して、マタイは、イエスさまがどのようなお方でいらっしゃるのかを教会員に告げようとするのでしょうか。マタイは、私どもが、そこから何を学びとり、どのように生きるかを期待し、求めているのでしょうか。

さて、主イエスは、異邦の地ガダラから、ご自分の町、カペナウムという町に戻って来られます。すると、一服する間もなく、人々が中風の病、今風に言えば、脳梗塞などの脳血管に傷害を負って、半身不随なのか、全身のしびれなのか、いずれにしろ機能障害に苦しむ人を、床に寝かせたまま、イエスさまのところに駈けつけてきたのです。彼らの取った行動は、私どもで言えば、さながら救急車のようです。マルコやルカによる福音書によれば、4人だという報告があります。おそらく、ひとりひとりが担架の四つの棒をしっかり持って、この病に苦しむ人を人力で搬送したのでしょう。

この物語は、福音書の中で特別の輝き、言わば異彩を放っています。何が特別なのでしょうか。それは、この物語には、癒された人の言葉がないということです。大抵、癒しの奇跡が行われる場合、癒される人は主イエスにその信仰を認められて癒されるということが、前面に出てくるだろうと思います。少なくとも、癒される人自身の信仰が前提されていると読むことが普通だろうと思います。

ところが、ここでは、この人自身の信仰のことは何ひとつ記されていません。まさに、ただ、運ばれて、ここにいるだけなのです。確かに、主イエスは、私どもの心の中をご覧になられるお方ですから、この中風の人も心の中で、信仰を告白したという想像することも可能かと思います。しかし、ここでは、主イエスは、ただ、運んできた人たちの信仰を見て、彼を癒されたとだけ記されているのです。そこに著者のこだわりを感じます。言いたいのは、この中風の人ではなく、運んできた人の信仰をご覧になったのだということです。

そうすると、この人は、むしろ、主イエスを信じていなかったのかもしれません。少なくとも、自分で会わせてくれるように、お願いしていません。当時、病気に苦しむ人は、霊能力者のもとに行って、治してもらうということが普通に行われていました。ですから、既に何度かそのような人のところに行ったことがあったのかもしれません。しかし、もはや、「もう、そんな人のところに行きたくはない。行っても治るはずはない。」と考えていたのです。

しかし、この人には、友がいます。あるいは家族がいました。彼らは、彼の苦しみや嘆き、悲しみやつらさを放っておけなかったのです。「あのお方は、これまでの人たちとは、全く違う。騙されたと思って、イエスさまのところに行こう。」そう説得したのかもしれません。

そして、この病人は、「仕方がない。あなたたちがそれで気が済むのだったら。」と言わば、自分自身、治ろうとする気力もなくなっているのです。前向きな思い、元気がなく、どうでもよくなっているのです。

ここでも注意したいのですが、これまで何度も出て参りましたが、当時、病気の原因は、悪霊のせいだという理解がありました。つまり、彼に治ろうとする気力を失わせていたのは、自分は、悪魔に苦しめられている、自分の罪の罰があたったのか、そのような間違った理解に縛られていたのではないかと思うのです。つまり、「自分は、どうせ、神に捨てられた人間なのだ。神の恵みや愛、慈しみを受ける資格がないのだ。」このように、諦めていたのかもしれません。

さて、主イエスは、この中風の人になんと呼びかけられるのでしょうか。「子よ!」です。主イエスは、彼の心をご存じだからこそ、こう語りかけられたのだと思います。「子よ!」この意味は何でしょうか。この人とイエスさまとは初対面です。何よりも、この人は、イエスさまの子どもではありません。ここで、「子よ」との呼びかけは、神とこの中風の人との関係を指し示す言葉に他なりません。こうして、この人本人の間違った自己理解、いびつになってしまった自己像を、正そうとなさるのです。つまりこういうことです。「子よ、あなたは、神に捨てられているのではありません。あなたが病気で苦しんでいるのは、あなたの罪の結果でもありません。大丈夫です。あなたは神の子なのですから。」

彼は、どんなに驚いたことでしょう。そして、何よりも喜んだ事でしょう。「この人は、わたしを神の子と呼んで下さる。このわたしは、神の子なのだった。そうだ、わたしは、自分で自分を見下していただけなのかもしれない。このわたしもまた、父なる神の子なのだ。」

主イエスは、続けてこう語られました。「元気を出しなさい。」彼は、元気が出なかったのです。言うまでもなく、病気だからです。肉体の痛み、衰弱は、そのまま心に影響を及ぼします。ですから、病気の時は、気持ちも又ダウンしやすいのです。何よりも彼は、病気になったのは、悪霊の仕業であって、つまり、神から捨てられたせいだと勝手に考え、下を向いてしまったのです。

ある有名なプロレスラーが「元気があれば、何でもできる。」「元気ですか。」と渇を入れます。それで、元気になる人もいるのでしょう。しかし、本当に落ち込んでいる人に、元気いっぱいの人から、元気を出せと言われても、逆効果でしょう。

主イエスは、今ここで、「元気を出しなさい。」と呼びかけられます。これは、「心を上に向けよ、神に向けよ」という求め、命令なのです。つまり、「あなたの心を神に向けてごらんなさい、そうすれば、元気になることができる。」ということです。

さらに続けてまさにこの人にとって、決定的なことば、いへ、ただこの人だけではなく、すべての人間にとって究極の言葉が高らかに宣言されます。「あなたの罪は赦される。」赦され「る」とは、今ここで、赦されたという現在形です。今この瞬間に赦される、ということです。

ただしその理由は、ここではまだ明らかにされません。しかし、この福音書を最後まで読めば分かるのです。それは、このイエスさま、神の御子が、この人の罪を担われるからです。この人じしんが担うべき罪の重荷、罪の支払うべき刑罰を主イエスが十字架について担われるからです。

あなたの罪は赦される。」人間にとって究極の言葉です。これを聖書は救いと言います。福音と言います。罪人の罪が赦されるなら、そのときは、神さまとの間に、何のわだかまりもなくなるからです。正真正銘、神の子とされるのです。そして、神との間に愛と平和が実現します。人間にとって、究極の幸いです。それが、このあるがままの中風の人に宣言されたのです。

さて、私ども自身が今、問われています。この事から、私どもは何を悟ることができるでしょうか。そのとき、先ず、頭に浮かぶのは、私どもが毎日する行為ではないでしょうか。その行為こそ、ここでの主イエスの御業を信じていなければ、出来ないだろうと思うのです。それは、第一に、祈りです。

私どもは今朝も、なお家族全員で礼拝堂に来ていません。しかし、私どもは先週も、集まって祈りました。教会の祈祷課題を挙げて、ひとり一人の名前を挙げて、神の前で、彼らの名前を呼んで、祈ったのです。それは、どういうことでしょうか。それは、中風の人をイエスさまに連れてくるようなものです。確かに、現実には、イエスさまのところに連れて行けません。天と地とは、隔たっています。離れています。しかし、祈りにおいては、未信者の方を、中風の人を、すべての人を、イエスさまのところに連れて行けるのです。

いったい、私どもの教会で洗礼を受けた方の中で、いへ、そればかりか、今朝、ここに来ている方のなかで、先週、自分は名前を挙げて祈ってもらえなかったと考える方はいらっしゃるでしょうか。確かに、まったく初めて来られた方は、それは、できませんでした。しかし、それでも、その方の名前は存じ上げませんが、しかし、私どもは、名前をまだ知らない方、しかし神さまが招いておられる方々のために、日々、祈り続けているのです。その意味では、やはり、祈られていないわけではないのです。

私どもは日々、互いのために、祈ります。それは、祈りのなかで、父なる神の前に、主イエス・キリストへと、その人を連れて行くことに他なりません。

主イエスは、そのとき、祈っている私どもの信仰をご覧になられるのです。ですから、主の日の礼拝式はもとより、どれほど、週日の水曜日の祈祷会が、教会にとって大切であるか、ご理解頂けると思います。教会は、集まって隣人のために祈るのです。どうぞ、この責任、キリスト者としての務めを担い続けましょう。

そして、もう一つのこと、それは、先週の午後学び会を行ったことです。伝道です。中風の人を連れてきた彼らの行為こそ、まさに伝道です。伝道は、教会の最大の使命、存在理由そのものです。

確かに今、教会に行ってみたいと自ら求められる方は、少ないと思います。そこでこそ、先週の主イエスとガダラの人との出会いの物語を思います。多くの人たちは、こう言います。「今は、わたしに構わないでほしい。間に会っています。これと言った深刻な悩みは、ありません。今は、自分で解決できます。いや、おそらくはこれからも、宗教に頼らなくても、自分で解決して行くつもりです。大丈夫ですから、ご心配なく。」キリスト教や宗教に対しての無知と誤解に基づくわけですが、しかし、本気で自分には、キリスト教は必要ないと思っていらっしゃるのです。それなら、私どもはもう、それっきり、諦めるのでしょうか。しかし、主イエスは、あのガダラの人の本心を、本心とは思われませんでした。それは、悪魔の仕業なのだと見抜かれたのです。もしそうでなければ、あのガダラの人は、救われなかったでしょう。

そうであれば、私どもは、一度や二度、断られて、諦めてしまってよいのでしょうか。そこに私どもの信仰が問われるのです。伝道とは、中風の人を主イエスに連れて行く行為になぞらえることができます。そして、主イエスは、先ず、私どもの信仰をご覧になるのです。

三番目に、すでに思い起しておられかもしれませんが、私どもの教会が担おうとしている、担わなければならないと志している、ディアコニアです。奉仕です。中風の人、それは、現実の社会の中で、痛み、苦しみ、倒れている人々の象徴でしょう。その人を、担架に乗せられるかどうか。それが、問われています。私どもの教会にその担架が準備されているのかを問うことも大切です。いへ、その担架そのものが、キリストの教会であると言う理解もできるでしょう。教会のディアコニアとは、その人に、主イエスからの祝福を注いで頂こう、分かち合おうとしてなす働きです。

ここで、あえて、もう一つだけ、私どもの教会にとって、とても大切なことですから、短く、触れておきます。彼らの信仰を見てとは、幼児洗礼を施す私どもにとって、とても大切な御言葉の一つだと思います。幼児は、信仰を理解できません。しゃべれません。自分の足で、教会に来れません。しかし、教会は、幼児に、洗礼を施します。それは、教会が、親の信仰を試問するからです。あなたは、この子のために、信仰の教育を施しますか。絶えず、祈り、御言葉と教理を教え、教会に共に集い、家庭にあって、祈りを共にしますかと、誓約を求めます。教会は、契約の親の信仰を見て、幼児洗礼を施すのです。その意味では、幼児洗礼は、信仰者の親、養育者のもとに育つ子以外には施せません。したがって、親の信仰が問われるのです。主イエスはそのようにして、祝福の輪を豊かに広げて下さるのです。それを、教えられたのであれば、私どもは、いよいよ信仰を富ましめられ、このディアコニアを実践しましょう。

さて今、ここで、天からの光が射しこんだ一方で、暗闇の動きもあらわにされます。律法学者の中で、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。」からです。これに対して、主イエスは、「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。」と叱責されました。ただし、このつぶやきは、聖書を知っている者であれば、むしろ抱いて当然の思いでもあるのです。なぜなら、まさに罪を赦す権威をお持ちの方は、ただ神のみだと聖書は告げているからです。したがって、イエスさまのこの宣言を、聖書の学者が、このように心に思った事は、当然と言えば、むしろ当然なのです。

ただし、もしも、このイエスが、神御自身でいらっしゃれば、どうでしょうか。それは、冒涜ではないはずです。今、ここにいらっしゃるのは、いったいどなたなのか。それこそが、今、問われているのです。
もし、神でなければ、このイエスは、神を冒涜しているのです。それは、正しいことなのです。

さて、だからこそ、主イエスは、この律法学者に、真実を示し、悟らせようとなさいます。誰でも口先だけなら、「あなたの罪は赦される」と言えるでしょう。しかし、それが真実、事実でなければ、意味がありません。
罪の赦しは、究極の幸いですが、しかし、目には見えないのです。だからこそ、確かなものなのですが、しかし、それを客観的に示すことは、出来ません。まさに信仰によって、受けるのです。しかし、中風の人が瞬間に癒されたのかどうか、それは、見れば分かります。鮮やかに分かってしまいます。だからこそ、今、主イエスは、もしかすると最初は中風そのものを癒されるお考えはなかったのかもしれませんが、ここで、律法学者のために、彼を癒されました。こうして、彼は、すっかり良くなって、命じられた通り、家に帰って行きます。

最後に、この物語の結論が報告されます。「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。」主イエスこそ、まことに神の権威を持つお方、神そのものであることが、ここで、まさに決定的に明らかにされました。自然や悪霊をコントロールすることよりはるかにまさる権威の中の権威、それが、人間の罪を赦す権威です。マタイが最も告げたかったメッセージだと言ってもよいものです。

群衆は、イエスさまを恐れました。本当に、驚いたのです。それは、不思議な奇跡をみて、驚くことと、質が違います。世界には不思議な現象があると言われます。それに驚かされることもあります。しかし、ここでは、そのような次元ではないのです。目の前にいるこのお方は、神の子、キリストなのだ、キリストなのではないか。今、自分はこのキリストを目撃しているのではないか。それは、恐怖にも近い、畏怖の感覚です。

最後の最後に、マタイによる福音書が丁寧に告げている私どもへの問いかけを、しっかりと聴きとりましょう。「人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。」ここで、マタイは、「人間」と言います。これは、イエスさまを指している言葉なのでしょうか。違います。ここでの人間は、複数形です。マンではなくメン、人々なのです。そうすると、これは、この物語だけを読むと、「おかしい」、「おかしな表現」と思うはずです。

しかし、マタイによる福音書の全体を読んでもう一度、ここを読むと理解できる、しっくり来ます。私ども名古屋岩の上教会にとって、大切な聖句があります。マタイによる福音書第16章18節19節です。そこに、こうあります。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」天国の鍵、それは、人の罪を赦す神の権威を、執行することができるということです。代理執行です。罪の赦しの宣言は、神さましかできないのですが、その宣言、その告知は、教会ができるし、しなければならないのです。それが説教であり、また伝道なのです。

父なる神は、主イエス・キリストによって、それを、人間に与えられたのです。まさに驚くべきことです。それが、私どもに起こっているのです。私どもはかつて、この中風の人に他なりませんでした。私どももまた、ひとりの中風の人のように、教会の祈りと伝道と奉仕に運ばれ、導かれて教会に来たのです。そして、ついに、主の日の礼拝式に出席し、説教を聴いて主イエス・キリストのご臨在を信じ、罪の赦しに与ったのです。

この物語の中に、教会の原型、教会の働きそのものが示されています。つまり、この出来事は、このとき一回限り起こっただけではないのです。今実際に、マタイの教会で起こっている出来事なのです。いへ、私ども名古屋岩の上教会でも起こっています。つまり、ここでもまた、この物語は、自分たちの、自分の物語なのです。

そうであれば、私どもの教会もまた、一生懸命、誰かのために祈り、そして伝道し、さらには、困窮する人々のかたわらに立ち続け、イエスさまのもとに運ぶ教会となりたい。このディコニア、奉仕に励みたいと思います。
父なる神は、主イエス・キリストを通して今、私どもに御自身の権威を与えて下さいました。それは、担架を担ぐ権威です。罪の赦しを伝える権威です。キリストの権威を代行することが、教会の務めなのです。

中風の彼は、主イエスと出会い、救われました。癒されました。私どももまた、今朝、今ここで、同じ事をより深く体験しています。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」この宣言を説教で聴くばかりか、今朝は、聖餐の礼典で聴きます。主イエスが、私どもになして下さるのです。そうであれば、私どもは、皆で力を合わせて、「中風の人」をイエスさまのもとに運びたいのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、元気をなくし、罪のなかでうなだれていた私どもを、担架に乗せるように教会に導いて下さり、出会って下さいました。そして、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」と宣言し、立ち上がらせて下さいました。心から感謝致します。どうぞ、今度は、私どもが祈り、伝道し、ディアコニアをなさせてください。御子に与えられた権威によって私どもは救われ、生かされました。私どもは、その権威を代行して、ひとりでも多くの人に、罪の赦しを宣言して、立ちあがらせる奉仕を担わせて下さい。こうして、いよいよ、あなたの権威を心の底から賛美させてください。アーメン。